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第八話 追いかけっこ

(店長とこの店には、いくつもの謎がある)

 凪は会計処理を終わらせた後、ずっと閃夜のことを考えていた。

(そして謎の中でも特におかしいと思った物を、私は姉と共に『店長の不思議』と呼んでいる。もうみんな知ってると思うけど、忘れてしまっている人もいるかもしれないのでここに挙げておきます)


店長の不思議

 『その一、店の中にいるにも関わらず、お客が来る十秒前には来店を予知している』

 『その二、膨大な蟻の知識と共に、蟻と心を通わせている?』

 『その三、どれだけ食べても太らない ※最重要』

 『その四、私たちよりはるかに勉強ができる』

 『その五、十三ヶ国語が話せる』

 『その六、実は熊を倒すだけの実力を持っている』


(そしておそらく、今後もこの不思議は増え続けていくと、私達双子は確信している)


 誰に語っているわけでもないそんな言葉を思談した直後だった。


「終わった?」


 閃夜の声が聞こえてきた。部屋に入った閃夜は、凪が頷くのを確認しながら、急須にお茶っ葉を入れ、お湯を注いだ。

「凪ちゃんも飲む?」

「頂きます」

 真面目な凪も、いい加減に閃夜や咲の営業態度に慣れてしまったために、いつからか二人がどうしていようと何も言わなくなってしまっていた。何より、自分もスタッフルームでテレビを見てくつろぐことが増えたので、人のことは言えない。

「お饅頭もあるけど」

「いただきます」

 初めの頃に沸いていた反発心はどこへ消えたのやら。

 そう感じながら、目の前に饅頭とお茶を置かれた後で、自身のお茶を飲む閃夜を見る。

 お茶のせいか、その時の閃夜は、不思議なことに五歳くらい老けて見えた。


 ……

 …………

 ………………


 閉店時間、二人はいつものように給料を受け取り、外へ出た。

 いつもならこのまま真っ直ぐ家に帰るところだが、今日の二人は、何やら陰でこそこそと店の裏口を眺めていた。


「本当にやるの?」

 小声でそう尋ねたのは、咲である。普段陽気な咲が、珍しく不安げな顔を見せていた。

「うん、やる。姉さんだって、店長が本当はどんな人か気になるでしょう?」

 凪は真剣な眼差しでそう囁いた。しかし咲は、やはり消極的な態度を見せる。

「でも、店長にもプライバシーってものが……」

「別にいいよ。私一人でもやるんだから」

 真剣にそう言ってのけたその目には、かなりの熱が籠っていた。

「……分かった」

 結局は咲が折れる形でそう言った。

 言ったで、咲は携帯電話を取り出した。

「あ、母さん? ごめん、帰る途中に友達と会っちゃって、二人とも遅くなりそうなんだけど……」

 そうしてしばらく会話した後で電話を切り、凪にウインクを送る。

「じゃ、出て来るまで待とう」

 また咲が言い、二人は店の裏口に視線を戻した。

(それにしても、あの生真面目な凪がこんな事をねぇ)

 それは、咲も言う通り、基本的にいつも生真面目な性格の凪からは、まるで想像できなかった積極的な提案。そして、滅多に口にすることの無いわがままだった。


 ……

 …………

 ………………


 二時間後、裏口から閃夜が出てきた。その瞬間、半ば退屈に力が抜けていた二人の身に再び力が宿る。

 閃夜がドアを閉め、三歩くらい歩いた、その時だった。


「あれ? まだ帰ってなかったの?」


『……!』

 双子は同時に固まった。店から八メートル程離れた場所から見ていた。そんな二人の方を見もしないで、閃夜は話し掛けてきたのである。

「危ないから、早く帰るんだよ」

 そして、閃夜は歩き始めた。


「……」

「……」

「……帰ろっか」

 咲の一言に、凪は頷き、二人は家に帰っていった。


 ……

 …………

 ………………


(昨日はどうしてばれちゃったんだろう……)

