第12話 全国大会
東京へ行くのは初めてだった。
朝早く家を出て、父さんと電車に乗る。
途中から人が増えた。
駅へ着くたびに、知らない声と足音が入ってくる。
青瀬とは違う。
建物も多い。
色も多い。
車も多い。
でも、人が多いこと自体は学校へ入る前から知っている。
必要なものだけ聞けばいい。
「楽」
父さんが言う。
「なに?」
「降りるぞ」
「うん」
東京文化会館。
今日の全国青少年ピアノコンクールは、その小ホールでやる。
地方予選。
長野県大会。
その次。
ここで最後だった。
入口では水原先生が待っていた。
「おはよう、楽くん」
「おはよう」
「疲れてない?」
「座ってただけだから平気」
「そう」
水原先生が少し笑う。
でも緊張していた。
長野県大会の時より、少し大きい。
「今日は全国だから?」
俺が聞く。
「え?」
「前より緊張してる」
先生が一度止まった。
「……分かる?」
「うん」
「そうね。先生もちょっと緊張してるわ」
父さんが横から言う。
「楽はしてないみたいですが」
「してないよ」
「知ってる」
父さんは普通だった。
水原先生が息を吐く。
「楽くん、今日の流れを確認しましょう」
「課題曲と自由曲を弾く」
「そう。合わせて12分以内ね」
「分かってる」
「課題曲は?」
「シューマン」
「曲名は?」
少し考える。
音は出てくる。
名前も今回は覚えていた。
「《子供の情景》の『見知らぬ国と人々について』」
水原先生が頷く。
「そう。それから自由曲」
そっちも分かっている。
何度も弾いた。
俺の手で無理なく弾ける、モーツァルトのソナタから一つ。
全国大会だからといって、急に指が届かない曲を選ぶ必要はないと水原先生は言った。
難しいものを弾いた方が勝つわけじゃないらしい。
俺にもその方が分かりやすい。
届かないものを無理にやるより、届くものを一番よく鳴らせばいい。
「それと」
水原先生が俺を見る。
「今日は、地方予選や県大会より上手な子ばかりよ」
「うん」
「課題曲なら、大きく間違える子はほとんどいないと思う」
「じゃあ聞きやすいね」
「聞きやすい?」
「間違いばっかりだと、そっち気になるから」
水原先生が何か言おうとして、やめた。
父さんは、
「楽、行くぞ」
と言った。
「うん」
中へ入る。
今日は、県大会より面白そうだった。
〓〓〓
全国大会に来た子は、みんな上手かった。
地方予選では、一つ音を外したり、途中で速さが変わったりする子がいた。
ここでは少ない。
止まる子もいない。
楽譜にある音は、だいたい全部鳴る。
だから、違うところが前よりよく分かった。
同じ課題曲なのに、一人ずつ違う。
最初の一音から違う。
柔らかい子。
少し硬い子。
ゆっくり歌う子。
先へ進みたがる子。
音を長く残す子。
きれいだけど、全部同じ強さに聞こえる子。
俺は客席で聞いていた。
「どう?」
隣の水原先生が小声で聞く。
「みんな上手い」
「そうね」
「前より面白い」
「それはよかった」
一人の演奏が終わる。
拍手。
次の子。
また同じシューマンが始まる。
同じ曲を何回も聞いているのに、同じにはならない。
楽譜は同じ。
ピアノも同じ。
会場も同じ。
弾く人だけ違う。
それだけでこんなに変わる。
俺は少し楽しくなってきた。
「楽」
父さんが俺を見る。
「なに?」
「楽しそうだな」
「うん」
「珍しいな。待つの嫌いなのに」
「今日は聞くものあるから」
「そうか」
前のコンクールでは、待っている時間が長かった。
今日は違う。
全国まで来る子は、聞くものが多い。
しばらくして、知っている名前が呼ばれた。
九条綾音。
九条が舞台へ出る。
県大会で見た時と同じように姿勢がいい。
でも音は前と少し違った。
舞台に出てきた時から、かなり強い。
俺の方を探しているわけではない。
ピアノだけ見ている。
勝つつもりなのは分かった。
座る。
課題曲が始まる。
最初の一音。
前の子よりいい。
二つ目。
三つ目。
やっぱり九条は上手い。
県大会で聞いた時より、迷いが減っていた。
同じ曲ではないから、そのまま比べられない。
でも身体の使い方も、音の置き方も、前より少し整っている。
「九条、上手くなった」
俺が小さく言う。
水原先生がこっちを見る。
「分かる?」
「前よりいいよ」
「県大会からそんなに経ってないけど」
「でも違う」
水原先生は舞台を見る。
九条の演奏は続く。
この曲は、派手ではない。
指をものすごく速く動かす場所もない。
だから音そのものがよく聞こえる。
九条は丁寧だった。
小さな音も消えない。
大きくしなくても前へ出る。
一つのまとまりが終わる時も急がない。
かなりいい。
でも、少しだけ強い。
この曲を絶対にきれいに弾く。
そういう力がずっと入っている。
悪くはない。
