第3話 外へ
父さんと二人で家にいる日は、その後もしばらく同じだった。
父さんは仕事をする。
俺はその近くで本を読んだり、テレビを見たり、音を鳴らしたりする。
外に雪が残っている日が減ってきた頃、朝ご飯を食べていると父さんが言った。
「楽、今日は出るぞ」
「どこ?」
「学校」
俺はパンを噛みながら父さんを見る。
「もう行くの?」
「まだ通わない。今日は健診だ」
「けんしん?」
「身体を見てもらう」
「病気じゃないよ」
「病気じゃないかも含めて見る」
そういうものらしい。
父さんの机の端には紙が何枚か置かれていた。
文字は読めるところも増えたけれど、知らない言葉も多い。
青瀬市立青瀬第一小学校。
そこは読めた。
春から俺が行くところだ。
今まで何度か前を通ったことはある。家から歩いて行ける。大きな建物で、昼になると子供の声がたくさん外まで出てくる。
「いっぱい人いる?」
「いるだろうな」
「何人?」
「知らん」
「父さんも?」
「保護者も行く」
「ほごしゃ」
「今日は俺もいる」
それなら分かった。
俺は残っていたパンを食べた。
外へ出ると、空気が冷たかった。
冬ほどではない。
顔に当たる冷たさの音も、前より軽い。
道路の端には小さく黒くなった雪が残っている。白いところと汚れたところでは音が違う。濡れたアスファルトの光も混ざっていた。
父さんと並んで歩く。
俺は家にいることが多いけれど、外へ出ないわけではない。
スーパーにも行く。
駅の近くにも行く。
父さんの用事についていくこともある。
でも今日は、歩いている子供が多かった。
俺と同じくらいの大きさの子が、父親や母親と一緒に同じ方へ進んでいる。
赤い上着。
黄色い帽子。
青い靴。
誰かが走る。
止められる。
笑う。
怒られる。
声だけじゃない。
動く色も、靴が地面へ当たる振動も、息の速さも、朝の匂いも、全部音になって流れてくる。
家よりずっと多い。
でも別に困らない。
前を歩く男の子が急に走り出した。
母親らしい人が、
「危ないから走らないの」
と言う。
男の子は止まる。
でも足はまだ前へ行きたがっている。
『早く学校を見たい』
そんな音がしていた。
俺も学校を見る。
もう門が近い。
「父さん」
「何だ」
「あの子、学校行くの楽しみなんだって」
父さんが前を見る。
「本人が言ったのか」
「言ってない」
「そうか」
それだけだった。
学校へ入ると、人の音はもっと増えた。
廊下に靴の音が重なる。
話し声が重なる。
服の色が動く。
窓から入る光が床へ落ちる。
知らない匂いも多い。
家にはない床の匂い。
紙。
古い木。
洗った布。
消毒するもの。
大人。
子供。
いろいろ混ざっている。
大勢が一緒に喋っているみたいだった。
でも、全部を聞く必要はない。
父さんの足音だけ前へ出す。
少し離れた場所で泣いている子がいた。
そこだけ大きいから、勝手に聞こえる。
近くの大人が、
「大丈夫、大丈夫。痛いことしないから」
と言っている。
子供は大丈夫じゃない音を出していた。
父さんが受付の人へ紙を渡す。
「鳴海楽です」
「はい。こちらへお願いします」
俺は父さんについていった。
〓〓〓
身体を見てもらうのは、あまり面白くなかった。
身長を測る。
体重を測る。
目を見る。
口を開ける。
胸に冷たいものを当てられる。
言われた通りにすれば進む。
「大きく息を吸って」
吸う。
「吐いて」
吐く。
「もう一回」
また吸う。
白い服の人は、俺の胸より俺の顔をよく見ていた。
『ちゃんと指示が通る子ね』
そんな音がした。
俺は何も言わなかった。
その人は次の紙を見る。
父さんから、
「言われたことをやれ」
と来る前に言われていたから、その通りにしている。
廊下へ出ると、次を待つ人がたくさんいた。
椅子に座っている子。
立っている親。
