第十八話 三つの言葉で一つの呪い
白い外套の男が、三つの声で笑った。
一つは現代語。
一つは古代レム語。
最後の一つは、聞いたことのない言語。
口は一つしかない。
声だけが三方向から聞こえる。
「離れろ!」
ロマンが男を地面へ伏せた。
縄は解けていない。
それでも白い印は、舌の上で光り続ける。
市場の石床に文字が広がった。
第一の文。
《この声を聞く者は死ぬ》
第二の文を、シグナが読む。
「古代レム語。《この声を受けた者の息は止まる》」
第三の文は誰にも読めない。
文字の形が絶えず変わり、目で追えなかった。
市場に残っていた人々が喉を押さえる。
一人が倒れた。
次の一人。
レクスの胸も苦しくなる。
状態表示が浮かんだ。
《死》
すぐに文字が揺れる。
《窒息》
また変わる。
読めない第三の言語。
三つの意味が交互に体へ作用している。
「耳を塞げ!」
ロマンが叫ぶ。
「もう遅いわ!」
シグナは倒れた子供へ駆け寄った。
「聞いた時点で呪いが入っている!」
レクスは現代語の文へ手を伸ばす。
《この声を聞く者は死ぬ》
「死」を消す。
《この声を聞く者はぬ》。意味不成立。
「者」を消す。
《この声を聞くは死ぬ》。古い言い回しとして成立する可能性がある。
「聞」を消す。
《この声をく者》。文が壊れる。
発動できない。
仮に一文を崩せても、古代レム語の《息は止まる》が残る。
「一行だけでは止まりません!」
「三文が互いを補っている」
シグナが呪いの外周を調べる。
「一つが意味不成立になると、残る二つから再翻訳される仕組みよ!」
第三の文が光った。
崩れかけた現代語が元へ戻る。
《この声を聞く者は死ぬ》
「同じ対象に何度でも書き直す」
ティルダが息を切らす。
「レクスが消しても、別の文章が戻すってこと?」
「そうよ」
白い男は三つの声で言った。
「一つの言葉しか読めない者に、一つの意味は消せない」
レクスは膝をついた。
肺に空気が入らない。
目の前の《死》が濃くなる。
「この人を気絶させれば?」
ティルダが聞く。
「もう術式は独立している」
シグナは男の首筋に触れた。
「術者を殺しても止まらない。むしろ現代語の『死』を補強するかもしれない」
「また殺せば悪化する罠か」
ロマンが男から手を離した。
文字は本文だけではない。
注記。
署名。
対象。
書き手。
読み手。
レクスは呪い全体を見る。
三つの文は、円の内側にある。
外周には管理表示。
《三言語併記》
《相互翻訳有効》
《一言語欠損時、他言語から復元》
本文を消しても戻る理由だ。
「管理表示を変える」
レクスは《相互翻訳有効》を見る。
「有」を消せば《相互翻訳効》。相互翻訳の効果、と読める。止まらない。
「効」を消せば《相互翻訳有》。翻訳は存在したまま。
《一言語欠損時、他言語から復元》。長い文には安全な一字がない。
欠損を消せば復元される。
復元を崩そうとしても、意味不成立で能力が動かない。
残るのは《三言語併記》。
「『三』を消したらどうなりますか」
レクスがシグナに聞く。
「《言語併記》。複数の言語を並べる指定は残る」
「数がなくなるだけ?」
「待って」
シグナは外周の小さな規格番号を見る。
「これは翻訳術式の古い規格。併記数が指定されない場合、原文と公用語訳だけを表示する」
「二つ残る」
「ええ。今より一つ減るだけ」
「どの言語が消えますか」
「原文でも公用語でもない、追加翻訳」
三つ目の読めない言語だ。
現代語が公用語。
なら、古代レム語と第三言語のどちらが原文なのか。
「原文はどれですか」
レクスが白い男へ聞く。
男は三つの声で答えた。
「お前たちに読めない言葉だ」
第三の言語。
それが原文なら、「三」を消しても残る。
古代レム語の一文だけが消える。
状況はほとんど変わらない。
「嘘」
ティルダが言った。
苦しそうに胸を押さえながら、男の顔を見ている。
「読めない言葉が原文じゃない」
「なぜ分かる」
「原文はどれか聞かれたとき、古代レム語の声だけ一瞬遅れた。あれが答えを隠そうとした」
男の笑みが消えた。
「原文は古代レム語」
シグナが言う。
「現代語が公用語訳。第三言語が追加翻訳」
「『三』を消せば、読めない第三言語が落ちる」
「二文だけでは、まだ呪いは残るわ」
「でも、二文なら二人で全部読めます」
レクスは管理表示へ触れた。
《三言語併記》
三言語を必ず並べる。
各言語が少しずつ異なる意味を持ち、互いを補う。
「三」を消したあとは、規格既定値に従い、原文と公用語訳だけが残る。
意味を理解した。
「『三』を喰う!」
最初の一字が黒く崩れる。
喉へ落ちた。
《言語併記》
読めない第三の文が消えた。
同時に、レクスの状態表示が一つ減る。
《死》
《窒息》
二つ。
「第三の文は何をしていた?」
レクスは消えた文字の跡を指した。
シグナは残った二文を比べた。
「現代語は、聞いた者の生命を終わらせる。古代レム語は、声を受けた者の呼吸を止める」
「二つの発動条件は同じですか」
「違う。現代語は『聞く』。古代レム語は『声を受ける』」
聞くには、音を意味として認識する必要がある。
声を受けるのは、音が体へ届くだけで成立する。
「原文は古代レム語。翻訳は原文の意味を越えられますか」
シグナの目が開く。
「越えられない。翻訳文の『死ぬ』は、原文の『息が止まる』を強く言い換えただけ。原文から切り離せば、独立した死の命令にはならない」
「相互翻訳を止める必要はない」
レクスは言った。
「現代語が、原文と同じ意味しか持てないと理解させる」
シグナは現代語の文を声に出して訳し直した。
「《この声を聞く者は、息が止まる》」
翻訳術式が揺れる。
異なる訳のうち、原文に近い意味を採用する。
《死》が薄くなる。
《窒息》だけが残った。
「呼吸を助ける!」
シグナは鞄から風の魔石を出した。
倒れた者の口元へ風を送る。
ロマンが市場の天幕を切り、うちわのように動かす。
ティルダも子供の胸を押した。
空気が肺へ入る。
一人ずつ意識を取り戻す。
呪いの発動時間が切れた。
《窒息》が消える。
石床の二つの文も光を失った。
死者はいなかった。
白い男は、もう笑っていない。
「三つの言葉を一つに戻した」
レクスが言う。
「読めない言語を消し、残った二つの意味を比べた。最初から一つの呪いだったから、原文より強い意味は持てない」
「第三言語には何と書いてあったの?」
ティルダが尋ねる。
男は口を閉じる。
「今のは、知らない顔」
ティルダが言った。
「術を入れられただけで、この人も読めなかった」
シグナが男の舌を調べる。
白い印の下に、小さな古代文字があった。
「契約印」
彼女の声が止まる。
「どうしました」
レクスが近づく。
シグナは自分の首へ手を当てた。
同じ位置に、淡い文字が浮かんでいる。
彼女自身にも見えていなかった印。
《家名の復興のためアーカに従う》
ティルダが読む。
「アーカって、誰?」
シグナの顔から血の気が引いた。
「知らない」
その答えは、嘘ではなかった。
契約は彼女の記憶より深い場所に埋め込まれていた。




