第4話 小学校という場所
朝、玄関に新しい鞄が置いてあった。
前に店で選んだ、黒に近い紺色の鞄。
窓から入る光が当たると、黒だったところに青い音が混ざる。
俺は制服を着て、鞄を背負った。
前に試した時より、中に物が入っているから重い。
「重い」
靴を履いていた父さんが俺を見る。
「持てないか」
「持てる」
「なら行くぞ」
「うん」
外へ出る。
前に学校へ行った時より暖かかった。
道の端に雪はもうない。
空気は冷たいけれど、冬の冷たさとは違う。日が当たっているところは少し暖かい。
道には子供がたくさんいた。
大きい子もいる。
俺と同じくらいの子もいる。
ほとんどみんな鞄を背負っていた。
赤。
黒。
青。
茶色。
歩くたびに色の音が動く。
今日は父さんも一緒だった。
前を歩く親子から、緊張した音がする。
横を歩く子からは、楽しそうな音がする。
知らない大人の声。
靴の音。
車。
鳥。
風。
いつもの道なのに、人が増えるだけでだいぶ違った。
「父さん」
「何だ」
「今日、みんな音が大きい」
父さんが周りを見る。
「入学式だからな」
「いつもより緊張してる」
「そうか」
「父さんはしてない」
「俺が入学するわけじゃない」
それもそうだった。
学校の門が見えた。
前に来た時より、ずっと人が多い。
門の近くに看板が立っている。
青瀬市立青瀬第一小学校 入学式。
父さんがそこで一度止まった。
「写真撮るぞ」
「なんで?」
「一応だ」
「何に使うの?」
「残す」
俺は看板の横に立った。
父さんが携帯電話を向ける。
「こっち見ろ」
見る。
音が鳴る。
「終わり」
「もういい?」
「ああ」
写真はすぐ終わった。
校舎へ入る。
前に来た時と同じ匂いがした。
床。
紙。
木。
外より少し冷たい空気。
でも今日は、その上に人の音が何重にも乗っていた。
大勢が同時に喋っている。
誰か一人を聞こうと思えば聞ける。
聞かなければ、ただ大きなまとまりになる。
俺は父さんの足音を前に出して歩いた。
受付をして、紙をもらって、教室へ向かう。
途中で上級生らしい子が、
「一年生はこちらです」
と言った。
俺よりずっと大きい。
でも大人より小さい。
階段を上がる。
知らない場所だから、見るものが多い。
壁に絵が貼ってある。
名前も書いてある。
窓の向こうには校庭。
廊下を走る子がいて、先生らしい人に注意されている。
前に来た時より面白かった。
教室の前に着く。
一年一組。
父さんが俺を見る。
「ここだ」
「父さんは?」
「式までは別の場所だ」
「一人?」
「教室には先生がいる」
「そうじゃなくて父さん」
「俺は保護者の席」
「別なんだ」
「ああ」
父さんが俺の鞄を一度見る。
『忘れ物はない。名前も合ってる』
確認している音だった。
でも言っていない。
前に教わった。
言っていないことには答えない。
だから何も言わなかった。
「行け」
「うん」
教室へ入った。
席が並んでいた。
家にはない数だった。
机。
椅子。
机。
椅子。
全部同じ形に見えるけど、少しずつ音が違う。
新しい傷。
古い傷。
木の固さ。
金属の冷たさ。
そこへ子供たちが座っている。
俺と同じくらいの子ばかりだった。
こんなに同じ大きさの人間が集まっているのは初めて見る。
前にいる女の人が俺を見る。
暗い茶色の髪。
柔らかい顔。
「鳴海楽くん?」
「はい」
「おはよう。先生は佐藤美紀です。鳴海くんの席は、こっちだよ」
「分かった」
佐藤先生についていく。
「鞄はここに置こうね」
「はい」
言われたところへ置く。
席へ座る。
右に男の子。
左にも男の子。
前にも後ろにも子供がいる。
右の子が俺を見る。
丸い顔で、俺より少し大きい。
「お前、どこの幼稚園?」
「行ってない」
「え?」
後ろから別の声がする。
「保育園?」
「それも行ってない」
右の子が目を丸くした。
「じゃあ今まで何してたんだよ」
「家にいた」
「ずっと?」
「ずっとじゃないよ。買い物とかは行く」
「そういう意味じゃなくて」
右の子は少し困っていた。
後ろの細い子が笑う。
悪い音ではない。
ただ珍しいと思っている。
「俺、田島大輔」
右の子が言った。
「俺、鳴海楽」
「知ってる。机に名前あるじゃん」
机の端に名前が貼ってあった。
「じゃあなんで言ったの?」
「普通言うだろ」
「そうなの?」
田島が俺を見る。
「お前、変なの」
嫌ってはいない。
本当に変だと思っているだけだった。
「田島も変だよ」
「なんでだよ」
「知ってるのに聞いたから」
後ろの子が笑った。
「大輔、言われてるじゃん」
「うるせえ」
田島は振り返った。
「こいつ木村。木村亮太」
「俺が言うよ」
木村が言った。
その隣から小さい子が顔を出した。
