第5話 浮いている子
次の日も、その次の日も、俺は学校へ行った。
朝になったら起きる。
飯を食べる。
鞄を背負う。
父さんと途中まで同じ道を歩いて、それから学校へ行く。
何日かすると、教室までの道を考える必要もなくなった。
靴を履き替える。
階段を上がる。
廊下を曲がる。
一年一組へ入る。
「おはよ、鳴海」
先に来ていた橋本が言った。
「おはよう」
席へ行って鞄を置く。
田島はまだ来ていない。
木村は自分の机で何か書いていた。
鉛筆の音がする。
さらさら。
少し止まる。
また、さらさら。
教室の中では、いろんな鉛筆が鳴っている。
強く押す子。
弱く書く子。
速い子。
遅い子。
同じ紙と鉛筆なのに、みんな少しずつ違う。
「鳴海、何見てんの?」
橋本が聞く。
「聞いてる」
「何を?」
「鉛筆」
橋本も周りを見る。
「普通じゃん」
「うん」
「じゃあ何が面白いの?」
「違うから」
「何が?」
「音」
橋本が自分の鉛筆を机から取った。
紙に丸を書く。
ぐる。
「俺の?」
「うん」
今度は強く線を引く。
ざっ。
「これは?」
「違う」
「え、マジ?」
もう一度やる。
ざっ。
さっきより少し弱い。
「今も違う」
「同じじゃん」
「違うよ」
橋本は首をかしげた。
そこへ田島が来た。
「何やってんだ?」
「鳴海が変なこと言ってる」
「また?」
田島が笑う。
嫌な音はしていない。
最近、よくこう言われる。
変。
変なやつ。
変なことを言う。
最初は何が変なのか分からなかった。
今も全部は分からない。
でも、俺が普通に分かることを他の子は分からないことがあるらしい。
反対に、みんなが何となくやっていることを俺は知らないことがある。
学校にはそういうのが多かった。
チャイムが鳴る。
教室の話し声が少しずつ小さくなる。
廊下から佐藤先生が入ってきた。
「おはようございます」
「おはようございまーす」
声が重なる。
俺も言った。
同じ言葉なのに、声は全員違う。
その重なり方は毎朝少しずつ変わる。
今日は田島の声がいつもより大きかった。
橋本は少し眠そうだった。
木村は普通。
佐藤先生は元気だった。
朝は、それを聞くだけでも暇じゃなかった。
算数の時間になった。
黒板に問題が書かれる。
佐藤先生が説明する。
俺は聞く。
分かった。
プリントが配られる。
「できた人は、もう一度見直して待っていてね」
鉛筆を持つ。
書く。
次。
書く。
次。
全部終わった。
最初からもう一度見る。
間違っていない。
俺は鉛筆を置いた。
周りではまだみんな書いている。
時計を見る。
まだ時間がある。
何もすることがない。
窓を見る。
外で木が揺れている。
葉の緑の音が動く。
風もある。
教室の後ろで紙がめくれる。
前では佐藤先生が歩く。
かつ。
かつ。
靴の音が近づく。
俺の机の横で止まった。
「鳴海くん、もうできたの?」
「うん」
「見直した?」
「した」
先生がプリントを見る。
上から下まで見て、少し止まる。
『全部できてる』
驚いていた。
「早いね」
「もうやることない?」
「そうだね。じゃあ、今日の宿題にする予定だったところもやっていいよ」
佐藤先生が別のページを教える。
「ここ?」
「うん。まだ習ってないところはやらなくていいからね」
「分かった」
そこもやる。
説明を聞いていたところだから難しくない。
終わる。
もう一度見る。
終わり。
また暇になった。
今度は鉛筆を机の上で転がした。
ころ。
机の端まで行く前に止める。
もう一度。
ころ。
音が少し違う。
机の木目が同じじゃないからだ。
三回目をやろうとしたところで、佐藤先生を見る。