 凪はスタッフルームで、テレビを眺めていた。

 もっとも、頭にあるのは今テレビで流れているニュースではなく、昨日の出来事なのだが。

(よく考えたら店長って、店の外にいるお客さんのことも見えてるんだった。もっと遠くに離れた方が良かったのねきっと……)

 そこまで考えた直後、閃夜が入ってきた。

 マグカップにお湯を注ぎ、紅茶のパックを出し入れしている。

「凪ちゃんも飲む?」

「いただきます」

 テレビを眺めながら答える。閃夜はもう一つマグカップを取り出し、紅茶を入れ始めた。

「ケーキもあるけど」

「頂きます」

 そうして冷蔵庫からケーキを取り出し、目の前にケーキと紅茶を置いた後で、自身の紅茶を飲む閃夜を見る。

 紅茶のせいか、その時の閃夜は、不思議なことに五歳くらい若く見えた。


 ……

 …………

 ………………


「今度はきっと大丈夫」

 店から二十メートル程離れた場所で、凪は裏口の様子をうかがいながら咲に対してそう呟いた。

「出てきた」

 咲の言葉と共に、閃夜の姿が現れる。

 今日は昨日とは違い、二人に気付いた様子は無く、二人のいる方向とは逆へ歩き始めた。

「行こう」

 凪の言葉と共に、並んで歩を進める。

 ただでさえ遠い地点から尾行を始めているので、油断しているとすぐに見失ってしまう。なお且つ、あの閃夜に気付かれないように歩かなければならない。二十メートル以上離れているにも関わらず、二人はまるで、ほんの数センチ先に閃夜がいるかのような緊張感で持って歩いていた。


 店を出てから五分。閃夜が突き当たりを曲がり、姿を消したのでゆっくりと速度を速める。

 十秒ほどでその突き当たりに辿り着いた。すぐに辺りを見渡すが、既に閃夜の姿は無い。

「あれ……もう行っちゃったのかな?」

 もう一度、辺りをよく見渡すがどこにもいない。

 凪だけでなく、咲も同じように周囲を見回した。すると、顔に何かが触れるのを感じた。かなり軽く、細い物がいくつも重なっているような感覚。おまけに何やら、良い香りまでしている。何かと思い、触れた物が何か確かめてみる……


「きゃあっ!」


 突然の咲の悲鳴に、凪は振り返った。見ると、何やら黒く長い物が、上から垂れ下がっている。咲は尻餅を着いた状態で上を見上げていた。反射的に上を見た時、

「…っ!?」

 出そうになった悲鳴をどうにか押さえ込んだ。

 咲の真上にある塀の上。そこに、前髪と、後ろ髪が合わさり一つとなった黒い物体を垂れ下げながら、ヤンキー座りの状態でこちらを見下ろす、何者か……いや、そんな長い髪を持つ人間など、双子は一人しか知らない。閃夜の姿があった。

「こんばんは」

 閃夜は挨拶をすると、塀から飛び降り、笑顔で双子を見る。

 驚愕と恐怖に、双子は言葉を失っていた。

「……遊びにくる? うち、この近くだから」

 笑顔でそう尋ねてきた。双子はお互い顔を見合わせた後、また閃夜の顔を見て、無言で頷いた。



(でかっ!)

