第十四話 誰の命令か
印刷工房は営業していた。
昼前から輪転機が回り、開いた窓から紙と油の匂いが流れている。
荷車が裏口へ入り、刷り上がった新聞を積んで出ていく。
看板には《東区共同印刷》。
白紙会の名はどこにもない。
「働いている人は十二人」
向かいの食堂から、ティルダが工房を見ていた。
「半分は普通の職人。白紙会のことは知らないと思う」
「残りは?」
レクスが聞く。
「三人は見張り。二人は出入りのたびに合言葉を使う。最後の一人は地下から出てきた」
「地下が支部か」
ロマンは食堂の薄い茶を飲んだ。
「正面から踏み込めば、職人が巻き込まれる」
「夜まで待つ?」
「相手に準備する時間を与える」
シグナは印刷工房の登記簿を広げた。
所有者は別人。
十年前に死んだ老人だ。
相続記録はなく、工房だけが営業を続けている。
「書類の上では、死者が経営している」
「記録院の近くに拠点を置いた理由が分かりますね」
レクスが言う。
「所有者の記録を都合よく残した」
「許可を取るには弱い証拠だわ」
「また忍び込むの?」
ティルダが嬉しそうに聞く。
「なぜ喜ぶ」
ロマンがにらむ。
「得意だから」
「今回は俺も行く」
「盾を背負って?」
「置いていく」
「剣は?」
「持つ」
「床が鳴るよ」
「お前一人には任せられん」
議論の末、四人は職人に紛れることにした。
シグナが学院から印刷を依頼する。
古代語研究会の会報、二百部。
本物の注文だ。
「二百部も何に使うんですか」
「配ればいいでしょう」
「誰が読むの?」
ティルダが原稿をめくる。
「私」
「一部でよかったじゃん」
受付の職人は不審に思わなかった。
四人は紙と字体を選ぶ客として工房へ入る。
輪転機の音が大きい。
会話は近くでも聞き取りにくい。
ティルダが目で地下への扉を示した。
倉庫の奥。
灰色の鉄扉。
周囲を二人の男が見張っている。
シグナが見本紙を床へ落とした。
紙が広がる。
職人たちが拾うのを手伝う。
その隙に、ティルダが棚の裏へ消えた。
レクスとロマンも続く。
鉄扉の脇に細い通路がある。
見張りの死角だ。
裏側へ回ると、壁に小さな保守口があった。
ティルダが鍵を開ける。
「ここから地下へ下りられる」
「どこで調べた」
「さっき、工房へ入ってから」
「一分しか経っていないぞ」
「だから急いだ」
三人は狭い梯子を下りた。
シグナは地上に残り、職人の注意を引く。
地下には石造りの廊下があった。
突き当たりに白い扉。
中央に黒い文字。
《部外者侵入禁止》
ティルダが表示を見て、レクスを見る。
「『不』を消せば《部外者侵入可》」
「それが、相手の出してほしい答えです」
レクスは近づかなかった。
扉の左右。
床。
天井。
文字の続きや注記を探す。
「何もないよ」
ティルダが壁をなぞる。
「見える場所には」
レクスは後ろを振り返った。
表示を読む者は、扉の前に立つ。
なら、相手は正面を見る。
見せたくないものを隠すなら、表示を読む者の背後だ。
梯子の裏側へ回る。
踏み板の一枚に、細い文字が刻まれていた。
《禁止情報改変時、改変者を内部拘束》
「やっぱり」
ティルダが息を吐く。
「『不』を消して入れるようにした瞬間、中に閉じ込める」
「爆発はしないみたいだな」
ロマンが言う。
「安心しました?」
「少しな」
レクスは拘束文も読む。
「内」を消せば《部拘束》。成立しない。
「拘」を消せば《束》。束ねる意味は残るかもしれない。
「者」を消せば《改変を内部拘束》。何を拘束するか曖昧になるが、改変そのものが固定され、元へ戻せなくなる危険がある。
この文も、一字では安全に崩しにくい。
「本文も注記も駄目です」
「なら帰るか」
ロマンが聞く。
「まだ、書き手を見ていません」
誰が《部外者侵入禁止》を命じたのか。
扉の表には署名がない。
レクスは保守口から来た道を戻る。
白い扉の裏側へ回れる通路を探した。
壁の下に細い空気の流れがある。
ティルダが床板を外す。
