第6話 音楽
雨の日の次の日は晴れた。
校庭にはまだ水たまりが残っていたけれど、空は明るい。
朝の会が終わって、一時間目が終わって、二時間目も終わる。
学校へ来るようになってから、だいたいの一日の順番は覚えた。
次に何をするのか分からなくて待つことは、もうほとんどない。
三時間目になる前、佐藤先生が言った。
「次は音楽だから、みんなで音楽室へ移動しようね」
机の中を片づける。
立つ。
廊下へ並ぶ。
田島が前の方で木村と話している。
橋本は俺の少し後ろだった。
「鳴海、音楽好き?」
橋本が聞いた。
「音は好き」
「歌うやつだよ」
「歌も音だよ」
「そうだけど」
橋本は少し考える。
「じゃあ好きじゃん」
「たぶん」
音楽室は、今まで何度か前を通ったことがある。
でも中へ入るのは初めてだった。
扉が開く。
教室とは音が違った。
広さも違う。
床も違う。
壁にもいろいろなものがある。
前には黒い大きなものが置いてあった。
蓋のある鍵盤。
ピアノという名前は知っている。
テレビでも見たことがあるし、音も聞いたことがある。
でも近くで見るのは初めてだった。
ほかにも見たことのないものがいくつか置かれている。
佐藤先生が、
「今日はここの席に座ろうね」
と言った。
みんなが椅子へ座る。
俺も座った。
音楽室では、椅子を引く音まで教室と違って聞こえた。
壁から返ってくる音が少し長い。
体育館ほど広くない。
教室よりはよく返る。
俺は何度か足を床へ軽く当てた。
こつ。
返る。
もう一回。
こつ。
「鳴海、何してんの?」
隣の田島が聞いた。
「聞いてる」
「また?」
「うん」
田島はもう慣れたらしい。
「お前ずっとそれだな」
「音あるから」
「そりゃあるだろ」
佐藤先生が前へ立った。
「じゃあ始めようか」
みんなが前を見る。
最初は歌だった。
先生が歌って、みんなが続く。
知っている歌だった。
家のテレビでも聞いたことがある。
みんなで歌うと、一人で聞く時とは違う。
高い声。
低い声。
少し早い声。
少し遅い声。
同じところを歌っているけれど、ぴったり同じではない。
田島は大きい。
橋本は少し高い。
木村は途中で隣につられた。
前の方にいる子は、一つだけ違う高さで歌っている。
佐藤先生の声はその全部の上にあった。
俺も歌った。
知っている音だから、そのまま合わせる。
「鳴海、お前歌うまいじゃん」
歌が終わった後、田島が小さい声で言った。
「普通だよ」
「俺よりうまい」
「田島、さっき一個低かったよ」
「え?」
「ここ」
俺は小さく歌う。
さっき田島が出していた音。
そのあと、本当の音。
「違うでしょ」
田島が俺を見る。
「分かんねえ」
「違うよ」
「同じじゃん」
「違う」
「どっちでもいいだろ」
それなら、田島にはどっちでもいいらしい。
俺は前を向いた。
佐藤先生がピアノの前へ座る。
蓋を開ける。
白と黒が並んでいた。
「次は、先生のピアノに合わせて歌ってみようか」
先生の指が鍵盤へ触れた。
音が出る。
テレビから聞くのとは違う。
近い。
最初の一音が部屋へ広がって、壁から返る。
次。
次。
鍵盤を押す場所で音の高さが変わる。
同じ場所でも押し方で強さが変わる。
中で何かが動いている音も小さく混ざる。
面白い。
歌が始まる。
先生が弾く。
みんなが歌う。
俺も歌った。
途中で、
一つ違った。
先生の指が横へずれた。
本当なら出るはずだった音の隣。
すぐ戻る。
誰も止まらない。
歌も続く。
佐藤先生もそのまま弾いた。
だから俺も最後まで歌った。
曲が終わる。
「はい、上手に歌えました」
先生が笑う。
俺は手を上げた。
「佐藤先生」
「はい、鳴海くん」
「途中、一個違った」
「え?」
「ピアノ」
佐藤先生の音が止まった。
「どこ?」
俺はさっきのところを歌った。
間違う前から少し。
先生が出した違う音も入れる。
そのあと、
「ここ」