少し髪が曲がっている。
「俺、橋本和也」
「鳴海楽」
「それはもう聞いた」
橋本が笑う。
三人はもともと知っているらしい。
話す時の間が近かった。
俺だけ違う。
でも別に困らない。
知らないなら、今聞けばいい。
先生が前で手を叩いた。
「みんな、一度こっちを見ようか」
教室の声が減った。
完全には止まらない。
「今日は入学式があります。これから体育館へ移動するから、先生の話を聞いて並んでね」
「はーい」
声が重なった。
田島の声は大きかった。
俺も先生を見る。
やることは簡単だった。
〓〓〓
体育館は広かった。
教室より天井がずっと高い。
歩くだけで音が返ってくる。
椅子を動かす音も大きい。
誰かが咳をすると遠くまで伸びる。
俺は列に並んで、自分の席へ座った。
前にも一年生。
横にも一年生。
後ろには大人がたくさんいる。
父さんの姿も見つけた。
こっちを見ている。
俺と目が合うと、少しだけ顎を動かした。
声は出さない。
俺も何もしなかった。
前で知らない大人が話し始める。
校長先生という人らしい。
「新一年生のみなさん、ご入学おめでとうございます」
長い話が始まった。
聞けば内容は分かる。
学校ではいろいろ学ぶ。
友達を作る。
元気に過ごす。
困った時は先生へ相談する。
そういう話だった。
でも長い。
途中で飽きた。
だから体育館を聞く。
校長先生の声が壁へ当たって戻る。
天井の高いところでは少し遅れる。
誰かが足を動かす。
椅子が小さく鳴る。
保護者のところで咳。
外で車。
校庭の方から鳥。
照明の白い音。
壇上に置かれた花の色。
校長先生の背広の黒。
全部を組み合わせると、話だけ聞いているより面白い。
横で田島が小さく動いた。
退屈している。
前を向いているけれど、何度も足を動かしている。
少しすると田島が小さい声で言った。
「俺、こういうの全然つまんなくないし」
俺は田島を見る。
すごくつまらない音がしている。
「つまらないんでしょ」
田島がこっちを見る。
「は?」
「ずっと足動いてるし、早く終わってほしいんでしょ」
田島の顔が少し赤くなった。
「ちげーし」
違わない。
でも田島は「つまらなくない」と言った。
言っていないことではない。
だから答えていい。
父さんとの約束には合っている。
「違わないよ」
「なんでお前に分かんだよ」
「分かるから」
「何が?」
「田島がつまらないの」
「だから違うって」
声が少し大きくなった。
前に座っていた子が振り返る。
佐藤先生もこっちを見る。
口の前へ指を立てた。
静かに、という意味。
俺は黙った。
田島も黙る。
先生に言われたから終わり。
また校長先生を見る。
田島はまだ少し怒っている。
でも怒っているより、恥ずかしい音の方が大きかった。
俺には、何が嫌だったのかよく分からなかった。
〓〓〓
式が終わって教室へ戻ると、今度は一人ずつ名前を言うことになった。
佐藤先生が前に立つ。
「先生が最初にやるね。先生は佐藤美紀です。好きな食べ物はお蕎麦です。これからみんなと一緒に過ごすのを楽しみにしています。よろしくお願いします」
「よろしくお願いしまーす」
みんなが言う。
俺も言った。
順番に立つ。
名前。
好きなもの。
よろしくお願いします。
似た形が続く。
「田島大輔です。サッカーが好きです。よろしくお願いします」
田島は大きい声で言った。
今度は本当に元気な音だった。
木村も言う。
橋本も言う。
俺の番になる。
立つ。
「鳴海楽です」
少し考える。
好きなもの。
特に決めていない。
「暇じゃないことが好きです。よろしくお願いします」
教室が少し静かになった。
何人か笑った。
佐藤先生も少し困った音を出した。
「ええと……鳴海くんは、何をしている時が楽しいのかな?」
「音鳴らしてる時」
「音?」
「机とか、コップとか」
「音楽が好きなの?」
音楽。
その言葉は知っている。
テレビでも聞くし、歌も曲も知っている。
でも俺がいつもやっているのが、それなのかはよく分からない。
「音が好き」
「そっか。音が好きなのね」
佐藤先生はそれ以上聞かなかった。
座る。
後ろから橋本が小さい声で言った。
「机鳴らすって何?」
「叩く」
「先生に怒られるじゃん」
「うるさくしたら怒られる」
「じゃあやらない方がよくない?」
「小さくすればいいよ」
橋本は少し考えてから、
「なんか変」
と言った。
また言われた。
でも嫌な感じはしない。
本当にそう思っている。
前では自己紹介が続く。
ある女の子が立った。
「山本花です。犬が好きです。人前で話すの全然緊張しません。よろしくお願いします」
声が震えていた。
手も固い。
緊張している。
すごく分かりやすい。
俺は見た。
山本という子が座る。
