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26 言ってはいけない、秘密の言葉

「では、今日もカトレア様の所へ参りましょうか。昨日は、原価計算のお話が途中でございましたね。さぁ、急ぎましょう殿下。女性を待たせる殿方は往々にして嫌われるものですわ」


 今週は複式簿記についての勉強をカトレアがしています。分かってしまえば簡単といいますか、その合理性や、管理の容易さに驚きますが、独学で学ぶというのは難しいものです。


 特に、原価計算を領地での経営に導入するのは、一朝一夕で出来るものではありません。どれだけ奴隷の食事代がかかっているか、用水路の維持にどれほどの必要がかかっているか、肥料買い付けの価格がどれほどか。紅茶の葉を作るまでには様々な工程がございます。それぞれにもちろん費用がかかります。それらの費用をまず、伝票なりに記入して、費用をどれほど使っているかを把握するための仕組み作りが必要です。


 アウンタール領では、まだそのような体系的な仕組みが出来ていないので、カトレアは領地に戻ったら、仕組み作りから始めなければなりません。 


 ですが、カトレアは本当に熱心に学びます。領地の経営に直結することであるので、カトレアもいつにもまして真剣なのでしょう。原価計算をして、費用を明確にしなければ、せっかく販売しても、利益が出ることなく赤字となってしまいます。高値で売れたと思っても、実際は商人に買い叩かれているというような事態も防ぐことができます。

 また、カトレアは、経済効果という概念が、目から鱗であったようです。


 紅茶の販売によって、アウンタール領の領民が豊かになる、ということに確信が持てたようです。

 普通に考えれば、紅茶は嗜好品です。紅茶を作っても、領民には手の届かない品物だし、紅茶でお腹が膨れるわけではない。そんな紅茶を領地で作って、領民は豊かになるのか? むしろお腹が膨れるようなジャガイモを栽培する方が優先度は高いのでは?

 どうやらカトレアはそんな悩みも抱えていたようです。

 

 実は、領地経営の目的を一言で言ってしまえば、自分の領地に金貨や銀貨を多く流入させることです。今のアウンタール領は、領地外にお金がどんどん流れ出ている状況です。それではいつまでたっても豊かになることはできません。

 紅茶の栽培などで給金も貰った領民が、その給金でパンを買う。そのパン屋は、そのお金で小麦を買いますし、バターも買います。それによって、バターは売れるし、牛の飼料も売れます。貨幣が回り始めるのです。

 紅茶によってアウンタール領にもたらされる利益が十であっても、そのお金が使われ、そしてまたそのお金を誰かが受け取るということを考えれば、アウンタール全体では百、二百のお金が動きます。それが、アウンタールを豊かにする原動力になるのです。


