第1話 鳴海楽の世界
朝、カーテンのすき間から白い音が入ってきた。
目を開ける。
天井はいつもの白。壁も白に近い。でも同じ音じゃない。天井は少しかたくて、壁はもっと平らだ。カーテンから入る朝の白は明るくて、少しずつ強くなっていた。
布団から足を出す。
寒い。
足の先に冷たい音がくっついた。
床へ下りると、今度は足の裏に木の音が増える。ぺた、と本当に鳴った音も一緒になる。
俺は廊下へ出た。
冷蔵庫が鳴っている。
外を走る車も鳴っている。
窓から入る光も鳴っている。
昨日の夜より部屋が冷えているから、その音もある。
全部あるけど、うるさくはない。
父さんの声を聞くときは父さんを聞けばいいし、冷蔵庫を聞きたいときは冷蔵庫を聞けばいい。
今は父さんだった。
仕事をしている。
部屋の前まで行くと、扉が少し開いていた。
中では父さんが椅子に座って、三つ並んだ画面を見ていた。画面には数字と線がたくさんある。赤いところ、青いところ、白いところ。光の音が重なっている。
父さんの右手が動いた。
かち。
止まる。
また動く。
かち、かち。
俺は扉のところに座った。
父さんはこっちを見ない。
でも、俺がいるのは知っている。
父さんの肩はいつもと同じだった。息も同じ。俺が起きてきたときだけ、少し音が変わった。
『起きたか。腹は減ってないな』
そんな音だった。
「まだ減ってないよ」
かち、という音が止まった。
父さんがこっちを見る。
「何が」
「お腹」
「聞いてない」
「うん」
俺が答えると、父さんは少しだけ眉を動かした。
困っているときの音ではない。
怒ってもいない。
またか、というときの父さんの音だった。
「水飲め」
「分かった」
台所へ行く。
自分のコップは赤い。
棚から取る。
赤には赤の音がある。
昨日、父さんが切ったトマトも赤かった。俺の積み木にも赤がある。全部ちょっとずつ違うけど、赤いところは同じように分かる。
蛇口をひねる。
水が出た。
これは耳でも聞こえる。
透明な水も見えるから、そっちの音もある。手に跳ねると冷たい音が増えた。
コップへ入れると音が変わる。
半分。
もう少し。
いっぱい。
俺は蛇口を止めた。
飲む。
冷たい。
口の中と喉を水が通る。
それも鳴っていた。
飲み終わったコップを机に置く。
こん。
もう一回置く。
こん。
少し強くすると、
かん。
違う。
俺はコップを持ち上げた。
父さんの部屋から声がする。
「割るなよ」
「割らないよ」
「ならいい」
俺はコップを置いた。
こん。
やっぱり、さっきと同じだった。
だからもう一回やった。
こん。
同じ。
もう一回。
こん。
同じだった。
面白いけど、ずっと同じだ。
俺は赤いコップを棚へ戻した。
〓〓〓
昼になる前、父さんが仕事部屋から出てきた。
俺はリビングの床に座っていた。
積み木が並んでいる。
赤。
青。
黄色。
緑。
色ごとに音が違う。
同じ赤でも、光が当たっているところと影になっているところは少し違う。角と真ん中も違う。手で持つと、固い音も加わる。
でも積み木は積むより叩く方が面白かった。
二つ持って、
こっ。
こっ。
違う二つなら、
こっ。
かっ。
机なら、
とん。
床なら、
こん。
俺の膝なら、
ぽん。
音が違う。
父さんが俺を見る。
「何してる」
「鳴らしてる」
「そうか」
父さんは台所へ行った。
冷蔵庫を開ける。
白い光が出る。
中の冷たい音も一緒に広がった。
俺は積み木を置いて、父さんの後ろへ行く。
父さんは冷蔵庫の中を見ている。
何を食べるか考えている。
視線が上へ行く。
下へ行く。
少し止まる。
『昨日の残りでもいい。楽は食うか』
「食べるよ」
父さんが振り返る。
「まだ聞いてない」
「でも食べる」
「そうか」
父さんは冷蔵庫から皿を出した。
俺は椅子へ座る。
電子レンジが鳴り始めた。
ぶうん。
丸い皿が回る。
中の食べ物も回る。
赤いところが動く。
黄色いところも動く。
色の音まで一緒にぐるぐる回るから面白い。
俺はしばらく見ていた。
ぴー。
「できた」
「見れば分かる」
父さんが皿を出す。
「熱いから触るな」
「うん」
湯気も鳴っていた。
熱い音だ。
近づくと顔にも分かる。
俺は触らない。
父さんが箸を持ってくる。
俺の前には小さいスプーンを置いた。
「いただきます」
「いただきます」
食べる。
少ししょっぱい。
しょっぱい音。
温かい音。
肉の味。
野菜の味。
噛む音。
父さんが箸で皿を触る音。
窓の外を車が通る音。
全部一緒にある。
その中で、父さんの音が少し変わった。
仕事部屋に置いてきたものを気にしている。
食べているけど、半分くらいはあっちを見ている音だ。
「戻っていいよ」
父さんが箸を止めた。
「飯の途中だ」
「でも気にしてる」
「食ってからでいい」
「そうなの?」
「ああ」
父さんはそのまま食べる。
ならいいらしい。
俺も食べた。
食べ終わると、父さんは皿を流しへ置いて仕事部屋へ戻った。
「楽」
「なに」
