第9話 最初のコンクール
秋になった。
朝、窓を開けると空気が少し冷たい。
夏より軽くて、乾いた音がする。
俺は朝飯を食べながら、椅子の横に置いてある紙を見る。
全国青少年ピアノコンクール。
地方予選。
会場は青瀬市文化会館。
水原先生からもらった紙だった。
「楽」
父さんが言う。
「なに?」
「食ったら出るぞ」
「うん」
今日はコンクールの日だった。
水原先生に勧められてから、弾く曲も決まった。
J.S.バッハ《インヴェンション》第8番 ヘ長調 BWV779。
名前は長い。
曲そのものは覚えている。
楽譜も読めるようになったから、名前を覚えていなくても弾くのには困らない。
水原先生のところで何度か弾いた。
右と左が別々に動く。
片方だけ聞いても音が進む。
二つを一緒にすると、また別の形になる。
俺には面白い曲だった。
「緊張してるか」
父さんが聞いた。
「してない」
「そうか」
父さんもしていない。
いつもの外出より少し確認するものが多いだけだった。
時間。
紙。
必要な物。
場所。
忘れていないか。
それを見ている。
「一番取らないとだめ?」
俺が聞く。
父さんはパンを食べながら答えた。
「別に」
「じゃあ普通に弾けばいい?」
「先生の言うこと聞け」
「分かった」
それなら、いつもとあまり変わらない。
違うピアノがある。
そこは少し楽しみだった。
青瀬市文化会館には何度か来たことがある。
でも、中のホールへ入るのは初めてだった。
入口から人が多い。
俺より大きい子もいる。
同じくらいの子もいる。
みんな少しきれいな服を着ていた。
親と話している。
先生らしい人と一緒にいる子もいる。
声は小さめなのに、人の音は大きかった。
緊張。
期待。
心配。
早く終わってほしい。
上手く弾きたい。
間違えたくない。
いろいろある。
受付の近くでは、一人の子が母親らしい人に言われていた。
「大丈夫。いつも通り弾けばいいんだから」
子供は頷く。
「全然緊張してないよ」
している。
かなり。
でも俺は何も言わない。
学校へ行くようになってから、こういう時に本当のことを言っても、だいたい話が長くなると分かった。
水原先生を探す。
人の向こうに知っている音があった。
「あ、楽くん」
水原先生も俺を見つけた。
「おはようございます」
「おはよう」
父さんは、
「おはようございます」
と言う。
「今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。楽くん、体調はどう?」
「普通」
「手は?」
俺は開いたり閉じたりする。
「普通」
「痛いところはない?」
「ないよ」
「じゃあ大丈夫ね」
水原先生は安心している。
でも、それだけじゃない。
いつもの教室より緊張していた。
俺より先生の方がずっと緊張している。
『教室ではできた。本番でどうなるか』
そんな音だった。
言っていないから答えない。
先生は俺の服や靴を見て、それから言った。
「今日やること、覚えてる?」
「呼ばれたら出る。歩く。止まる。お辞儀。椅子に座る。弾く。終わったら立って、お辞儀して戻る」
「そう。よく覚えてる」
「何回もやったから」
あれは音より何回も練習した。
水原先生が少し笑う。
「楽くんの場合、そっちの方が練習が必要だったものね」
「音は一回で分かるし」
「そうね」
先生はもう否定しなくなった。
「それから、本番で何かあっても勝手に止めないこと」
「ピアノ壊れたら?」
「本当に弾けないくらいの問題なら別よ」
「じゃあ弾けるなら続ける」
「そうして」
父さんが俺を見る。
「楽」
「なに?」
「余計なことするなよ」
「しないよ」
「ならいい」
何が余計なことなのかはだいたい分かる。
舞台でピアノが面白いからと、曲が終わった後も好きに弾くとか。
それをするとたぶん面倒になる。
今日は決めた曲だけ弾けばいい。
〓〓〓
自分の番が来るまで、待つ時間があった。
コンクールは思ったより待つ。
水原先生が言っていた意味が少し分かった。
弾く時間より、座っている時間の方が長い。
「暇」
俺が言うと、水原先生が横を見る。
「もう少しだから」
「ピアノ聞こえる」
舞台では別の子が弾いている。
ここから姿は見えないけれど、音は届く。
壁や扉を通るから、客席で聞くのとは違う。
それでも曲は分かる。
少し速くなった。
戻った。
強くなった。