近くの子が、
「すごいね。私、緊張した」
と言った。
山本は少し笑った。
「全然しなかったよ」
俺は言った。
「してたよ」
山本が俺を見る。
「してないよ」
「してた。声も変だったし、手もずっと強く握ってた」
教室の近くにいた何人かがこっちを見る。
山本の顔が赤くなる。
緊張とは違う音に変わった。
怒っている。
「してない!」
「でもしてたよ」
「鳴海くん」
佐藤先生に呼ばれた。
「なに?」
「今はお友達の話を聞こうね」
「もう終わったよ」
「そうじゃなくて」
先生が少し止まる。
どう言えばいいか考えている。
「山本さんが緊張してなかったって言ってるなら、それでいいんじゃないかな」
「でも緊張してたよ」
佐藤先生の音が変わった。
怒ってはいない。
困っている。
『この子、わざと言ってるわけじゃないのね』
それは分かった。
俺もわざと困らせようとはしていない。
「本人がそう言ってる時は、あんまり言わなくてもいいこともあるよ」
言わなくてもいい。
父さんとは少し違う言い方だった。
「言ったことに答えるのも?」
「うん。そういう時もあるかな」
俺は考える。
父さんは、言っていないことに答えるなと言った。
佐藤先生は、言ったことでも答えなくていいことがあると言う。
別の話らしい。
「分かった?」
「まだ分かんない」
正直に言うと、佐藤先生は少し笑った。
「じゃあ、これから少しずつでいいよ」
「うん」
それなら今は分からなくてもいいらしい。
自己紹介がまた始まった。
山本はもう俺を見なかった。
怒っている。
でも別に、それで困ることはなかった。
〓〓〓
帰る頃、玄関の外には父さんがいた。
他の親もたくさんいる。
俺は靴を履き替えて外へ出た。
「どうだった」
父さんが聞いた。
「人が多かった」
「それは見れば分かる」
前にも似たことを言われた気がする。
俺は父さんと歩き始めた。
朝より暖かい。
子供たちが一斉に学校から出てくるから、道も音が多かった。
後ろから田島の声がした。
「鳴海!」
振り返る。
田島が母親らしい人と歩いていた。
「明日な!」
「うん」
田島は手を上げて、そのまま行った。
朝より怒っていない。
もう式の時のことはあまり気にしていないみたいだった。
「知り合いできたか」
父さんが聞く。
「田島。木村。橋本。ほかにもいっぱい名前聞いた」
「そうか」
「でもみんな変」
「お前が言うな」
「なんで?」
父さんは答えなかった。
少し面白がっている。
俺は今日のことを考える。
田島はつまらないのに、つまらなくないと言った。
山本は緊張していたのに、していないと言った。
言っていないことへ答えたわけじゃない。
ちゃんと本人が言ったことに答えた。
でも、二人とも嫌がった。
「父さん」
「何だ」
「言ったことに答えても嫌がることある」
父さんが俺を見る。
「今日あったのか」
「うん」
「何言った」
「緊張してる子が、緊張してないって言ったから、してるって言った」
父さんは少し黙った。
「あと、つまらないのに、つまらなくないって言ったから、つまらないって言った」
また少し黙る。
『そこからか』
そんな音がした。
でも父さんは口には出さなかった。
俺も返事をしない。
前に教わったから。
「そういうのも、いちいち言わなくていい」
「なんで?」
「面倒になるからだ」
前と同じだった。
「言ってないことじゃないよ」
「そうだな」
「じゃあいいんじゃないの?」
「よくない時もある」
「どうやって分かる?」
父さんが前を見る。
「そのうち分かる」
「いつ?」
「知らん」
知らないらしい。
俺も今は知らない。
それなら仕方ない。
学校へ行けば、たぶんまた同じことがある。
その時に分かるかもしれない。
道の向こうを子供たちが走っていく。
笑っている。
別の子は親に今日のことをずっと話している。
泣いている子もいる。
明日が楽しみな子。
行きたくない子。
友達ができて嬉しい子。
まだ誰とも話せなくて気にしている子。
いろんな音が一緒に流れている。
家に帰れば、また父さんと二人だ。
学校へ行けば、これが毎日ある。
朝に思っていた通りだった。
「父さん」
「何だ」
「学校、暇じゃない」
「そうか」
「人が変なこといっぱい言う」
「お前もな」
「俺は変なこと言ってないよ」
父さんが俺を見る。
何も言わない。
でも、そう思っていない音だった。
前なら、そのまま答えていた。
でも父さんは口にしていない。
だから俺も言わなかった。
その代わり、道の向こうから聞こえてきたランドセルの金具の音を聞いた。
歩くたびに、
かち。
かち。
少しずれて、
かち。
明日も、たぶんいろんな音がある。
学校は思ったより面白そうだった。