と言って、本当なら続いていた音を歌う。
佐藤先生が俺を見る。
『気づいたの?』
驚いている。
でも、まだ言っていない。
俺も何も言わない。
先生はピアノを見る。
「……先生、ちょっと間違えちゃったね」
「うん」
「よく分かったね」
「聞こえたから」
後ろから田島が言った。
「俺、全然分かんなかった」
「私も」
誰かも言う。
佐藤先生は鍵盤へ向き直った。
「じゃあ、もう一回やってみようか」
今度は間違えなかった。
さっき違ったところも同じになった。
「今は?」
先生が俺を見る。
「合ってる」
「そっか」
先生は少し考えていた。
授業はそのまま続いた。
〓〓〓
音楽の時間が終わった。
みんなが廊下へ並ぶ。
俺も出ようとすると、
「鳴海くん」
と佐藤先生に呼ばれた。
「なに?」
「次の休み時間、ちょっと音楽室に来てもらってもいい?」
「何するの?」
「少し音を聞いてほしいの」
「いいよ」
次の授業を受ける。
出されたものをやる。
終わる。
休み時間のチャイムが鳴った。
田島たちは外へ行くらしい。
「鳴海、行こうぜ」
「佐藤先生に呼ばれた」
「何したんだよ」
「音聞く」
「それで呼ばれんの?」
「知らない」
俺は音楽室へ行った。
佐藤先生はもう中にいた。
前のピアノの蓋が開いている。
「来てくれてありがとう」
「何聞くの?」
「すぐ終わるからね」
先生はピアノの前へ座った。
「鳴海くん、ちょっとこっち向かないでいてくれる?」
「うん」
後ろを向く。
鍵盤が見えなくなる。
一つ音が鳴った。
「今の音、覚えた?」
「うん」
また鳴る。
同じだった。
「同じ?」
「同じ」
また鳴る。
「これは?」
「違う」
「最初より高い? 低い?」
「高い」
先生が何度か音を出した。
同じ。
違う。
高い。
低い。
二つ一緒。
三つ一緒。
別に難しくない。
鳴ったものを聞けば分かる。
「じゃあ、これは覚えてね」
短く音が並んだ。
五つ。
一度止まる。
少しして、また五つ。
四つ目だけ違った。
「違う」
俺が言うと、先生の手が止まった。
「どこ?」
「四つ目」
「どう違った?」
「さっきより高い」
佐藤先生の音が大きく変わる。
驚いている。
「鳴海くん、後ろ向いたままでいいから、最初の音、歌える?」
「最初?」
「一番最初に弾いた音」
最初に聞いた一つを思い出す。
口から出す。
「あー」
「……じゃあ、その次に弾いた違う方は?」
それも出す。
先生が黙る。
「昨日の音楽の時間に、先生が最初に弾いた音って覚えてる?」
昨日ではない。
今日の前の授業だ。
「今日だよ」
「あ、ごめん。そうだね。今日」
先生は少し慌てている。
俺は最初の音を出した。
聞いたから覚えている。
「……これかな」
先生が鍵盤を押す。
同じだった。
「うん」
また先生が黙った。
『たまたまじゃない』
今度は、そういう音だった。
「鳴海くん」
「なに?」
「ピアノ、習ったことある?」
「ない」
「家にある?」
「ないよ」
「触ったことは?」
「ない」
先生がピアノを見る。
それから俺を見る。
「触ってみる?」
「いいの?」
「うん。先生が一緒にいるから」
俺はピアノの前へ行った。
先生が椅子から少しずれてくれる。
近くで見ると、鍵盤は思ったより大きい。
白。
黒。
並び方が途中から繰り返している。
さっき先生が押した場所も覚えている。
俺は一つ押した。
音が鳴る。
さっきまで聞いていたものより少し弱い。
もう一度押す。
少し強く。
音も強くなる。
同じ鍵盤。
押す速さと力が違う。
「どう?」
先生が聞く。
「面白い」
隣を押す。
違う音。
その隣。
また違う。
右へ行くと高くなる。
左へ行くと低くなる。
黒いところも押す。
白とは別の場所に音が入っている。
並び方はすぐ分かった。
「さっき先生が弾いたの、やってみる?」
「どれ?」
「最後に弾いた五つ」
覚えている。
でも、どの音がどの鍵盤なのかは、まだ全部押していない。
