第11話 天才からみた天才
鳴海楽という一年生が、私より上だった。
結果そのものは、もう変わらない。
長野県大会が終わった後、私は受け取った紙を見ながらそれを考えていた。
全国大会には進める。
それは当然だと思っていた。
去年、私は全国青少年ピアノコンクールの小学生部門で第1位だった。
今年は去年より上手くなっている。
先生にもそう言われているし、自分でも分かる。
今日の演奏だって悪くなかった。
大きな失敗はない。
音も、自分が出したかったものにかなり近かった。
それなのに、私より上に一人いた。
「綾音」
呼ばれて顔を上げる。
黒川先生がいた。
黒い髪には白いものがかなり混じっている。
いつも通り、きちんとした服を着ている。
「先生」
「全国進出、おめでとう」
「ありがとうございます」
「不満そうだな」
「そんな顔してますか?」
「している」
すぐ言われた。
私は少し口を閉じる。
負けたのは悔しい。
でも、全国へ進めたことが嫌なわけではない。
今日の自分の演奏が全部悪かったとも思わない。
だから余計に分からなかった。
「鳴海くんのことを考えてました」
「ああ」
黒川先生はそれだけで分かったらしい。
先生も鳴海くんの演奏を聞いていた。
「どうでした?」
私が聞く。
「上手かった」
「それは分かります」
「では、何を聞きたい?」
「なんであんなに違うんですか」
先生が少しだけ目を細めた。
「何が違った?」
聞き返された。
こういう時、先生はすぐ答えを教えてくれない。
自分で言わせる。
私は少し考えた。
「音がきれいでした」
「綾音もきれいだ」
「タイミングが良かった」
「それも綾音は悪くない」
「強弱も」
「同じだな」
「じゃあ何なんですか?」
少し強く言ってしまった。
黒川先生は怒らない。
「それを考えるんだ」
やっぱり答えてくれなかった。
私はもう一度、鳴海くんの演奏を思い出した。
モーツァルト《ピアノ・ソナタ第16番 ハ長調 K.545》第1楽章。
難しい曲を無理に弾いていたわけじゃない。
一年生の小さな手でできないことを、何か変な方法でやっていたわけでもない。
指遣いも見えた範囲では普通だった。
姿勢も普通。
手も私より小さい。
速さだって、もっと速く弾ける子はいる。
一つずつなら、説明できる。
なのに全部合わせると違う。
「……分かりません」
言うのは悔しかった。
でも分からないものを、分かったふりはしたくない。
黒川先生が頷く。
「私も全部は分からない」
私は先生を見る。
「先生も?」
「そうだ」
それは少し驚いた。
黒川先生はプロのピアニストだ。
外国でも勉強して、コンクールでも結果を出している。
私が小さい頃から会った先生の中でも、演奏を聞く力は一番高い。
その先生が分からないと言った。
「でも、何も分からないわけじゃないでしょう?」
「もちろん」
先生は近くの椅子へ座った。
私も座る。
少し離れたところでは、まだ大会が終わった後の人たちが話している。
「まず、あの子は耳がいい」
「それは分かります」
「かなり、だ」
「どのくらいですか?」
「今の一回だけでは決められない。ただ、普通に音感が良いという言葉だけでは足りないかもしれない」
私は鳴海くんと話した時のことを思い出す。
今年からピアノを始めた。
曲の番号は覚えていない。
音は覚えているから大丈夫。
そんなことを普通に言っていた。
「先生」
「何だ」
「鳴海くん、本当に今年から始めたみたいです」
黒川先生の視線が少し変わった。
「本人に聞いたのか」
「はい。先生は水原先生だそうです。家にはピアノもないって」
「なるほど」
「信じられますか?」
「本人が嘘をつく理由は?」
「分かりません」
「なら、今は事実として置いておけばいい」
先生はいつもそうだった。
変な話でも、すぐ否定しない。
確かめられるものだけを分ける。
「それと」
私は続けた。
「本人が、会場の響きに合わせて途中で弾き方を変えたって言ってました」
今度は黒川先生が少し黙った。
「本人がそう言ったのか?」
「はい。前の音の残り方が違ったからって」
「どの部分だ」
私は説明する。
同じような形が戻ってきたところ。
最初とはほんの少し置き方が変わった。
鳴海くんに聞いたら、その時はそっちが良かったと言った。
黒川先生は最後まで聞いた。
「……そういうことか」
「分かったんですか?」
「一つはな」
