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 とうとう、思い出したんだね。

思っていた以上に、君の意識が強いから、僕は制御が大変だよ。

この分だと僕等はもう、本当に用が無くなったのかもしれないな。

ヒビキ、君の選択した道を僕も行くことになりそうだ。

彼女の事だけが気掛かりなんだけど、こんな僕である以上出来ない事がある。

彼女の側に四六時中、僕としていてあげられないって事だ。

君が、その選択をしたのも僕等が造られた人格だから、いつ意識が消えてなくなるか分からない不安からだろう?

消えたくないな。

だからこう、考えた。

完全に消えるわけじゃないと。

彼の心の深い深い無意識の層で僕等は浮遊する、そう思いたいんだ。

昼間に星がないからといって、星は消えた訳じゃない。ただ、見えないだけ。

幸い、僕等は彼女の心の中にもいるんだ。

君が彼女を好きなことは、知ってたよ。

だから、もしかしたら環も彼女の事が好きになるかもしれない。

君が僕に頼んだのと一緒さ。

もちろん、絶対そうなる、なんて言い切れないけど。

僕は一番大事な人を環に託して、深い深い夜に潜る事にするよ。

不完全な僕等が選択できる最善の事は、それだけだらさ。

だから、最後に彼女にさよならを言おうと思うよ、ヒビキ。



 少し混乱した環は、遠田に記憶の話をした。

本当はあやふやだった自分は環で、過去の記憶が少し戻ってきたこと、それから、ここ数ヶ月の記憶がまったく無い事など等。

そっか、と遠田は答えた。

彼はいつも一緒だったタマキと、会ったことの無いヒビキの話をした。

初音の話はどうするか迷ったが伏せておいた。その方が、お互いが傷つかなくてすむかも知れないと思ったからだ。

「お前、実家に帰れ。両親に会って、響の墓前でも参って来いよ。」

そして、今後を決めてこいやと、優しく友の肩を叩いた。

最善がどれなのか、彼には分からなかった。

付き合ったタマキは、一緒にいて楽しいヤツだった。

その友達が一人減るのは寂しい気がした。


 実家に帰る日がきた。

その日はタマキだった。

駅まで見送る。

しばらくは、帰れない。

そして戻ってきた時、自分は違う人になっているとタマキは言うのだ。

タマキに会うのはこれが最後だ。

いつも冗談ばかりのタマキが、今日はいつもより口数が少ない。

列車がホームに入ってきた。

シュゥ~という音がして扉が開いた。

並んでいた乗客が次々に乗り込んでゆく。

下ばかり向いている初音を、タマキは抱き寄せた。

指先が背中で細かく動く。これは…。

この指の動きは…。

ホームにベルの音が鳴る。

タマキの笑顔が初音に近付いた。

優しく唇と唇が触れ合う。

離れ間際に彼は言った。

「愛してる。」

ドアが閉まる。

二人を隔てているガラスにタマキが顔を寄せた。

あの茶目っ気たっぷりに、顔をくちゃっとさせて初音を見ていた。

もう最後。

もう、会えない。

「待って。」

列車はガタン、ガタンと音を立てながら、ホームから離れてゆく。

「待って、行かないでっ。」

今まで言えなかった一言が涙と一緒に溢れ出した。

私の気持ちは、伝えてないのよ。

ホームから、離れてゆくにしたがって、タマキのくちゃっとさせた顔は笑顔のはずなのに泣き顔に変わってゆく。

 タマキの中では今までのことが一気に溢れ出すように蘇ってくる。

最初の出会いの中庭で顔を覗かれた時、ドキッとして心を射抜かれた気がした。

まっすぐに見つめる瞳がとてもきれいだったから。

 公園で朝日が昇るのを見ながら、一生懸命元気のない僕を慰めてくれた。

あの時、嬉しくて切なくて愛しくて、僕は泣いた。

朝日もきれいだったけど、一番輝いていたのは、君だったんだよ。

 僕等二人の時間はおとぎ話のようだったね。

優しい春の朧月夜のようだった。

抱きしめていたかった。

ずっとずっと一緒にいたかった。

指先に残る彼女の体温を頼りに、タマキは、自分の腕を抱く。

さっきまで彼女はこの腕の中に確かにいた。


