第58話 第二演奏――東京文化会館
東京文化会館の小ホールへ入った時、私は少し懐かしい気持ちになった。
子供の頃、何度も全国大会で訪れた場所だ。
あの頃は、舞台へ上がる前に何度も楽譜を確認し、先生から教わったことを頭の中で繰り返していた。
今は、そういうことをする必要がなくなったわけではないけれど、演奏会に対する考え方は随分変わった。
今日も、本番前に確認することはいくつもある。
舞台の状態。ピアノの調子。客席への響き方。そして、演奏会の進行。
今回は出演者としてだけでなく、企画を進めた立場でもあるので、確認することが少し多かった。
それでも、必要な手続きはすでに終わっている。
会場の利用条件や日程の調整、演奏会の運営については、これまでの活動で知り合った人たちにも協力してもらった。
先生にも相談し、実現できる形を探した。
最初は会場の確保に時間がかかるかと思ったけれど、幸い、条件の合う日程が見つかった。
鳴海くんにも予定を確認し、正式に出演をお願いしている。
同じ会場。
同じ観客。
同じピアノ。
そして、同じ作品。
ショパン《バラード第4番 ヘ短調 Op.52》。
私が望んでいた条件は、ほぼすべて整った。
あとは、実際に演奏するだけだ。
「九条さん、ピアノの確認をお願いします」
スタッフに声をかけられ、私は舞台へ向かった。
今回使用するグランドピアノは、すでに調律を終えている。
私は椅子へ座り、鍵盤へ手を置いた。
軽く音を鳴らす。
中音域の響きは自然だった。低音も十分に鳴るし、高音が必要以上に硬くなることもない。
ただ、私が普段使っているピアノとは、鍵盤の反応が少し違う。
これは、特に珍しいことではない。
どれほど同じように整備されていても、ピアノにはそれぞれの個性がある。
私はいくつかの和音を鳴らし、ペダルの反応を確かめた。
響きを残したいところでは、少しだけ踏み込みを浅くした方が良さそうだった。
逆に、低音を十分に広げたい部分では、もう少し積極的に使ってもいい。
実際の曲の一部分を弾き、感触を確認する。
「……うん」
悪くない。
このピアノなら、考えてきた演奏を十分に実現できる。
もちろん、本番では客席に人が入る。
今とまったく同じ響きにはならないだろう。
それでも、演奏家として必要な準備はできている。
私は鍵盤から手を離した。
今日の演奏がどうなるかは、まだ分からない。
けれど、自分の演奏に必要なことは、これまで十分に積み重ねてきた。
そのことには、自信があった。
〓〓〓
「九条」
舞台裏へ戻る途中で声をかけられた。
振り返ると、鳴海くんが立っていた。
「鳴海くん。もう来ていたのね」
「うん。さっき着いたところ」
「予定より少し早いわね」
「電車がちょうど良かったから」
相変わらず、特別な緊張は感じられない。
彼は今日の演奏会でも、普段とほとんど変わらない様子だった。
「ピアノはもう確認した?」
「まだ。これから触らせてもらう予定」
「そう。調律は終わっているわ。少し鍵盤の反応に特徴があるけれど、弾きやすいピアノよ」
「へえ。楽しみだな」
鳴海くんは、素直に嬉しそうな顔をした。
私は少し笑う。
「本当に、楽しそうね」
「九条も楽しみでしょ?」
「ええ。もちろん」
それは本当だった。
今日の演奏会が決まってから、私は《バラード第4番》を何度も弾いた。
ただし、鳴海くんに勝つためだけに特別な練習をしたわけではない。
普段の演奏活動と同じように、自分が良いと思う音楽を作ってきた。
その成果を、今日の舞台で披露したい。
「演奏順は、予定どおり私が先でいいわね?」
「うん。大丈夫だよ」
「途中で短い転換時間を設けてあるから、その間にピアノの位置や椅子を確認してね」
「分かった」
