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翌朝、康浩は一時限目の医学部の講義だった。九時から九十分間、人体の死後における細胞やタンパク質の変性について話した。
医学生の反応は薄い授業で、勢い康浩も試験に出る箇所を強調して終わった。学生たちは人の生命を救う方面の医学に興味が偏る。でもそれはある意味で当然だと思い、康浩は医師国家試験に必要な知識を覚えさせればいいと達観していた。
限られた時間の中で、康浩は図や写真を呈示して精一杯わかりやすく講義した。最後に「何か質問は?」と学生たちに訊いてみた。すると階段教室の真ん中に座っていた女学生が手を挙げた。
康浩は医学部のほか、看護学部と検査技師専門学校にも講義を持っているが、学生からの質問はないのが普通だったから意外な感じがした。
「うん、何?」
「法医学で一番大切なことは何ですか?」 小柄な女学生は、色白の頬を少し染めて質問した。
「そうだな……。死者の最後のメッセージを、意識を集中して訊いてみる。そうすれば、自ずと真実が明らかになってくる」 そう答えてから、これではスヨンの言葉の受け売りではないかと康浩は思った。
「よくわかりました。ありがとうございました」 女学生が礼をすると、終礼のチャイムが鳴った。若い学生たちの間をすり抜けて、職場に戻る。
法医学教室に戻ると、スヨンが「先生の研究を英文にしました。梅田教授のOKを貰えたら、アメリカン・メディカル・ジャーナルに送りましょう」と、康浩に論文を手渡した。
康浩の研究は教授も評価してくれているので、内容に対してはすぐにでもOKをくれるであろう。そして英文については、母国語が英語であるスヨンのことだから文章にミスはないだろう。あとは、彼女が書いてくれた文章が、ニュアンスを含めて正確に記されているかどうかだけだ。
たまに観るアメリカ映画で、登場人物が喋っている言葉と字幕の文字に違和感を覚えることがある。訳者の解釈による意訳なのだが、時としてニュアンスが異なる。ニュアンスが違うと、作品に対する自分の理解と印象がかなり変わってくる場合がある。
「ありがとう。さっそく見てみるよ」 康浩は、微笑んで言った。スヨンなら、康浩の意図を正確に英訳していると思うが、実際に読んでみるまでわからない。読むのが楽しみだった。
スヨンは、今回の司法解剖でも法医学の奥深さや面白さを自分に感じさせてくれた。今は仕事がとても楽しく感じられる。
「画期的な研究です。必ず良い結果が出ると思います」 スヨンの目が輝いていた。
デスクに戻る康浩の携帯に、西原妙子から電話が入った。
西原から報告書の催促だと思った康浩は、「佐山健一の解剖報告書なら昨日の夕方、近藤さんに渡したよ」と電話に向かって答えた。
「先生。大島一郎が自宅マンションで自殺しました」 電話の向こうの西原が、早口にまくしたてた。
「何だって!」 康浩は本当にびっくりして、声を上ずらせた。
「今、現場に向かっているところです。また解剖をお願いするかもしれません」
西原妙子の緊迫した声の背後でサイレン音が聞こえる。どうやら彼女は、警察の車両に乗っているらしい。
「ああ、わかった。状況は?」
「内側からカギがかかったマンションの自室で、服毒自殺をしたらしいです」
いつの間にかスヨンが静かに、康浩の後ろで立っていた。今聞いた西原の言葉を、そのままスヨンに伝え、携帯をスピーカーモードにした。
「現場はどこですか?」 スヨンが西原に迫った。
「東区北本願寺三丁目○番地、ヒルズマンション三百六号室です」
ここから遠くはない場所だ。康浩が机上のメモに住所を書き留めていると、「今から私たちも行きます」とスヨンが強い口調で言った。
「ええ?」 康浩が驚いていると、西原が「それは助かります。先生方さえよければ、是非お越しください」と答えた。
「いいの?」
「はい。現場で検分して死亡診断書を書いて下さると、超助かります」 こんな場面になっても、西原は実にちゃっかりしている。しかし憎めないと、康浩は苦笑した。
医師が書かねばならない死亡診断書は、事件の場合は警察医がやっている。だが警察医は、地区で割り振られた開業医が多い。彼らには日常診療があるので突然の依頼に対応するのは難しいのだが、医師数が少ない現状では改善策が見当たらない。
しかし、スヨンはアメリカと韓国で専門的に働き、現場での検死も数多く経験したと聞いている。
「じゃあ、俺たちも今から現場に行くよ」 康浩はスヨンの勢いに押されるように言った。
「でしたら、そちらに寄ります。お迎えに行きます。十分ほどで着けます」 西原の背後ではサイレン音が鳴っている。警察車両に乗っている彼女は、そのままここまで乗り込んできそうな勢いだ。
「頼む」と、康浩は答えた。
「どちらでピックアップしましょうか?」
「……医学部の裏門では?」
「了解です」 西原の張りのある声が響いてから、電話が切れた。
康浩は電話を仕舞うと白衣を脱いで、コートを羽織ってから二人で裏門に向かった。昼近くの太陽が照っていたが、外を吹く風が冷たかった。
「雪が降りそうだ」と康浩が北の空に黒い雲を見つけてつぶやくと、横に立つスヨンが「いやですね。寒いのは嫌いです」と肩をすくめた。
彼女の黒髪は現場検証に備えて、すでに白いヘアゴムで後ろに留められている。スヨンの姿から気迫と緊張感が伝わってくるようで、康浩の身も引き締まった。