愛してた。

今も愛してる。


涙がどうしようもなく、止まらない。

さようなら、僕等の街。

さようなら、僕等が過ごした時間。

さようなら、僕等の愛しい人。

―さようならー



一週間が過ぎた。タマキ達のいない生活が実感として現れる。

寂しさが日に日に増してゆく。

タマキとの出会いは、学校だった。

中庭に座ってみる。あの時と同じ所。

「こんにちは。」

声が聞こえてきそうだ。

覗き込むように見たら、タマキは驚いてた。

「そ、そんなに驚いた?」

「君さ、もしよければ、モデルのバイト、してくれないかな?」

そして、笑った。

あの屈託の無い笑顔で。

今は無い笑顔で。


いつもの癖で、帰りはあのアパートをついつい通ってしまう。

最初の出会いだった「愛のあいさつ」

もう、ヒビキのピアノの音はなく、窓も閉まっていた。

あの窓から覗いていたヒビキ。

「なんだ、あんたか。上がって来いよ。」

あの時の、あの顔はもう、そこには無い。


駅にも、幼稚園にも、美術館にも、公園にも、あの部屋にも、こんなに沢山思い出の中にいるのに、なぜ、今、いないの。

初音は胸が苦しくて泣いた。

大声をあげて泣いた。

かっこ悪く泣いた。

顔を真っ赤にして、泣いて泣いて泣きまくった。

涙も、鼻水も、だらだら流れ出したけど、それでも構わず泣き続けた。

帰らぬ者を悲しむのは、今しかできない。

もう彼等は人格としては、泣くことも出来ないから、私が泣こう。

別れを悲しんで何が悪い。

悲しいから泣くだけだ。

それだけだ。

気持ちに素直になれなかった。

だから苦しかった。

その苦痛も涙が洗い流してくれる。

辛い思い出を、優しい思い出に変えるため、初音は肩を震わせ、手を握り締め、強く泣いた。

彼等の変えられない定め。

環の狂った人生の歯車の上で出会ってしまった運命。

何も、誰も悪くない。

だから、余計に悲しい思い出のままでいたくない。

初めて産まれた子供のように、気が済むまで初音はいつまでも泣き続けた。


電話が鳴った。

泣き疲れて寝ていた初音は、その音で起こされた。

「初音、元気だったかい。」

電話はお婆ちゃんだった。

「あぁ、お婆ちゃん…。」

寝起きのような声を出す。

「ようやく退院が決まってね。」

「そうなの。良かったね。」

「あぁ、初音にも心配かけたわね。」

「うぅん、ほんとに良かった。」

お婆ちゃんの声を聞いたら、心が緩んでまた涙がこみ上げてきた。

涙声の孫娘に、お婆ちゃんはどうしたね、何か悲しいことがあったね?と優しく聞いた。

「お婆ちゃんっ!!」

初音は、泣きながら今までの出来事を話した。

お婆ちゃんはうんうんとか、そうなのとか相槌を打ちながら聞いてくれた。

さすがに二人が一人の人物であったのは、驚いたようだった。

まぁ、と言って言葉を失っている。

「お婆ちゃん、私どうしたらいい?」

苦しくて、お婆ちゃんに問いかける。

「初音、会いに行っておいで。」

「会いに?もう、彼は私の事は覚えていないかもしれないのに?」

「それでも、会いに行っておいで。」

お婆ちゃんの声は諭すように優しい。

「どうして?」

「初音、彼等にはもう会えなくても、彼は生きているわ。

彼の手は温かかったのでしょ?今でも同じ温かさのはずよ。

共に生き、共に時間を過ごした。その彼等が彼の心にいなくて、どこにいるというの?」

「…。」

「だったら、彼ごと二人を愛してあげなさい。

それで失恋したら、あなたの恋はそれまで。

後悔しないよう、出来るところまでやっておいで。」

「お婆ちゃん…。」

「彼等は、彼の中にいる。見つけてあげて。

きっとあなたに会いたがってる。」

「本当に?」

分からない。

「それを確かめるのが、今、あなたのやるべき事です。」

わかった。

私に出来ることがあるなら、やってみるだけだわ。

「ありがとう、お婆ちゃん!!」


次の日、初音は遠田に会っていた。

環に会う為に、住んでいる所を聞きたいと言った。

「会いに行く?環に?」

正直、辞めたほうがいいと言った。