一つ音が抜けた。
止まらず続いた。
演奏が終わる。
拍手。
次の子。
また音が始まる。
同じピアノなのに弾く人が変わると違う。
「楽くん」
水原先生が少し小さい声で言う。
「他の人の演奏を聞いて、気になる?」
「何が?」
「上手だとか、自分よりどうだとか」
考える。
さっきの子は一つ抜けた。
今弾いている子は音が固い。
でも、それが俺と比べてどうなのかは、あまり考えていなかった。
「別に」
「そう」
「みんな違うよ」
「うん」
「同じピアノなのに」
そこは面白い。
水原先生は俺を見ていた。
『本当に競争そのものには興味がないのね』
そう聞こえた。
その通りだけど、答えない。
しばらくすると係の人が来た。
「次、鳴海楽さん、準備をお願いします」
水原先生の音が一気に変わった。
「楽くん」
「うん」
「さっき言った通りで大丈夫だから」
「分かってる」
「慌てなくていいからね」
「先生の方が慌ててるよ」
言ってから、水原先生が止まった。
これは言わない方がよかったかもしれない。
でも先生は少し息を吐いて笑った。
「そう見える?」
「うん」
「じゃあ、先生も落ち着くわ」
「そうした方がいいよ」
係の人が少し笑っていた。
俺は舞台の方を見る。
知らないピアノが待っている。
やっと触れる。
舞台袖から中へ出た瞬間、音が変わった。
広い。
体育館とも、水原先生の教室とも違う。
天井が高い。
客席は暗い。
舞台には強い光が落ちている。
黒いピアノがその中にある。
歩く。
靴の音が床から返る。
水原先生に教わった場所で止まる。
客席を見る。
知らない人がたくさんいる。
審査する人もいる。
俺を見ている。
緊張しているわけじゃないのに、客席の集中は分かる。
さっきまで少し動いていた空気が、俺が止まると静かになる。
お辞儀。
顔を上げる。
すぐ動かない。
一つ間を置く。
ピアノへ行く。
椅子へ座る。
高さはもう決められている。
少しだけ確認する。
届く。
問題ない。
鍵盤へ手を置く。
まだ音は出さない。
ここからだと、客席の小さな咳まで聞こえる。
空調。
服が擦れる音。
誰かが身体を動かして、椅子が少し鳴る。
舞台の光。
黒いピアノの表面。
鍵盤の白。
空気の冷たさ。
全部ある。
最初の音を出す。
思ったより、音が前へ伸びた。
水原先生の教室とは違う。
このピアノは、少し軽く音が立つ。
ホールではそのあとが長く残る。
二つ目。
三つ目。
もう分かった。
いつもの弾き方をそのまま持ってくる必要はない。
ここでは、この音が一番いい。
右手が進む。
左手が入る。
別々の線。
一つを強くしすぎると、もう一つが隠れる。
だから残す。
次は少し出す。
ホールに音が残っている間に、次を重ねる。
速く動くところでも、前の音が邪魔にならない場所を選ぶ。
客席は静かだった。
最初よりもっと静かになっている。
誰かがこっちを強く見ている音もある。
でも、一人ずつ見る必要はない。
今は全部まとめて、こっちへ向いている。
その静けさも使える。
強く出した後、少しだけ軽くする。
すると前の音がホールに残ったまま、次が見える。
右。
左。
右。
左。
二つとも同じ曲の中にいるけれど、一つにはしない。
追いかける。
離れる。
重なる。
また離れる。
手は今の俺の大きさで動く。
届かないことはしない。
この曲なら足りる。
水原先生に教わった指の順番も使う。
その方が次へ行くのが楽だから。
途中で一度、客席の奥から小さい音がした。
何かを落としたらしい。
でも曲とは関係ない。
背景へ置く。
必要なのはピアノ。
ホール。
今残っている響き。
次に出す音。
最後まで進む。
終わる。
手を離す。
音はすぐには消えなかった。
最後の響きが会場の中に残る。
だから立たない。
消えるまで少し待つ。
なくなった。
立つ。
客席から拍手が来た。
大きい。
舞台へ広がる。
俺は前へ行く。
お辞儀。
顔を上げる。
戻る。
水原先生に教わった通りだった。
〓〓〓
舞台袖へ戻ると、水原先生がいた。
俺を見る。
すごい音がしていた。
驚いている。
嬉しい。
でも、それだけじゃない。
何かを考えている。
「楽くん」
「なに?」
「……今、教室で弾いている時と少し変えた?」
「うん」
先生の目が大きくなる。
「どうして?」
「こっちの方が音長いから」
「音が長い?」
「残る」
俺は舞台の方を見る。
