第10話 九条綾音
長野県大会の日は、地方予選より人が多かった。
長野市芸術館のリサイタルホール。
朝から家を出て、着いた時にはもう何人も入口に集まっていた。
前の会場で見た子も少しいる。
知らない子の方が多い。
長野県の中に地方予選がいくつかあって、そこを通った子がここへ来るらしい。
「楽くん、おはよう」
水原先生が来た。
「おはよう」
「体調は?」
「普通」
「手は?」
開く。
閉じる。
痛くない。
「普通」
「それなら大丈夫ね」
前と同じ確認だった。
父さんが水原先生へ頭を下げる。
「今日はお願いします」
「こちらこそ」
俺はホールの方を見る。
前の文化会館とは違う。
建物が違うから、入口からもう音が違う。
人の声。
靴。
壁。
天井。
空気。
まだピアノは聞いていない。
「今日のピアノ、どんな音?」
俺が聞く。
水原先生が笑う。
「まだそれなのね」
「何が?」
「前の地方予選でも、賞よりピアノの方を気にしてたでしょう?」
「だって違うんでしょ」
「違うわ。でも本番までは触れないから、舞台で確かめてね」
「うん」
今日は地方予選と同じ曲は弾けない。
決まりらしい。
だから、水原先生と別の曲を選んだ。
モーツァルト《ピアノ・ソナタ第16番 ハ長調 K.545》第1楽章。
前に弾いたバッハとはだいぶ違う。
右と左が別々に追いかけるところが面白い曲ではない。
音の形が分かりやすい。
分かりやすいから、少し変わるとすぐ分かる。
強くしすぎても違う。
急ぎすぎても違う。
簡単そうに聞こえるけど、同じ音なら何でもいいわけじゃない。
俺は好きだった。
「楽くん」
水原先生が言う。
「今日も前と同じ。会場で聞こえ方が違っても、慌てなくていいからね」
「慌てないよ」
「そうだったわね」
「前も変えたらよかったし」
「……そこは先生の方が慣れないわ」
何が慣れないのかは分からない。
水原先生は少し緊張している。
でも前の地方予選よりは小さい。
俺が本番でも弾けると、一度見たからだと思う。
父さんはもっと変わらない。
「楽」
「なに?」
「終わったら飯食うぞ」
「何食べる?」
「終わってから決める」
今日はそれが一番まだ決まっていないらしい。
受付を終えて中へ入る。
待つ場所には、きれいな服を着た子がたくさんいた。
楽譜を見ている子。
指だけ動かしている子。
先生と話している子。
目を閉じている子。
緊張している子も多い。
俺より大きい子がかなりいる。
小学生部門は一年生から六年生まで一緒だと、水原先生から聞いた。
だから身体の大きさが全然違う。
「大きい子が多いね」
「そうね。高学年の子も同じ部門だから」
「手も大きい?」
「楽くんよりは大きい子が多いでしょうね」
それなら、俺がまだ届かないところにも届く。
少し羨ましい。
でも今すぐ大きくなることはできない。
そこは仕方ない。
座る場所を探していると、少し離れたところで人が集まっていた。
真ん中に女の子がいる。
俺より少し大きい。
長い黒髪を邪魔にならないようにまとめている。
背筋がまっすぐだった。
周りの大人に話しかけられても、慣れている。
緊張もしているけれど、ほかの子よりずっと小さい。
むしろ早く弾きたそうだった。
水原先生もその子を見た。
「あれが九条綾音さん」
「知ってるの?」
「有名な子よ。去年、このコンクールの小学生部門で全国第1位だったの」
「去年一番?」
「そう」
「じゃあ上手い?」
「とても上手いと思うわ」
なら聞いてみたい。
女の子がこっちを向いた。
目が合う。
俺を見る。
次に水原先生を見る。
それから、俺が持っている番号を見る。
少し気になる音がした。
でもすぐに前へ戻った。
「九条さんは楽くんより1歳上よ」
「二年生?」
「そうね」
俺より一年多く生きていて、去年一番だった。
それなら、今までここで聞いた子より上手いかもしれない。
少し楽しみになった。
〓〓〓
九条の演奏は、俺より先だった。
自分の番までまだ時間があったから、客席の後ろで聞くことになった。