「ピアニー。今日は、二人で一緒に過ごそう」と殿下が言います。


「ですが……カトレア様はきっと殿下のお話を楽しみにしていらっしゃいますよ?」


「いや、実はすでに今日は行かないと既に伝えてあるんだ。教室が同じだからね」


「そ、そうでございましたか。では、今日もお買い物を一緒に致しましょう。新しいティー

コゼーが欲しかったのです」


「いや、実はもう行く場所は決めてあるんだ。既に手配もしている」


「どちらへ行くのですか?」


「貯水池さ。ほら、前にカモミール卿とカリン伯爵嬢と話したじゃないか。貯水池の公園を貸し切るのに調整が必要でね。随分と待たせてしまったね」


 カモミール卿のお父様が指揮を執り王都に建造した貯水池。確かに殿下から行こうとお誘いを戴いておりました。

 それは、私が黒部春子としての記憶が戻る前。ディオニュソスが私の記憶を奪っていた時の約束。

 カリンは、カモミール卿と貯水池でデートをしたと言っていました。


 王族が行くとなると、市井の方々が混乱するので、貸し切りにしたということでしょうか。


 しかし……。殿下と私がデートをしたところで、デートの先の、明るい未来などございません。

 断るべきでございましょう。


「それよりも私は、買い物をしたいです。新しいコゼーが欲しいのです」


「コゼーなら、後日、シュピルアール家に届くように手配をしよう。僕が、王都中のコゼーを買い占めるよ」


「殿下、私は自分で選びたいのです」


「コゼーが屋敷に届いてから選べばいいだろう? 今日は、貯水池に行こう」


 殿下から固い決意のようなものを感じます。私をさらってでも連れて行くとでも言うような、そんな決意を感じます。


「殿下がそこまで言うのなら、お供いたしますわ。臣下の一人として」と私は不機嫌を装ってそう言います。婚約者としてではなく、臣下として行く。


「感謝する。さぁ、馬車に乗ろう」と、殿下は私の皮肉を受け流し、私を馬車へとエスコートします。


 ・


 ・ 


 私の機嫌が悪いと殿下は思っているのか、殿下は隣では無く向かいの席に座り、車窓から王都の町並みを眺めています。

 殿下が緊張していらっしゃるように思えます。思い詰めた顔をしているようにも見えます。


 馬車の中での会話はありませんでした。


「さぁ、着いたよ」


 貯水池が真っ赤に染まっていました。紅い落ち葉で埋め尽くされています。


「舟でございますか?」


「そうだよ、この小舟で貯水池の中を遊覧しよう。池の周りを散策するのとは違った趣が楽しめるそうだよ。カモミール卿のお勧めだ」


「カリン様からも、とても素敵であったと伺いましたわ」


 殿下に誘われて小舟に乗ります。二人乗りの手漕ぎの舟です。小舟はスイスイと落ち葉を掻き分け、池の真ん中へと進んで行きます。


 色彩豊かな、赤色とはこれ程までも多彩な色であるのかと驚くくらい、様々な落ち葉が池に浮かんでいます。落葉が流され、そしてこの貯水池に集まってくるのでしょう。


 水に浮かぶ落葉の間を進んで行きます。ここが貯水池であると知らなかったら、落葉の上を歩こうとしてしまうかも知れません。


「綺麗ですね。貯水池が全て落葉で覆い尽くされています」


「気に入ってくれたかい? 実は、年に数日しか観られない珍しい光景なんだ。今、水道橋の水の流れに乗って、遠い所からも落葉がこの貯水池に流し込まれている。落葉をこの池に集めている」


「この景色を作るためにですか? 確かにとても幻想的な光景ではありますけれど……」


 この景色を作り出すには、大がかり過ぎます。仮にも王都に住む人々が使う大事な水です。デートのためだけであるなら、道楽が過ぎるように思います。


「いや、違うんだ。落ち葉は水詰まりの原因になるからね。意図的にこの場所に集めているんだ。そして、明日からこの落ち葉の回収作業が始まる。来週には、すべてこの落ち葉は無くなっているよ」 


 落葉の季節になると、その葉が水道橋などに詰まるというトラブルが起こりえます。数百キロに及ぶ水道橋を見回るのは大変。そうであるなら、落ち葉を一個所に集めて、まとめて片付けてしまおうということなのでしょう。

 落ち葉を一枚一枚拾っていくよりも、箒で一個所に集めてからの方が、効率の良い掃除ができる、ということと同じでしょうか。


「カモミール卿のお父様は、合理的な水運を考えるだけでなく、偉大な芸術家でもあるようですね」


「いや、カモミール卿の話だと、これは偶然の産物らしい。効率だけを追求した副産物だそうだ」と言って、殿下は小舟を漕ぐのをお止めになりました。ちょうど、舟は池の真ん中でしょうか。野球場よりも広い貯水池の真ん中。