 それが、閃夜の自宅を見た凪の第一印象だった。

 咲を見ると、同じような反応をしているのが分かる。一戸建て住宅だが、この家は周りの家と比べても郡を抜いて大きい。

 閃夜はそんな家の玄関の鍵を開き、中に入って明かりを点け、その後で双子を招き入れる。

「おじゃまします」

「おじゃまします」

 順番に挨拶しながら、居間まで連れてこられ、ソファを薦められた。

「今お茶淹れるから、待っててね」

 普通なら「お構い無く」と言いたい所だが、家の大きさに圧倒され、そして何より、尾行がばれたショックから、それ所ではなかった。

「お待たせ」

 広くて綺麗な居間を見回していた時、閃夜がいつもの笑顔を見せながらケーキとお茶を持ってきた。その笑顔を見ていると、それだけで直前まで感じていた緊張が和らぐ。

 双子は共に、出された紅茶を一口啜った。

「それで、二人は俺に何の用があったの?」

「……!」

 その質問に、言葉が詰まる。

 店長があまりにも謎だったので、秘密を知りたくて尾行しました。

 そんな正直な答えなど言えるはずも無く、だからと言って他に良い言い訳も思いつかない。ただ、沈黙を余儀なくされた。

「……まあ、言いたくなければ別に構わないよ。ゆっくり食べなよ」

 笑顔で優しくそう言われ、凪は息苦しさを覚える。言わなくてもいいという優しい言葉が、理由が無いのなら付いて来るなと怒って言っているのと同意に聞こえた。そしてむしろ、そう怒られた方が気が楽だった。



 外に出ると、閃夜は大型バイクに乗り込みながら話し掛けてきた。

「じゃあ、俺はこれから行く所があるから。忘れ物はない?」

「はい……」

「気を付けて帰るんだよ」


 ブオオオオオオオオオ……


 双子に話し掛けた直後、けたたましいエンジン音と共に、閃夜は走り去っていった。

『……』

 互いに無言で、閃夜の姿が見えなくなるまで、その後ろ姿を見ていた。

 見えなくなった後も、沈黙は続いたのだが、

「……ごめん」

 凪が、咲にそう言った。

「いいよ。一緒にやるって決めたのは私なんだから」

 言った直後、咲は、凪に笑顔で手を差し出した。

「帰ろ」

 他でもない姉の笑顔を見て、凪は申し訳ないという気持ちと同時に、心からの安心を覚える。だから、その手を取り、共に歩き始めた。


 閃夜の家を逆戻りしながら、凪は自分の愚かさを噛み締めていた。

 閃夜という存在を知れば知るほど、思いもよらない事実を知ることになる。そして、その度に新たな謎が生まれ、その謎の真相が知りたくなる。それが、たまらなく惹かれる相手ならなお更だった。

 しかし、どんなに優しい閃夜にも知られたくないことはある。自分達の関係は、アルバイトと、バイト先の店長という関係でしかない。そんな自分が彼の全てを知る権利などあるはずが無い。

 それを分かった上で行動し、結果的に店長、そして姉という、大切な二人に迷惑を掛けてしまった。自分の欲求のためだけに、誰かに迷惑を掛けていては元も子もない。何と愚かなことを思いついたのか。