「教室と同じにしたら、前の音がちょっと多い」
水原先生が黙った。
「それで変えたの?」
「うん」
「いつ?」
「最初に鳴らしたら分かった」
「最初に……」
先生の音がまた変わる。
教室で初めて俺を試した時に近い。
「あと、ここのピアノ、先生のより少し違う」
「それはそうだけど」
「押した時も違うし、音の出るところも違う」
「それを、その場で合わせたの?」
「うん」
合わせない方がおかしい。
ピアノが違うのに、同じように押せば同じ音になるとは限らない。
場所も違う。
聞こえ方も違う。
なら、欲しい音が出るように変えればいい。
「だめだった?」
俺が聞くと、水原先生はすぐ首を振った。
「ううん。だめじゃない」
『そんなことを7歳の子が、本番の最初の数音でやるの?』
そういう音だった。
俺には普通だから、何がおかしいのかはよく分からない。
父さんも近くまで来た。
「終わったか」
「うん」
「間違えたか」
「間違えてない」
「ならいい」
父さんはいつも通りだった。
水原先生が父さんを見る。
何か言おうとして、やめる。
たぶん結果が出るまでは待つことにしたらしい。
「まだ帰らないの?」
俺が聞く。
「結果発表があるわ」
水原先生が言う。
「いつ?」
「全部終わってから」
まだ待つ。
やっぱり弾くより待つ時間の方が長かった。
〓〓〓
自分の演奏が終わった後は、もっと暇だった。
父さんは椅子に座っていた。
水原先生もいる。
俺は聞こえてくる演奏を聞いた。
上手い子もいた。
最初から最後まで大きく崩れない。
細かい音もそろっている。
でも、みんな同じではない。
速い。
遅い。
強い。
柔らかい。
一つ失敗すると、そのあとまで急ぐ子もいた。
失敗しても、そのまま変わらず進む子もいた。
弾く前に緊張していたのに、始まると落ち着く子もいる。
反対もいる。
みんな、たくさん練習してきたらしい。
指の動きも、曲の覚え方も、それぞれ違う。
俺には俺の音がある。
ほかの人にはほかの人の音がある。
それだけだった。
やがて、みんなが集められた。
前で大人が話す。
地方予選の結果。
奨励賞。
優秀賞。
名前が呼ばれていく。
呼ばれた子の音が明るくなる。
親も喜ぶ。
呼ばれずにだんだん沈んでいく子もいる。
水原先生は静かだった。
でも身体の音は全然静かじゃない。
俺よりずっと結果を気にしている。
父さんは普通だった。
少しだけ、
『ここで外の評価が分かる』
という感じがする。
それから、
「小学生部門、最優秀賞」
と言われた。
少し間がある。
「鳴海楽さん」
水原先生の音が一気に明るくなった。
俺は父さんを見る。
「呼ばれた」
「ああ。行ってこい」
前へ出る。
紙をもらう。
お辞儀。
戻る。
水原先生が笑っている。
「楽くん、おめでとう」
「うん」
「嬉しくない?」
「先生は嬉しそう」
「私は嬉しいわ」
それは聞かなくても分かる。
「楽くんは?」
考える。
最優秀賞。
一番上の賞。
取れた方が取れないよりいい。
県大会へ行けるらしい。
「別に嫌じゃない」
「そう」
水原先生は笑ったままだった。
もう俺の答え方にも慣れている。
父さんが紙を見る。
「次に進むんだな」
「はい」
水原先生が答える。
「長野県大会です。長野市芸術館のリサイタルホールで行われます」
知らない場所だった。
「同じピアノ?」
俺が聞く。
「違うわよ」
「じゃあ行く」
「そこなの?」
「違う音なんでしょ」
「ええ。たぶんね」
それなら面白そうだ。
「曲も変えるわ」
「なんで?」
「県大会では、地方予選と同じ曲は使えない決まりなの」
「じゃあ新しいの?」
「そう。次は別の曲を準備しましょう」
新しい場所。
新しいピアノ。
新しい曲。
最優秀賞そのものより、そっちの方がよかった。
帰り道、父さんが言った。
「楽」
「なに?」
「一番だったな」
「うん」
「どうだった」
「ピアノ、先生のところと違った」
「賞じゃなくてか」
「賞はもう終わったし」
父さんが少し笑った。
「そうか」
文化会館を出る。
夕方の空気が冷たい。
朝より人が減っている。
俺は今日のピアノの音を思い出す。
最初の一音。
ホールへ伸びた響き。
客席が静かになった時の空気。
最後に残った音。
全部そのまま残っている。
次の会場は、また違うらしい。
だったら、次はそこで一番いい音を出せばいい。
それ以上のことは、まだ考える必要がなかった。




