第九話 片思い
一人の男子生徒の前に、咲は立っていた。背が高く、端整な顔立ちをしている。学年は同じらしいが、咲の記憶に彼のことは無い。
誰だったっけ? 必死でそう思い出している最中に、男子は話し掛けてきた。
「ずっと前から好きでした。俺と、付き合ってください!」
かなり緊張しているのが誰の目にも明らかなほど、男子の声は震え上がっていた。
「えっと……ごめんなさい」
一言だけ答えて、頭を下げながらその場を去った。
後ろを振り返った時、彼は随分とへこんだ様子で、その場で足もとを眺めていた。
「咲、四組の沢村君のこと振ったって本当?」
咲が座る、窓際の席。そこに三人の女子が集まり、その内の一人が顔を近づけながら、絶叫するほどの勢いで尋ねてきた。
「いやまあ……ていうかあの人、沢村君て言うんだ……」
「あんた知らなかったの!? バスケ部エースの沢村君。彼に片思いしてる女子がどれだけいると思ってんの!?」
「へぇ……」
そんな会話を、咲は苦笑しながら受け答えしていた。
凪はそんな姉を傍目に、咲とは対照的に廊下寄りの席で、別の女子と会話している。
今はまだ夏休み中だが、双子の通う高校にも登校日というものはある。ほとんどの生徒が貴重な夏休みの一日を潰されたことに不満を感じる中で、簡単な授業やホームルームが行われていく。
そんな高校で、咲と凪の二人はと言えば、少なくとも、同学年の中では人気者となっている。
まず双子という存在が珍しいうえ、二人とも性格は真逆ながら、対人関係に対して友好的であることは共通している。そしてお互いの仲も良かったことから、そんな二人に自然と周囲の人間は惹かれていった。
おまけに二人とも美人であることから、友達同士の女子だけでなく、男子にも人気があり、今日のように告白を受けたことは二人とも何度か経験している。
だが、人気者であるからこそ、少しの変化でも周囲の人間には伝わってしまうもの。
「凪、あのさ、今日の咲、ちょっとおかしくない?」
「……」
そう言われ、凪は咲の方を見た。
普通に会話の受け答えをしている物の、いつもの咲ならもっと口数が多そうな物だ。
しかも普段から明るい性格であるにも関わらず、今日は朝からぼんやりとしていて、ずっと窓の外を眺めながら溜め息を漏らすか、ぶつぶつ何かを呟いている。
「うーん、確かに……」
「あんた、原因知らないの?」
「さ、さあ……」
今日だけでなく、家でも、そして『ARINOSU』で働いている時も、咲はずっとあんな調子だった。
家では普段絶対に残さない食事を大量に残したり、『ARINOSU』ではレジにお客が来ても気付かなかったりという有様が続いている。
その原因を、凪はよく知っている。だが、閃夜以外の人間には、親にさえ話していない。
「昨日もずっと宿題に手を焼いてたし、きっとその疲れじゃないかな」
「ああ、なるほど」
友達は納得した様子で頷いてくれた。
もう一度、咲を見てみる。集まっていた女子達は既に散っていて、咲自身はまた窓の外を眺めていた。
(それにしても、姉さんがねぇ……)
「凪?」
話し掛けられ、すぐに友達を見た。
会話を再会させながら、気にするのは、やはり視界の隅に映る姉の姿だった。
……
…………
………………
午前中で終了した、放課後お昼、咲は変わらず窓の外を眺めている。
クラスメイトは全員帰っており、未だ教室に残っているのは咲と、あとは凪の二人だけ。凪は咲をずっと見ていたが、ホームルームが終わってから、一時間近くこんな状態でいた。
「姉さん」
凪が話し掛けても、咲は返事をしない。
「姉さん」
体を揺することで、初めて咲は凪の存在に気付いたらしい。
「あ、凪……」
「凪じゃなくて、もうみんな帰っちゃったよ」
言われて教室を見渡す。確かに、自分達以外は残っていない。