環は初音を知らない。

会っても知らない顔をされるのは辛いだけだ。

「俺も、記憶を無くしたばかりの環を見舞った事があるが、帰りは切なかったぜ。」

その時を思い出しているのか、苦い顔をする。

「俺の顔も、思い出も何もかも忘れてさ。新たに築いた友情は、前より長い分深くなったけどよ。」

「いいの。それでも会いに行きたいの。」

初音は譲らない。

どうしても会いに行くという。

根負けした遠田は、

「しゃーない、俺も付き合うぜ。」

と言った。


二人は列車に乗った後、新幹線に乗り換えた。

それからまた列車に乗り換えて、4時間かけて環のいる街に着いた。

「はぁ~、ひっさしぶりだな。この景色。暫く帰ってなかったからな。」

「どの位ですか?」

「大学に入ってからだから、丸1年は帰ってないぜ。環も俺と一緒で今回帰ったのは久しぶりのはずだ。」

さて、行ってみるか?と彼は歩き出した。

「家まで行くのもなんだな、ファミレスで会うか?」

環の家庭の事情を知る遠田が気を利かせた。

「そうですね。」

程なく、遠田が環を連れてきた。

「誰だよ?僕に会いたい人って?高校の同級生?」

話をしながら二人は席まで来る。

「違うよ。この人だ。」

環は不思議そうな顔をしている。

答えがわからない様子で、無言で遠田を見た。

名前を聞くのは失礼と思ったらしい。

「初音、と言います。大学が一緒です。」

「どうも…。」

明らかに、戸惑っている様子だ。

「何か用ですか?」

環は警戒した顔で言う。

初音がまったく分からない様だ。

予測のうちだけど、やはり辛い。

泣きたい気持ちを抑えて、初音は彼と向き合った。

だけど、会話は続かない。

そう言えば、ヒビキも会話が続かなかったな。

初音は別れ際に、勇気を振り絞って言った。

「また、明日も会ってもらえませんか?」

「いいですよ。じゃ、今度は家の近くの公園で。」

と、彼は言った。

遠田は肩が凝って仕方がなかった。

仲人というのは大変だ。

初音はその日、近くのホテルに泊まった。

遠田は、うちに来てもいいぞ、と言ってくれたけど遠慮しておいた。

 翌日、公園に行った。

この公園は見覚えがあった。

タマキの絵の中に描かれてあった風景と同じだ。

タマキが、ここにいたんだと思うと、この場所もいとおしくなる。

仕方がないといった風にブラブラと環が来た。

「こんにちは。」

「この、公園は以前タマキさんの絵で見たことがありますよ。馴染みが深いようですね。」

「あぁ、ここはよく、響と遊んだな。」

曖昧な記憶が多いがそこら辺は思い出していた。

初音は、そうですか、と答えた。

暫く沈黙が続く。

今日もまた、昨日の繰り返しなんだろうか?

その時、三毛猫が現れた。

「みいばぁさん…?」

おやっと言う顔をして環が笑った。

「よく、知ってるね。」

「この子は僕等が雨の日に、この公園で拾ったんだよ。おいで、みぃ。」

呼ばれて三毛猫は、トットットとやって来た。

「さぁ、このお姉さんにも挨拶しな。」

三毛猫は、初音の臭いを嗅いだ。

そして、足の周りをグルグル回る。

「へぇ、驚いたな。この子は結構人見知りが激しいんだよ。」

初音は、みぃばあさんの頭を撫でてやった。

「暫く会わないうちに、また歳を取った。」

環が抱きかかえて頭やノドをなでてやると、ノドをゴロゴロ言わせて目を細めている。

「君も猫は好きなの?」

「好きです。実家にも猫がいました。もう、死んじゃったけど。」

「ピアノの上によく登って、私の音楽を聞いてくれてました。」

「そうか。」

環は優しい顔になった。

みぃばあさんは、環の腕の中でじっと二人の話を聞いていた。

夜は、遠田と環と三人で居酒屋で食べた。

初音は、アルコールは20歳未満なので断った。

遠田と環は、昔の思い出を話しながら飲んでいた。

「環、いつ学校へ戻ってくるんだ?」

「暫くこっちにいるつもりだよ。」

「ちゃんと、帰って来いよ。」

環は曖昧に微笑んでいる。

もしかしたら、彼は大学へは帰らないつもりだろうか?

