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鳴海楽は努力しない  作者: 悪癖


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第2話 父と子

父さんは、朝から机の前に座っていることが多かった。


机には画面がいくつも並んでいる。


黒や白の中に、数字と線がたくさんある。数字は勝手に変わる。線も上へ行ったり、下へ行ったりする。


画面の光にはそれぞれ音がある。


色が変われば音も変わる。線が動けば、細い音が上下する。そこへ机の冷たさの音と、窓から入る朝の光の音と、父さんがキーボードを押す音が重なっていた。


俺は床に座って、それを聞いていた。


「父さん」


「何だ」


「これ、上がった」


父さんが俺を見る。


俺は画面を指した。


数字の読み方はだいぶ覚えた。父さんが毎日見ているから、分からない数字を聞けば教えてくれる。


「そうだな」


「買う?」


「買わない」


「なんで?」


「上がったから買うとは限らない」


よく分からない。


上へ行くなら、いいんじゃないだろうか。


父さんの顔にはほとんど何も出ていない。でも、呼吸と目の動きと身体の小さな変化は、いつもと違う音になっている。


今は、近づきたくないものを見るときの音だった。


『この動きは嫌だ。今から入る必要はない』


そんな感じがする。


「嫌だから?」


父さんの指が止まった。


「何が」


「これ」


画面を指す。


「父さん、これ嫌でしょ」


「……まあな」


父さんはまた画面を見る。


それから少しして、さっきまで上へ動いていた線が下へ落ちた。


「下がった」


「ああ」


「買わなくてよかった?」


「結果だけ見ればな」


「結果?」


「今、下がったから正しかったってだけだ。買わなかった時には、下がるかどうかは分からない」


俺は画面を見る。


線はまだ動いている。


父さんは分からなかったらしい。


でも、嫌なのは分かっていた。


「分からないのに買うことある?」


「ある」


「なんで?」


「上がると思う理由があるならな」


「でも下がるかも」


「下がるかもしれない」


父さんは普通に言った。


分からないのにお金を使うらしい。


変なの、と思った。


「じゃあ、やらなきゃいいのに」


「それだと増えない」


「減らないよ」


「増えもしない」


俺は少し考えた。


「増えた方がいい?」


「あった方が便利だ」


それは分かる。


お金があると、ご飯が買える。服も買える。俺がこの前欲しいと言った積み木も買えた。


「じゃあ、いっぱい買えばいっぱい増える?」


「減る時もいっぱい減る」


「じゃあ少し?」


「場合による」


父さんの答えは、いつも短い。


でも嘘はあまりない。


分からない時は分からないと言うし、危ないと思ったら危ないと言う。


俺はそれが聞きやすかった。


その日の昼前、父さんが一つ買った。


何を買ったのか、俺にはよく分からない。画面に会社の名前が出ていたけれど、その会社が何をしているのかも知らなかった。


父さんはしばらく画面を見ていた。


数字が少し増えた。


また増えた。


俺は机の横まで行く。


「増えた」


「ああ」


「売る?」


「まだ」


少しすると、数字が減った。


さっきより減った。


父さんの音が変わる。


怖がってはいない。


怒ってもいない。


ただ、何かを切る前の音がした。


父さんがマウスを押す。


画面の表示が変わった。


「終わり?」


「終わり」


「減ったよ」


「ああ」


「負けた?」


「そうだな」


父さんは椅子から立った。


「飯にするぞ」


「負けたのに?」


「負けたから飯を食わない理由はない」


父さんは台所へ行く。


俺もついていった。


さっきお金が減ったのに、父さんはあまり気にしていない。


でも、本当に何とも思っていないわけでもなかった。


『もっと減る前に終わった。これでいい』


その音の方が強い。


「もっと待たないの?」


冷蔵庫を開けていた父さんが振り返った。


「何を」