先生は別の子へ教えている。
転がすだけなら大きい音はしない。
でも何度もやれば近くの子が見る。
見られて、先生に言われて、説明することになるかもしれない。
それは面倒だ。
俺は鉛筆を置いた。
代わりに外の音を聞いた。
やることがなくても、音はある。
なら、それでいい。
三時間目の終わりにチャイムが鳴った。
何度聞いても同じ音だった。
でも、廊下や教室の中で返ってくる音は、その時ごとに少し違う。
みんなが静かな時。
喋っている時。
雨の日。
窓が開いている時。
違う。
同じチャイムでも同じじゃない。
俺はそれを聞いていた。
「鳴海、休み時間だぞ」
田島が机の横に来た。
「知ってる」
「じゃあ行こうぜ」
「どこ?」
「外」
田島の後ろには木村と橋本もいた。
三人で校庭へ行くらしい。
俺も立った。
「何するの?」
「鬼ごっこ」
田島が言う。
「お前、足速い?」
「知らない」
「知らないって何だよ」
「田島と走ったことないから」
「じゃあ勝負な」
「鬼ごっこじゃないの?」
「その前に走ればいいじゃん」
それもそうだった。
廊下へ出る。
走ると怒られるから歩く。
田島は早く外へ行きたくて、何度も歩く速さが変わった。
でも走らない。
前に先生へ注意されたらしい。
校庭へ出ると、田島が急に走った。
「ここからあそこまで!」
言いながら前へ行く。
「もう始まってるよ」
俺も走った。
田島は速かった。
俺も走る。
足を出す。
地面を蹴る。
腕を振る。
田島の少し後ろで着いた。
「俺の勝ち!」
田島が笑う。
嬉しそうだった。
「うん」
「悔しくないの?」
「なんで?」
「負けたじゃん」
「田島の方が速かったから」
「だから悔しいだろ」
別に悔しくない。
走ったら田島の方が速かった。
それだけだった。
「別に」
「なんだよそれ」
田島の嬉しい音が少し小さくなった。
勝った相手が悔しがった方がいいらしい。
でも俺は悔しくない。
ここで悔しいと言ったら嘘になる。
「じゃあもう一回やる?」
俺が聞く。
田島の音がまた明るくなる。
「やる!」
今度は最初から同時に走る。
また田島が勝った。
「よっしゃ!」
「やっぱり速いね」
「だろ?」
今度は機嫌がいい。
よく分からないけれど、俺が悔しがらなくても、もう一度走ればいいらしい。
そのあと四人で鬼ごっこをした。
田島が一番速い。
木村は俺と同じくらい。
橋本は少し遅い。
でも逃げる時の曲がり方がうまい。
追いかける足音が校庭を動く。
砂を蹴る音。
息。
声。
影。
日差し。
全部が速く動く。
家ではない音だった。
休み時間が終わるチャイムが鳴るまで遊んだ。
〓〓〓
昼になると給食が来る。
最初の何日は何をすればいいか先生がよく説明していた。
今はもうだいたい同じだった。
机を動かす。
運ぶ人は白い服を着る。
配る。
座る。
待つ。
みんな揃ったら食べる。
俺は言われた通りにやる。
今日はパンとスープと魚と牛乳だった。
スープは温かい。
魚は少ししょっぱい。
牛乳は冷たい。
教室中に食べ物の匂いが広がる。
それぞれの味の音も、俺の口へ入るたびに変わる。
前の席の子が魚を見て嫌そうな顔をした。
「魚きらい?」
隣の子が聞く。
「別に。好きだよ」
嫌いだった。
かなり分かりやすい。
前なら、嫌いでしょ、と言っていたと思う。
でも言わなかった。
言ったらたぶん、
嫌いじゃない。
好き。
食べられる。
そんな話が続く。
先生も見る。
相手も嫌がる。
そのあと俺に何か言ってくる。
面倒が増える。
だから魚を食べた。
目の前の子が本当は魚を嫌いでも、俺の魚の味は変わらない。
それなら言う必要はなかった。