父さんと水原先生もいる。
会場が暗くなる。
舞台へ九条が出てくる。
歩く。
止まる。
お辞儀。
全部きれいだった。
俺が水原先生に何度もやらされた動きより、ずっと自然に見える。
「慣れてる」
俺が小さく言う。
水原先生が、
「何度も舞台に立っている子だから」
と返す。
九条が座る。
始まる。
最初の音で分かった。
上手い。
今までコンクールで聞いた子の中では一番だった。
音が揃っているだけじゃない。
次へ行く時に迷わない。
強くするところ。
弱くするところ。
音を残すところ。
切るところ。
全部、自分がどう弾きたいか分かっている。
指もよく動く。
俺より手が大きい。
身体の使い方も慣れている。
それに、弾いている本人がこの曲を好きなのも分かる。
『もっときれいに。もっと上手く』
演奏している間も、そういう音がずっとある。
間違えたくないから縮こまっているわけじゃない。
自分が出したいものへ近づけようとしている。
「上手いね」
俺が言うと、水原先生が一瞬こっちを見る。
「そうでしょう?」
嬉しそうだった。
水原先生が教えた子ではないのに。
上手い演奏を聞くこと自体が好きなのかもしれない。
俺も舞台へ戻る。
九条の音を聞く。
一つだけ、俺なら違うようにする場所があった。
でも九条が間違っているわけではない。
九条はそこをそうしたいらしい。
それなら、それでいい。
曲が終わった。
最後まで崩れなかった。
客席から拍手が出る。
前の人たちより大きい。
九条は立つ。
お辞儀。
戻る。
「すごい?」
父さんが俺へ聞いた。
「うん。上手い」
「お前より?」
「まだ俺弾いてないよ」
「そうだな」
父さんはそれ以上聞かなかった。
水原先生は少し笑っている。
「楽くんが他の子をそんなにすぐ褒めるの、珍しいわね」
「上手いから」
「そうね」
別に褒めたつもりはない。
上手いから上手いと言っただけだった。
舞台から戻ってきた九条が、客席の横を通る。
さっきまでより音が軽い。
自分の演奏に大きな失敗がなかったと分かっている。
でも満足して終わりではない。
『あそこ、もう少しできた』
まだ考えている。
俺の前を通る時、また目が合った。
今度は止まった。
「あなた、出るの?」
俺に聞いた。
「うん」
「何年生?」
「一年」
九条の目が少し変わる。
「一年生?」
「うん」
「地方予選はどこ?」
「青瀬」
「最優秀賞の子?」
「そう」
俺は水原先生を見る。
「俺のこと知ってるの?」
九条が答える。
「結果は見るでしょう」
「そうなんだ」
俺は他の会場の結果を見ていない。
必要がなかったから。
九条は少しだけ眉を動かした。
「曲は?」
「モーツァルト」
「何番?」
そこまでは覚えている。
「16番」
「K.545?」
「たぶん」
「たぶんって何?」
「曲は分かるよ」
「番号を覚えてないの?」
「うん」
九条が変なものを見るみたいに俺を見る。
嫌っているわけではない。
意味が分からないと思っている。
「自分が弾く曲でしょう?」
「音は覚えてるから大丈夫」
「……そう」
納得していない。
でも係の人が九条を呼んだ。
「九条さん、こちらへお願いします」
「はい」
九条は大人にはすぐ丁寧な声になった。
それからもう一度俺を見る。
「鳴海くん、でしょう?」
「うん」
「聞いてるから」
「分かった」
九条は行った。
「知り合いになったか」
父さんが言う。
「名前は知った」
それで十分だった。
〓〓〓
俺の番が来た。
舞台袖で待つ。
前の演奏が終わる。
拍手。
人が戻ってくる。
係の人に呼ばれる。
舞台へ出る。
前の青瀬市文化会館と違う。
客席の形も違う。
天井も違う。
光の当たり方も違う。
ピアノも違う。
歩いている間に、九条が客席に戻っているのが見えた。
こっちを見ている。
かなり強く。
でも今は九条を聞く必要はない。
お辞儀。
ピアノへ行く。
座る。
鍵盤へ手を置く。
最初の一音。
鳴らす。
音が広がる。