最初の一つは先生がさっき押した場所を見た。
そこから次の音を探す。
一つ押す。
違う。
隣。
これ。
次。
これ。
五つ出す。
最初に聞いた並びになった。
「……もう一回やってみて」
やる。
今度は探さなくてもいい。
五つ。
同じ。
「じゃあ、こっちは?」
先生が横から別の短い音を弾いた。
七つ。
一度聞く。
俺は鍵盤を見る。
最初の音を探す。
そこから続ける。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
途中で指が少し変な形になる。
そのままだと次へ行きにくい。
だから指を変える。
最後まで出た。
先生が何も言わない。
「違った?」
「ううん」
「じゃあ合ってる?」
「……合ってる」
「もう一個やる?」
俺が聞く。
先生は少し遅れて頷いた。
「うん。じゃあ、今度はこれ」
少し長くなった。
俺は聞く。
一回。
終わる。
弾く。
最初は右手だけで足りた。
途中で同時に二つ鳴る。
先生がそうしたから同じようにする。
俺の手で届くところなら押せる。
離れすぎた場所は、一度手を動かす必要がある。
先生の手より小さいから、同じ形では届かない。
でも、音を出す場所は分かる。
右。
左。
指を変える。
音が続く。
最後まで行った。
「あ」
一つだけ、強くなりすぎた。
俺はその場所をもう一度弾く。
今度は同じ強さ。
「こっち」
先生は何も言わない。
俺は最初からやり直した。
今度は全部、先生が弾いたのと同じにした。
終わる。
佐藤先生を見る。
先生は笑っていなかった。
怒ってもいない。
ただ、すごく驚いている。
「鳴海くん」
「なに?」
「本当に、初めて?」
「うん」
「お父さんにピアノ教えてもらったとかもない?」
「父さん、ピアノ弾かないよ」
「そっか……」
先生が鍵盤を見る。
俺も見る。
まだ押していないところがたくさんある。
「もうちょっと弾いていい?」
「え?」
「休み時間まだあるよ」
時計を見る。
まだ少しある。
先生が笑った。
「いいよ」
今度は先生の音を真似しない。
右からいくつか押す。
左も押す。
同じ間で並べる。
少し変える。
机を叩く時と同じだった。
こっちの方が音がたくさんある。
強くもできる。
弱くもできる。
高いところと低いところを一緒にもできる。
ただ、俺の手は小さい。
離れているところを同時には押せない。
届かないなら仕方ない。
届く中で並べる。
三つ。
二つ。
一つ。
同じ形を少しずらす。
違う。
戻す。
こっちの方がいい。
また鳴らす。
佐藤先生が隣でじっと見ている。
何かを確かめようとしている音だった。
休み時間の終わりを知らせるチャイムが鳴った。
俺は手を止める。
「終わりだ」
「……そうね」
先生はまだ少し変な音をしていた。
「教室戻っていい?」
「あ、うん。戻って大丈夫」
立つ。
扉へ行く。
「鳴海くん」
振り返る。
「なに?」
「ピアノ、楽しかった?」
「うん」
「そう」
「音いっぱいあるから」
先生はまた少し黙ってから、
「そっか」
と言った。
〓〓〓
帰りの会が終わった後、佐藤先生に呼ばれた。
「鳴海くん、今日は少しだけ残ってもらっていい?」
「いいよ」
「お父さんには先生から連絡してあるから」
「父さん来るの?」
「うん」
田島たちは帰った。
教室の人が減る。
俺は自分の席で、鉛筆を一本転がして待った。
ころ。
止まる。
向きを変える。
ころ。
しばらくすると、廊下から知っている足音がした。
父さんだった。
教室へ入ってくる。
「すみません、お時間を取っていただいて」
佐藤先生が言う。
「いえ」
父さんは短く答えた。
俺を見る。
「楽」
「なに?」
「何した」
「ピアノ弾いた」
父さんが佐藤先生を見る。
「それで呼ばれたんですか」
「はい。問題があったわけではないんです」
佐藤先生はすぐ言った。
父さんの音も変わらない。
