第8話 才能では身につかないもの
水原ピアノ教室へ通うようになって、最初に教わったのは音ではなかった。
「楽くん、もう少し前に座りましょう」
「ここ?」
「そう。深く座りすぎると動きにくいから」
俺は椅子の上で少し前へ動く。
「背中は、そんなに固くしなくていいの。丸まりすぎないくらいで」
「こう?」
「そうね」
水原先生が俺の肩を見る。
俺は鍵盤を見る。
早く鳴らしたい。
先生にはそれも分かったらしい。
「弾きたい?」
「うん」
「でも、今日はここも覚えましょう」
「座るだけなのに?」
「長く弾くなら大事なのよ。変な姿勢でずっと弾くと、疲れやすくなるから」
それなら意味がある。
「分かった」
言われた位置へ座り直す。
足はまだ床へちゃんと届かない。
水原先生が足元を調整する。
「今は身体が小さいから、これを使いましょう」
足を置く。
さっきより身体が安定した。
「楽くんの身体はこれから大きくなるから、ずっと同じ座り方という意味ではないの。その時の身体に合わせるのよ」
「大きくなったらいらない?」
「たぶんね」
鍵盤へ手を置く。
「それから手」
水原先生が俺の指を見る。
「先生が前に言った形、覚えてる?」
「覚えてるよ」
言われた通りに置く。
「うん。それで弾いてみて」
一音。
次。
少し続ける。
水原先生は黙って聞いている。
「音は大丈夫?」
「音はね」
「じゃあ何がだめ?」
「だめというより、今の動かし方でもこのくらいなら弾けるけれど、もっと長くて動きの多い曲になると困るところが出るの」
先生が俺の指を指す。
「ここ。さっき、行きにくくなったでしょう?」
「うん」
行けないわけではない。
でも一度手を浮かせた。
「楽くんなら、その場で別の動かし方を見つけられると思う。でも毎回好きに変えるより、よく使われる指使いを知っていた方が早いこともあるの」
「みんな同じ?」
「全部ではないけど、よく使う形はあるわ」
「なんで?」
「次の音へ動きやすいように、長い間いろいろな人が考えてきたから」
それなら使える。
俺は先生が教えた順番で指を動かす。
一回。
「もう一度」
二回。
「もう一度やってみましょう」
三回。
同じだった。
「まだやる?」
「楽くんはもう覚えた?」
「うん」
もう一度同じように弾く。
水原先生は俺の手を見る。
『本当にもう同じように動くのね』
驚いている。
「じゃあ、これはもういいわ」
「次は?」
「次へ行きましょう」
俺は少し嬉しくなった。
同じことをずっとやるより、その方がいい。
先生は紙を出した。
前にも見た、線と黒い丸が並んでいるもの。
楽譜。
名前はもう覚えた。
「今日はこれを読みましょう」
「音出さないの?」
「後で出すわ。まず、ここに書いてあるものが何か分からないとね」
「聞けば分かるよ」
「聞かせてくれる人がいない時は?」
前にも言われた。
「紙で分かる方がいい」
「そういうこと」
先生が一つずつ教える。
線。
丸の位置。
音の長さ。
休むところ。
強く。
弱く。
同じように見える黒い丸でも、付いているものが違えば意味も変わる。
面倒な決まりが多い。
音そのものなら、聞けば全部分かる。
でも紙は、音をそのまま鳴らしてくれない。
人が決めた印らしい。
「なんでこれがこの音なの?」
俺が聞く。
「昔からそういう決まりで使われているから、としか言えないところもあるわね」
「別の印でもよかった?」
「最初に決める時なら、そうだったかもしれないわ」
「じゃあ覚えるしかない?」
「そうね」
仕方ない。
決まりなら覚える。
先生が説明したものを見ながら、鍵盤を押す。
最初は紙を見てから考える。
ここだから、この音。
次は一つ上。
こっちは長くする。
