第3話 赤い煙
バスを降りた瞬間、鼻をつく異臭に顔をしかめた。
ゴムやプラスチックが焼け焦げたような、ツンとする刺激臭。
それに混じって、遠くからウゥゥゥ、カンカンカン……というサイレンの音が重なり合って聞こえてくる。
「火事……?」
近くで火事があったのだろうか。
風に乗って流れてくる煙の匂いは、かなり強い。
バス停にいた数人の乗客たちも、「すごい匂いだね」「結構近いんじゃない?」と不安そうに顔を見合わせている。
私は胸騒ぎを覚えながら、家路を急いだ。
早足で歩くにつれ、サイレンの音はどんどん大きくなっていく。
それだけではない。
夜空の一角が、不気味なほど赤く染まっているのが見えた。
――まさか。
私の足が止まる。
あの赤い光がある方角。
あれは、私のマンションがある方向だ。
「嘘……だよね」
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
私は走り出した。
手に持っていたお土産の紙袋が足に当たって邪魔だったが、構っていられなかった。
角を曲がる。いつものコンビニを通り過ぎる。
そして、視界が開けた瞬間。
私は絶句した。
「あ……」
そこにあったのは、非日常の光景だった。
赤色灯を回す数台の消防車。
規制線を張る警察官。
不安そうに見上げる野次馬の群れ。
そして、その視線の先にある七階建てのマンション。
その五階の一室から、どす黒い煙と、紅蓮の炎が舌を巻いて噴き出していた。
五〇二号室。
間違いない。私たちが住む部屋だ。
リョウジと、ハルがいるはずの、私の家だ。
「いやぁぁぁぁッ!!」
喉から裂けるような悲鳴が出た。
私は半狂乱で規制線へと突っ込んだ。
「通してください! あそこ、私の家なんです! 夫と子供が!」
「奥さん! 危ないから! 下がってください!」
警察官に制止されるが、私は必死に抵抗した。
目の前で、見慣れたカーテンが燃え落ちていく。
ハルの描いた絵が飾ってある窓際が、炎に包まれている。
「ハル! リョウジ! 嫌だ、嘘だ!」
その時だった。
野次馬の中から、一人の女性が飛び出してきた。
同じマンションの三階に住む、顔見知りの田所さんだ。
「高坂さん!? 高坂さんじゃないの!」
「田所さん! ハルは!? リョウジは!?」
私は田所さんの腕を掴み、揺さぶった。
彼女は煤で汚れた顔で、泣きそうな表情を浮かべていた。
「ハルちゃんは……ハルちゃんは無事よ! さっき救急車で運ばれたわ!」
「い、生きてるの!?」
「ええ、煙を吸っちゃったみたいだけど、意識はあったって! 消防隊員の人に抱えられて……」
全身の力が抜けそうになった。
生きてる。ハルは生きてる。
よかった。本当によかった。
私は涙を流しながら、もう一人の名前を叫んだ。
「リョウジは!? 夫も一緒よね!?」
当然、一緒に救出されたはずだ。
ハルを守って、怪我をしているかもしれない。
しかし。
田所さんは、困惑したように視線を泳がせた。
「それが……」
「え?」
「ご主人、見てないのよ」
「……見てない?」
意味がわからなかった。
一緒に家にいたはずだ。
火事になったなら、ハルを連れて逃げたはずだ。
「消防の人も言ってたわ。『逃げ遅れは子供一名だった』って」
「は……?」
田所さんの言葉が、うまく脳に入ってこない。
子供一名?
じゃあ、リョウジは?
「旦那さん、もしかして……まだ出張から帰ってきてなかったの?」
田所さんの問いかけに、私は呆然と首を振った。
違う。
出張に行っていたのは私だ。
リョウジは一週間、休みを取って家にいたはずだ。
つい数時間前、電話だってかけた。
繋がらなかったけれど、家にいるはずだった。
燃え盛る我が家を見上げる。
そこに夫の姿はない。
ハルは一人で救助された。
――リョウジ、あなた今、どこにいるの?
炎の熱さとは裏腹に、背筋が凍りつくような冷たさが私を襲った。