「それから、今日は同じピアノを使う予定だから、演奏者ごとの調整は椅子の高さなど必要な範囲にしているわ」
「うん。それでいいと思う」
私は頷いた。
今回の演奏会は、正式なコンクールではない。
審査員もいなければ、順位を発表する予定もない。
観客には、二人のピアニストが同じ作品をそれぞれの解釈で演奏する企画として案内している。
それで十分だった。
「……鳴海くん」
「何?」
「今日は、よろしくね」
「うん。よろしく」
彼は軽く頷いた。
「九条の《バラード第4番》、聞くの楽しみにしてるよ」
「ありがとう。私もあなたの演奏を楽しみにしているわ」
その言葉を交わしてから、私は控室へ戻った。
胸の奥に、少しだけ高揚した感覚があった。
緊張もしている。
けれど、それは不安とは違う。
大切な演奏会の前には、今でもこういう感覚がある。
自分が準備してきた音楽を、これから人前で演奏する。
そのことが、私は好きだった。
〓〓〓
客席には、予想していたより多くの人が来ていた。
大学の学生や教員、私の演奏活動を知っている人たち。それに、鳴海くんの名前を聞いて興味を持った人もいるのだろう。
私は舞台袖から、客席の様子を少しだけ確認した。
先生の姿が見えた。
黒川先生は、落ち着いた様子でプログラムを読んでいる。
少し離れたところには、灰崎先生も座っていた。
ほかにも、クラシック音楽の演奏会で見かけたことのある人が何人かいる。
けれど、今日は誰に評価してもらうかを考える必要はない。
私は、自分の演奏をすればいい。
開演の案内があり、客席が静かになった。
スタッフから合図を受け、私は舞台へ出た。
拍手が起こる。
いつものように一礼し、ピアノの前へ座る。
椅子の位置を確認する。
ペダルへ足を置き、鍵盤の感触を確かめる。
今日も、問題なく弾けそうだった。
私は静かに息を吸い、最初の音を鳴らした。
ショパン《バラード第4番 ヘ短調 Op.52》。
穏やかな導入が、客席へ広がっていく。
この作品は、最初から激しく感情を表す曲ではない。
静かな音の中に、これから何が始まるのかを感じさせる。
私は冒頭の響きを十分に聞きながら、主題へ向かった。
旋律が現れる。
最初は比較的単純な形をしているけれど、その中には多くの可能性が含まれている。
この旋律が、作品の中で何度も姿を変えていく。
私は最初の主題を、あまり重くしすぎないように弾いた。
旋律の輪郭ははっきりさせる。
ただし、今の段階で音楽を大きく広げる必要はない。
この先で変化していく余地を残しておきたかった。
左手の伴奏が、その下で自然に動いていく。
ピアノの響きを確かめながら、必要な音量へ調整する。
事前に考えてきた解釈はあるけれど、本番の音を聞いて細かな部分を変えることは珍しくない。
今日も、客席に人が入ったことで、響きは少し変わっていた。
私はその変化に合わせて、ペダルを浅くする部分と、長く残す部分を選んだ。
主題が繰り返される。
今度は、最初とは少し違う表情になる。
旋律を支える和声が変わり、音楽の進む方向も少しずつ変化していく。
私は右手の旋律だけを聞かせるのではなく、その周囲にある声部も意識した。
ショパンの作品では、歌うような旋律が魅力になることが多い。
けれど、この《バラード第4番》には、それだけでは説明できない複雑さがある。
複数の声部が重なり、それぞれが意味を持ちながら進んでいく。
どこを前へ出し、どこを支えとして残すのか。
それを考えるのが、私は好きだった。
曲が進むにつれ、旋律が少しずつ複雑になっていく。
細かい装飾が加わり、内声の動きが増える。
私はその変化を、一つの流れとして聞かせるように弾いた。
音を増やすこと自体が目的ではない。