「さっきの。待ったらまた増えたかも」


「増えたかもしれないな」


「じゃあ待てばよかった?」


「もっと減ったかもしれない」


父さんは冷蔵庫から皿を出した。


「違うと思ったら終わる」


「違う?」


「買った時に考えてたのと違う動きになった」


俺はさっきの画面を思い出す。


数字が動いた時の光の音も、父さんの指がマウスを押した音も、全部残っている。


「間違えた?」


「そういうことだ」


「間違えたらやめる?」


「ああ」


「待ったら当たるかもしれないのに?」


父さんが少しだけ眉を動かした。


「当たるまで待つんじゃない」


「なんで?」


「待ってる間に、なくなるかもしれないからだ」


なくなる。


それは嫌だ。


全部なくなる音を俺は知らないけれど、父さんがそれを嫌がっていることは分かった。


「今はちょっと減っただけ?」


「ああ」


「じゃあいいの?」


「よくはない。でも、大きく減るよりはいい」


父さんは電子レンジに皿を入れた。


「そういうのを損切りって言う」


「そんぎり」


「損を切る」


「負けること?」


「小さい負けで終わらせることだと思えばいい」


電子レンジが動き始める。


低い音の上に、庫内灯の光の音が重なった。


俺はその前にしゃがんだ。


小さく負けて終わる。


大きく負けるかもしれないなら、そっちの方がいい。


「じゃあ、いっぱい減ってから切るのは?」


「遅い」


「すぐ切ればいい?」


「早すぎても駄目だ」


「難しい」


「ああ」


父さんがそう言ったので、難しいらしい。


知らないことはたくさんあった。


でも父さんが画面を見る時、何を嫌っているのかは分かる。


数字が増えることより、変な減り方をする方をずっと気にしている。


一回当てることより、なくならないことを考えている。


その言葉はまだ知らなかったけれど、その音は毎日聞いていた。


 

 

 

〓〓〓

 

 

 


父さんは仕事をしていても、ときどき俺を見る。


ずっと見ているわけではない。


画面を見て、数字を見て、俺を見る。


また画面を見る。


俺が床で積み木を並べていても見る。


本を開いていても見る。


台所へ行くと、少し長く見る。


その日は棚からコップを取ろうとした。


手が届かない。


椅子を持ってこようとすると、仕事部屋から父さんの声がした。


「楽」


「何?」


「椅子に乗るな」


「コップ取れない」


父さんが来た。


棚からコップを取って俺に渡す。


「言え」


「父さん仕事してた」


「それでも言え」


「なんで?」


「落ちる方が面倒だ」


そう言って戻っていく。


父さんはよく面倒と言う。


怪我をするのも面倒。


物を壊すのも面倒。


お金が全部なくなるのも面倒。


俺がいなくなるのは、それとは少し違う音がした。


父さんは椅子へ戻りながら、まだ俺の方へ少しだけ意識を残している。


『水だけならいい。熱いものには触るな』


「熱いの触らないよ」


父さんが止まった。


振り返る。


「何だ」


「触らない」


「……そうか」


また戻った。


俺も水を飲む。


父さんは、言わないことが多い。


でも、別に分からなくはない。


俺が転びそうなら嫌がる。


熱いものへ近づけば警戒する。


俺が静かすぎても少し気にする。


昼になれば腹が減っていないか考える。


夜になれば眠そうか見る。


「楽、飯」


と言う時も、本当に言っているのは飯だけじゃないことがある。


でも俺にはそれで足りていた。


「今日なに?」


「うどん」


「昨日も麺だった」


「昨日はそばだ」


「麺」


「嫌なら米にする」


「うどんでいい」


父さんは鍋を出す。


俺は台所の入口から見ていた。


「ネギいるか」


「いらない」


「少し食え」


「なんで聞いたの?」


父さんがこっちを見る。


「一応だ」


「いらない」


「少し入れる」


「じゃあ聞かなくていいじゃん」


父さんは何も言わなかった。


でも、ちょっとだけ面白がっている音がした。


俺は椅子に座った。


 

 

 

〓〓〓

 

 

 