 凪は何度も後悔し、何度も閃夜と咲に申し訳ない気持ちを募らせた。



 閃夜の家から歩き始めて十五分、『ARINOSU』の近くまで戻ってきた時だった。


「こんばんはー」


 かなり嫌しい若者の声が聞こえ、そちらへ振り向く。声の主は、いかにもな服装と外見で、いかにもな歩き方でこちらに歩いてくる、いかにもガラの悪い若い男の五人組。

「こんな夜遅くに何してんの?」

「手なんか繋いじゃって、仲良しだねえ」

「君達双子? 可愛いねえ」

 五人組が双子を囲みながら、次々と話し掛けて来る。凪はそんな五人に脅え、咲はそんな凪の前に立った。

「凪、行こう」

 凪の手を引き立ち去ろうとするが、五人組の一人が双子の前に立ちながら、

「まあまあ、そんな慌てないでさ」

「私達急いでるんですけど」

 咲が睨み付けながら言うも、男達は知ったことではないという様子で相変わらずニヤついている。

「まあいいからいいから。行こうよぉ」

「一緒に楽しいことしようよぉ」

 目の前の男二人が言い終わるのと同時に、後ろに残る二人が凪の肩を掴んだ。凪は悲鳴を上げ、咲はそれに振り返ったが、その隙に前にいた男が咲の腕を掴み、肩に手を回した。

「離しなさいよっ! 妹に何すんのよっ!」

 咲が相手に向かって必死で叫ぶ。凪は、恐怖で声も出ない状態だった。

「元気が良いねえ。いいから大人しくしてろよ」

 咲を掴んだ男が言いながら、掴んでいた腕を背中に回し、はがい絞めにした。その痛みに、咲の顔が歪んだ。

「姉さん……! やめてよ!!」



   ◆



 大きな病院の、個室のベッドの上。そこで、四十代のその男は、窓の外を眺めていた。

 自分が所属する組織と、敵対する組織との抗争で銃弾を受け、体に喰い込んだ弾丸を取り出す手術を無事に終え、養成しているところだ。

(手術から五日、いつまでこんな所で缶詰になってなきゃならないんだ……)

 今となっては全く見飽きてしまった窓の景色に、出てくるのは溜め息ばかり。

 組内で『不死身』と呼ばれた存在が、こんな羽目になるなど面白くもない。

 起きていても仕方が無い。だから、体を横にして目を閉じる。

 当然だが、それだけでは中々眠れない。おまけに今夜に限って妙に寝苦しい。必死で目を閉じつつ、体全体の力を抜き、思考を空にしてみる。だが、やはり眠れない。

 何やら閉じている(まぶた)がむず痒くなるのを感じた。次第にそれは強くなってくる。とても痒い。たまらず瞼を掻きむしる。しかし、瞼を掻く度にゴミか何かが指に触れた。嫌に感触があるが、それでいて柔らかい。しかも、今度はその腕にまで痒みが広がっていく。

 一体何だと思い、目を開けようとした。なのに、なぜか目を開くことができない。何かに押さえられているような感触があり、どうやっても瞼を開くことができない。

 目を開こうと躍起になっていると、突然窓が開く音が聞こえた。きっと、医者が様子を見にきたのだろう。

「なあおい、先生、目が開かねーんだ、何とかしてくれ」

 見えない誰かに対し、横になったまま懇願した。誰かが入ってきたにも関わらず、ドアを開け閉めする音が聞こえなかったことには気付くことなく。


「悪いが無理だ。そいつらはどうしても、あんたの顔から離れたくないってさ」


 若い男の声だった。しかし目が開かない以上、相手が誰なのか分からない。

「誰だ? 一体何を言ってる?」

 その声と言葉を奇妙に思いながら、声の主に対して話し掛けてみた。


「あんたは俺を知らないだろうが、俺はあんたのことは大体聞いて知ってる。『大黒組(だいこくぐみ)』幹部、『武内(たけうち) 修一(しゅういち)』。覚えてるか? 三年前に一人の女子高生を拉致・監禁して、何度も暴行や陵辱を繰り返したあげく、殺して街に捨てたろう。その女子高生の父親がな、どうしても、あんたがそうして生きてることが我慢ならないんだとさ」


「三年前……」

 男に言われ、三年前の記憶を思い返してみる。

 そう言えばその頃、確かに街で見つけた学生を一人誘拐した。一通り楽しんだ後で口封じのために殺し、街中(まちなか)に捨てた覚えがある。

 しかし、目撃証言はあったがその証人も殺して口を封じたし、他にも証拠となりそうな物は全て始末した。警察やら裁判所やらにも手を回し、面倒な裁判も起きないようにしておいた。

 その女子高生の家族も、悔しそうに泣き寝入りをしただけだったので、そのまま放っておいても問題ないと思っていたのだが……

「どちらさんか知りませんがね、それはちっと狙う相手を間違えてるってもんだ。俺もその時の事件は覚えてるが、何せ証拠が一つも出てこなかっただろう。親父さんもそのことは重々ご承知の上だと思うんですがねえ。まあここはだ、あんたの望むだけの金を渡すんで、手を引いちゃくれませんか?」