最初の旋律が、さまざまな経験を重ねて変化していくような、そんな自然なつながりを作りたかった。
もちろん、それは私の解釈だ。
ほかのピアニストなら、別の考え方で弾くだろう。
それでも、今の私はこの音楽が好きだった。
中盤へ入ると、声部の関係はさらに複雑になる。
右手と左手が、単純な旋律と伴奏の関係ではなくなっていく。
それぞれに独立した動きがあり、互いに重なり合う。
私は低音の進行を意識しながら、上の旋律が自然に聞こえるよう調整した。
少しだけテンポを緩める。
ただし、音楽全体の流れは止めない。
次の和声へ進むところで、自然に時間を戻す。
そうすることで、旋律が一つの長い線としてつながっていく。
「……うん」
心の中で、小さく頷いた。
良い感じだった。
ピアノの反応も、こちらの意図によく応えてくれる。
静かな音を出したいところでは、十分に柔らかい響きが作れる。
強い音が必要なところでも、音が硬くなりすぎない。
私はその特徴を利用しながら、演奏を進めた。
曲が大きく動き始める。
それまで積み重ねてきた旋律が、少しずつ力を増していく。
ここで急に激しく弾いてしまうと、音楽の流れが不自然になる。
私は、どの部分で音量を増やし、どこで少し抑えるのかを考えながら演奏した。
強い音を出す時も、旋律の形を崩さない。
細かな音が続くところでは、速さよりもつながりを優先する。
もちろん、必要な速さは保つ。
けれど、速く弾けることを示すために演奏しているわけではない。
この作品が持つ流れを、最後まで自然につなげたいのだ。
終盤へ向けて、音楽はさらに密度を増していった。
複雑な音型が続き、両手の動きも大きくなる。
身体には、それなりの負担がかかる。
それでも、今の私なら問題なく扱える。
長い時間をかけて身につけた奏法がある。
無理な力を使わず、必要な場所へ腕の重さを移し、指先で音を調整する。
何度も練習してきた動きが、自然に音楽へつながっていく。
私は終結部へ入った。
それまで抑えていた力を、少しずつ解放していく。
細かい音が連続する。
強い和音が重なる。
旋律が大きく動き、最後の部分へ向かっていく。
ここで、音楽の流れを失うわけにはいかない。
私は身体の動きを確かめながら、一つ一つの音を必要な位置へ置いた。
速い部分でも、音の輪郭は保たれている。
和音が続くところでは、低音を十分に響かせながら、高音の旋律を前へ出す。
最後まで、全体の構造を崩さずに弾き切る。
そして、終結の和音が響いた。
私は鍵盤から手を離した。
音が客席へ広がり、少しずつ消えていく。
その響きが収まるのを待ってから、ゆっくりと息を吐いた。
良い演奏だった。
少なくとも、今の自分が望んでいた音楽は、十分に表現できたと思う。
大きな不満はない。
もちろん、後から録音を聞けば、また気になるところは見つかるだろう。
けれど、それはいつものことだ。
今は、この演奏ができたことを素直に嬉しいと思った。
客席から拍手が起こる。
その音は、すぐに大きくなった。
私は立ち上がり、一礼する。
拍手は続いていた。
前方の席では、立ち上がっている人もいる。
先生も、穏やかな表情で拍手をしていた。
私はもう一度頭を下げ、舞台袖へ戻った。
「九条さん、素晴らしかったです」
スタッフが声をかけてくれた。
「ありがとうございます」
「とても良い演奏でしたね」
「そう言っていただけると嬉しいです」
私は素直に礼を言った。
自分でも、満足できる演奏だった。
今日の私は、確かに今の自分の音楽を聞かせることができた。
そのことには、何の迷いもなかった。
〓〓〓
短い転換時間の後、私は客席へ移動した。
演奏者用に確保してもらった席へ座る。
舞台には、先ほどまで私が弾いていたピアノが置かれていた。