数字には、だんだん意味が増えた。


最初は形だった。


一、二、三。


それが十になって、百になって、千になった。


父さんが見ている画面には、もっと大きな数字も出る。


「これ何?」


俺が聞くと、父さんは答える。


分からなければまた聞く。


「株って何?」


「会社の一部を買うものだと思えばいい」


「会社買うの?」


「全部じゃない」


「ちょっと?」


「そうだ」


「なんで買うの?」


「上がると思うから」


「下がるかも」


「下がるかもな」


前にも聞いた。


やっぱり分からないものを買うらしい。


でも父さんは、何でも買うわけじゃない。


画面をたくさん見て、数字をたくさん見て、買わない時間の方が長い日もある。


俺には画面の中の会社のことは分からない。


父さんが何を調べているのかも全部は分からない。


でも、父さんの音なら分かる。


気になる。


まだ駄目。


これはいらない。


これは少し欲しい。


これは危ない。


いろんな違いがある。


ある日、画面を見ながら俺は言った。


「それ買わないでしょ」


父さんがマウスから手を離した。


「どれだ」


「それ」


画面の一つを指す。


「なんでそう思う」


「父さん、嫌そうだから」


「……俺が嫌そうだからか」


「うん」


「下がると思うからじゃなく?」


俺は画面を見る。


「下がるの?」


「知らん」


「じゃあ分かんない」


父さんは少し黙った。


それから椅子にもたれた。


「そうだな」


「何が?」


「それでいい」


何がいいのか分からなかった。


父さんが嫌そうなのは分かる。


でも、画面の数字がこのあとどうなるかは分からない。


父さんにも分からない。


だから父さんは、分からないものを分からないまま扱っていた。


その代わり、駄目だった時にどうするかを先に決めている。


どこまでなら減っていいか。


どこで終わるか。


今日は買わないか。


俺にはまだ、その全部を言葉では言えなかった。


でも同じ音は何度も聞いた。


父さんが大きく減る方を嫌がる音。


一回の失敗を取り返そうとして、もっと大きく動かない音。


増えた時にも、急に嬉しくなって何でも買い始めない音。


そういうのを毎日聞いた。


「父さん」


「何だ」


「今日、負けた?」


「少しな」


「明日はいっぱい買う?」


「なんでそうなる」


「取り返す」


父さんが俺を見る。


「やらない」


「なんで?」


「今日負けたことと、明日買うかどうかは別だ」


「取り返さなくていいの?」


「取り返せる時に取ればいい」


「明日かも」


「明日じゃないかもしれない」


また分からない話だった。


でも父さんの音はいつもと同じだった。


焦っていない。


明日絶対に増やそうともしていない。


「じゃあ明日決める?」


「ああ」


「今日決めない?」


「決める材料がない」


材料。


料理じゃない意味の材料があることを、その時覚えた。


 

 

 

〓〓〓

 

 

 


テレビを見ていた時、「お母さん」という言葉が出た。


子供が母親と手をつないでいた。


俺は少し考えて、仕事をしている父さんのところへ行った。


「父さん」


「何だ」


「俺のお母さんは?」


父さんの指が止まった。


画面の数字は動いている。


父さんの呼吸が少し変わった。


嫌なことを思い出した時の音。


でも、俺を嫌がっている音ではない。


「別れた」


父さんはそれだけ言った。


「父さんと?」


「ああ」


「どこにいる?」


「知らない」


「会う?」


「会わない」


「なんで?」


父さんは少し考えた。


『楽には関係ない。わざわざ話す必要もない』


俺にはそれ以上のことはよく分からなかった。


「もう関係ないからだ」


「そう」


俺は頷いた。


母親という人を、俺は知らない。


顔も知らない。


声も知らない。


匂いも知らない。


その人の音を、一つも知らない。


だからテレビに出てきた母親という人と、俺の母親という人は、同じ言葉がついているだけだった。


「それだけか」


「うん」


「なら戻れ」


「分かった」


俺はテレビの前へ戻った。


途中で、父さんの音が少しだけ変わった。


こっちを見ている。


『気にしているか?』


俺は振り返る。


「気にしてないよ」


父さんが眉を寄せた。


「……そうか」


「うん」


テレビの続きを見る。


しばらくすると、父さんの仕事の音も元に戻った。


画面の数字が変わる。


マウスが鳴る。


キーボードが鳴る。


父さんが息をする。


俺が床を指で叩く。


とん、とん、とん。


少し間を空ける。


とん、とん。


さっきテレビから聞こえた音とは違う並びにする。


もう一度。


「楽」


「何?」


「机は叩くな」


「床」


「下に響く」


俺は指を止めた。


「じゃあ小さくする」


今度は爪を使わず、指の腹で軽く叩く。


ほとんど下へ響かないくらいの音。


父さんは何も言わなかった。


止めろとは思っていない。


それならいい。


俺はまた音を並べる。


父さんは数字を見る。


俺は音で遊ぶ。


昼になれば、一緒に飯を食う。


夜になれば、父さんが仕事を終える。


家にいるのは父さんと俺だけだった。


知らない人が一人いなくても、別に困らなかった。


父さんはここにいる。


言わないことは多いけれど、いなくなったことはない。


それで十分だった。


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