 相手の顔も見えないが、武内にも組織の幹部らしい余裕があった。

 言動からして、声の主は殺し屋なのだろう。だが、そんな大して金を持っていそうにない庶民からの依頼を受けている辺り、他に金になる仕事にありつけなかったのだろう。ならばここで、この男に望むだけ金を渡してやれば済む話だ。この男を追い返した後で、適当な部下に命令し、依頼してきた親を探し出して、消せばいい。


「……(クス)」


 男の笑い声が聞こえてきた。どうやら、話しに乗ったらしい。

 そう考えたのだが、その後でむしろ、想像とは違う声が聞こえてくる。


「思った通りだ」


「なに?」

 疑問の声を上げた直後、男の笑い声、そして、興奮が伝わってきた。


「いや、話しには聞いてはいたけど、やっぱりお前、人を殺すことに何にも感じてないんだな。三年前に本当にやったのか知らないけど……ていうか、その口ぶりだと明らかにしてそうだけど、どの道今でも同じようなこと、何度も繰り返してるの分かってるし……」


「なに……?」


「おまけに、いくつもの組織との抗争で数え切れない命を奪ってきてる。まあ、それだけなら別にいいんだよ、お互い様なことだし。けどあんたの場合、勝つため……いや、自分が生き残るためなら、関係のない人間も平気で利用してきたって話しだし」


「……何が言いたい?」

 その質問は、僅かに震えていた。男の声に、興奮と同じだけの、狂気が宿っていくのを感じ取ったから。


「それだけ命を軽んじる性格ならさ、自分の命だって、簡単に投げ出せるよな。例えば、今、この場ででもさぁ」


「ふ、ふざけるな!」

 男が話し終わるのと同時に叫び、立ち上がろうとした。しかし何かに押さえられ、体はおろか、指一本動かすことができない。今まで気付かなかったが、今度は体中が異常にむず痒い。

 一体なぜ、訳が分からない。

「……!」

 そして今度は、歯を食いしばっていた口が勝手に閉じ、逆にその中の歯は開かれた。更には口の中で何かが動いている感触があり、舌がかなりチクチクし、歯の外側に引っ張られる。

 そして、舌がある程度引っ張られた後で、今度は歯が勝手に閉じていく。最終的に武内の舌は、自分の歯と歯の間にがっちりと挟まれる形となり、自分の意志で動かすことができなくなった。

 そうなった直後、下顎(あご)に何かが触れた。それは紛れもない、人間の手の感触。


「今まで殺してきた数だけ、ゆっくりと痛い目を見ながら()きな」


 その言葉の直後、強い力で顎が押し上げられた。顎への圧迫と共に、それを遥かに超える激痛が上下の歯に挟まれた舌に走る。

 次第に舌から生暖かい液体が漏れ出し、同時に鉄の味と臭いが口中に広がる。痛みはますます増していく。その間に液体は喉の奥へと溜まっていき、歯がどんどん舌に食い込んでいく感触が分かる。

 そして、


 カチッ


 舌を噛む感触が無くなり、上下の歯が重なる音が聞こえた。

 直後、顎への手の感触も消え、上下の歯が離れる。ちぎれた舌が、喉の奥に落ちた。それに血の味も加わり、吐き気を催す。だがそれ以上に、激しい痛みに襲われる。

 ちぎれた舌からはどんどん血が溢れ、それが喉に溜まることで息苦しさは増していく。

 体が自由ならばその痛みと苦しみに悶絶し、絶叫する所だが、相変わらず体は指一本、頭さえ動かすことができず、口は硬く閉ざされ、声を出すことも許されない。

 やがて、喉の奥に落ちた舌の感触と、溜まった血による吐き気のせいで、嘔吐してしまった。だがそれが排出されることはない。口という出口を失った吐しゃ物は口に溜まっていき、呑みこむこともできず、口を、遂には鼻さえも蹂躙していく。

