24 3より大きく、永遠に終わることのない愛と似た円周率
「堅い話はこれくらいにしておきましょう。カトレアは先ほどまで何をなさっていたのですか?」
カトレアは、お茶会を開きつつ、誰もいない時に勉強をしているということは確実です。
「実は、幾何学の勉強をしておりました」
幾何学というのは、誤解を恐れずに言ってしまえば算数や数学の類です。三角形や四角形、円などを描き、定理の証明を行ったりする学問です。数学と考えてしまうと、黒部春子としては逃げ出したくなるほど苦手でございましたが、ピアニーは幾何学が好きなようです。
もっとも幾何学というのは奥深いもので、クイズのように、問題を解いて遊ぶというような娯楽的な要素もあれば、土木建築などで用いられるような実学的な部分もあります。水道橋を建築していく場合の測量などに盛んに使われます。カモミール卿などは、幾何学においては抜群の才能をお持ちだと聞きます。
ピアニーも、雨が降っていて外出できない時など、窓辺で紅茶を飲みながら幾何学を興じていることが多々ありました。
『三角錐の体積が三角柱の体積の三分の一であることを証明せよ』ですとか、『3の平方根が無理数であることを証明せよ』ですとか、そのようなクイズが載っている本をピアニーも持っており、愛用していたノートにはその解答が掛かれています。
ノートの最後のページには、『3以上の自然数nについて、aのn乗 + bのn乗=cのn乗 となる自然数の組 (a,b,c) は存在しない』というクイズの問題が書かれていて、ピアニーの文字で、『この定理に関して、私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる』と書かれていました。全く新しいノートを買えば良いのにと、私はそれを読んだ時笑ってしまいました。
さて、そんな幅広い幾何学ですが、苦手な方は苦手です。特に、貴族の子女の方々でそれを苦手とする方が多い印象です。スタリール侯爵家のネモフィラもあまり好きではないようです。
そういえば、カモミール卿は幾何学が三度の紅茶よりもお好きだそうですが、その婚約者であるカリンは、幾何学が大の苦手だそうです。
カトレアも幾何学が苦手なのでしょう。
「半年遅れて入学して、苦労しているのではなくて?」
苦労していると分かっていながら私はカトレアに聞きます。むしろ、苦労しているからこそ、それを助ける殿下が輝いて見えるのかもしれません。ドラセナから聞いた限り、窮地を救う白馬の王子様を女性は求めるそうです。もっとも、殿下は本当に王子で、殿下の愛馬も白馬でございますが……。
「はい。追いつこうと勉学に励んでいるのですが、分からないところがあって進まないのです」とカトレアは苦虫を噛み潰したような表情をしています。
そうなのです。貴族の子息子女が必ず家庭教師を雇うのも、この点にあったりします。自分でいくら考えても、分からないものは分かりません。また、閃いたりするのに時間がかかるものです。それに、この世界はインターネットなどありませんし、調べるということに対する時間もかかります。だからこそ、家庭教師が必要になってきます。
「どんなところが詰まっているのかしら。私達がお力になれればよいのだけれど。紅茶もこうしてご馳走になっていることですし」
「実はこの問題です」と、カトレアは教本を取り出しました。幾何学のようです。
『円周率が3よりも大きいことを証明せよ』
あぁ、と私は思います。ピアニーが解いたことのある問題に同じようなものがありました。私も記憶しています。これは、円の面積から円周率を逆算するのです。
ですが……
「私には難しそうですね。殿下は、お分かりになりますか?」と殿下に話を振ります。私が答えてしまっては意味がありません。
「あぁ、これは円周の長さよりも、内接する正多角形の周の長さのほうが短いということを利用するんだね。もしくは、面積から求めることも可能だね。色々な解法があるけれど、3より大きいと言うことなら、正六角形で考えたら分かりやすいね」
さすがは殿下です。私は一つしか解法を見つけていなかったのですが、殿下は複数の解法をご存じだそうです。どのような解法か、ピアニーとしては気になるところではありますが、私は席を外した方が良いでしょう。二人が隣り合って、仲睦ましげに幾何学の勉強をしているのを見るのも辛いですし。
「では、殿下にお願いしますわ。そうですね……私は……クッキーでも貰いに行って来ましょう」
「ピアニー様。私が行きます! どうぞお座りください」
「カトレア様、カトレア様が行っては、意味がございませんわ。お気になさらず、勉学に御励み下さいまし」
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紅茶を飲む際の受けとしてクッキーは学園が提供しています。シュピルアール家が抱えているお菓子職人と比べると腕は劣りますが、王立学園で提供されるお菓子も、侮ることができないほどの味です。
カフェテリアにて受け取ることが出来るのですが、私は遠回りをしてカフェテリアに向かいます。殿下とカトレアの二人っきりの時間を少しでも長くするためです。
心なしか、風が強くなってきている気がします。木枯らしでしょうか。地に落ちた赤く染まった葉が舞い上がり、サラサラという音を立てています。葉と葉が擦れ、摩耗し、そしてやがて塵芥となります。
「もう少しで焼き上がりますが、どうされますか?」という問いに、私は、待ちますと答えました。そして、カフェテリアの机に頬杖をついて考え事をします。
円周率が3よりも大きいことを証明する別の方法があるのでしょうか。そんなことを考えます。きっと殿下は今頃、二つ目の解法を説明しているころでしょうか。私が知らない解法を、カトレアは殿下から教えてもらい、そして知ることになる。
カトレアは飲み込みが早い人だと思います。もしかしたら殿下のヒントで解き終わり、別の問題を取り組んでいるのかも知れません。きっと殿下は、それとない助言でカトレアに方法を指し示しているのことでしょう。
「焼き上がりましたよ」
私は、焼き上がったばかりのクッキーを受け取ります。バスケットに入れます。走り出しました。
そして、噴水の所でふっと、冷たい風に乗った噴水の水滴が私の頬に当たりました。
どうして私は、走っていたのか。焼きたてのクッキーを届けたかったから?
自分でも良く分からなくなり、ベンチに座りました。そして、バスケットの中を覗き込みます。寒くなってきたらからでしょうか。クッキーから白い蒸気が上がっているのが見えます。そして、私はクッキーを一つ摘まみ、そして囓ります。焼きたての美味しいクッキーでした。
どうして私は、走っていたのでしょうか?
この焼きたてのクッキーをいち早く届けたかったからでしょうか?
私は、木枯らしに吹かれるたびに変わる噴水の水の造形を、ただ眺めるほかありませんでした。