同じ楽器だ。
椅子の高さなどは、鳴海くんに合わせて調整されるだろうけれど、ピアノそのものは変わらない。
会場も同じ。
客席にいる人たちも、基本的には同じだった。
私は膝の上で手を組み、舞台を見つめた。
自分の演奏を終えた後なので、身体には少し疲れが残っている。
けれど、気分は悪くなかった。
むしろ、今は楽しみだった。
この条件で、鳴海くんがどんな演奏をするのか。
それを聞くために、今日の演奏会を企画したのだから。
やがて、舞台袖から鳴海くんが現れた。
拍手が起こる。
彼はいつもどおりの落ち着いた様子で一礼し、ピアノの前へ座った。
椅子の位置を確認する。
鍵盤へ手を置き、少しだけ姿勢を整える。
それだけだった。
私は彼の動きを見ながら、子供の頃を少し思い出した。
あの頃も、彼は舞台の上で特別な緊張を見せなかった。
ただ、今は身体も大きくなり、演奏家として扱える音の幅も広がっている。
どんな演奏になるのだろう。
そう考えていると、最初の音が鳴った。
ショパン《バラード第4番 ヘ短調 Op.52》。
私がつい先ほど弾いた作品だ。
冒頭の音が、同じ会場へ広がる。
その瞬間、私は少し驚いた。
音の強さは、特別に大きいわけではない。
テンポも、不自然に変わっているわけではなかった。
けれど、最初の数音だけで、私の演奏とは違うものが聞こえていた。
音と音の間にある時間。
和音が広がる方向。
旋律が次の音へ向かう時の重心。
それらが、私とは少しずつ違っていた。
もちろん、演奏家が違えば解釈も変わる。
そんなことは、私も十分に理解している。
ただ、鳴海くんの場合、その違いが非常に自然だった。
一つの音だけを取り出して聞けば、決して特別なことをしているわけではない。
でも、次の音が鳴ると、前の音との関係がはっきりする。
さらに次の音が続くと、それまでの音が一つの流れになる。
その流れが、実に滑らかだった。
主題が始まる。
私は思わず、少しだけ姿勢を正した。
同じ旋律だ。
同じ楽譜を使っているのだから、当然だった。
けれど、その旋律の聞こえ方が違う。
私は、最初の主題を比較的控えめに扱った。
後の変化へ向けて、余地を残したかったからだ。
鳴海くんは、最初から旋律の中にある細かな動きを、非常にはっきり聞かせていた。
といっても、音を強調しているわけではない。
むしろ、一つ一つの音の強さは自然だった。
それでも、旋律がどこへ向かっているのかが、驚くほど分かりやすい。
「……そう弾くのね」
声には出さず、私は演奏を聞き続けた。
左手の伴奏が入る。
その音量は、私の演奏と大きく違わなかった。
けれど、右手との重なり方が違う。
ほんの少しだけ、音を出すタイミングが変わっている。
それだけで、旋律の進み方が変わって聞こえた。
私は、その理由を考えた。
技術的には分かる。
彼は音の立ち上がりを調整し、左右の手の関係を変えている。
ペダルも、必要なところだけを使っている。
だから、あの響きになる。
それは理解できた。
ただ、どうしてその位置を選んだのか。
そこまでは、すぐには分からなかった。
曲が進む。
旋律が変化し、複数の声部が重なり始める。
ここから先は、私も特に時間をかけて研究してきた部分だった。
どの声部を前へ出し、どこで別の声部へ受け渡すのか。
その判断によって、音楽全体の印象が大きく変わる。
鳴海くんは、その関係を実に自然に扱っていた。
一つの旋律が前へ出る。
次の瞬間には、別の声部がその役割を引き継ぐ。
けれど、前の旋律が急に消えるわけではない。
必要なところでは音を残し、次の声部と重ねている。
私は、その動きを聞きながら思った。
これは、楽譜を非常に深く理解していなければできない。