走ろうとして止められる子。
知らない人だらけだった。
俺は父さんの隣へ座る。
横にいた女の子が足を何度も動かしていた。
靴の先が床をこする。
顔は前を向いている。
手は服を握っている。
呼ばれるたびに肩の音が変わる。
怖がっていた。
隣にいる母親が言う。
「すぐ終わるからね」
女の子は頷く。
「怖くないもん」
嘘だった。
俺は横を見る。
「怖いよ」
女の子もこっちを見る。
母親も見る。
「え?」
「怖いんでしょ」
女の子の顔が赤くなった。
さっきよりもっと嫌な音になる。
「怖くない!」
「でも怖いよ」
「楽」
父さんの声がした。
俺は父さんを見る。
「何?」
「やめろ」
「なんで?」
「いいから」
女の子の母親が困った顔をしている。
何か言おうとして、やめた。
女の子は俺から顔をそらした。
俺も前を見る。
よく分からない。
本人が怖くないと言ったから、違うと言っただけだった。
でも父さんがやめろと言うならやめる。
少しして名前を呼ばれた女の子は、立ち上がった。
やっぱり怖がっていた。
俺は言わなかった。
次の場所へ移動する途中で、大人が二人話していた。
「うちの子、人見知りで。入学してから大丈夫かしら」
片方は笑っていた。
でも笑っている音と、身体から出ている音が合っていない。
かなり気にしている。
もう一人が、
「最初はみんなそんなものですよ」
と答える。
そっちも、自分の子供のことを少し気にしていた。
『うちも友達できるかな』
俺は通りながら言った。
「そっちも気にしてるよ」
二人とも止まった。
「え?」
俺も止まる。
父さんも止まった。
「何が?」
女の人が聞いた。
「友達できるか」
父さんの手が俺の肩に乗った。
「行くぞ」
「でも」
「いい」
歩かされる。
後ろで二人が何か話している。
声を小さくしていた。
でも聞こえる。
俺のことを変わった子だと思っている。
それは分かった。
「父さん」
「後で話す」
父さんの声は短かった。
怒っているわけじゃない。
面倒だと思っている。
俺はそのまま歩いた。
〓〓〓
学校を出た後、父さんはすぐ家へ帰らなかった。
「買い物するぞ」
「何買うの?」
「学校で使うもの」
店へ行くと、学校よりもっと人がいた。
春から学校へ行く子が多いらしい。
鞄。
筆箱。
鉛筆。
消しゴム。
上履き。
袋。
ノート。
いろんなものが並んでいる。
色も多い。
人も多い。
通路を歩くだけで音が動く。
赤い鞄を背負って鏡を見ている子がいる。
黒い鞄を触っている子もいる。
黄色。
青。
水色。
茶色。
光が当たるたびに少し変わる。
「楽」
「なに」
「鞄、選べ」
「どれでもいい」
「六年使う」
「壊れないやつ」
「それはそうだな」
父さんがいくつか見る。
俺も触る。
革みたいなもの。
別の素材。
固さが違う。
留めるところの音も違う。
背負ってみる。
肩に重さがかかる。
「これでいい」
俺は黒に近い紺色のものを指した。
「理由は」
「軽い」
「他は」
「別に」
父さんが値札を見る。
俺は父さんを見る。
高いとか安いとかを考えている。
でも買わないほどではない。
「じゃあこれでいい」
父さんが言った。
店の人を呼ぶ。
その間、近くで別の親子が話していた。
「こっちがいい」
男の子が明るい青の鞄を持っている。
母親は別の黒いものを見ていた。
「六年生になっても使うのよ?」
「青がいい」
「でも黒の方が飽きないんじゃない?」
「青」
母親の声は優しい。
でも、青を選んでほしくない音がかなり強い。
『黒にしてくれないかな』
男の子は青が欲しい。
母親は黒がいい。
二人とも分かりやすかった。
俺は見ていた。
男の子がこっちを見る。
目が合う。
「それ、黒?」
俺が持っている鞄を見て言った。
「紺」
「黒じゃん」
「明るいところだと青いよ」