「鳴海」
田島が向こうから呼ぶ。
「なに?」
「牛乳飲むの早すぎ」
「そう?」
俺はもう空になった箱を見る。
「一気に飲んだじゃん」
「飲めるから」
「俺もできるし」
田島は牛乳を持った。
できる、とは言った。
でも今はやりたくない音だった。
たぶん一気に飲んで見せるつもりもない。
「ふうん」
俺はそれだけ言った。
田島が少し待つ。
「……何だよ」
「何が?」
「いや」
田島は普通に牛乳を飲んだ。
何も起きなかった。
前だったら、
やりたくないんでしょ。
と言っていた。
言わない方が話が短く終わる。
父さんの言っていた「面倒になる」は、少し分かってきた。
全部黙る必要はない。
言っても何も増えないなら言う。
言うと面倒が増えるなら、別に言わなくていい。
簡単だった。
給食の後は掃除だった。
俺は廊下を雑巾で拭くことになった。
最初に見た時、何人かが雑巾を両手で床へ置いて走っていた。
俺も同じようにやる。
濡れた布が床をこする。
しゃっ。
しゃっ。
力を入れすぎると重い。
弱すぎると汚れが残る。
何度かやると、ちょうどいい力が分かった。
「鳴海、はやっ」
橋本が後ろから言った。
俺は端まで行って止まる。
「速くやった方が早く終わるよ」
「そりゃそうだけど」
橋本は途中だった。
俺は戻る。
自分のところはもうきれいになっている。
別の場所をやろうとすると、田島が言った。
「そこ俺のとこ!」
「まだ汚れてるよ」
「今やる!」
少し怒った。
だから任せる。
掃除は、全部俺がやる必要はないらしい。
自分の場所をやればいい。
やることがなくなったから、雑巾を洗う。
水を絞る。
ぎゅっとすると指の間から水が出る。
濡れた布の音が変わる。
面白い。
もう一回洗いたかったけれど、きれいになったものをまた濡らす意味はない。
バケツの水が揺れる音だけ聞いた。
掃除が終わるチャイムが鳴る。
廊下は教室よりよく響いた。
俺は少しだけ立ち止まる。
チャイムの最後が遠くで消える。
「鳴海、戻るぞ」
木村が言った。
「うん」
教室へ戻った。
〓〓〓
学校へ行き始めてしばらくすると、誰と誰がよく一緒にいるかも分かってきた。
田島と木村と橋本はよく三人でいる。
俺も呼ばれれば一緒に遊ぶ。
呼ばれない時は別のことをする。
ほかの子と話すこともある。
一人でいることもある。
みんなは一人になるのを嫌がることが多かった。
休み時間に一緒にいる相手がいないと、不安な音がする子もいる。
俺にはそれがなかった。
一人でも音は減らない。
むしろ人が近くにいない方が、遠くの音を探しやすい時もある。
その日は雨だった。
朝からずっと窓を叩いている。
ぱらぱら。
ざあ。
少し弱くなる。
また強くなる。
窓だけじゃない。
校舎の屋根。
地面。
木の葉。
傘。
外に置いてあるもの。
雨が当たる場所で音が違う。
休み時間になっても外へ行けないから、教室にはいつもより人が多かった。
田島たちは後ろで遊んでいる。
何人かは本を読んでいる。
誰かが絵を描いている。
俺は窓の近くにいた。
雨を聞く。
窓へ落ちる粒を一つずつ聞こうと思えば聞ける。
全部まとめても聞ける。
雨の向こうで、体育館から音がした。
別の学年が何かしている。
床を走る足。
跳ねるもの。
声。
広い場所で返る音。
教室とは違う。
俺は廊下へ出た。
体育館まで行くつもりはない。
授業中の学年がいるなら、入れば怒られる。
階段の近くまで行くと、少しよく聞こえた。
ぼん。
跳ねる。
床。
壁。
天井。
戻る。
また、
ぼん。
同じ場所じゃない。
だから返り方も変わる。
俺は壁に背中をつけて聞いていた。