やっているうちに、黒い丸を見ると音が浮かぶようになった。
ただ、音は覚えても、紙に何と書いてあったかまで勝手に全部残るわけではない。
位置を見て、習った決まりに当てはめる。
「ここは?」
水原先生が指す。
「さっきと同じ音」
「そう。長さは?」
「こっちの方が長い」
「じゃあ弾いてみて」
弾く。
「うん」
次。
次。
少しずつ増える。
「楽譜って面倒だね」
俺が言うと、水原先生が笑った。
「そう?」
「音なら鳴らせば早い」
「それは楽くんにはそうでしょうね」
「先生も聞けば分かるでしょ?」
「分かるけれど、一度聞いただけで全部同じようには覚えられないの」
「そうなの?」
「そうなの」
それは学校でも何度かあった。
俺には普通でも、他の人には同じじゃない。
先生は楽譜を指で叩いた。
「それに、会ったことのない人が作った曲でも、これが残っていれば弾けるでしょう?」
俺は紙を見る。
「その人が弾かなくても?」
「ええ」
それは便利だった。
「じゃあ覚える」
「そうしましょう」
理由があるなら、別に嫌ではない。
〓〓〓
何回か教室へ通うと、音について水原先生が止めることは減った。
俺が違う音を出せば、自分でもすぐ分かる。
強さが違っても分かる。
長さが違っても分かる。
先生が一度やって見せれば、だいたい同じにできる。
だから先生がよく止めるのは、別のところだった。
「楽くん、そこ、今はその指でも弾けるけれど、次まで考えるとこっちの方がいいわ」
「こっち?」
「そう」
直す。
「今度は肩に力が入ってる」
「音変じゃないよ」
「今はね。でもそのまま長く弾いたら疲れるでしょう?」
力を抜く。
同じ音を出す。
こっちの方が楽だった。
「ほんとだ」
「でしょう?」
そういうのは覚える。
できるけど、別のやり方の方が後で楽なら、そっちでいい。
ただ、できないものもあった。
「ここ、届かない」
楽譜を見ながら手を広げる。
先生なら届く場所へ、俺の指は届かない。
少し無理に伸ばす。
やっぱり足りない。
「そこは今は届かなくていいの」
水原先生がすぐ言った。
「でも先生は弾ける」
「私の手は楽くんより大きいもの」
「もっと広げたら届きそう」
「やめましょう」
先生の声が少し強くなった。
怒っているわけではない。
止めた方がいいと思っている。
「無理に広げて手を痛めたら、弾けるものまで弾けなくなるわ」
「じゃあどうするの?」
「今の手で弾ける形にするか、別の曲を選びます」
「練習したら届く?」
「指の使い方が良くなって、少し楽になることはあるわ。でも手そのものの大きさは、練習したから明日急に大きくなったりしないでしょう?」
自分の手を見る。
「しない」
「身体が大きくなるのを待たないといけないこともあるの」
それはつまらない。
やり方が分かっているのに、手が届かない。
でも届かないものは届かない。
椅子へ座ったまま腕を伸ばしても、遠いものには触れないのと同じだ。
「分かった」
「悔しい?」
「別に」
「そう?」
「大きくなったら届くんでしょ」
「そうね」
「じゃあ今やらなくていい」
水原先生が一瞬止まって、それから笑った。
「楽くんは切り替えが早いわね」
「できないのにずっとやる方が変じゃない?」
「そういう考え方もあるわ」
先生は別の楽譜を出した。
「じゃあ、今の手で無理なく弾けるものにしましょう」
「うん」
そっちなら弾けた。
同じことを繰り返す日もあった。
座る。
手を置く。
決められた指で動かす。
楽譜を見る。
弾く。
また最初へ戻る。
音だけなら一回で足りることが多い。
でも、手の動かし方や座り方は、先生がもう一回と言うことがあった。
「今のはできたよ」