九条はそうしたいらしい。
課題曲が終わる。
続いて自由曲。
こっちはもっと九条らしかった。
音が動く。
舞台の上で身体が自然に使われている。
一年しか違わないのに、俺より手も少し大きい。
長く習っているから、鍵盤の前に座っている姿も慣れていた。
最後の音が消える。
大きな拍手。
県大会より強い。
九条がお辞儀をする。
戻っていく。
「やっぱり上手いね」
俺が言う。
「ええ」
水原先生は嬉しそうだった。
「優勝候補だからね」
「去年一番だったし」
「そう」
「でも今年はまだ決まってない」
俺が言うと、水原先生が少しだけ笑った。
「そうね」
別に俺が勝ちたいという意味ではない。
まだ全員弾いていない。
だから決まっていないだけだ。
〓〓〓
舞台袖で待っていると、九条が来た。
演奏はもう終わっている。
「鳴海くん」
「なに?」
「次?」
「うん」
九条は俺を見る。
県大会の時より、変な音が少ない。
その代わり、強い。
「私の演奏、聞いた?」
「聞いたよ」
「どうだった?」
「上手かった」
九条の眉が少し動く。
「それだけ?」
「前よりよかった」
今度は、はっきり反応した。
「県大会より?」
「うん」
「どこが?」
考える。
いっぱいある。
「音の終わり方。あと、前より急いでない」
「……そう」
九条は少し嬉しい。
でも、すぐに別の音が混ざる。
俺に褒められて嬉しいことが気に入らないらしい。
よく分からない。
「鳴海くん」
「なに?」
「今日は負けないから」
「うん」
「うんって何?」
「分かったってこと」
「あなたも勝ちたいと思わないの?」
前にも聞かれた。
「別に」
九条の顔が少し変わる。
「全国大会よ?」
「知ってる」
「第1位なのよ?」
「取れたら取れたでいいよ」
「……意味が分からない」
「九条は取りたいんでしょ?」
「当たり前でしょう」
「じゃあ頑張ればいいじゃん」
言ったら、九条はもっと変な顔になった。
「もう弾いたわよ」
「じゃあ終わったじゃん」
「そういう意味じゃなくて」
係の人が俺を呼ぶ。
「鳴海楽さん、お願いします」
「呼ばれた」
俺が言う。
九条は一度口を閉じた。
それから、
「ちゃんと弾いて」
と言った。
「そのつもり」
「適当に弾いたら怒るから」
「適当には弾かないよ」
弾くなら、その時一番いいと思うように弾く。
わざと悪く弾く理由はない。
俺は九条の横を通って舞台へ向かった。
光が当たる。
客席が暗い。
東京文化会館の小ホール。
歩いた時の靴の音から、前の二つの会場とは違った。
舞台の大きさ。
天井。
客席の形。
壁。
空気。
全部違う。
お辞儀。
ピアノへ行く。
座る。
鍵盤へ手を置く。
このピアノに触るのは初めてだ。
最初の曲は課題曲。
シューマン《子供の情景》より「見知らぬ国と人々について」。
一音目。
鳴らす。
柔らかい。
でも、ぼやけてはいない。
音の真ん中が残る。
会場は県大会より少し近く感じる。
客席へ届いた音が返ってくるまでの形も違う。
二音目。
もう少し弱くていい。
三音目。
ここ。
始める。
曲は知っている。
何度も弾いた。
でも、水原先生の教室で弾いたものを、そのまま持ってきても意味がない。
ピアノが違う。
部屋が違う。
聞いている人も違う。
今日は今日の音がある。
右手の音を置く。
左手を入れる。
強く出さない。
小さくしても、このピアノなら客席まで届く。
だから押し込まなくていい。
一つ鳴る。
残る。
次。
少しだけ待つ。
待ちすぎると切れる。
早いと前の音に重なる。
ちょうどいいところがある。
そこへ置く。
客席が静かになっていく。
最初から静かだった。
でも、途中から種類が変わった。
動かない。
咳も減る。
服の音も小さい。
全員がこっちを聞いている。
その静けさの中なら、もっと小さい音も使える。
少し弱くする。
消えない。
なら、このまま。
光もある。
舞台の木の色。
黒いピアノ。
客席の暗さ。
全部、俺には音としてある。
でも全部を入れる必要はない。
今の曲に合うものだけ使う。
知らない場所を見る時の感じ。
初めて来た東京。
初めて触るピアノ。
知らない客席。
それがこの曲にはちょうどよかった。
音が進む。
大きな動きはない。
だから少しの違いがそのまま残る。
最後の方へ行く。
急がない。
でも止めない。
終わる。
最後の音がホールに残る。
手を上げない。
消える。
静かになる。
一度息をする。
次は自由曲。
少し身体の位置を整える。
同じピアノ。
でも曲が変われば、使い方も変わる。
今度は少し明るい。
音を前へ出す。
さっきより輪郭をつける。
指が動く。
俺の手で届く範囲の曲だから無理はない。
速いところでは、今の鍵盤の戻り方に合わせる。
水原先生のピアノより少し違う。
だから指を上げる量も少し変える。
