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サイレンを鳴らした紺色のワゴン車が、赤色灯を光らせて大学病院の角を回り近づいてきた。その車は二人の前で停止すると、スライドドアが開いて中から、「すみません。ありがとうございます」と制服制帽に身を固めた西原が降りてきて、二人を車内に招き入れた。
車内には鑑識の制服を着た男たちが三列目に三人乗っていた。手にはボックス状の黒いカバンを膝の上に乗せて引き締まった顔つきをしている。
「狭いですが」 二列目のシートに、西原とスヨンの三人で腰かけた。
康浩たちが乗り込むと、車はすぐにサイレンを鳴らして走り始めた。大通りに向かう数人の通行人が振り返った。
「これを」 車内で西原が、ビニール製の手袋と足袋を渡した。
スヨンが手袋をして、足袋を手に持ったので康浩も真似をした。事件現場を見るのが初体験の康浩に緊張感が嫌でもさらに高まってきた。冷静に、冷静に。自分をそう言い聞かせた。
片道一車線の道路を少し走ると住宅街に入ると、やや減速した。間もなく左折して広くない坂道を上ると、茶色の外壁の四階建てのマンションの前で車は停まった。
スモークガラスの車窓からは、すでにパトカーが二台、赤色灯を回したまま停まっているのが見えた。その周囲には十人ほどの野次馬が警察を取り巻いていた。
まさに映画やテレビドラマで観たことのあるような場面だった。その中に自分がいるのは、康浩にとってちょっとばかり不思議な感覚だった。
ワゴン車から降りた西原たちに続いて康浩たちも車を降りると、ばたばたとマンションの階段を三階まで上がった。階段から廊下に出て、右手の一番奥に三百六号室があった。その前には黄色の「立ち入り禁止」テープが廊下を横切って貼られている。
西原は、そのテープを持ち上げてくぐるとビニール製の足袋を靴の上に被せてから室内に入った。康浩とスヨンも彼らの後に従った。
新しいマンションの室内は、男が一人で住んでいる割にはきれいだった。玄関から奥に進むと、リビングのフローリングの上で中年の男が仰向けに倒れていた。
「大島一郎です。さっき、部屋の掃除に来た家政婦が死体を発見して通報がありました」 死体の横にいた近藤刑事が、いつものコートを着たまま険しい表情で言った。
「残念です」 近藤が死体のそばに腰を落として、そして僅かに肩を落とした。
「はい」
「これは私の推測ですが、大島一郎が会社の金を横領し、それを経理担当だった佐山に発見されて殺害に及んだのでしょうか」 近藤が言った。
「なるほど。その推測は、筋が通っていますね」
「はい。そして昨日、我われは大島一郎を尋問した。彼は殺人がバレたのだと思い、このままでは逃げ切れないと観念して自殺に及んだのだと思われます」
「なるほど」
「実に、あっけない幕切れですなぁ」 近藤が、口の中でぶつぶつと言った。
近藤の話を聞きながら、康浩は大島の手首の脈をとった。しかしその腕は冷たく、彼が死んでいるのは明らかだった。念のため大島の両目を開けて瞳孔反射を確認していると、スヨンが大島の手足を動かし「死後硬直から推測して、死後八から十二時間くらいでしょうか」と言った。
室内では鑑識員たちが写真を撮ったり、白い粉を叩いて指紋を取り始めていた。
「死体の顔色がピンク色なので、青酸カリによる中毒死が考えられます」 死体の顔を見ていたスヨンが、落ち着いた声で言った。
「青酸カリ?」 近藤がスヨンに問いかけた。
「それに口腔からわずかにアーモンド臭がします」 スヨンが目を光らせた。
青酸カリは生体に入ると急速に分解されてガスを発生する。その臭いがアーモンドのようだと教科書で読んだことがあったが、康浩にとっては初めての経験だった。
康浩は、その臭いを確かめようと死体の口に鼻を近づけようとするのを、スヨンの手がさえぎった。
「このガスは有毒です。肺の奥までは吸い込まないでください」 康浩の目の前数センチにあったスヨンの整った唇が、そう言った。
「青酸カリですか。じゃあ、後でコップの薬物分析をします」 死体の周囲を見ていた西原が、落ち着いた声でリビングテーブルの上にある陶器のコーヒーカップを指さして言った。高級そうなカップの底には、わずかに黒色の液体が残っていて不気味な色合いを見せていた。