「できたわ。でも、疲れてくると少し崩れるの」
「最初はできてた」
「だから、疲れても無理のない形でできるようにしておきたいの」
「何回?」
「今日はあと三回」
三回ならやる。
一回。
二回。
三回。
「終わり?」
「ええ」
終わったら好きに弾いていい時間になる。
俺は楽譜を閉じた。
「何弾こう」
「今習ったものでもいいのよ」
「それもうやった」
「じゃあ好きにどうぞ」
先生も、最近は分かってきたらしい。
俺は同じ音を何度も鳴らすより、違うものを作る方が好きだった。
窓の外を見る。
今日は曇っている。
白より灰色に近い音。
風は弱い。
遠くを車が通る。
教室の時計。
水原先生が紙をめくる音。
それを混ぜて鍵盤へ置く。
水原先生は止めない。
ただ聞いている。
『教えたことを使いながら、もう別のことをしてる』
先生が面白がっている。
少し嬉しそうでもある。
でも俺は、そのことには何も言わなかった。
父さんに教わったからではなく、もう言っても特に何も増えないと分かってきたからだった。
〓〓〓
ある日は、ピアノをほとんど弾かなかった。
水原先生が部屋の端に椅子を置いた。
「今日は別のことをしましょう」
「何?」
「人前で弾く時の練習」
「ピアノ弾かないの?」
「最後には弾くわ」
先生は扉を指す。
「一度、外へ出てみて」
言われた通り廊下へ出る。
扉が閉まる。
少しして開いた。
「では、入ってきてください」
入る。
「止まって」
止まる。
「ここで、お客さんがいるつもりでお辞儀をしてみて」
「なんで?」
「演奏会やコンクールでは、舞台に出て、お客さんや審査する人にお辞儀をして、それから弾くことがあるの」
「弾くのに関係ある?」
「音には関係ないわ」
「じゃあいらなくない?」
水原先生は怒らなかった。
「ピアノだけ弾ければいい場所なら、いらないかもしれない。でも、人前で演奏するなら、始まる前と終わった後にも決まりがあるの」
「決まり?」
「そう。みんなが同じ流れを知っていると、いつ始まるか、いつ終わったか分かりやすいでしょう?」
考える。
学校の授業でも、始まる時と終わる時に挨拶をする。
それに近いのかもしれない。
「やらないと?」
「目立つわね」
「面倒になる?」
「たぶん」
「じゃあやる」
水原先生が笑った。
「理由はそれでいいわ」
もう一度、外へ出る。
入る。
歩く。
止まる。
お辞儀。
椅子へ向かう。
座る。
「今、少し早いわ」
「どこが?」
「お辞儀して、顔を上げてからすぐ歩いたでしょう。もう少し落ち着いてからでいいの」
「何秒?」
「秒数で決まっているわけじゃないのよ」
それは分かりにくい。
「じゃあどうするの?」
「見ていて自然に感じるくらい」
もっと分かりにくい。
水原先生がやって見せる。
扉から歩く。
止まる。
お辞儀。
顔を上げる。
少しだけ間がある。
歩く。
「今の」
「同じにする?」
「まずはそれでいいわ」
やる。
歩く速さ。
止まる場所。
お辞儀の深さ。
間。
先生がやったものを、そのまま合わせる。
「……はい。そんな感じ」
「もういい?」
「もう一回だけ」
もう一度やる。
「大丈夫」
「音じゃないのに同じことするんだね」
「音だけで演奏家の仕事が全部終わるわけではないから」
演奏家。
父さんが言っていた、ピアノで食べていく人。
「仕事なら仕方ないね」
「まだ仕事じゃないけどね」
「将来の練習でしょ?」
「そうね」
ならやっておく。
弾けるのに、出てくるところで怒られる方が面倒だった。
〓〓〓
しばらくして、水原先生が父さんにも来てほしいと言った。
いつものレッスンが終わる頃、父さんが教室へ来る。
俺はピアノの前に座って、好きに音を鳴らしていた。
先生と父さんは後ろで話している。