先生は舞台の方を見る。
「綾音。今日のピアノ、最初の一音で全部分かったか?」
「全部は無理です」
私はすぐ答えた。
もちろん、鍵盤へ触れればいろいろ分かる。
重さ。
音の立ち方。
低音と高音の違い。
ホールでどう響くか。
でも一音ですべては分からない。
弾きながら確かめていく。
「普通はそうだ」
黒川先生が言う。
「本番のピアノは、その場で対応するしかない。だから経験も必要になる」
「はい」
「鳴海くんも確認はしている。ただ、その確認が異常に早い可能性がある」
「最初の何音かで?」
「少なくとも、今日の演奏を聞いた限りではな」
私は黙った。
それなら少し説明できる。
でも、それだけでは足りない。
「それが分かっても、まだ変です」
「そうだな」
先生はあっさり認めた。
「音色を変える方法は説明できる。タイミングを変える方法も、強弱の付け方も説明できる」
「はい」
「問題は、なぜその瞬間にそれを選べるのかだ」
先生の言葉で、私がずっと気持ち悪かったところが少し形になった。
弾き方そのものではない。
選び方。
私は曲を練習する時、何度も考える。
先生に言われる。
自分でも試す。
録音を聞く。
前よりいい形を探す。
それを本番へ持っていく。
もちろん、本番で変えることもある。
でも全部をその場で決めているわけじゃない。
鳴海くんは違う。
少なくとも、そう見えた。
「……ずるい」
口から出た。
黒川先生が私を見る。
「何がだ?」
「そんなの、ずるいじゃないですか」
「才能が?」
聞かれて、私は止まった。
才能。
私はその言葉を嫌いじゃない。
自分にもあるから。
小さい頃から、周りよりできた。
一度教われば覚えるのも早かった。
耳も良い。
指もよく動いた。
両親も音楽家だから、普通の家の子よりずっと早くから良い音楽を聞いてきた。
先生にも恵まれた。
たくさん練習もした。
でも、練習したから才能がなくなったわけじゃない。
私は才能がある。
それを恥ずかしいと思ったことはなかった。
「……才能があることがずるいなら、私もずるいです」
「そうだな」
「じゃあ違います」
「なら何だ?」
「分かりません」
またそれだった。
今日は何度も分からないと言っている。
悔しい。
「でも、次は分かります」
黒川先生が少し笑った。
「そうか」
「全国大会でも一緒ですから」
「鳴海くんも進んだな」
「はい」
「では、よく聞くといい」
「勝ちます」
私が言うと、先生は少しだけ間を置いた。
「その前に、自分の演奏を良くしろ」
「分かってます」
それも、いつもの先生だった。
〓〓〓
家には、物心がついた頃から音楽があった。
父は曲を書く。
母は歌う。
家で仕事の話をすることもある。
知らない作曲家の名前も、演奏家の名前も、小さい頃からたくさん聞いた。
初めてピアノへ触った日のことは、もうはっきり覚えていない。
気づいた時には弾いていた。
音を出すのが好きだった。
上手く弾けるともっと好きになった。
先生に褒められれば嬉しかった。
難しかったところができるようになるのも楽しかった。
同じ年くらいの子と一緒になれば、だいたい私の方が上手かった。
それも嬉しかった。
だから練習した。
練習すれば、昨日できなかったことが今日できる。
今日できたことが、明日はもっと良くなる。
それが嫌だと思ったことはない。
県大会の次の日も、私はピアノの前に座っていた。
母が部屋の入口から顔を出す。
「綾音、少し休んだら?」
「まだ大丈夫」
「昨日も本番だったでしょう」
「本番だったからです」
「どういうこと?」
「直したいところがあるの」
母は少し笑った。
「ほどほどにね」
「分かってる」
本当に分かっている。
手を壊したら意味がない。
疲れて悪くなったまま続けるのも違う。
だから休む時は休む。
ただ、今はまだ弾ける。
昨日の自分の演奏を思い出す。
悪くなかった。
むしろ良かった。
最初の入りも。
途中の歌わせ方も。
最後まで集中も切れていない。
去年の私より、今の私の方が絶対に上手い。
それでも鳴海くんの方が上だった。
鍵盤に手を置く。
一音。
次。
私は自分の音を聞く。
鳴海くんの真似をしたいわけではない。
あの子と同じ音を出したところで、それが私の良い演奏になるとは限らない。
でも、分からないままにしておくのは嫌だった。
どうしてあの一音は、あそこであんなふうに聞こえたのか。