ただ音を正確に弾くだけでは、こんなふうにはならない。
それぞれの声部が何をしているのかを理解し、全体の中で必要な音を選んでいる。
しかも、その判断が速い。
音のつながり方が、演奏中に細かく変化していた。
私は客席の空気が少し変わるのを感じた。
先ほどまで、演奏会を楽しむために座っていた人たちが、今は舞台へ強く意識を向けている。
もちろん、誰が何を考えているのかまでは分からない。
ただ、周囲の動きが減り、客席が静かになっていくのは分かった。
鳴海くんは、その中で演奏を続けている。
曲の途中、少しだけ旋律を長く取った部分があった。
私は、その場所をよく覚えている。
自分なら、もう少し早く次の音へ進めるところだ。
けれど、彼はほんの少し待った。
そして、次の音を鳴らした。
その瞬間、私は思わず息を止めた。
前の音の響きが、まだ会場に残っていた。
そこへ次の和音が重なり、私が考えていたものとは違う響きが生まれた。
「……ああ」
小さく納得する。
そうか。
ここでは、その響きを使えるのか。
同じピアノで、同じ会場だった。
私も、つい先ほど同じ部分を弾いている。
けれど、その音のつながり方は選んでいなかった。
思いつかなかったわけではない。
似た方法を試したことはある。
ただ、今日の私は別の解釈を選んだ。
鳴海くんは、この会場で、その響きを使う方が自然だと判断したのだろう。
私は、彼の演奏を聞きながら、自分の演奏との違いを一つずつ確認していった。
〓〓〓
中盤を過ぎる頃には、私はすっかり演奏へ引き込まれていた。
比較するために聞いていることは、もちろん忘れていない。
けれど、それだけではなくなっていた。
単純に、今の音楽が面白かった。
鳴海くんは、曲が進むにつれて音の重なり方を変えていく。
強い音が必要なところでは、十分な力で鍵盤を鳴らす。
静かな部分では、音の輪郭を残したまま、柔らかく響かせる。
そこまでは、私にもできる。
実際、先ほどの自分の演奏でも、十分に実現できていたと思う。
ただ、彼の演奏には、もう一つ違うところがあった。
音が変化するタイミングが、非常に自然なのだ。
一つのフレーズが終わる直前に、次のフレーズへ向かう動きが生まれる。
その動きが、会場の残響ときれいにつながる。
強い音から静かな部分へ移るところでも、急に音楽が切り替わったようには聞こえない。
前の音が持っていた力が、次の音へ受け渡されていく。
それが、曲全体を通して続いていた。
私は、舞台上の彼の手を見た。
特別に大きな動きをしているわけではない。
指も腕も、普通の人間のものだ。
必要な時には腕を動かし、手首を使い、鍵盤へ力を伝えている。
技術的に不可能な動きをしているわけではない。
むしろ、無駄な動きが非常に少なかった。
どこで力を使い、どこで抜くのか。
その判断が正確だから、音楽が途切れない。
私は、その演奏を聞きながら、少し笑いそうになった。
本当に、昔から変わらない。
あの頃も、私は彼の演奏を聞くたびに、同じようなことを考えていた。
何をしているのかは分かる。
でも、どうしてその判断を選べるのか分からない。
ただし、今の私は、子供の頃よりずっと多くのことを理解できる。
彼の演奏を聞いても、ただ圧倒されるだけではない。
どこで音の重心を変えているのか。
どの声部を聞かせようとしているのか。
ペダルをどう扱っているのか。
そういうことは、以前より遥かにはっきり分かった。
それでも、分からない部分は残っている。
私は、その事実を静かに受け止めた。
鳴海くんは、私より多くのものを聞いているのだろう。
以前、彼が自分の特殊な感覚について話した取材を読んだことがある。
目に見えるものや、身体の反応なども、音として認識しているという。
