第2話 帰れるはずの場所
福岡での仕事は、予想以上に順調に進んだ。
トラブルの原因は現地のシステム設定の些細なミスで、私が到着して確認すると、半日であっさりと解決してしまったのだ。
残りの日程で念入りな動作確認を行っても、予定より一日早く帰れることになった。
「よし、これなら今日の夕方には家に着く」
博多駅のホームで、私は時計を見た。現在一六時。
新幹線に乗れば、二〇時過ぎには最寄り駅に着くだろう。
私はスマホを取り出し、リョウジに「今日帰るね」とメッセージを打ち込もうとして――指を止めた。
(……驚かせてあげようかな)
ふと、そんな悪戯心が湧いたのだ。
一週間、慣れないワンオペ育児を頑張ってくれた夫と、寂しいのを我慢してくれた息子。
突然ママが帰ってきたら、ハルはどんな顔をするだろう。
「ママ!」と飛びついてくるに違いない。
リョウジも「助かったー」と安堵の顔を見せるはずだ。
その顔が見たくて、私はメッセージを消し、代わりに駅の売店でハルの大好きな明太子味のスナック菓子と、リョウジへの地酒を買った。
◇
新幹線の座席に身を沈めると、どっと疲れが出た。
流れる景色を眺めながら、私は再びスマホを手に取る。
サプライズとはいえ、今の状況くらいは確認しておこうか。
私はリョウジに電話をかけた。
コール音が鳴る。
一回、二回、三回……。
「…………」
出ない。
十回ほど鳴らしたが、応答はないまま留守番電話サービスに切り替わった。
「忙しいのかな」
今は夕方の忙しい時間帯だ。
保育園のお迎えに行っているか、あるいは夕食の準備でてんてこ舞いになっているのかもしれない。
エプロン姿でキッチンとリビングを往復するリョウジの姿を想像し、私は苦笑した。
普段何もしない彼のことだ、きっと家の中は泥棒が入ったみたいに散らかっているだろう。
帰ったらまず、洗濯物の山を片付けなきゃいけないかもしれない。
でも、それもまた愛おしい日常だ。
「まあ、駅に着いてからもう一度かければいいか」
私はそう自分を納得させ、シートを倒して目を閉じた。
早くハルに会いたい。
リョウジに「お疲れ様」と言ってあげたい。
そんな温かい気持ちが、胸を満たしていた。
◇
三時間半後。
最寄りの駅に降り立った私は、少し肌寒い夜風に身を震わせた。
駅前のロータリーは、帰宅を急ぐサラリーマンや学生でごった返している。
見慣れた街並み。
ここからバスで十分ほどの場所に、私たちのマンションがある。
我が家に帰ってきたという安堵感で、足取りは軽かった。
私はバスの列に並びながら、再びリョウジに電話をかけた。
時刻は二〇時半。
もう夕食も終わって、お風呂に入っている頃かもしれない。
プルルル、プルルル……。
無機質なコール音だけが、耳元で繰り返される。
やはり、出ない。
「……変ね」
胸の奥で、小さな棘が刺さったような感覚がした。
リョウジはスマホ依存症と言っていいほど、常に画面を見ている人間だ。
トイレに行く時もお風呂に入る時も、スマホを手放さない。
そんな彼が、数時間も電話に気づかないなんてことがあるだろうか?
「お風呂で寝ちゃったとか? ハルもいるのに?」
嫌な想像が頭をよぎる。
いや、大丈夫。
きっと二人でテレビゲームに夢中になって、着信音に気づいていないだけだ。
そうに決まっている。
「……大丈夫、大丈夫」
私は呟き、到着したバスに乗り込んだ。
なぜだろう。
家が近づくにつれて、心臓の鼓動が早くなっていく。
ただいま、とドアを開ければ、いつものの光景があるはずだ。
そう信じていた。
このバスが向かう先に、とんでもない地獄が待っているとも知らずに。




