第9話 代償
その後のリョウジの転落は、坂道を転がり落ちるように早かった。
きっかけは、私が西園寺ミカに送りつけた「録音データ」だった。
『ふざけないでよッ! 私が誘惑したですって!?』
深夜、実家を追い出されて安ビジネスホテルにいたリョウジの携帯に、ミカからのヒステリックな怒鳴り声が響いたという。
ミカは自宅に届いた内容証明郵便によって、夫である西園寺氏に不倫が完全に露見し、修羅場の真っ只中にいた。
そんな彼女のトドメを刺したのが、愛人であるリョウジが自分を「加害者扱い」して保身に走る音声データだったのだ。
愛は一瞬で、醜い憎悪へと変わった。
ミカは「私はこの男に騙されていた被害者だ」と主張してリョウジに掴みかかり、西園寺氏も激怒。
結果、リョウジの元には、私からの慰謝料請求に加え、西園寺家側からも「家庭崩壊の主犯」として数百万円の慰謝料請求が届くことになった。
後日、弁護士から聞いた話では、リョウジとミカは双方の弁護士を交えた話し合いの席で、互いに「お前が誘ってきた」「そっちがしつこかった」と罵り合い、醜い泥仕合を繰り広げたらしい。
「俺は悪くない!」「私の人生を返してよ!」とファミレスの個室で怒鳴り合う元不倫相手たちの姿は、あまりにも滑稽で、哀れだったそうだ。
そして、リョウジの聖域だった「会社」での居場所も、音を立てて崩れていった。
「おい高坂、またミスか! 最近どうなってるんだ!」
オフィスに課長の怒声が響く。
リョウジは青白い顔で「すみません……」と頭を下げるしかなかった。
当然の結果だ。
住む家を失い、ネットカフェを転々とする生活。
私と西園寺家、双方の弁護士からの容赦ない督促。
給料の大部分が養育費と慰謝料の分割払いに消えるという絶望感。
精神的に完全に追い詰められた彼は、夜も眠れず、仕事に集中できる状態ではなかった。
かつてはパリッとしていたスーツも、今はクリーニングに出す金も惜しいのか、ヨレヨレで薄汚れている。
無精髭に、充血した目。
その異様な姿に、同僚たちは遠巻きに彼を見ていた。
「ねえ、聞いた? 高坂さん、奥さんに逃げられたらしいよ」
「なんか火事騒ぎがあったらしいけど、その時、保育園のママ友と不倫して子供を放置してたって……」
「うわ、マジで? 最低だな。よく会社に来れるわ」
私が通報しなくとも、人の口に戸は立てられない。
どこからか漏れた噂は、尾ひれをつけて瞬く間に社内に広がった。
「我が子を見殺しにしかけた」「W不倫で相手の家庭も壊した」という噂は、コンプライアンスを重視する会社において致命的だった。
重要なプロジェクトからは外され、誰も行きたがらない地方の出先機関への異動が内示された。
事実上の「退職勧奨」だ。
支払いのプレッシャーと社内の白い目に耐えきれず、彼が会社を去る日はそう遠くないだろう。
「……自業自得、ですね」
弁護士からリョウジの現状――「支払いがキツいので減額してほしい」と泣きついてきた件――を聞かされた私は、冷めたコーヒーを飲みながら呟いた。
「減額には一切応じません。給料が下がろうが、借金しようが、約束通り一円単位まで払ってもらいます。逃げるなら即座に給料を差し押さえてください」
「ええ、分かっています。手加減なしで突っぱねておきました。公正証書がありますから、地獄の果てまで追い詰められますよ」
弁護士は頼もしく微笑んだ。
もし私が、感情に任せて会社に怒鳴り込んだり、ネットで暴露したりしていたら、一時的なスッキリ感は得られたかもしれない。
でも、それは同時に、私やハルが「復讐者の家族」として好奇の目に晒されるリスクを負うことでもあった。
だから私は、法的に正当な権利を行使しただけ。
あとは彼らが勝手に、自分の蒔いた種で自滅していったのだ。
すべてを失い、孤独に震えるリョウジの姿を想像しても、今の私には何の感情も湧かなかった。
同情も、喜びさえもない。
ただ、「無関係な悪者」が自業自得で落ちぶれていくだけの話。
「さあ、帰ろう」
私は席を立った。
今日は新しいアパートへの引っ越し準備がある。
リョウジとミカが過去の清算に追われ、泥沼で溺れている間に、私は未来へと進むのだ。