下に配線が走っていた。
線は扉から天井を通り、廊下の入口にある小さな白い箱へつながっている。
「命令装置」
レクスは箱を調べた。
側面に管理表示。
《発令者:白紙会》
《執行対象:地下支部防衛規則》
「見つけた」
白紙会。
組織として存在する。
防衛規則を作り、執行する権限を持つ。
「会」を消せば《白紙》。
文字の書かれていない紙。
意味は成立する。
だが、紙は命令を発する主体ではない。
「発令者を《白紙》へ変えます」
「命令の中身を消すんじゃないの?」
ティルダが尋ねる。
「命令を出す資格のないものに変える。本文が残っても、誰の命令か分からなければ執行できない」
ロマンが白い扉を見る。
「白紙会は、それも読んでいないか」
「この表示は保守用です。俺に見せるつもりなら、扉の横へ置くはずです」
「だが、罠の可能性はある」
「あります」
レクスはすぐに触れなかった。
発令者の意味。
白紙会が法人として登録され、防衛規則を執行できる理由。
《白紙》になった場合。
誰も署名していない紙。
内容のない媒体。
命令主体にはなれない。
理解した。
「使います」
箱へ手を置く。
《発令者:白紙会》
最後の一字が黒くなる。
「『会』を喰う」
粒が指先へ吸い込まれた。
喉へ落ちる。
《発令者:白紙》
命令装置が白く点滅した。
《発令資格を確認できません》
《地下支部防衛規則・執行停止》
白い扉の文字が薄くなる。
《部外者侵入禁止》
消えた。
扉が静かに開く。
「入れる」
ティルダが一歩踏み出す。
レクスは服をつかんだ。
「まだです」
「何?」
「中に人がいるか確認していない」
ティルダが耳を澄ませる。
足音。
複数。
「五人。こっちへ来る」
「今度は待つ」
ロマンが扉の横へ立つ。
敵は防衛規則が止まったことを知っている。
侵入者が正面から来ると思うはずだ。
三人は保守口へ戻り、梯子の陰へ隠れた。
白い外套の男たちが扉から出る。
一人目が通り過ぎる。
二人目。
三人目。
最後の二人まで廊下へ出た瞬間、ロマンが後ろから盾を振った。
二人が壁へ倒れる。
ティルダは先頭の足を払い、レクスが剣の柄で次の男の手首を打つ。
戦いは短かった。
防衛規則を頼りにし、侵入者が先にいるとは考えていなかった。
「相手の答えを外した」
ティルダが倒れた男を縛りながら言う。
「少しは成長したね」
「一度負けましたから」
「次は負けない?」
「それは分かりません」
「そこは言い切ってよ」
地下支部には、人はいなかった。
机と書棚。
何台もの記録装置。
壁には王都の地図が貼られている。
中央に赤い円。
王城と、その周囲。
シグナも地上から合流した。
「職人には帰ってもらったわ。見張り二人も衛兵へ引き渡した」
彼女は机の書類を調べる。
暗号化されていない。
白紙会は、ここへ部外者が入る可能性を考えていなかったのだろう。
「王都全域封鎖計画」
シグナが表題を読む。
発動日時は明朝。
術式名。
《永久封鎖》
条件文。
《王が生存する限り封鎖を継続する》
ロマンの顔が変わった。
「王を条件に使う気か」
「王都を閉じ、解除したければ王を殺せと迫る」
シグナは次の紙をめくる。
「術式の設置は完了している。発動核は王城内」
「明朝では間に合わない」
ティルダが窓のない地下を見回す。
「今から王城へ知らせる?」
「知らせます」
レクスは条件文を見た。
白紙会が残した文章。
どの文字を消すか。
それより先に、考える。
なぜ、この書類を暗号化しなかった。
なぜ、発動日時まで正確に書いた。
支部へ侵入されないと信じていたからか。
それとも、これも読ませたい答えなのか。
「王城へ行く前に、書類を全部持ち出します」
「急がないと発動するわ」
「だからこそ、急いで答えを出しません」
レクスは条件文だけでなく、署名、注記、発動核の所在、王の定義を示す資料まで集めた。
次の敵は術者ではない。
王都全体を縛る、一つの文章だった。