「本当だ」
「本当だって、今気付いたの?」
咲は何も言わず、ただ微笑んだ。凪はそんな姉の姿に、呆れるやら心配やらの複雑な感情を懐いた。
「もう帰ろう。ずっとそうしてても何かが変わる訳じゃないだろうし」
「うん……」
咲は一言だけ返事をしたが、また窓の外を眺めながら、
「悪いけど、先に帰ってて。もう少ししてから帰るから」
「バイトは?」
「うん。ちゃんと行く」」
それだけ聞けば、凪にはもはや言えることは何も無い。こんな状態の姉を残して帰るのは心配だが、それでも今は放っておいた方が得策だということも分かっていた。
「クイーン・アントネスト……」
また意中の男の名を呟く。
今でも忘れられない。自分達を、不良達から守ってくれた時のこと。
颯爽と現れたその姿は、背が高くて脚が長くてスマートで、何よりとても強かった。
触角のように固めた髪が顔を隠し、それが一層彼の雄姿を引き立てているように感じた。
そして彼は自分達を抱きかかえ、羽を広げて空まで飛んだ。虫のような羽だったけど、そんな羽を広げた時の姿は、自分にはまるで、翼の生えた天使のようにさえ見えた。
もしかしたら、本当に人間じゃないのかもしれない。なのに、たまらなく彼に惹かれた。
もう一度会いたい。会ってどうするのかは分からないけど、それでも会いたい。そしてもっと、彼のことが知りたい。
「はあ……」
溜め息を一つ吐いたところで、カバンを持って立ち上がった。早くバイトに行かなければ。その現実だけが、切なさの募る体を突き動かした。
……
…………
………………
凪よりかなり遅れて来た上に、今日も咲はミスを連発していた。
掃除をしていて積んであった商品を崩したり、レジでの計算に手間取ったり、普段やらないような凡ミスばかり繰り返している。
態度だけはいつもと同じ調子で明るく振舞っているが、それがなお更無理をしていることを物語っている。凪も、そして閃夜にも、それがよく分かった。
「咲ちゃん」
閉店の二時間前くらいに、心配した表情の閃夜が咲に話し掛けた。
「前からそうみたいだけど、調子が悪いようなら今日はもう帰っていいから」
「いや、大丈夫です。私はこの通りピンピンしてますから」
両手でガッツポーズを作り、必死に声を上げて言ってはみるが、それでも閃夜の表情は変わらない。
「でも、いつもはしないようなミスをしてばっかりだし、正直見てられないんだ。今日のところは、一度帰ってゆっくりした方がいいよ」
「……」
これ以上足を引っ張る前に帰ってくれ。暗にそう言われたと感じた。だがそれ以上に、本気で心配してくれている閃夜の表情に、途端に罪悪感に苛まれた。
「……分かりました」
言いながらエプロンを外すと、閃夜に給料を渡された。
「本当に、すいません」
「うん。気にしなくていいから。何なら凪ちゃんも、もう帰ってもいいけど」
凪の方を見ながらそう言ったが、凪は首を横に振る。
「いえ、私は最後まで働かせてください」
凪の答えに、咲はなお更申し訳ない気持ちに駆られた。
そんな気持ちのまま、店を出て行った。
「ずっとあんな調子なの?」
咲が出て行った後で、尋ねたのは閃夜である。
「はい。学校でもずっとあんなふうに、一日中ボーっとしてて、もうどうしてあげたらいいか分からないんです」
凪は咲のことを思い、嘆いてしまう。どうすればいいのか、何をしたらいいのか、分からない。
そもそも、姉は恋愛には縁が無い人だと、ずっと心のどこかで思い込んでいた。
誰かに好かれることはあっても、特定の誰かを好きになることは無い、と。
それが、まさか自分達のピンチに突然姿を現し、おまけに空まで飛ぶような人間を好きになるなど、予想どころか想像すらできるわけが無い。
当然咲も、それが叶わぬ恋であることは分かっているだろう。