俺は少し角度を変える。
光が当たる。
男の子が、
「ほんとだ」
と言った。
「それいいな」
「軽いよ」
「俺の青の方がかっこいいし」
「じゃあ青でいいじゃん」
母親の音が強くなる。
俺はそっちを見る。
口を開こうとした時、肩を軽く叩かれた。
父さんだった。
「楽」
「なに」
「来い」
少し離れた通路まで連れていかれた。
人が少ない。
父さんが俺を見る。
「さっきの学校でもそうだったが」
「うん」
「相手が口にしてないことを、いちいち指摘するな」
俺は父さんを見る。
「なんで?」
「面倒になる」
「誰が?」
「相手も。お前も。俺も」
三人らしい。
「分かるのに?」
「分かっててもだ」
「でも違うこと言ってたら?」
「言ってないことに返事するな」
「言ったことならいい?」
父さんが少し黙った。
「普通に話す分にはな」
俺は考える。
さっきの女の子は「怖くない」と言った。
だから俺は、それに答えた。
さっきの母親は、黒にしてほしいとは言っていない。
だからそれは言わない方がいい。
「分かった」
「本当か」
「言ってないことには答えない」
父さんの音が少し止まった。
何か考えたらしい。
でも結局、
「まずそれでいい」
と言った。
「なんでみんな言わないの?」
「何が」
「思ってること」
「全部言ってたら面倒だからだろ」
「父さんも言わない」
「ああ」
「俺は分かるけど」
「だからお前には言ってる」
「分かった」
父さんは俺の頭を軽く押した。
「戻るぞ」
「うん」
さっきの親子はまだ鞄を見ていた。
男の子は青を持っている。
母親は黒を持っている。
俺には、どっちがどっちを欲しがっているか分かる。
でも言わなかった。
言っていないから。
代わりに自分の鞄をもう一度背負った。
やっぱり軽かった。
〓〓〓
家に帰ると、買ったものが増えた。
鞄。
筆箱。
鉛筆。
上履き。
袋。
父さんが紙を見ながら一つずつ確認する。
俺は隣で鞄の金具を開けたり閉めたりしていた。
かち。
開く。
かち。
閉じる。
「壊すなよ」
「壊さない」
「六年使うんだからな」
「六年って長い?」
「お前が今まで生きたのと同じくらいだ」
俺は手を止めた。
それは長い。
「ずっと学校行くの?」
「小学校には六年」
「毎日?」
「休み以外はな」
「父さんいない?」
「いない」
今まで、どこかへ行く時はだいたい父さんがいた。
一人で留守番することはあっても、一日ずっと知らない子供と同じ場所にいることはない。
「子供いっぱいいる?」
「いる」
「今日より?」
「毎日同じ学校に通う人数なら多いだろうな」
今日の廊下を思い出す。
たくさんの声。
足。
色。
匂い。
怖がっている子。
走りたがっている子。
早く帰りたい大人。
話したい大人。
黙っている大人。
全部同時にあった。
「うるさそう」
父さんが俺を見る。
「嫌か」
俺は考える。
今日も人は多かった。
音も多かった。
でも嫌ではなかった。
必要のないものは聞かなければいい。
気になるものだけ聞けばいい。
家にはない音がたくさんあった。
「別に」
「そうか」
「暇じゃなさそう」
父さんが少しだけ笑った。
「それならいい」
父さんは買ったものを片づけ始める。
俺は窓の外を見る。
夕方だった。
少し前まで雪の下だった道を、子供が二人走っている。
声がする。
片方が何か言う。
もう片方が笑う。
二人とも楽しそうだった。
学校に行けば、ああいうのがもっといるらしい。
俺は玄関に置かれた新しい鞄を見る。
暗い紺色の音。
まだ外では一度も使っていない。
春になったら、毎日あれを背負って外へ行く。
父さんはいない。
知らない子供がたくさんいる。
知らない音もたくさんある。
たぶん、今日よりずっと多い。
それなら、しばらく暇にはならなさそうだった。