「眠かったら寝ろ」
「眠くない」
「そうか」
扉が閉まる。
俺は一人になった。
テレビはついていない。
父さんもいない。
することがない。
暇だった。
俺はスプーンを一本持ってきた。
机を叩く。
とん。
皿の端。
ちん。
空のプラスチックの箱。
たん。
床。
こん。
同じ順番でもう一回やる。
とん。
ちん。
たん。
こん。
もう一回。
とん。
ちん。
たん。
こん。
ちゃんと同じだった。
今度は最後を二回にする。
とん。
ちん。
たん。
こん、こん。
少し違う。
その方がいい。
もう一回。
とん。
ちん。
たん。
こん、こん。
次は最初を二回。
とん、とん。
ちん。
たん。
こん、こん。
俺は首をかしげた。
これは違う。
最初の方がよかった。
だから戻す。
とん。
ちん。
たん。
こん、こん。
うん。
そのまま何度か鳴らした。
父さんの仕事部屋から、椅子が動く音がした。
扉が開く。
「楽」
「なに」
「それ、ずっとやるのか」
父さんは怒ってはいない。
ちょっとうるさいと思っている。
「うるさい?」
「ああ」
「じゃあ小さくする」
「そうしろ」
スプーンを指に変える。
机を軽く叩く。
と。
箱。
た。
床はやめる。
膝。
ぽ。
小さくなった。
父さんは仕事部屋へ戻った。
俺は続きをやる。
と。
た。
ぽ、ぽ。
小さくても同じだった。
それなら問題ない。
〓〓〓
夕方になると、部屋の色が変わった。
窓の外が赤くなる。
朝の白とは違う。
赤の音が広がる。
俺は窓の前に座った。
山の上の方がまだ明るい。
下の家はだんだん暗くなる。
車のライトが一つずつ増える。
動く白い音と赤い音が道を通っていく。
空は青から赤になって、それから少しずつ黒くなる。
ずっと見ていても同じじゃない。
だから暇じゃなかった。
後ろで父さんが動いた。
仕事が終わったらしい。
画面が一つ消える。
また一つ消える。
光の音が減る。
最後の一つも消えた。
父さんがリビングへ来た。
「楽、風呂」
「今?」
「今」
「分かった」
風呂も音が多い。
服を脱ぐ。
布がこすれる。
裸足で床へ乗る。
冷たい。
浴室はもっと違う。
壁の音が近い。
声を出すと返ってくる。
「わ」
わ、と小さく戻る。
もう一回。
「わ」
また戻る。
父さんがシャワーを出した。
「遊んでないで入れ」
「入るよ」
湯気が増える。
温かい音が増える。
水が腕を流れる。
肩を流れる。
指の間を通る。
同じ水なのに、当たる場所で違う。
湯船へ入る。
「あつい」
「熱いか」
「ちょっと」
父さんが水を足した。
冷たい音が混ざる。
熱いのと冷たいのが一緒になって、だんだんちょうどよくなる。
「もういい」
父さんが水を止めた。
俺は手のひらで湯を叩いた。
ぱしゃ。
もう一回。
ぱしゃ。
浴室の壁から音が返る。
リビングで机を叩いたときとは違う。
「父さん」
「何だ」
「ここ、音が戻る」
「ああ」
「なんで?」
父さんは少し考えた。
「壁が近くて固いからだ」
「ふうん」
壁を見る。
白い。
触る。
つるつるしている。
指で軽く叩く。
こつ。
「楽」
「なに」
「風呂でまで叩くな」
「なんで?」
「うるさい」
「小さくても?」
「今日はもういい」
「分かった」
やめる。
別に叩かなくても、音はある。
水が揺れている。
湯気が動く。
父さんが腕を動かす。
風呂の外で何かが小さく鳴った。
遠い車も聞こえる。
俺は湯の中で手を開いた。
指の間をお湯が通る。
面白い。
父さんが俺を見る。
『のぼせる前に出す』
そんな音がした。
「まだ大丈夫だよ」
父さんの眉が動いた。
「何が」
「まだ」
「……そうか」
父さんは少し黙った。
それから俺の頭へ手を置く。
「あと少しで出るぞ」
「うん」
父さんの手は温かい。
湯船とは違う温かさだった。
風呂から出ると、部屋はもう暗くなっていた。
父さんが髪を乾かしてくれる。
ドライヤーは大きな音がする。
風も鳴る。
温かさも鳴る。
髪が動くのも分かる。
普通に話すと父さんの声が聞きにくい。
でも口が動くのは見えるし、顔も動く。
「じっとしてろ」
「してる」
「動いてる」
「ちょっとだけ」
頭を押さえられた。
乾くまで待つ。
その間、ドライヤーの音の中から別の音を探した。
廊下。
冷蔵庫。
外の車。
父さんの呼吸。
ちゃんと全部ある。
ドライヤーが止まった。
急に静かになる。
でも、音がなくなったわけじゃない。
「寝るぞ」
「まだ眠くない」
「布団に入れ」
「分かった」
布団へ入る。
電気が消える。
暗くなると、見えていた音が減った。
部屋が少し広くなったみたいに感じる。
でも父さんが歩く音はある。
布団の重さもある。
枕の冷たさもある。
外を走る車もある。
父さんが隣の部屋へ行く。
扉が閉まる。
俺は目を閉じた。
眠くない。
することもない。
だから枕の端を指で叩いた。
と。
少し場所を変える。
た。
もう一回。
と。
た。
暗くても、音はいくらでもあった。




