第十一話 名前を盗まれた少女
地図の印が示したのは、王都北西の記録院だった。
出生。
婚姻。
死亡。
王都に住む者の名と身分を保管する場所だ。
三日後、記録院では古い名簿の焼却が行われる。
表向きは、虫に食われた紙を処分する定例作業。
白紙会は、その中へ何かを混ぜるつもりらしい。
「今夜は入れないよ」
記録院の裏塀を見上げ、ティルダが言った。
「窓は全部、内側から封鎖。屋根には侵入感知。裏口の鍵は三重」
「なぜ分かる」
ロマンが聞く。
「一周して見てきたから」
「十分も経っていないぞ」
「広くないし」
「入ったのか?」
「入ってないよ」
ティルダは笑った。
「鍵穴をのぞいただけ」
「それを普通は下見と言わない」
レクスは正門を見る。
夜間でも守衛が二人いる。
鐘楼の爆薬は衛兵へ引き渡した。だが、地図に記録院の名は書かれていなかった。白い印だけでは捜索許可が下りない。
「三日後まで待てば、合法的に入れます」
シグナが焼却予定表を広げた。
「研究員として古い名簿を閲覧する。理由は作れるわ」
「相手も三日後に来る」
「だから先に見ておきたいのよ」
「不法侵入は駄目です」
「誰も不法に入るとは言っていないわ」
シグナは正門へ歩き出した。
守衛へ研究員証を見せる。
「緊急の系譜調査です。明朝までに王立学院へ提出する必要があります」
「夜間閲覧の申請は?」
「学院から送ったはずです」
「届いていません」
「おかしいわね」
シグナは困った顔をした。
演技には見えない。
「確認していただけますか。コーデクス家の系譜です」
家名を聞いた守衛の姿勢が変わる。
没落しても、古い貴族名には力が残っているらしい。
「少々お待ちを」
一人が建物へ入る。
残った守衛の視線はシグナへ向いたまま。
ティルダが塀の影から動いた。
「不法に入らないんですよね」
レクスが小声で聞く。
「私は入らないわ」
「ティルダは?」
「見つからなければ、入ったと証明できない」
「法務院で聞いたような理屈ですね」
五分後、建物の裏から小石が飛んできた。
ティルダの合図だ。
シグナは守衛との話を続ける。
レクスとロマンは路地へ戻った。
裏口が少し開いている。
「三重の鍵は?」
「三つとも開けた」
ティルダが扉の陰から顔を出す。
「褒めて」
「あとで叱る」
ロマンが先に入った。
記録院の中は、紙の匂いで満ちていた。
壁一面の棚。
背丈より高く積まれた名簿。
中央の通路だけに青い灯りがある。
「焼却する名簿は地下」
ティルダが案内する。
「階段の前に管理室。人が一人いる」
「気づかれたか」
「寝てた」
三人は足音を殺して進んだ。
管理室の扉が見える。
中から話し声がした。
一人ではない。
「寝ていたんじゃないのか」
ロマンがささやく。
「さっきは一人だった」
ティルダが扉の隙間へ耳を寄せる。
「二人いる。片方は管理人。もう片方は知らない声」
「何を話してる?」
「名前を選んでる」
扉の向こうで紙をめくる音がする。
「候補は百二十七名。家族の少ない者を優先します」
「一度に多く消せば騒ぎになる。今夜は一名でいい」
低い男の声。
「能力の試験ですか」
「記録から名を消したとき、世界がどこまで忘れるか確かめる」
レクスたちは顔を見合わせた。
白紙会。
間違いない。
「誰を選びます」
「侵入者がいる」
三人の体が固まった。
「ちょうどいい。そこの扉の前にいる女だ」
ティルダが後ろへ飛ぶ。
扉を突き破って白い光が伸びた。
胸へ当たる。
彼女の頭上に文字が浮かぶ。
《ティルダ・ペンナ》
管理室から白い外套の男が出てきた。
古文書庫を出た夜、通りからこちらを見張っていた男だ。
手には黒い羽根ペン。
能力名が表示される。
《記名抹消》
「『ティルダ・ペンナ』を抹消する」