相手は明らかに人間じゃない。いや、もしかしたら人間なのかもしれないが、いくらなんでも化け物じみている。普通ならそれで好きにならないか、なったとしても、すぐ諦めそうなものを、普段が明るく純粋な性格だけに、恋愛に関しても、純粋になれるらしい。
姉のために、できることは何も無いのだろうか。恋する気持ちを知る者として、何より妹として、何とかできないものか。
答えの無いそんな問答に、延々悩まされ続けた。
一方、当の本人はというと、
(参ったなぁ。まさかこんなことになるとは……)
以前の軽はずみな行動を、ただ悔いていた。
助けた後そのまま帰っても良かったのだが、助けたとはいえ実際あんなことの後に二人を放っておくのは心配だった。
だが自分の姿を、まして、母親姿の自分が双子と一緒にいる所を誰かに見られるわけにはいかない。だから家まで、空を飛んで送った。
その判断が間違いだった。
全てが予想外だった。仕事柄、普通の恋愛すら許されない。まして、母親姿での恋愛などできるわけがない。そして、そんな母親姿の自分に恋をする人間が現れるなど、どうして予想できただろう。
しかし、今となってはそれは言い訳でしかない。今はただ、悔いることしかできない。そして、悔いると同時に思った。
(咲ちゃんのためにも、何とか嫌われるべきだろうねぇ、お母さん……)
……
…………
………………
咲は、真っ直ぐ家に帰る気にはなれなかった。
気が付くと、クイーン・アントネストに初めて出会った倉庫に来ていた。そして、倉庫の中を、ただ歩いていた。
(凪もずっと、こんな思いしてたんだな……)
自分は今まで、ずっと凪の恋を応援してきた。閃夜への恋が成就すれば良いなと、そうなれば自分も嬉しいと、一応、真剣に思っていた。
だが反面、不器用な凪の姿があまりにも可愛らしく、そして、面白かった。そんな姿をずっと楽しんでもいた。それが、どれだけ愚かで残酷な行為かも気付くことができずに。
恋する気持ちを知った今なら分かる。好きだという気持ちからくる苦しみ、その辛さ、そんな気持ちから口に出た、滅多に言うことの無い我がまま。
そんな凪のことを、自分はどうして笑うことができたんだろう。絶対に笑っていい気持ちなんかじゃない。思いを寄せるというだけでこんなに苦しいのに、それを笑われることはどれだけ辛いことだったろう。
もう絶対に、凪の気持ちを笑わない。そう、心に誓った。
ある程度倉庫の中を周った後、奥に積まれた木箱の後ろに回った。そこにもたれ掛けながら座って、目を閉じた。
……
…………
………………
目を覚ますと、辺りは暗くなっている。携帯を取り出して時間を見てみると、既に八時を回っていた。
慌てて帰ろうと立ち上がろうとした時、
「……」
木箱の向こうから、人の声が聞こえてきた。どうやら数人の男達が何かを話している。咲は無意識にそれに聞き耳を立てた。
「……約束の金は持ってきたか?」
「ああ。きっちり十億。そちらこそ、約束の物は?」
「もちろん。二百キロある」
「よし。確かに」
会話を聞きながら、咲は冷静に携帯の電源を切る。
(これは中々、不味い所に出くわしちゃったみたいね……)
そう思いつつ、内心わくわくしている。一生の内で、まさかこんな場面に出くわす日が来るなんて、滅多に無い機会だろう。もし見つかれば命は無い。
そのスリルがまた貴重な体験で、たまらない。
基本楽天的に物事を捉える咲だからこそ持つことのできる余裕だった。
「ではこれで契約成立だな」
「ああ。誰かが来る前に早めに退散するとしよう」
(なーんだ、もう終わりか)
息を殺しながら少しだけ落胆したその時、数人分の足音が聞こえた。しかもその音は次第に大きくなってきている。
(……あるぇー? もしかして、『約束のぶつ』って……?)