初音と遠田は明日の夕方、列車でもと来た道を帰る予定だ。


 翌日、環を訪ねると、彼は小学校に行ったと、家の者が教えてくれた。

小学校へ行くと、環は絵を描いていた。

「こんにちは。」

初音は、声を掛けた。

「やぁ、君か。昨日はお疲れ様。」

「学校の校舎、ですか?」

「そうだよ。君も見たことがあるだろう。」

そういえば、タマキの絵の中にあった。

環は、筆を置いた。

「昨日、帰って僕の荷物を整理してたんだ。」

タマキが持って帰ったのだろう。

「その中に、君の絵があった。」

初音はドキリとした。

「よく出来た、いい絵だった。」

初音は、言葉が浮かばなくて、頷くことしか出来ない。

モデルを頼まれたあの日から、ホームでさよならしたあの時までの事が蘇る。

胸が苦しくなった。

タマキは…。

「知らない間に、知らない事をやってる…。」

タマキやヒビキは、ほんとうにあなたの中にいるの?

「その、失礼な事は、してなかったかな?」

2、3回頷いて、答えた。

「えぇ、とても良くしてもらいました。ありがとう。」

「君が会ったのは、僕じゃないよ。」

「…。そうですね。」

「はぁ。」

環は溜息が漏らした。

「自分が情けないよ。あの絵は特別だって分かるのに、その特別な物が何なのか、僕には分からない。」

それは…。

沈黙が流れた。

「君は大学では何をしてるの?」

「ピアノです。」

「そう、じゃ、よかったら聞かせてくれる?」

そういうと、筆とスケッチブックを片付け始めた。

 行った先は音楽教室だった。

教室のほかにも、一時間いくらで部屋を貸しているらしい。

「何を弾きましょうか?」

「なんでもいいよ。」

色んな思い出の曲が頭をよぎる。

じゃあと、一呼吸置いた。

ピアノは「愛のあいさつ」を奏で始めた。

初めて聞いたヒビキの音。

どんなに弾いても、ヒビキを越えられなかった。

最後に聞いたのもこの曲だ。

ヒビキさん、聞こえていますか?私の、愛のあいさつが。

環は、じっと聞いていた。

終わるとにっこり笑った。

「上手だね。」

「いえ、あなたほどではないわ。」

「僕は、弾けないよ。」

そうかしら?

「弾けると、思いますよ。」

「…。そうかな。」

言われると弾けそうな気がした。

じゃ、試しに。

「思いつくものを弾いてください。」

環は、暫く目を閉じた。

目を開けると、鍵盤に向って弾き始めた。

指は動いた。

何となく、次が出てくる。

どうしてだろう?弾いたことはないハズなのに?

見ると、初音が泣いていた。

甘く、溶けるような、激しいような、囁くようなそんな曲だ。


これは、あの時、私が弾いた曲。

ヒビキの言葉で最後まで弾けなかったけど。

そして、ホームで別れ際、タマキが背中で細かく動かしたのは、この曲ではなかっただろうか?

弾き終えて、環は言った。

「そんなに感動してもらえたの?」

初音は、あの時をなぞる。

「…おお愛する者よ、愛することのできる限り愛せ。

愛せ、愛することの許される限り愛せ。

その時はやって来る、必ずやって来る。

お前が墓の傍に佇み、悲しみに暮れる。

その時は、必ずやって来るのだから。…」

あの時の、ヒビキの言った愛の夢の詩を初音は涙声で言った。

環は、微笑んでいた。

「いいね。告白されているみたいだ。」

そして、照れて、顔をくちゃっとさせた。

「!!」

いた。彼等は確かに。

確かに、彼の中にいたのだ。

やっと、見つけた。

私は、あなた達に会いに来たのだ。

初音は、泣きながら笑顔になった。

「環さん、あの街へ帰りましょう。」

あなたを待っているあの街へ。

あなたを連れて行きたいところが、沢山あります。

あなたを優しくする物が、沢山あります。

過去も未来もみんなみんな抱きしめて、前だけ向いて歩きましょう。

人生は、生きてるだけで丸儲けって言うじゃないですか、分からなかったら私が側で教えてあげますよ。

だから、あの街へ帰りましょう。


環は、絵と向き合っていた。

僕は、本当にこの絵を描いたのか?