羽根ペンが宙を走った。
ティルダの名に黒い横線が引かれる。
文字が消えた。
少女の体まで薄くなる。
「ティルダ!」
レクスは腕をつかもうとした。
指が滑る。
そこに人がいると分かっているのに、目が焦点を合わせようとしない。
「誰を呼んだ?」
ロマンが尋ねた。
レクスは振り返った。
「ティルダです!」
「ティルダ?」
ロマンの眉が寄る。
「誰だ、それは」
レクスの胸が冷えた。
白い男が笑う。
「記録にない名を、人は覚えていられない。やがて姿も見えなくなり、声も聞こえなくなる」
床に短剣が落ちた。
持ち主の姿が見えない。
だが、レクスは覚えている。
栗色の短い髪。
人の嘘を見抜く目。
文章は苦手だと言いながら、誰より人を読んでいた少女。
「そこにいる」
レクスは言った。
「ティルダは、そこにいる」
白い男の笑みが消える。
「なぜ覚えている」
「知るか」
見えないはずの場所から、かすかな声がした。
「でも、よかった」
レクスにだけ聞こえた。
体内の文字が震えている。
九つの反応。
その中の「主」が、誰かとのつながりを示すように熱を持つ。
文字を喰った影響か。
それとも、レクスが細かいことを忘れないからか。
理由はあとでいい。
「名前を戻せ」
ロマンが白い男へ斬りかかる。
誰の名前か思い出せなくても、敵だとは分かる。
男は管理人を盾にした。
ロマンが剣を止める。
その隙に黒い紙片を床へ投げた。
煙が広がる。
「地下の原簿を消せば、その女は完全に消える」
足音が階段へ向かう。
レクスは追おうとした。
見えない手が服を引く。
「そっちじゃない」
ティルダの声。
「あいつ、地下へ行くふりをした。窓から逃げる」
レクスは窓を見る。
白い影が枠を越えるところだった。
「ロマン、窓!」
大盾が飛ぶ。
男の背へ当たった。
白い外套が路地へ落ちる。
ロマンが追う。
「私も行くわ!」
正門側からシグナが駆け込んできた。
レクスを見て、その横を見た。
「誰と話しているの?」
「ティルダです」
「誰?」
シグナまで忘れている。
「仲間です。あとで全部説明します。今は名前を戻す方法を探してください」
管理人が床でうめいた。
口を布で塞がれ、手を縛られている。
机には別人が着ていた管理人の外套。
白紙会の協力者が入れ替わっていたのだ。
シグナが本物の管理人を起こす。
「抹消された名を戻すには?」
「原簿で……復元処理を」
「あなたができますか」
管理人は右手を見せた。
指輪がなくなっている。
「管理印を奪われた。権限がなければ原簿は開かない」
「予備は?」
「副管理人の印なら、机の金庫に」
レクスが金庫を開ける。
中に銅の腕輪があった。
表示は《副管理人》。
「副管理人に復元権限は?」
「閲覧と追記だけだ。抹消の取り消しは管理人しかできない」
管理人の指輪を取り返す時間はない。
ティルダの姿は、もうほとんど見えない。
声も遠くなっている。
「レクス」
「います」
「忘れないで」
「忘れません」
銅の腕輪を見る。
《副管理人》
「副」を消せば《管理人》。
単純だ。
だが、肩書の改変になる。
ドレグの《不敗》には手が届かなかった。
あれは世界が与えた称号だった。
これは記録院が発行した役職表示。
契約文と同じ、人が作った権限情報だ。
「この腕輪を管理人へ変えます」
「できるの?」
シグナが尋ねる。
「分かりません。でも、意味は理解できます」
副管理人は、管理人を補佐する者。
閲覧と追記の権限を持つ。
管理人は、記録院の原簿を管理し、誤った記録を訂正する者。
二つの役職の違いも、管理人本人から聞いた。
レクスは腕輪へ触れた。
文字が指先へ応じる。
「届く」
最初の一字を黒く染める。
「『副』を喰う」
文字が崩れた。
喉へ落ちる。
腕輪の表示が変わる。