自分がもたれ掛かっている木箱。それを見上げて、今になってようやく命の危機を自覚した。
足音はこちらに近づいてきている。さすがにわくわくしている場合ではない。隠れなければ。
しかし左右を見ても、隠れられそうな場所など無い。携帯で助けを呼ぼうか。いや、そんな時間は無いだろう。
こうなるともう、走るしかない。これでも足には自信がある。校内マラソン大会で三位になった経験もある。勝算は十分だ。男達が木箱を運び、自分の姿が顕になった瞬間、顔を見られる前に一気に走る。それしか助かる道は無い。
瞬時にそう判断し、いつでも走れるよう体制を直した。足音はどんどん近づいてくる。準備はできた。
(いつでも来やがれってんだ!!)
「よー」
(っ!!)
一瞬、耳を疑った。聞き間違えるはずが無い、そして今日までずっと忘れたことの無い人の声だったから。
「誰だ!」
さっきまでの声が叫んだ。
「あんたらは俺を知らないだろうが、俺はあんたらのことは大体聞いて知ってる。『龍瞳会』若頭の『北大路 純』、そして『桂組』幹部『関崎 浩介』。お前らのボスがな、色々な事情でお前らのこよを快く思ってないみたいでな。そこで舎弟も含めお前ら二人を消して欲しいそうだ」
「なっ!!」
「じゃあまさか、この取引は……!」
(はっはぁ、そういうこと……)
二人とも、かなり狼狽している。今の会話から、大方の筋書きは察した。
この取引は、今言った二人を殺すため、お互いのボスが仕組んだ罠だったのだろう。そして二人が出会い、取引を終えて安心した所を一気に叩く、というわけだ。
だが、そんなことはどうでも良かった。木箱を挟んだ先に、彼がいる。そんな彼の言葉を聞いて、分かった。
(『殺し屋』なんだ。彼……)
彼を好きになっても、その思いが報われることは無い。それは分かっていた。そして、生きる世界が違うということも。
だが同時に、心のどこかで希望を持っていた。
もしかしたら、叶うかもしれない。一度しか会ったことの無い自分のことを、彼も好きになってくれるかも。そんな、根拠の無い淡い期待を懐いていた。
だが今、それは無いとはっきりと理解した。人殺しを仕事にしている人が、自分など愛してくれるわけが無い。そんな現実に、胸が苦しくなった。
けど、もう一つ分かったことがある。
(彼は、人間だ……)
背中から羽を生やし、そして空を飛ぶ。そんな姿を見て、彼が人間なのか疑問だった。だが、『人殺し』という、人間だからこそそう呼ばれる行為を仕事にしている。そう呼ばれる以上、彼は人間だ。
それが分かり、不思議と充足感に心が満たされていた。
「さて、もう残ってる人間はいないな」
「……!」
考えているうちに、そんな声が聞こえてきた。
「もう誰も、ここにはいないな」
「……」
どうやら仕事を終えたらしい。けれど、生き残りがいないか、わざわざ声に出して確認しているのだろうか?