 そして、一切の呼吸もできなくなってしまった。

 今や顔中に走る痛み。そのせいで生まれる胸への苦しみ。

 やがて、それらの感覚が消えていくのに、そう時間は掛からなかった……



   ◇



「よし、戻っておいで」

 武内の体のほぼ全体を埋め尽くす蟻達に、閃夜が言う。

 蟻達はベッドを伝い、一斉に閃夜の体に戻り始めた。徐々に冷たくなった武内の姿が露わになる。頭全体を覆っていた蟻全てが武内から離れた所で、顔が横を向き、口から血と吐しゃ物の混ざった液体が漏れ出た。

「臭っせ……」

 蟻達が体に戻っている間、閃夜はいつも通り門口に携帯で連絡をした。

 少し会話して携帯をしまい、全ての蟻が戻ったのを確認して窓の方へ歩いた。


 窓を開け、そのまま真下に向かって飛び降りる。地面すれすれまで落ちたところで、羽を広げ一気に空に向かって羽ばたく。全く意味の無い、命懸けのスリルを味わうだけの動作だが、それが閃夜は好きだった。

 その後、たった今飛び降りた窓までわざわざ戻り、窓を閉じ、鍵を閉めた蟻達を回収して再び空へ羽ばたいた。



 空を飛びながら、街を眺める。今一人の人間が羽を広げ、何十メートルも上空から自分達や街を眺めている。今時そんなことを想像する人間はいないだろう。

 そんなことを考えると同時に、たった今殺した武内修一の顔を思い浮かべた。

 おそらくあんな大きな病院の中で、わざわざ自分を殺しに来る人間がいるなど想像すらしてなかったろう。

 いや、そもそも殺されること自体想像したことがないのではなかろうか。

 多くの組織との抗争を始めとした、数々の修羅場を生き延び、生き残り、『不死身』と評された存在。

 だがその不死身の正体も、所詮は自分以外の、それも関係の無い人間の、多く命を差し出してのものだ。武内が得意とする、巧妙でずる賢い情報操作に引っ掛かった敵対組織の手で、武内の代わりに皆殺しにされた無関係な家族の数は計り知れない。

 そして、欲望の捌け口にするためだけに誘拐された、女子供の数も。

 それだけのことを平気でする男なのだからと、期待してわざわざ病院の個室という、ある意味本人にとって最も安全な場所で安心しきっているところへ出向いてみたが、期待通り、良い顔と反応を見せてくれた。

(これだから辞められないよなぁ、この仕事)

 そんな、いつもの感慨にふけっている時、それが目に写り、静止した。

 おそらく自分にしか見えない数十メートル先。集団の男達が、聞き覚えのある声を出す、見覚えのある女二人を、嫌がるのを無視して連れて歩いている。しばらく眺めていると、計七人のその集団は倉庫の中へと消えていった。

「あのバカ双子……」

 ぼやきながら、閃夜はそちらへ向かって急降下した。


 ……

 …………

 ………………


 人通りの全く無い場所にある倉庫に、双子は連れてこられた。

 五人組は鼻息を荒くして、ひざを着いた双子を眺めている。咲はそんな男達から凪を守ろうと片ひざを立て、男達を睨みつけている。凪はそんな咲の後ろで、眼鏡を落として素顔を晒した状態で両ひざを着き、ただ脅えることしかできない。

(私が、あんなバカなこと考えたから……)