 太陽も夕陽となり、さらに池を赤く染めていきます。


「ピアニーに聞きたいことがあるんだ」


 ふっと、殿下がそう言われました。


「どのようなことでしょう?」


「最近、僕の事を遠ざけようとしているように感じるんだ。僕の思い過ごしであればよいのだけれど」


 殿下の思い過ごしでもなければ、気のせいでもございません、と言えたらどれほど楽なのでしょうか。


「ちなみに、この場では僕以外に話し声が聞こえたりはしないよ」


 野球場よりも広い貯水池の真ん中です。たしかに岸から耳をすましても私たちの話し声を聞き取ることはできないでしょう。

 私の本心を知りたいということでしょうか。お優しいですね。殿下とピアニー・シュピルアールが婚約しているということはすでに公の事実。たとえ、私がたとえ、殿下のことを嫌いであるからと言って、婚約という事実が消えることはないでしょう。もちろん、殿下が婚約破棄を望まれるなら、婚約はご破算となるでしょうが……。


「そのような事はございませんわ」


「じゃあ、『愛している』と僕に言ってくれないか?」


「面と向かっていうなんて、恥ずかしいですわ、殿下」


「言ってくれるまで、オールは漕がないよ」と、殿下はオールを手放されます。オールはロープで舟と結び付けているので、流されることはありませんが、殿下の固いご意志はそこにあることは明確です。


「お戯れが過ぎますわ、殿下」


「一言言ってくれるだけで良いんだ」


「……。こんな強引なことをされる殿下は嫌いですわ。小鳥は強制されてさえずるのではありません。人もまた同じでございます」


「僕は、君を愛している」


「殿下……」


 長い沈黙がありました。とても長い沈黙です。もしかしたら、ほんの十数秒の沈黙であったのかも知れません。ですが、これほどまでに刹那が、1秒が長いと感じたことがあったでしょうか。


「僕は今から独り言を言う。聞き流してくれて構わない」


「殿下?」


「2週間前だった。カトレア嬢の茶会に参加し、カトレアに幾何学を教えることになった。ピアニーは、クッキーを取りに行くと言って席を立った。随分と戻ってくるのが遅く僕は心配をした。ピアニーは戻って来た。どうやらクッキーが焼き上がるのを待っていたらしい。でも、クッキーを食べたら、そのクッキーは冷えていた。何か事情があるのだろうけど、僕は悲しかった」


「殿下……」


「僕とピアニーは同じ家庭教師によって教育を受けた。僕が分かることは、ピアニーだって分かるはずだ。それはテストの成績が証明している。それなのに、ピアニーは、自分には分からないと言う。それがどうやら、謙虚さからのことではないことが僕は悲しい」


「……」


「とりたて欲しい物がないくせに、買い物を無理矢理しようとする君を見ているのが悲しい」


「……」


「笑っているようだけど、泣いているんじゃないかと思ってしまうような表情を、最近僕の婚約者はするようになった。愛する人に、そんな表情をさせてしまう自分が許せない」


「で、殿下……」


「ピアニー。君は、何も答えなくていい。だけど、もしそうなら、首を少しだけ縦に振って欲しい。君の様子がおかしくなったのは、あの、アウンタール家のカトレアが王立学園にやって来てからだ。何か、カトレアに何か脅されたりしているのかい? 具体的なことを、僕は深く追求するつもりなんてない。ただ、脅されていたりするなら、少しだけでいいから、首を縦に振って欲しい。僕が君の憂いを全て絶つよ」 


 王は、人民を慈しむことが重要です。ですが時として、冷酷な決断を下さなければならないときがあります。今の殿下は、冷酷さを剥き出しにした獅子のようです。


「いいえ。そんなことは主神、ディオニュソス様に誓ってありませんわ」


 この世界でもっとも重い誓い。それは、主神ディオニュソスに誓うこと。


「僕の思い過ごしで良かったよ……」


 殿下がまた、いつもの優しい殿下に戻りました。


「と、なると、可能性は、カトレアは君の妹なのかい?」


 心臓がドキンとしました。


「で、殿下、それはどういう?」


「いや、これを言うとシュピルアール家当主を侮辱したと受け止められるかも知れないのだけど。ピアニー。君は、カトレア嬢にかなり目をかけている。侯爵家と子爵家の格の違いを考えれば異常なぐらいだ。だけど、妹であるということなら、納得がいく」