やりすぎる必要はない。
一度分かれば、その後は同じ。
曲が進む。
客席の集中は切れていない。
そのまま使う。
弱いところは弱く。
強いところは、この会場で強く聞こえるところまで。
それ以上は要らない。
音が濁るだけだ。
最後。
鳴らす。
響きが広がる。
終わる。
手を離す。
少し遅れて拍手が来た。
大きかった。
前より大きいかは分からない。
会場が違うから、そのまま比べても意味がない。
立つ。
前へ行く。
お辞儀。
戻る。
今日は二曲。
終わった。
舞台袖へ入ると、水原先生が立っていた。
何も言わない。
「終わったよ」
俺が言う。
「……ええ」
「どうしたの?」
「楽くん」
「なに?」
「課題曲、教室の時とかなり変えたでしょう」
「ここ違うから」
「やっぱり」
「だめ?」
「だめじゃないわ」
先生はすぐ答えた。
「むしろ、良かった」
「じゃあいいじゃん」
「……そうね」
水原先生は笑った。
でもまだ少し驚いている。
何度も見ているのに、なかなか慣れないらしい。
〓〓〓
結果が出るまでは、また待った。
でも今日は他の演奏も聞けたから、あまり暇ではなかった。
全国まで来た子はみんな上手い。
その中でも九条はかなり違った。
九条より上手いと思う子は、ほかにいなかった。
結果発表が始まる。
入選。
第3位。
名前が呼ばれる。
第2位。
「九条綾音さん」
九条の名前だった。
周りから拍手が出る。
九条が立つ。
顔は普通にしている。
でも音は全然普通じゃない。
悔しい。
かなり。
それでも俯かない。
前へ出る。
賞を受け取る。
お辞儀。
戻る。
それから第1位。
「鳴海楽さん」
俺だった。
「楽」
父さんが言う。
「呼ばれたぞ」
「うん」
立つ。
前へ行く。
賞を受け取る。
お辞儀。
戻る。
水原先生が、ものすごく嬉しそうだった。
「楽くん」
「なに?」
「第1位よ」
「聞いてたよ」
「全国でよ?」
「うん」
「……もう少し何かない?」
考える。
賞は嬉しくないわけではない。
一番上なら、悪い結果ではない。
「取れてよかった」
「そう」
水原先生は笑う。
たぶん俺の答えにはもう慣れている。
父さんは賞状を見る。
「全国でも一番か」
「そうみたい」
「なら、当分使えそうだな」
「何が?」
「ピアノ」
父さんが水原先生を見る。
「少なくとも、続ける意味はありそうですね」
「ありそう、という水準ではないと思います」
水原先生はすぐ答えた。
父さんは、
「そうですか」
だけだった。
そこへ九条が来た。
さっきより静かな顔だった。
でも近づくと、悔しさはまだ大きい。
「鳴海くん」
「なに?」
「おめでとう」
「ありがとう」
ちゃんと言うらしい。
俺も言う。
「九条も2位おめでとう」
九条の眉が少し動いた。
「……ありがとう」
「九条、やっぱり上手かったよ」
今度ははっきり顔が変わった。
「慰めてる?」
「なんで?」
「私、あなたに負けたのよ」
「でも上手かったよ」
「そういうことじゃなくて」
「じゃあ何?」
九条が言葉に詰まる。
少しして、息を吐いた。
「次は勝つ」
「うん」
「だから、その返事やめて」
「なんで?」
「悔しくなるから」
それなら今はかなり悔しい。
俺にも分かる。
「でも、九条は来年もっと上手くなるんでしょ」
九条が止まった。
「何それ」
「前より上手くなってたから」
「……当たり前よ」
今度は声が少し強くなった。
「次はもっと上手くなる」
「じゃあ聞く」
俺が言うと、九条は俺を見る。
「それだけ?」
「うん」
「私が上手くなっても、負けるかもって思わないの?」
「やってみないと分からないじゃん」
「自信ないの?」
「あるよ」
「じゃあ勝つって言いなさいよ」
「なんで?」
「もういい!」
九条が怒った。
でも、嫌っている音ではなかった。
悔しくて、次へ行きたい。
俺に勝ちたい。
もう来年のことを考えている。
変わった子だと思う。
俺は今日のコンクールが終わったばかりだから、まだ次のことは考えていなかった。
帰る前、水原先生が来年の話を父さんとしていた。
また出るらしい。
父さんが俺へ聞く。
「楽、来年も出るか」
「水原先生が必要だって?」
「そう言ってる」
水原先生が頷く。
「今年一度だけではなくて、本番の経験は重ねた方がいいと思うの」
「じゃあ出る」
それで決まった。
少し離れたところにいた九条が、その会話を聞いていた。
俺と目が合う。
さっきまで怒っていたのに、今度は少し笑った。
たぶん、来年も俺が来ると分かったからだ。
俺は別に九条に勝つために来るわけじゃない。
水原が必要だと言うならやる。
知らない曲も増える。
会場もピアノも、その年ごとに違う。
それなら暇にはならない。
九条も、たぶん来年は今日より上手い。
それを聞くのも悪くなかった。




