最終話 もう関係ない人
新しいアパートは、前のマンションに比べるとずっと狭くて古い。
2DKの小さな部屋。
けれど、窓から差し込む夕日は驚くほど穏やかで、暖かい。
「ママ、ごはんできた?」
「うん、できたよ。今日はハルの大好きなハンバーグ」
「やったあ!」
リビングで絵本を読んでいたハルが、歓声を上げて食卓に飛んでくる。
その笑顔を見るたびに、私の胸は満たされる。
火事のトラウマで、しばらくは夜泣きもあった。
けれど、専門のカウンセラーや実家の両親、そして何より、静かで平和なこの生活が、少しずつハルの心を癒やしてくれた。
ここには、スマホばかり見て家事を押し付ける「お客様」もいなければ、不機嫌な男の顔色を伺う必要もない。
あるのは、私とハルの、ささやかだけど確かな幸せだけだ。
◇
週末、私たちは駅前の商店街へ買い物に出かけた。
ハルの新しい靴を買うためだ。
人混みの中、ハルの小さな手を握りしめて歩く。
「あ、ママ見て! あのおじさん、ベンチでお洋服汚れてるよ」
ハルが指差した先。
駅前の小さな公園のベンチに、一人の男が座っていた。
膝に置いたコンビニの安いパンをぼんやりと見つめている。
猫背で、ひどく痩せこけていて、何日も同じものを着ているのか薄汚れたスーツ姿。
――あ。
私は足を止めた。
見間違えるはずがない。高坂リョウジだ。
かつてはブランド物のスーツを着こなし、外面だけは一流の男を気取っていた面影はどこにもない。
会社をクビにでもなったのか、それとも降格されて疲れ果てているのか。
その姿からは、惨めな「破滅」の二文字が滲み出ていた。
彼がふと、顔を上げた。
そして、私とハルの姿を見つけた瞬間、その目が大きく見開かれた。
「あ……ユ、ユイ……! ハル……ッ!」
リョウジは弾かれたようにベンチから立ち上がり、よろめきながらこちらへ駆け寄ってきた。
その瞳には、すべてを失った男の、泥にすがるような卑しい未練が浮かんでいる。
「ユイ、頼む、頼むから話を聞いてくれ! 俺が悪かった、本当に反省してるんだ! 毎日ネットカフェを転々として、慰謝料の支払いでまともに飯も食えないんだ! ミカの旦那からも毎日催促が来て、もう限界なんだよ……!」
リョウジは周囲の目も気にせず、私の前に両膝をつき、縋り付こうと手を伸ばしてきた。
「お願いだ、やり直してくれ! 俺たち家族だろ!? ハル、パパだよ! パパと一緒に暮らそう!?」
その必死で醜い叫び声に、周囲の通行人たちが「なんだあいつ」「怖い」と足を止め、冷ややかな視線を向け始める。
ハルは怯えたように、私の後ろへ隠れて服の裾をぎゅっと握りしめた。
かつてなら、この男の情けない姿に胸を痛めたり、あるいは激しい怒りを覚えたかもしれない。
けれど、今の私の中に湧き上がったのは、ただただ深い「軽蔑」と「無関心」だった。
私は一歩下がり、リョウジの伸ばした手を冷たく避けた。
そして、ゴミを見るような視線を一瞬だけ彼に向けると、声音を完全に消し去った氷の声で言い放った。
「……触らないで。警察を呼びますよ」
「ユ、ユイ……?」
「ママ? このおじさん、だあれ……?」
ハルが私の後ろから、不思議そうにリョウジを見つめる。
その目には、「父親」としての認識は一欠片も残っていなかった。
ただの、街中にいる不審な大人を見る目だ。
私はハルを安心させるように、その頭を優しく撫でて、にっこりと微笑んだ。
「ううん。ハル、何でもないの。――私たちの人生には、一ミリも関係のない『知らない人』よ。行こうね」
「あ……あ……」
リョウジの顔が、絶望で完全に凍りついた。
自分のついた『家にいた』という嘘が、どれほど決定的に家族を殺したのか。
そして、もう二度とあの温かい日々に手が届かないのだと、本当の意味で理解したのだろう。
私がハルの手を引いて歩き出すと、背後からリョウジが地面に崩れ落ちる気配がした。
「ユイ――! ハル――! 待ってくれ、俺を一人にしないでくれ――!!」
惨めな泣き声が遠ざかっていく。
通行人たちが「関わらない方がいい」と彼を避けて通り過ぎ、やがて公園の警備員が彼を厳しく咎める声が聞こえた。
けれど、私は一度も振り返らなかった。
その声が私の心に届くことは、二度とない。
あの火事で、私の古い人生は燃え尽きた。
そこにあった「家族」という名の虚構も、すべて灰になった。
だから今、ここにあるのは、灰の中から芽吹いた新しい、眩しいほどの命だけ。
私は青空を見上げた。どこまでも澄み渡っていて、清々しい。
(さようなら、リョウジ。地獄の底で、一生後悔していなさい)
私はハルの小さな手を強く握り返し、未来へと続く光の差す道を、まっすぐに歩き出した。
(了)