僕はこの絵が描けるのか?

特別な何か、大事な何か、あそこへ行けば見つかるのな?

ピアノを弾いた時、泣いた彼女の顔を見て、はっとした。

その時、何か解りかけた気がした。

知らん顔をしても、初音は毎日会いに来た。

本当は来てくれたのが嬉しかった。

でも素直になれなかった。

会えるのが楽しいと、思い始めていたんだ。

だけど明日から彼女はもう来ない。

急に寂しく、そして人恋しくなった。

別れ間際、彼女は待ってますと言ったのを思い出した。

もう一度、彼女を描いてみよう。

もしかしたら、何か分かるかもしれない。

ひょっとすると、何も分からないかもしれない。

でも、やってみないと分からない。

響、お前ならどうする?

あの日、人生を分かれた相方に心で聞いてみる。

きっと、やってみろと笑っているはずだ。

環は荷物をまとめ始めた。

隣で三毛猫のみぃばあさんが欠伸をしていた。


改札をくぐると、遠田と初音が待っていた。

「よう。」

「おかえりなさい。」

二人は笑顔で迎えた。

「ただいま。…で、いいのかな。」

「いいんじゃねぇ?」

遠田が当然だと言わんばかりに肩をすぼめた。

住んでいた2階のアパートへ戻った。

二間とキッチンのあの家だ。

玄関のすぐ横の部屋に、荷物を置いた。

奥の間にピアノがある。双子の写真が出迎えた。

何でピアノがここにあるのか今まで疑問だったけど、ようやく謎が解けた。

僕は、ピアノが弾けたのだ。

「毎日、少しでもいいから練習しないと指が思うように動かなくなりますよ。」

初音のアドバイスだった。

やるべき事が多いな。

クスっと笑った。


大学の楽器室で初音はピアノを弾いていた。

ノックをして、環が入ってきた。

「環さん、珍しいですね。ここに来るなんて。」

「実は、君にお願いがあって来たんだ。」

環の瞳は、どこか宙を彷徨っている。

「何ですか?」

「あ、あのさ、君を描いてみたいんだけど、あの、そ、その、モデルを…お願いできないかと…。」

照れているのか、顔が少し赤い。

「いいですよ。」

初音はにっこり笑った。



「最近、気が付いたんだけど、僕のピアノの腕って、けっこういい線、いってると思わないか?」

環は、初音とスケッチブックを交互に見ながらデッサンを描いている。

「環さん、私がピアノ専攻なの、忘れてませんか?」

けんか売ってるでしょう?なんて、顔をしてみる。今でも彼の方が上手なのだ。

環は慌てて言った。

「ち、違うよ、そうじゃないって。」

少し、視線を逸らして言った。

「同じピアノ科なら、四六時中一緒にいられるじゃないか。」

言った本人も、言われた方も顔を赤くしている。

「だったら、いいのになって、思ったんだよ。」

照れくさくて、少し乱暴に言ってデッサンに戻る。

彼等とは、違う環だ。

それでも、時々彼等が側にいるのを感じる。


両手が彼等を覚えている。


「でも、私はあなたが描く絵が、とても好きですよ。」

「解かってるって。」

環は微笑んだ。

いつか、あの絵を越えてみせる。

「また、今日もうちに寄ってく?」

「そうですね。また、聞かせてくれますか、あなたの音楽を。」

「いいよ。君を虜にするくらい甘い、愛の音楽を奏でてあげるよ。」

そう言って、顔をくちゃっとさせ照れて笑った。


彼等はまだ始まったばかりだ。

振出しに戻ったって、何度でもやり直せばいい。

また、新しい思い出を作ればいい。

明けない朝は無い。

昼間に星がないからといって、星は消えた訳じゃない。

ただ、見えないだけ。


二人は、大学の門を後にした。



おわり。

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