 現段階の自分達の状況に、ただでさえ感じていた自分の愚かさに更に苦しめられる。

 これから起こるそれ以上の苦しみへの恐怖に、涙が出る。泣いて許されるのならいくらでも号泣したかった。

「さあ、楽しもうか」

 とうとう男の一人が言い、こちらへ一歩、踏み出した……


「よお」


 別の男の声がした。男達も双子も、そちらを見る。

 倉庫に出入り口に、暗くて顔はよく見えないが、長身で、黒いスーツに身を包み、やたら長髪の頭に触覚を生やした男が見えた。

「何だお前?」

 五人の内の一人が尋ねた。


「お前らは俺のことを知らなくて当然だろうな。こっちもお前らのことなんて知りたくもない。さっさとその子達置いて、お(うち)に帰った方が身のためだぜ」


 その言葉に、五人組はプライドを傷つけられたらしい。何やら汚い言葉を撒き散らしながら、そこらに落ちている木材やら鉄パイプやらを手に取り、一斉に男に襲い掛かった。

 一人目が向かって木材を振り下ろす。しかしかわされて強烈な膝蹴りを喰らった。

 そのすぐ後に二人目が鉄パイプを振ったが、男はそれを受け止め、ひねりながら鉄パイプごと引き寄せ、はがい締めにした。

 残った三人は仲間が捕まっているため容易には手を出せない。しばらく様子をうかがっていると、男は捕まえていた二人目を投げつけた。それと同時に三人の内、左右に立っていた二人が向かったが、二人ともかわされ、片方は頬へ拳を、もう片方は腹にひざ蹴りを喰らった。

 最後の一人も向かったが、鉄パイプを受け止められた挙句奪われ、そのまま腹と顔面に蹴りを喰らい、真後ろに吹っ飛んでしまった。

 先程まで捕まっていた二人目の男はまだ戦えたが、体を震わせ、とうに戦意を失ってしまっているのが分かる。

 長髪の男は、奪った鉄パイプを脇に捨て、


「まだ続けたい?」


 そう、爽やかな笑顔で五人組に尋ねた。

「逃げるぞ!」

 倒れていた内の一人が言い、五人組は一斉に出口へ走っていった。


 咲は、立てていたひざから一気に力が抜けてしまった。

「どうやら助かったみたいね」

 体全体でそう感じた。

 ふーっと息を吐き、尻餅を着きながら凪に話し掛ける。

 その時だった。

「う……ぐす……」

 すぐ後ろで、すすり泣く凪の声が聞こえてきた。

「凪、なに? どこか痛いの!?」

「……」

 その問い掛けに、返事は無い。ただ、涙を流しながら、動かすのも辛そうな口を動かし、こう言うのが聞こえた。

「……ごめんなさい……ごめんなさい……」

 声にならない声をしゃくり上げながら、何度も謝ってきた。

「私が……あんなこと言い出したせいで、こんな……ごめんなさい……ごめんなさい……」

 凪自身、自分の知りたいという欲求一つが、これだけ危険なことになるなどとは思ってもみなかった。

 しかし、実際にはなってしまった。助けが来てくれなければ間違いなくタダでは済まなかったろう。

 だが何より怖かったのは、自分だけでなく、大切な姉にまでその危険が及んだこと。助けが来なければ、姉は今頃どうなっていただろう。そんな恐怖に駆られ、涙が止まらなくなった。


 そんな妹の姿に、咲もうっすら涙を浮かべながら、

「大丈夫だよ」

 そう言って、笑顔で凪の肩に手を添えた。

「見て、私どこもけがしてないでしょ。昔から体だけは頑丈だったの、妹のあんたが一番よく分かってるじゃない。それに私はお姉さんなんだから、妹を守るのが当然でしょ」

 そこまで言った後で、咲は凪を抱き締めてやった。

「大丈夫。凪が謝ることなんて、一つも無いんだから」

 そんな姉の温もりを感じながら、凪は、その身を委ねていた。


 ス……


『……!』

 そんな双子の前に、長髪の男が立った。二人とも、初めて見た時からその異様な姿には少なからず不信感を抱いてはいたが、近くで見ると、それはなお更異様に見える。

「遅くまで外を出歩かないことだ」

 言いながら、男は手を差し伸べてきた。

「凪、立てる?」

 咲の言葉に、凪は頷く。咲は男の手を取り、凪と共に立ち上がった。

「えっと、ありがとう、ございます……」

「まださっきの奴らがうろついているかもしれない。家まで送ってやる」

 咲に言いながら、男は双子の後ろに回り、腰に手を回してきた。

「え、ちょっと……!」

 咲が声を上げたが、男はその顔を見ながら静かに言う。

「おとなしく俺にしがみ付いてろ」

「……」

 反射的に、咲も凪も、有無を言わせぬその男の体にしがみ付いていた。おまけにいつの間にか、先程まで感じていた不信感は消えていた。不思議とその男の言葉には、黙って従うことのできる安心感と、自分達のよく知っているような優しさ、そして、まるで自分達の家にいるような安らぎを感じた。

