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「……いったい、誰が佐山を殺したというんだ?」と康浩が問うと、「それは、わかりません」とスンは残念そうにかぶりを振った。彼女の表情は無念さでいっぱいだった。
「しかし犯人は、薬学者か医者だと思います」
スヨンは薬学者という耳慣れない日本語を使った。以前に彼女が獣医のことを、動物医者と言い間違えたことがある。すると、スヨンが言いたい犯人は薬剤師か薬学研究者、或いは医師、歯科医師、獣医など専門知識を持つ人物であろう。
「このような毒殺事件では、警察が殺人と思わないので初動捜査が大幅に遅れます。たぶん証拠は何も残っていないでしょう」 スヨンが言った。
「確かに今のところ、殺人を思わせれような証拠物件は何もありません……」 スヨンの横にいた西原が、肩を落とした。
「……つまり、毒殺を見破ったところで証拠はない。もし犯人がわかっても、逮捕も起訴もできないということか……」 康浩は腕組みをして考えてみたが、妙案はなかった。西原が携帯を出して、上司に電話をした。
やがて、夜も更けた法医学教室に近藤刑事が現れた。眉間のしわが、いつもより少し深まっている気がした。
「佐山が殺された疑いがあるとは、実に興味深い見解ですなあ」 彼は落ち着きはらった声で言った。ベテラン刑事の彼が、慌ててパニックになることは未来永劫ないであろうと康浩は思った。スヨンが静かにコーヒーを近藤刑事に出した。
「実は第三製薬から引き出された一億円の行方が、まだわかっていないのです。佐山の口座周辺を徹底的に洗いましたが入金が確認できていません」 近藤はコートを着たままコーヒーをすすると、捜査状況を語り始めた。
「難事件ですね」 康浩が答えた。
「そうなんです。まったく尻尾がつかめません。その上に少し妙なのです」
「妙?」
「はい。佐山は大金を手にしたわりには、それを使った形跡がないのです」
「そうなんですか」
「佐山には女がいたという噂も耳にしました。聴きこみを続けたところ、繁華街にある高級クラブの池上良子というホステスと親しかったようで、彼女の銀行口座も調べました、しかし、今のところまったく収穫がありません」 近藤が首に手をやった。
「……私、考えたんですけど、佐山が死ぬ直前まで一緒だった大島一郎さんって怪しくないですか?」
それまで黙っていた西原が口をはさんだ。
「そうだ。彼なら薬を飲ませられる。それに彼は薬理学者だった」 康浩は、彼女の意見を支持した。
「確かに、そうですね。しかし……」 近藤がここで考えるように一呼吸した。
「しかし、何です?」 たまらず康浩が訊いた。
「犯人が大島一郎だとたら、その動機はいったい何なのでしょう? 横領事件では会社から金を引き出されました。創業者一族の彼は、どちらかと言えば被害者ですが……」 近藤が首をひねった。その場にいる三人は、何も言えずに考え込んだ。沈黙の時が無闇に流れた。
「いや、それにしても貴重な御意見を、ありがとうございました。お陰様で、大変参考になりました」 近藤はコーヒーをうまそうに飲み干すと、改めて康浩とスヨンに頭を下げた。
「いえ、正式な報告書は明日までには書き上げます」 康浩が答えた。
「よろしくお願いします。それでは」 立ち上がった近藤は一礼すると、部屋を出て行った。
「とても難しい事件ですね」 近藤刑事を見送ったスヨンは、ぽつんと言った。康浩もそう思った。
「さあ、もう遅いから我々も引き上げよう」 康浩が気を取り直すように、スヨンと西原に言った。
「そうですね。明日はまた頑張らないと」 西原が腰を上げると、スヨンも立ち上がった。