「誰も、たった今起こったことを知ってる人間は、ここにはいないよな」
「……!!」
その声で、気付かされた。
彼は気付いている。そして、警告している。ここで起きたこと、見て、聞いたことは全て忘れろ。そして、それを誰かに話した時、お前も、すなわち私もまた、箱の向こうで死んだ人達と同じことになる。そう、彼は私に言っている。
「誰もいないな」
こちらが理解したと感じたのだろう。
そう言う声が聞こえた。同時に聞こえた足音から、どうやらその場で体の向きを変えたらしい。直後、服の擦れる音。あの時聞いた、羽を広げる音だ。
「待って!!」
反射的に身を乗り出し、叫んでいた。
「……!」
箱の前へ動いた時、必然的に、ついさっき聞いた声の主、その人達の眠る姿を見ることになった。誰も、全く動かない。目は恐怖と怒りに見開かれ、表情も引きつっている。
「何だ?」
そんな死体に気を取られていた時、話し掛けられた。
「……」
彼が振り向いた後、それ以上の言葉が出てこなくなった。
「わざわざ殺されに出てきたのか?」
「……!」
その言葉に、思わず体が固まる。
「仕事を見た人間を、殺し屋はどうするか、想像できないことも無いだろう」
「……」
殺し屋なんてものに出会ったのも初めてだし、そもそも人殺しの現場もこれが初めての体験だ。それでも、そんな場所に居合わせた人間がどうなるか、確かに想像はできる。
この人が本当のプロなら、目撃者を黙って見過ごすわけがない。さっき言ってくれた警告も無視して、わざわざ目の前に現れた人間を、放っておくわけがない。
「その……」
だとしても、今心に強く感じるものは、死への恐怖以上に……
「私……あなたになら、殺されても、構いません……」
「……?」
「でも……殺されてもいいから……あなたのこと、もっとよく知りたいです!」
いまこの瞬間、恋心という欲求が、死への恐怖を凌駕した。
「……」
クイーン・アントネストは、何も言わずジッと見ている。しばらくそうした後、目の前まで歩いてきた。
「後悔しないか?」
「……(コク)」
咲が頷くのを確認した直後、クイーン・アントネストは、咲を抱えた。
空を飛びながら、咲の胸は、あの時と同じ思いに包まれる。
このままずっと、彼と飛んでいたい。永遠に身を委ねていたい、そんな気持ちに。
やがて、辿り着いた場所は、この街で一番高い場所にある鉄塔。
その鉄骨の上に降ろされ、彼も並んで立ち、互いに向かい合った。
「……」
鉄塔の一部の、鉄骨の上。そこは足場も限られ、下が剥き出しになっている。少し足を踏み外しただけで、三十メートルはあろうかというまっ黒な地面まで真っ逆さまに落ちる。
そんな場所に立ちながら、咲は、先程とは種類の違う、純粋な恐怖に体を支配された。
なのに、彼は平然としており、咲を真っ直ぐ見ている。
「ここからお前を突き落とすこともできる」
その言葉に、咲はまた新たな恐怖を覚える。
「こんな場所だ。誰かが突き落としたとは誰も思わない。死因は転落死、死亡者は高校生女子。落とした後で靴でも拾って上に置いておけば、誰が見ても自分で鉄塔を登っての自殺だと考える」
そこまで話して言葉を切り、
「こんな俺の、一体何を知りたい?」
「……」
答えることができなかった。自分でも分からなかった。
彼は、今言ったことを躊躇いなく行える殺し屋であり、そして、自分達と同じ人間である。それが分かって、他に何が知りたいのだろう。彼が人殺しだと知って、恐怖を感じても、不思議と彼に惹かれた。だから自然と言葉が出てきた。
だがいざ改めて、彼に目の前で「何が知りたいのだ」と聞かれても、何と答えればいいのか分からない。ずっと会いたいと思っていたのに、言葉が見つからない。
「……」
答えることができず、沈黙が続いた時、
「まあいい。教えてやる」
その声に、彼を見た瞬間、足がむず痒くなるのを感じた。
何かと思ったが、確かめる間も無く一瞬でそのむず痒さが体中に広がった。次第に顔へ、そして、体中に広がった時、指一本動かすことができなくなってしまった。
「……!!」
混乱し、声も出せずにいる咲に、クイーン・アントネストは、徐々に近づいた。
「今お前の体を押さえている奴ら。そいつらは俺の中で無数に生まれ、俺の言うことを忠実に実行してくれる……」
「俺は、そいつらの住む『家』。そして、そいつらを産む『母親』……」
言葉を切りながら、咲の目の前で立ち止まった。
「名前は……」
突然、気が遠くなった。
「クイーン・アントネスト」
そして、体中の力が抜け、同時に、体を抑えつけていた力も消え、倒れることができた。
下へ向かって落ちていく。それを感じた直後、彼も、私と一緒に落ちてくる、そんな光景が見えた気がした……
……
…………
………………
(……?)