前のピアノより、少し芯がある。
強く出した時に輪郭が残る。
低いところも濁りにくい。
会場の響きは、前より少し短く感じる。
それなら、この曲には使いやすい。
二音目。
三音目。
もういい。
始める。
右手が動く。
左手が支える。
音を軽く流しすぎると、この場所では薄くなる。
だから少しだけ残す。
でも重くはしない。
モーツァルトは、重たくしたい曲じゃない。
水原先生から曲の時代や、どういう形で書かれているかも少し習った。
でも、名前を知らなくても音は分かる。
今は知っていることも使う。
このピアノの音も使う。
会場の返り方も使う。
客席も聞く。
最初は、前の演奏から続いたざわつきが少しあった。
でもすぐ消えた。
こっちへ集まる。
静かになる。
指が動く。
俺の手で届く範囲。
無理はない。
水原先生と決めた指使いなら、途中で変に詰まることもない。
強く。
戻す。
少し待つ。
進む。
同じ形が戻ってきても、今鳴っている音に合わせる。
一回目とまったく同じにはならない。
前の音の残り方が違うから。
客席の静けさも違う。
今なら、こっち。
そう思う方へ動かす。
途中から、一つだけ強い音が客席に混ざった。
誰かが俺の演奏を細かく追っている。
間違いを探している感じではない。
どうやっているのか見たい。
九条だと分かった。
姿を見なくても、さっき話した時の音と同じだった。
『指は普通。速さもできる。じゃあ何が違うの?』
そんな感じ。
でも、今それへ答える必要はない。
九条は何も言っていない。
それに、俺も分からない。
普通に弾いているだけだ。
曲が進む。
最後へ向かう。
今のピアノなら、最後を少し強くしても音が潰れない。
出す。
終わる。
響きが残る。
待つ。
消える。
手を離す。
拍手が来た。
前の地方予選より大きく感じた。
客席の空気も動いている。
立つ。
お辞儀。
戻る。
舞台袖へ入ったところで、水原先生が待っていた。
何も言わず、少し息を吐いた。
「どうだった?」
俺が聞く。
「どうだったって、楽くんが聞くの?」
「先生、気にしてたから」
「……良かったわ」
それならいい。
「ピアノも良かった」
「そっちもね」
「前のよりこっち好きかも」
水原先生が笑った。
「もうピアノの感想になってる」
父さんも来る。
「終わったな」
「うん」
「ミスは?」
「してない」
「ならいい」
いつも通りだった。
少しして客席へ戻る。
九条がこっちを見ていた。
さっきより、ずっと強い音だった。
〓〓〓
休憩になった。
俺が飲み物を買いに行こうとすると、後ろから呼ばれた。
「鳴海くん」
九条だった。
「なに?」
「ちょっといい?」
「いいよ」
九条は俺の前まで来る。
近くで見ると、舞台にいた時より少し子供っぽい。
俺より一歳上だから、当たり前だけどまだ小学生だ。
でも話す時の姿勢まで真っすぐだった。
「ピアノ、何年習ってるの?」
「今年から」
九条が止まる。
「何年じゃなくて?」
「うん」
「いつから?」
「学校入ってから」
「……今年の春?」
「そのくらい」
九条の音が急に変わった。
疑っている。
驚いている。
それから、すぐに確かめようとする。
「その前は?」
「やってない」
「別の楽器は?」
「やってない」
「家に音楽家がいるの?」
「いないよ」
「お父さんは?」
「株やってる」
「株?」
九条が父さんを見る。
父さんは少し離れた場所で水原先生と話している。
「ピアノは?」
「弾かない」
九条は黙った。
『そんなはずない』
そういう音がする。
でも、俺は本当のことを言っている。
「先生は誰?」
「水原先生」
「水原先生に習い始めて、何か月?」
「分かんない」
「なんで分からないの?」
「数えてないから」
「あなたね……」
九条の眉が少し寄った。
怒っているわけではない。
俺の答えが欲しい形にならないから困っている。
「さっきの最後」
九条が言う。
「少し変えたでしょう?」
「何を?」
「音の置き方」