「かなり早いです」
水原先生が言った。
「上達がですか」
「上達という言い方でいいのか、少し迷います」
「というと?」
「音や演奏そのものについては、私が普通の生徒にするような指導がほとんど必要ないんです」
水原先生は少し困っている。
でも嫌ではない。
むしろ楽しんでいる音の方が強い。
「私は、楽くんに音を正しく聞かせる必要がありません。弾き方も、結果を見せれば、自分でそこへ合わせてしまいます」
父さんはいつも通り聞いている。
「では、何を教えているんですか」
「今は、身体に無理のない姿勢や、一般的な指使い、楽譜の読み方。それから、人前で弾く時の作法です」
「必要ですか」
「必要だと思います」
「ならお願いします」
父さんは早い。
水原先生も、もう慣れたみたいだった。
「それで、今日はもう一つご相談があります」
俺は鍵盤から手を離した。
水原先生が俺を見る。
「楽くんにも聞いてほしい話よ」
「なに?」
「コンクールに出てみない?」
「コンクールって?」
「ピアノを弾いて、審査する人に評価してもらう場」
「誰が一番うまいか決めるの?」
「簡単に言えば、そういう面もあるわ」
「一番にならないとだめ?」
「いいえ」
先生はすぐ答えた。
「私は、楽くんに勝つためだけに出てほしいわけじゃないの」
父さんも黙って聞いている。
「この教室の中だけで弾いていると、私が見ているものしか分からないでしょう?」
「うん」
「外の先生や演奏家が楽くんをどう評価するのかも見たいの。それから、本当の会場で人の前に出て弾く経験もしておいた方がいいと思う」
「ここでやったお辞儀も?」
「使うわ」
「じゃあそれの続き?」
「そう考えてもいいわね」
それなら分かる。
先生は続ける。
「コンクールだと、自分の番を待ったり、知らないピアノを弾いたり、審査される中で演奏したりするでしょう。教室ではできないことがあるの」
「知らないピアノ?」
そこが気になった。
「ええ。会場にあるピアノを使うの」
「ここのと学校のとも違う?」
「たぶん違うわ」
それは面白そうだった。
同じ鍵盤でも、学校と水原先生の家で音は違う。
別の場所なら、また違う。
「出る」
俺が言うと、水原先生が少し驚いた。
「もういいの?」
「うん。違うピアノあるし」
「そこなのね」
先生は笑った。
父さんが聞く。
「どのコンクールですか」
「全国青少年ピアノコンクールです。秋に地方予選があります。青瀬市文化会館が会場です」
父さんの音が変わる。
日程。
必要な時間。
金。
そういうものを考えている。
でも、出さないほど困る音ではない。
「楽」
父さんが呼ぶ。
「なに?」
「先生が必要だと言ってる。お前も出るなら、出ればいい」
「うん」
「別に一番にならなくていい。食っていければいい」
水原先生が一瞬、父さんを見る。
「……鳴海さんらしいですね」
「そうですか」
父さんは普通だった。
俺も一番には興味がない。
まだ、どんな人が出るのかも知らない。
「何弾くの?」
水原先生が俺を見る。
「それはこれから決めましょう」
「すぐ決める?」
「まず楽くんの手で無理なく弾けて、今の力もきちんと見てもらえる曲を選びます」
「難しいのじゃなくていい?」
「難しい曲を弾くことだけが上手さではないのよ」
そう言って、水原先生は棚の楽譜へ目を向けた。
『何を弾かせれば、この子の音が一番分かるだろう』
考えている。
先生は楽しそうだった。
俺はそれには答えず、鍵盤を一つ押した。
ぽん。
いつものピアノの音。
秋には、別の場所で別のピアノを弾くらしい。
勝つかどうかは、まだどうでもいい。
知らない音が増えるなら、行く理由はそれで十分だった。