最初から俺が問題を起こしたとはあまり思っていなかったらしい。
先生は机の近くへ椅子を出した。
父さんが座る。
俺も近くの席へ座った。
「今日、音楽の授業がありまして」
佐藤先生が話し始める。
授業で先生が少し弾き間違えたこと。
俺がそれに気づいたこと。
休み時間に音を聞かせたこと。
後ろを向いていても違いが分かったこと。
聞いた音をそのまま出せたこと。
初めて触ったピアノで、先生が弾いたものをほとんどそのまま弾いたこと。
父さんは黙って聞いている。
「楽」
途中で呼ばれた。
「何?」
「本当にピアノ触ったことなかったか」
「今日が初めて」
「そうか」
父さんはそれだけだった。
驚いてはいる。
でも佐藤先生ほど大きくない。
父さんにとって、俺が何かをすぐ覚えることは珍しくないからだと思う。
佐藤先生は続けた。
「私も音楽の授業は担当していますけど、専門の先生というわけではありません」
「はい」
「ですから、どこまでのことなのか、私にはちゃんとは分からないんです。ただ……普通ではないと思います」
父さんが俺を見る。
俺も見る。
普通ではない。
学校へ来てから、それは何度か言われた。
音でも同じらしい。
「耳がいい、というだけではない気がします。聞いたものを覚えていて、違いもすぐ分かりますし、鍵盤も……私が教えていないのに、自分で合わせてしまって」
佐藤先生の声にはまだ驚きが残っている。
でも、それより困っている音が少しあった。
自分ではこれ以上分からない。
そういう困り方だった。
「それで、鳴海さん」
「はい」
佐藤先生が父さんを見る。
「一度、専門の先生に見てもらった方がいいと思います」
父さんはすぐには答えなかった。
俺を見る。
それから先生を見る。
『どの程度使えるものなのか、分かる人間に見せた方が早い』
父さんの音はそんな感じだった。
でも口にしていない。
俺は黙っていた。
「分かりました」
父さんが言った。
「探してみます」
「ええ。無理に、ということではないんです。ただ、私がそのまま見ていていいのか迷うくらいだったので」
「分かります」
「鳴海くん自身は楽しそうでした」
二人が俺を見る。
「楽」
「なに?」
「ピアノ、またやりたいか」
俺は今日の鍵盤を思い出す。
白。
黒。
押すと出る音。
強さ。
高さ。
同時に出せる音。
手が届かないところもあった。
でも、机やコップよりずっと多かった。
「やりたい」
「そうか」
「家には置かないの?」
「すぐには置かない」
「なんで?」
「場所も音もある」
マンションだから、大きな音をずっと出すと周りに迷惑になる。
それは分かる。
「じゃあ学校でやる」
「勝手に触るなよ」
「佐藤先生がいいって言った時だけにする」
佐藤先生が少し笑った。
「そうしてね」
父さんが立つ。
「今日はありがとうございました」
「いえ。こちらこそ、お時間をいただいてすみません」
「問題ありません」
俺も鞄を持つ。
教室を出る。
廊下はもう人が少なかった。
昼間はたくさんあった足音も声も減っている。
階段を下りる。
玄関で靴を履き替える。
外へ出ると、夕方の空気だった。
父さんと並んで歩く。
しばらくして、父さんが言った。
「楽」
「なに?」
「今日弾いたやつ、覚えてるか」
「全部?」
「先生が弾いたやつ」
「覚えてるよ」
「忘れないのか」
「聞いたから」
「そうか」
父さんはそれ以上聞かなかった。
俺も別に話すことはない。
歩きながら、今日聞いたピアノの音を頭の中で並べる。
先生が最初に弾いた音。
違った音。
五つの音。
七つの音。
俺が押した音。
強すぎた一つ。
全部そのままあった。
家にはピアノがない。
今は鳴らせない。
でも音は残っている。
明日学校へ行けば、また音楽室もある。
先生が触っていいと言えば、続きを試せる。
音がたくさん出るものは面白かった。
それだけで、次に触る理由としては十分だった。