「鳴海くん?」
佐藤先生だった。
「なに?」
「こんなところでどうしたの?」
「聞いてる」
「何を?」
「体育館」
先生も耳を澄ませる。
遠くでまた音がする。
ぼん。
「ボールの音?」
「それも」
「それも?」
「足も。声も。雨も」
佐藤先生は少し黙った。
『一人でいて寂しくないのかな』
そういう音がした。
俺は答えない。
先生は言っていない。
前なら答えていたけれど、今はしない。
「みんなと遊ばなくていいの?」
今度は聞かれた。
「今はいい」
「何か嫌なことがあった?」
「ないよ」
「田島くんたちと喧嘩したとか」
「してない」
「そっか」
先生は俺の顔を見る。
心配している。
だから俺も聞いた。
「一人だとだめ?」
「ううん。だめじゃないよ」
「じゃあここにいる」
「チャイムが鳴ったら戻ろうね」
「うん」
先生はそれ以上言わなかった。
教室の方へ戻っていく。
俺はまた雨を聞いた。
少しして田島たちが廊下へ出てきた。
「鳴海、何してんの?」
「雨聞いてる」
田島が窓を見る。
「雨じゃん」
「うん」
「暇じゃね?」
「暇じゃないよ」
田島は俺の横に立って、少し雨を見た。
三秒くらいで飽きた。
「やっぱ暇じゃん。行こうぜ」
「どこ?」
「教室。橋本が紙で変なの作ってる」
「分かった」
俺は雨から離れた。
行きたいなら行けばいいし、一人でいたいなら一人でいればいい。
どっちでもよかった。
〓〓〓
帰りの会の前、佐藤先生が宿題を黒板に書いた。
「今日はここまでやってきてください」
みんなが連絡帳に書く。
俺も書く。
でも、そのページは算数の時間に終わっていた。
手を上げる。
「佐藤先生」
「はい、鳴海くん」
「これもう終わってる」
「今日の分も?」
「うん」
先生が俺のノートを見る。
「本当だね。じゃあ今日は持って帰るだけでいいよ」
「分かった」
田島が横から見る。
「ずるくね?」
「何が?」
「宿題ないじゃん」
「授業でやったから」
「俺もやればよかった」
田島のノートには途中までしか書いていない。
授業中、早く終わったあと木村と小さい声で話していた。
「明日やれば?」
「宿題は今日やるんだよ!」
「じゃあ今日やればいいじゃん」
「そうだけど!」
田島が何か言いたそうにして、やめた。
木村が笑っている。
橋本も笑う。
俺には何がおかしいのか分からない。
でも悪い音ではなかった。
チャイムが鳴る。
今日最後の音が教室へ広がった。
みんなが立つ。
椅子が一斉に動く。
挨拶をする。
鞄を背負う。
廊下へ出る。
靴を履き替える。
雨の日だから、玄関には傘がたくさん並んでいる。
赤。
青。
黄色。
透明。
開くたびに色の音が広がる。
俺も傘を開いた。
雨が当たる。
ぱたぱた。
歩く。
ぱた。
ぱたぱた。
強くなる。
傘の端と真ん中で少し違う。
後ろから田島たちの声がする。
先へ走っていく子もいる。
誰かが水たまりを踏む。
先生に言われたこと。
田島が言ったこと。
魚を嫌いだと言わなかった子。
一人でいると心配する先生。
学校には、まだ分からないことがいろいろあった。
でも、分からなくても困ってはいない。
分からなければ、そのうち分かる。
言わなくていいことも、少し分かってきた。
俺が黙っていても、相手の音は聞こえている。
それに返事をしなくても、別に何も減らない。
雨が傘を叩く。
ぱた。
ぱたぱた。
少し間が空く。
また鳴る。
俺は歩きながら、その順番を聞いた。
学校には人が多い。
音も多い。
一人になる時間もある。
どれも暇ではなかった。
だから、浮いていると言われても、今のところ特に困ることはなかった。