目を覚ました時、見覚えのある天井が見え、なじみ深い感触に肌が包まれているのを感じた。
どうやら、自分の部屋のベッドに横たわっているらしい。それを知り、体を起こした時、
「姉さん!!」
悲鳴のような声が聞こえたと思ったら、同時に凪の顔が目の前に現れた。
「大丈夫なの!? どこもけがは無い!? 痛い所とか無い!?」
「ちょ、ちょっと待って……」
凪を遠ざけつつ、落ち着かせようと声を掛けてみる。今の状況がまるで分からない。凪は、何をそこまで慌てているのか。
「何で、私が今、ここにいるの?」
「それはこっちが聞きたいわよ! バイトが終わって帰ってきても姉さんは家にいなくて、いつまで経っても帰ってこないし、携帯は電源切ってるしで心配してたら、急に部屋のベランダから音がして、確かめたら姉さんが倒れてたんだもん。しかも一時間近くずっと眠ってたのよ!」
「……」
黙って聞いていて、ようやく事のあらましを理解した。
(彼だ……)
鉄塔で急に気を失い、下に落ちた。あの時、自分は本当に死んでしまったと思った。
彼に言った言葉に嘘は無い。本当に、彼の手に掛かって死ねるなら本望だと、本気で思った。
死ぬ瞬間に見た、彼が自分と一緒に落ちていく光景も、夢かと思った。
けど、夢じゃなかった。彼は下へ落ちていく私を助けてくれたんだ。自分をしっかりと抱き止めて、空へ舞い上がる。そんな光景が心に浮かんだ。
「ねえ、一体何があったの?」
本気で心配してくれている凪の顔を見ながら、咲は迷った。今日の出来事を妹に話すべきかどうか。
しかし、彼のお仕事だけは、たとえ妹でも絶対に話すまい。
それだけは、心に誓った。
……
…………
………………
翌朝、閃夜は上機嫌で店を開店し、双子を待っていた。
(うん。我ながら完璧)
昨夜のことを思い出し、つい悦に入ってしまう。
仕事の現場で咲に出会ったのは偶然だったが、自分が人を殺す場面も見ていたようだし、その直後にあれだけ怖い思いをさせたのだ。確実に嫌われることができたことだろう。
人に嫌われることがこれほど喜ばしいというのも珍しい。
(後は、実際に咲ちゃんを見てみないことには何とも言えないけど……)
そう思いつつ待っていると、不意に双子の姿を感じた。
入り口を見ると、ドアが開き、
「おはようございまーす」
それは、かつての咲と同じ笑顔だった。
すぐに店のエプロンを身に付け、テキパキと掃除を始めた。その後のレジ仕事でも、計算ミスなどは一切無い。
(お母さん頑張ってよかった)
咲の姿に、閃夜は成功を確信しつつ、スタッフルームで凪に話し掛ける。
「咲ちゃん前みたいに戻ってるけど、悩みは解決したの?」
「……それが昨日、前に話した人に出会って、それで、詳しくは教えてくれなかったけど、何か彼の秘密を知ったらしいんです。それで、彼とは住む世界が明らかに違うって思ったらしいんです」
「それって失恋てこと? (うっひょー!)」
内心大喜びしながらも、わざと表情を曇らせながら尋ねる。
「いいえ」
「……いいえ?」
「秘密を知ってなお更彼のことが好きになったらしくて、これからもずっと彼を追いかけるんだって、胸張って豪語してました」
「へえ……」
『……』
(……!!)
(はぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああ!?)
何がどうしてそうなるんだ。
そんな閃夜の心の絶叫など知るよしも無く、咲は鼻歌混じりに、笑顔で掃除を行っていった。
「いつか、きっと……」
掃除の手を止めて、呟く。
この時の咲の表情は、今までに無いほどの希望に満ちみちていた。