それが具体的にどんな感覚なのか、私には想像しきれない。
けれど、彼が通常の演奏家より多くの情報を扱っていることは、理解できる。
そして、その情報を演奏へ反映する能力が、異常なほど高い。
ただし、だからといって、彼が何でも自由にできるわけではない。
今も、鍵盤を動かしているのは普通の手だ。
音を出すためには、身体を使わなければならない。
その条件は、私と同じだった。
違うのは、その身体を使って何を選ぶかという部分なのだと思う。
やがて、音楽は終盤へ向かい始めた。
それまで複雑に絡み合っていた旋律が、さらに密度を増していく。
私は、自分が先ほど弾いた部分を思い出した。
あそこでは、音楽全体の流れを保つために、強い音を少し抑えた。
次の部分で十分な力を出せるようにするためだ。
鳴海くんは、少し違う方法を選んでいた。
強い音を出している。
けれど、その音が次の部分の邪魔にならない。
ペダルの扱い方が違うのだ。
音の残り方を調整し、必要な響きだけを次へつなげている。
「……なるほど」
理解できる。
技術としては、私にもできる。
ただ、ここでその方法を選ぶ発想はなかった。
私は、彼の演奏を聞きながら、自分ならどう弾くかを考えた。
彼の方法をそのまま真似する必要はない。
けれど、こういう考え方もできるのだと知ったことには意味がある。
その瞬間、私は少し嬉しくなった。
まだ、知らない演奏がある。
自分が十分に研究してきたと思っていた作品にも、別の可能性が残っている。
それを聞くことができた。
曲は、いよいよ終結部へ向かった。
細かな音が連続する。
両手の動きが大きくなり、音楽が一気に高まっていく。
ここは、技術的にも非常に難しい部分だ。
私は先ほど、十分に納得できる演奏をした。
速さも、正確さも、音楽の流れも、今の自分が望む水準に達していたと思う。
鳴海くんの演奏も、当然のように正確だった。
けれど、印象が違う。
彼は音の強さを一律に増やしているわけではない。
必要な声部をはっきりさせながら、全体の勢いを作っている。
音楽が進むにつれて、響きの厚みが増していく。
それでも、どの音も無理に押し込まれたようには聞こえない。
今のピアノが出せる音を、最も自然な形で使っているようだった。
私は、その演奏を最後まで聞いていた。
もう、自分の演奏との違いを一つずつ数えることはしていない。
ただ、音楽を聞いていた。
複雑な音型が続き、最後の和音へ向かっていく。
鳴海くんは、音楽全体の流れを保ったまま、終結まで弾き切った。
最後の和音が響く。
その音が客席へ広がり、少しずつ消えていく。
私は、しばらく動けなかった。
素晴らしい演奏だった。
それ以外に、今すぐ言葉が見つからなかった。
〓〓〓
最初の拍手が起こるまで、少し時間があった。
客席の誰かが手を叩く。
その音をきっかけに、拍手が広がっていった。
すぐに大きな拍手となり、会場全体を満たしていく。
私は立ち上がった。
周囲にも、同じように立ち上がる人がいた。
舞台の上では、鳴海くんが一礼している。
彼は少し不思議そうな顔をしていたけれど、すぐにもう一度頭を下げた。
私は拍手を続けた。
本当に、良い演奏だった。
自分の演奏にも満足している。
けれど、彼の演奏が強い印象を残したことも、はっきり分かる。
どちらも、同じ作品を弾いた。
同じピアノを使った。
同じ会場で、同じ観客に聞いてもらった。
その条件で、二つの違う音楽が生まれた。
私は、今日ここで聞いたものを、簡単には忘れないだろう。
鳴海くんが一度舞台袖へ戻る。
けれど、拍手はなかなか収まらなかった。
スタッフに促され、彼がもう一度舞台へ出てくる。
客席から、再び大きな拍手が起こった。