どうして、ほんの少し時間を置いただけで次の音があんなに自然につながったのか。
一つずつならできる。
私にだってできる。
でも同じにならない。
「……なんで」
誰もいないから、そのまま声に出た。
もう一度弾く。
今度は少し変える。
違う。
戻す。
それも違う。
鳴海くんが言っていた。
その時はそっちがよかったから。
私はその答えが嫌いだった。
答えになっていない。
そんなことを言われたって分からない。
でも。
もし本人にとって、本当にそれ以上説明することがないなら。
それはもっと腹が立つ。
私は考えて、選んで、練習して、良くする。
あの子は、良い方が分かるからそうする。
そんなふうに見えた。
「綾音」
父が来た。
「何?」
「黒川先生から連絡が来てる。全国の曲、次のレッスンで確認したいそうだ」
「分かった」
全国大会。
今度は県大会より上手い子が集まる。
私も去年、そこで弾いた。
そして一番だった。
今年も勝つつもりだった。
今も、そのつもりだ。
鳴海くんが出てきたからといって、その気持ちは変わらない。
むしろ、前よりはっきりした。
私はまた鍵盤へ手を置いた。
〓〓〓
次のレッスンで、黒川先生は私の演奏を最後まで聞いた。
弾き終わる。
手を離す。
先生はすぐには何も言わなかった。
「どうですか?」
私から聞く。
「良くなっている」
「でも?」
「急ぎすぎだ」
分かっていた。
「鳴海くんを意識してるからですか?」
「自分で分かっているなら直せ」
「はい」
悔しいけれど、その通りだった。
勝ちたいと思うのは悪くない。
でも、そのせいで自分の音を壊したら意味がない。
「綾音」
「はい」
「昨日までのお前の演奏が急に悪くなったわけじゃない」
「分かっています」
「本当に?」
私は少し黙る。
黒川先生が続ける。
「お前は去年、全国で勝った。今年は去年より上手い」
「はい」
「そこは鳴海くんが現れても変わらない」
先生ははっきり言った。
慰めている声ではなかった。
事実を言っている。
だから私も普通に受け取れる。
「でも、今は鳴海くんの方が上だと思いますか?」
聞く。
先生は迷わなかった。
「県大会の演奏だけなら、私はそう見る」
やっぱり悔しい。
でも、聞いてよかった。
「なら、全国では変えます」
「何を?」
「結果を」
先生が少し笑った。
「その意気は悪くない」
「でしょう?」
「ただし、相手を追いかけて自分の演奏を崩すな」
「はい」
黒川先生は楽譜を出した。
全国大会では、地方予選や県大会とはまた条件が変わる。
課題曲がある。
同じ候補から選び、同じ会場で、同じように審査される。
「同じ曲なら、もっと分かりますよね」
私が言うと、先生は楽譜をめくる手を止めた。
「何が?」
「鳴海くんが何をしてるのか」
「そう単純ならいいがな」
「分かります」
「ずいぶん自信がある」
「だって、同じ楽譜でしょう?」
同じ曲。
同じ会場。
同じピアノ。
条件が近ければ、違いも見つけやすい。
私はそう思った。
黒川先生は少し考えてから言う。
「一つだけ覚えておけ」
「何ですか?」
「分からないものを、分かったことにするな」
私は先生を見る。
「今日のお前は、鳴海くんを何か一つの理由で説明したがっている」
「だって理由はあるでしょう?」
「もちろんある」
「なら」
「だが、それがお前の知っている言葉一つで説明できるとは限らない」
先生は静かだった。
「耳がいいから。才能があるから。練習していないから。そういう言葉を一つ付けて終わらせれば楽だ」
「……はい」
「分からないなら、分からないまま見ろ。その方がよく見える」
私は楽譜を見る。
すぐ納得できたわけではない。
分からない状態は嫌いだ。
だから答えを探したい。
でも、適当な答えで終わらせるのはもっと嫌だった。
「分かりました」
「では始めよう」
「はい」
私は鍵盤へ手を置く。
全国大会まで時間はある。
鳴海くんが何者なのかは、まだ分からない。
でも一つだけ分かる。
あの子は、次も来る。
だったら私は、次はもっと上手くなって待つ。
去年の私では、今の私には勝てない。
今の私も、全国大会の日にはもう古い。
私はそうやって上手くなってきた。
相手がどれだけ変でも、そこは変える必要がない。
次に鳴海くんの演奏を聞いた時。
今度こそ何が違うのか見つける。
そして、その上で勝つ。
私は最初の音を弾いた。