「だ、だからと言って、どうして妹などと……?」


「いや……それは……。なんというか……シュピルアール家当主に魔が差したというか……」


「え? お話がよく見えないのですが?」


「いや、よく聞く、いや、あってはならないのだけれど、噂で聞くんだよ。妻が子どもを授かっている間、男は我慢をするものなのだけど、ついつい他の女性に……」


 殿下はなんのお話をしているのでしょうか。


「つ、つまり、腹違いの妹なのではないかと思ったんだよ。そう考えると、ピアニーとカトレア嬢はどことなく似ているところがあるように思えてね」


 殿下は何を考えているのでしょうか。いえ、これは殿下なりの冗談なのでしょう。正確に言えば、半分が真面目で、半分が冗談。可能性の一つとして考えていらしたのかも知れません。違うなら違うで良し。違うのであれば、婚約者同士のデートとは思えない冷え切った空気を少しだけ暖める冗談になるのでしょう。


「いえ、そんな事実はありません。お父様はそんなことをされるような人ではないです」


「心から謝罪する。忘れてくれ」


「そうさせて戴きますわ。でも、殿下が私の事を考えてくださっていることは良く分かりました。感謝致します」


「いや、当然のことだよ」


 私は、伝えなければいけないのでしょう。


「殿下。ピアニー・シュピルアールは、殿下のことを心から愛しています。この言葉に、一切偽りはありません」


 ピアニー・シュピルアールは、殿下のことを間違い無く愛しています。それは、伝えなければなりません。私は、ピアニーの人生を乗っ取ってしまった。

 私には、ピアニー・シュピルアールとしての記憶も、そして想いも受け継いでいます。ピアニーがどれほど殿下のことを愛しているか、それは誰よりも私が知っています。ピアニーの人生を、私、黒部春子が狂わせることになった。

 私は、黒部秋子の命を諦めるつもりはありません。ですが、ピアニー・シュピルアールが殿下のことをどれだけ愛しているか、伝える責任も私にはあるのでしょう。


『ピアニー・シュピルアールは、殿下のことを心から愛しています』


 この言葉に一切嘘はありません。


 ですが、ピアニー・シュピルアールとは一体誰なのか、という問いを置き去りにした言葉です。殿下の目の前にいる私は、もうピアニー・シュピルアールだけでもなく、黒部春子だけでもありません。

 ただ、ピアニー・シュピルアールは、殿下のことを心から愛している。このことに偽りはありません。


「とても辛そうに君は言うんだね」


 殿下の呟きにも似た言葉が、私の胸に突き刺さりました。


「申し訳ございません……。殿下、随分と気温が下がってまいりましたわ」


「そうだね、帰ろう」と殿下は、再びオールを手にして、岸へとこぎ始めました。


 私は、殿下を直視することができません。周りの景色を観ている振りをして泣きます。泣くまいとしても、涙が出てきてしまいます。

 どうして、『私は、殿下のことを心から愛しています』と伝えることが出来ないのでしょうか。

 ピアニー・シュピルアールの記憶が無くても、殿下が素敵な方だということは分かります。


 いつも優しく


 いつも私のことを想っていてくれる


 殿下の一つ一つの、いえ、何気ない動作から、全てから、私の事を大切にしてくれているということが、伝わってきます。

 ピアニー・シュピルアールでなくても、こんな好意と愛情を一身に受けたら、その人に好意を抱くことは自然なことです。

 黒部春子として、初恋というものはありませんでした。そんな余裕のある人生ではありませんでした。生きるのに、妹の学費のために精一杯でした。

 そんな私が、初恋をした。それは、この世界で、殿下にです。


「夕刻というのは、どういうわけか、悲しくなってしまいますね」と私は言います。


「あぁ、まったくだ」と殿下が答えます。


 『ピアニー・シュピルアール』だけでなく、『黒部春子』も、殿下のことを心から愛していますと、伝える事ができたらどれほどのことでしょうか。ですが、それは言うことはできません。それを言ってしまったら、私は、妹の命を諦めることになります。それは、私が断罪されるまで、言ってはいけない、秘密の言葉なのです。


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