《管理人》
銅だった表面が銀色へ変わった。
「世界が正式な管理印として認めた」
シグナが息をのむ。
レクスは腕輪をつけ、地下へ走った。
扉の前へ手をかざす。
《管理権限確認》
鍵が開く。
地下には巨大な一冊の本があった。
王都住民原簿。
触れると、自動で項目が表示される。
《抹消記録》
今夜の日付。
その横に空白が一つ。
名が消えたため、誰を抹消したのかすら残っていない。
「ティルダ・ペンナ」
レクスは口に出した。
空白へ指を置く。
「復元する。名前はティルダ・ペンナ。十七歳。銅級冒険者」
原簿が問い返す。
《復元根拠》
「俺が覚えている」
《客観記録を提示してください》
記憶だけでは足りない。
レクスは焦った。
ティルダの調査員証も、名が消えて白紙になっている。
ギルドの名簿からも消えたはずだ。
何か残っていないか。
紙。
契約。
バルコの依頼で作られた報酬分配記録。
「シグナ! バルコの契約書の写し!」
階段の上から紙束が投げられた。
シグナは事情聴取の資料をまだ持っていた。
契約書には四人の署名がある。
今は三つの名と、一つの空白。
だが、法務院の印が押された事情聴取記録には、署名者四名と明記されている。
「四人目がいた。報酬を四等分した記録もある」
レクスは原簿へ紙を重ねた。
「名前は消えても、この人が存在した結果は残っている」
原簿が青く光る。
《存在記録確認》
《管理人証言受理》
《氏名復元》
空白に文字が戻る。
《ティルダ・ペンナ》
背後で息を吸う音がした。
振り返る。
ティルダが階段の下に立っていた。
輪郭が戻っている。
栗色の髪。
黒い革装備。
目には涙が浮かんでいた。
「遅い」
「すみません」
「本当に、忘れなかった?」
「忘れていたら、名前を戻せません」
「そうだけど」
ティルダはレクスの胸へ額をぶつけた。
抱きついたのか、頭突きなのか分からない。
「痛いです」
「細かい」
「それを言うなら、もう大丈夫ですね」
階段を下りてきたシグナが足を止めた。
「ティルダ」
名前を呼ぶ。
次の瞬間、彼女も抱きついた。
「苦しい。二人は苦しい」
ティルダの声が紙の匂いの中に響いた。
ロマンは白い男を逃した。
ただし、管理人の指輪は取り返していた。
レクスが作った腕輪は、役目を終えると《副管理人》へ戻った。
消した「副」が戻ったわけではない。
本物の管理権限が復旧し、代用の管理人が不要になったため、記録院が役職を再発行したのだ。
地上では、三日後に焼かれる予定の名簿から白紙会の印が見つかった。
百二十七人の名。
家族が少なく、消えても気づかれにくい者ばかりだった。
「名前を消して、どこまで世界から消えるか試すつもりだった」
シグナが名簿を閉じる。
「レクスの能力を研究している。白紙会は、削除の力を再現しようとしているのかもしれない」
ティルダは自分の名が戻った調査員証を握っていた。
「名前がないと、人は忘れる。でも、したことまでは全部消えなかった」
「契約書と報酬記録が残っていました」
「それだけじゃないよ」
ティルダはレクスを見る。
「あんたが覚えてた」
レクスは返事に困った。
細かいことが気になる。
どうでもいいところに引っかかる。
昔からそう言われてきた。
だが、仲間の名前は、どうでもいいことではない。
「次は消される前に止めます」
「次がある前提なの?」
「白紙会なら、またやると思います」
「そこは嘘でも否定してよ」
ティルダは笑った。
記録院の時計が三度鳴った。
カーニンが指定した日まで、あと二日。
白紙会の計画を一つ潰しても、彼らが本当に何を始めるつもりなのかは分からない。
原簿の白い余白に、黒い線が一本浮かんだ。
誰も触れていない。
線はすぐに消えた。
レクスだけが、それを見ていた。