九条は手を少し動かす。
「同じ形が戻ってきたところ。最初よりほんの少し違った」
分かったらしい。
やっぱり上手い。
「うん」
「どうして?」
「その時はそっちがよかったから」
「だから、どうしてそう思ったの?」
「前の音が違ったから」
「前の音?」
「残り方」
九条がホールを見る。
「響き?」
「たぶんそれ」
「たぶん?」
「水原先生はそういう名前で言う」
九条は俺をじっと見る。
『分かってやってるの? 分からずにやってるの?』
答えを探している。
俺には、その二つの違いがよく分からない。
分かるからやった。
それだけだ。
「あと、途中の弱くしたところ」
「うん」
「楽譜にはそこまで書いてない」
「そうだね」
「先生に教わったの?」
「違う」
「じゃあ自分で?」
「うん」
「なんで?」
また同じ質問だった。
「その方がよかったから」
九条の音が大きくなる。
「それじゃ分からない」
「俺は分かるよ」
「私が分からないの」
「そっか」
「そっかじゃなくて」
九条は言ってから、口を閉じた。
怒鳴るほどではないと思ったらしい。
一度息を吸う。
「……ごめん」
「別にいいよ」
「もう一つだけ」
「うん」
「本当に一年生?」
「そうだよ」
「本当に今年から?」
「そう」
九条はしばらく俺を見る。
嘘かどうか確認している。
俺が嘘をついていないことは、そのうち分かったらしい。
今度は別の音になった。
悔しい。
でも、嫌な悔しさではない。
『もっと聞きたい。次は分かる』
そんな音だった。
「全国大会に来る?」
九条が聞く。
「まだ結果出てないよ」
「あなたは来ると思う」
自信のある声だった。
俺のことなのに。
「九条も?」
「私は行く」
こっちは自分のことだからもっと自信がある。
「去年も一番だったんでしょ」
「今年もそのつもり」
「そうなんだ」
「鳴海くんは?」
「何が?」
「一番を取りたいと思わないの?」
考える。
地方予選では取った。
取れた方が次へ進める。
でも一番そのものが欲しいわけではない。
「別に」
九条の目が細くなる。
「別に?」
「水原先生が出た方がいいって言ったから出てる」
「それだけ?」
「違うピアノも弾けるし」
九条の音が止まった。
それから、今までで一番理解できないという音になった。
「……あなた、本当に変ね」
学校でも言われる。
「よく言われる」
「褒めてない」
「知ってる」
九条は少しだけ口元を動かした。
笑いそうになって、やめた。
「全国でまた聞くから」
「うん」
「次はもっとちゃんと分かると思う」
「何が?」
「あなたの演奏」
「俺は普通に弾いてるよ」
「それが分からないの」
そう言って、九条は行った。
背中までまっすぐだった。
俺はその後ろを見る。
前年の全国一位。
今まで聞いた同じくらいの子の中では、一番上手かった。
それなのに、俺の演奏を聞いて、まだ足りないと思っている。
変なのは九条も同じだった。
結果発表では、俺の名前が全国大会へ進む子の中にあった。
九条の名前も呼ばれた。
九条は驚いていない。
水原先生も、俺の名前が呼ばれると大きく息を吐いた。
父さんは結果の紙を見ている。
「次、東京か」
「東京?」
「全国大会」
水原先生が答える。
「東京文化会館の小ホールよ」
また知らない場所だった。
「ピアノ違う?」
「違うと思うわ」
「じゃあ行く」
水原先生が笑う。
「結果が出た後に、それを言うのね」
「だって行けるんでしょ」
「ええ」
少し離れたところで、九条がこっちを見ていた。
目が合う。
九条はそらさなかった。
強い音がする。
勝ちたい。
次はもっと上手く弾きたい。
俺がどう弾いているのか知りたい。
全部混ざっている。
俺は一度だけ手を上げた。
九条は少し驚いてから、小さく手を上げ返した。
全国大会には九条もいる。
知らない会場。
知らないピアノ。
新しい曲。
それに、かなり上手い子が一人。
地方予選の時より、聞ける音が増えていた。
俺には、それで十分だった。