私はその様子を見ながら、静かに笑った。
何年も前、同じ会場で、私は彼の演奏を聞いていた。
その時は、自分の演奏がどれほど違うのか、十分に理解できなかった。
今は違う。
今日の私は、自分の音楽を作ることができた。
演奏にも満足している。
それでも、鳴海くんの演奏には、自分とは違う強さがあった。
その違いが、今ならよく分かる。
私は拍手を続けながら、舞台の上の彼を見ていた。
〓〓〓
演奏会が終わり、私は関係者への挨拶を済ませた。
今日の企画に協力してくれた人たちへ礼を伝え、必要な確認を行う。
出演者としての仕事は終わったけれど、企画を進めた立場としては、まだ少しやることが残っている。
それでも、演奏会が無事に終わったことには安心していた。
会場の運営にも大きな問題はなかった。
二人の演奏は予定どおり行われ、観客にも楽しんでもらえたようだった。
「九条」
振り返ると、鳴海くんが立っていた。
「鳴海くん。お疲れさま」
「お疲れ。今日の演奏、良かったよ」
「……ありがとう」
私は素直に礼を言った。
彼にそう言ってもらえるのは、やっぱり嬉しい。
「九条の《バラード第4番》、前に聞いた時よりずっと良かった」
「そう?」
「うん。特に中盤の声部のつなぎ方が面白かった」
私は少し驚いた。
「あそこ、気づいていたのね」
「もちろん。かなり変えてたでしょ」
「ええ。前から考えていた部分なの」
「良かったと思うよ」
彼は自然に頷いた。
私は少し笑った。
「ありがとう。私も、今日の自分の演奏には満足しているわ」
「うん。それが一番じゃない?」
「……そうね」
まったく、この人は。
私は思わず苦笑した。
「あなたの演奏も、素晴らしかったわ」
「ありがとう」
「同じ曲なのに、あんなに違う音楽になるのね」
「九条の演奏も、俺とは結構違ったよね」
「ええ。それが面白かった」
「うん。俺も楽しかったよ」
彼は、本当に楽しそうだった。
今日の演奏会を、勝負の場として考えていたわけではないのだろう。
ただ、同じ作品から二つの音楽が生まれることを楽しんでいた。
私は、それで構わないと思った。
そもそも、今回の演奏会は私がお願いしたものだ。
彼に同じ気持ちで演奏してほしいと頼んだわけではない。
私は自分のために、今の二人を比較してみたかった。
鳴海くんは、それに付き合ってくれた。
そして、私は今日の演奏を聞いた。
「鳴海くん」
「何?」
「今日は、本当にありがとう」
「うん。こっちも面白かったよ」
「そう言ってもらえると嬉しいわ」
私は少しだけ間を置いた。
今の自分が何を感じているのか、まだ完全には整理できていない。
ただ、今日の演奏が無駄ではなかったことだけは、はっきり分かっていた。
「……また、少し話してもいいかしら」
「いいよ。今日はまだ何かあるの?」
「いえ。今日ではなくて、また今度」
「分かった」
鳴海くんは軽く頷いた。
「じゃあ、また大学で」
「ええ。またね、鳴海くん」
彼は手を軽く上げ、そのまま控室の方へ歩いていった。
私はその後ろ姿を見送り、少しだけ息を吐いた。
東京文化会館での比較演奏は、これで終わった。
今日の私は、自分の音楽を十分に表現できた。
鳴海くんの演奏も、同じ条件で聞くことができた。
そして、二人の違いを、自分の耳で確かめることができた。
それが、今回の演奏会で私が望んでいたことだった。
私は鞄を持ち直し、会場の出口へ向かった。
まだ、少しだけ考えたいことがある。
でも、それは急いで結論を出すようなことではない。
今日聞いた音楽を、もう一度ゆっくり思い出してみよう。
自分の演奏も、鳴海くんの演奏も。
そのうえで、今の自分が何を感じたのか、きちんと確かめたいと思った。




