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バーの見学を終えて、西原に礼を言って店を出た康浩とスヨンは、酔客やカップル、客待ちのタクシーの列のある賑やかな夜の街を通り抜けて、再び地下鉄に乗った。やってきた列車は、時刻も遅いせいか来る時よりもすいていた。入り口付近の座席に、二人とも座席に座ることができた。
「先生、ありがとうございました」 康浩の横に、きちんと膝をそろえて座ったスヨンがお辞儀をした。
「いや、何か参考になった?」
「はい。とても」
「それは、よかった」
「あの、もしよければ、和膳のメニューを読んでください」 スヨンがバッグから、和紙に書かれた日本料理店のメニューを出した。それは流れるような漢字で書かれていて、確かにスヨンが読むには難しそうだ。
「ああ。いいよ」 康浩は前菜、お造り、野菜料理、汁物、肉料理を順に音読していった。読んで聞かせれば、彼女はほとんどを理解した。
読み終わったメニューを返すと、スヨンは漢字は難しいです。でも美しいと言って大切そうにバッグに仕舞った。
大学病院駅で地下鉄を降りた二人は、医学部へ通じる道を黙って歩いた。時刻は夜の九時を過ぎていて、医学部構内は薄暗く静かだった。月は相変わらず辺りを照らしている。
スヨンと一緒に仕事をして半年あまりになるが、二人きりのときに沈黙があっても気づまりにも苦にもならない。夜空に浮かぶ月と星のように、二人はあるがままの自然体で過ごせるようになってきた気がする。
コツコツとスヨンの歩くヒール音がビルに反響した。今頃きっと、スヨンの頭脳はフル回転しているに違いない。
法医学教室に戻った康浩は、まずポットのお湯でインスタント・コーヒーを淹れてから、自分のパソコンに向かった。書きかけの佐山氏の司法解剖報告書を、急いで仕上げようと思った。
一方のスヨンは、冷蔵庫から牛乳を出してマグカップに注いでから、康浩の横にあるデスクで自分のパソコンに向かった。彼女は何事か思いついたようにキーボードに打ち込み始めた。
康浩が三十分あまりパソコンのキーボードを打ち続けたら、警察に提出する解剖報告書の空欄は一番下にある死因の項目だけになった。この欄を埋めれば完成だ。
「結局のところ、佐山氏の死因は転落による外傷性クモ膜下出血でいいよね」 康浩が残ったコーヒーを飲みながら、スヨンに確認するように言った。
「いいえ。佐山氏は死んでから落ちたと、私は思います」とスヨンは、きっぱりとした声で返事をした。
「何だって!」 康浩は驚いて、持っていたマグカップを落としそうになり、スヨンの目を見た。彼女の瞳の黒色は深くなっていて、吸い込まれそうな気がした。
「佐山氏の頭蓋骨が受けた外力を、シミュレーターで計算してみたんです」と、彼女はパソコンの画面に目を移した。
康浩はマグカップを持ったまま、スヨンの後ろに移動して彼女のパソコンを覗いた。そこには青っぽいのっぺらぼうの人形が、階段を落ちる図が描かれていた。3D画像で人形は頭部を三回、階段の角で打ちながら一階に達していた。
シミュレーション結果は、現場写真にあった三個の血痕や階下にうつ伏せで横たわる佐山氏の体位が一致していた。パソコン画面の右端を見ると、各時点での佐山氏の身体に加わる外力の推定値が縦に並んでいる。
「佐山氏の身長・体重からシミュレーターで計算してみました。その結果、二階から落ちた外力と頭蓋骨骨折の大きさはマッチしましたが、クモ膜下出血の大きさは不自然に少ない量でした」
スヨンがパソコンを別の画面に移すと、さきほど判明した外力が頭蓋骨に加わった際の損傷予測量が示された。
「……この外力と出血量の不一致は、どういうことだろう?」 康浩はデータをながめながら、数値の持つ意味が理解できずスヨンに尋ねた。
「ここから考えられる答えは一つです。すなわち佐山氏が転落するとき、血圧が異常に低下した状態であったと考えられます」
「そういうことか……」と答えたものの、スヨンの考えの全貌が康浩にはつかめない。
「そこで今度は、転落時の佐山氏の血圧を逆算してみました」 スヨンはパソコンをクリックして、別の画面を示して「すると、転落時の血圧は無限にゼロに近い数値になりました」と言った。
「……ゼ、ゼロ?」 血圧がゼロということは、死んでいることを意味している。康浩が絶句していると、スヨンは「はい」とうなずいて、自分の牛乳を静かに口へ運んだ。