 男は二人がしがみ付いたのを確認すると、


「しっかり捕まってろ……」


 そんな言葉と共に、男の背中から何か音がした。何だと確かめようと咲が背中を見た、その瞬間だった。


「うそぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」


 今起きている現実が信じられず、咲は大声で叫んでしまった。

 男は双子を抱えたまま、穴が空いて空が剥き出しの屋根に向かって羽ばたき、そのまま空高くへ舞い上がっていた。

 悲鳴を上げる咲に対し、凪は声も出せず、下を見ながら恐怖を浮かべている。そんな双子と共に、かなりの高さまで浮いた所で、男が咲に尋ねた。

「家はどっち?」

 咲は何も言えず、変わりに指を差して答えた。

 男はそちらの方に方向転換する。飛ぶことへの恐怖はあったが、咲は徐々にその感覚に慣れていった。

 同時に、今までに無い感覚を覚えていった。

 この男になら、安心して全てを委ねられるという安心感、そして、このままずっと飛んでいたいという、不思議な気持ち。


 そうして男はしばらく咲の指差す方向に従って飛び続け、遂に双子の家の前へと着地した。

「到着。それと……」

 男は懐をまさぐってで、凪の前にそれを差し出した。

「倉庫に来る途中で拾った」

 それは、凪がいつの間にか落としていた眼鏡だった。

「あ、どうも、ありがとうございます……」

 眼鏡を受け取り、早速掛ける。直前まで少しだけぼやけていた視界がはっきり見える。男の顔もはっきり見えた。月明かりに照らされ、触覚の掛かった顔が白く輝いている。

(……え? 店長!?)

 一瞬そう思ったが、すぐに違うと結論付ける。店長であるはずが無い。顔は似ているが、表情も、雰囲気も全くの別人だと。

 そんな凪の思いとは裏腹に、男はそのまま双子に背中を向け、黙って立ち去ろうとした。

「あの……」

 咲が男に呼びかけ、男も足を止める。

「えっと、名前、聞いてもいいですか?」

 男は、先程も広げたのであろう昆虫の翅を広げながら、顔をこちらに向けた。


「俺の名は……クイーン・アントネスト」


 静かに、しかしはっきりとした口調で名乗った直後、クイーン・アントネストは空へと羽ばたいた。

 後にはその場に残された双子が、未だ男の飛んでいった方向を見つめていた。


 ……

 …………

 ………………



「絶対嘘でしょうそれ」

 翌日、凪が閃夜とスタッフルームで、昨夜の出来事について会話していた。

 閃夜の家から去った後で、ピンチを助けてくれて、空まで飛んだ謎の人物。それに閃夜は、最初こそ真剣に、だが徐々に笑いながら、今では完全に笑顔で聞いていた。

「本当ですって」

 凪自身、笑われるようなことを話しているのは自覚している。それでも実際に経験した、紛れもない事実であることに変わりは無い。

「ふーん。まあいいけど。ところで咲ちゃんは?」

 結局信じてくれない閃夜だが、その質問で、そんなことを気にしてはいられなくなった。

「それが……」


 凪は複雑な表情を浮かべながら、スタッフルームからレジを覗いた。

 レジには咲が座っており、ひじを着いて、ぼんやりと天井を仰いでいる。

「どうやら、昨夜(ゆうべ)助けてくれた人に恋しちゃったみたいで……」

「へー……」


『……』


(……!!)

(うそぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!)


「クイーン・アントネスト……」

 咲は、ぼんやりと上を向いたまま、静かに、意中の男の名を呟いた。





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