第57話 勝ち逃げ
ピアノを弾いている時間は、今でも好きだ。
子供の頃からずっとそうだったし、これからも変わらないと思う。
もちろん、好きだからといって、いつでも思いどおりの演奏ができるわけではない。
指の動きがほんの少し遅れたり、音色が思っていたものと違ったりすることもある。自分では納得できる演奏をしたつもりでも、録音を聞き直せば気になる部分が見つかる。
それでも、次に弾く時にはもっと良くしたいと思う。
その繰り返しで、私はここまで来た。
「……もう一度」
私は楽譜へ目を落とし、先ほど弾いた部分から演奏を再開した。
ショパンの《バラード第4番 ヘ短調 Op.52》。
以前から何度も弾いている作品だ。
旋律の扱い方も、声部の関係も、理解しているつもりだった。けれど、経験を重ねてから弾くと、以前とは違うところに気づくことがある。
特に、旋律が複雑に重なりながら進んでいく部分は、今でも弾くたびに面白い。
一つの声部をはっきり聞かせれば、別の声部が隠れることもある。
だからといって、全部を同じように鳴らせばいいわけではない。
どの音をどこへ置くのか。
どの旋律を前へ出し、どこで別の声部へ受け渡すのか。
考えることは多いけれど、それを一つの音楽として自然につなげられた時は嬉しい。
私は一度手を止め、今の演奏を振り返った。
悪くない。
ただ、もう少し違う弾き方もできそうだった。
次の音を出すまでの時間を変えれば、旋律の印象も少し変わるだろう。
私はその部分をもう一度弾いた。
今度は、さっきより自然につながった。
「……うん」
小さく頷いて、続きを弾く。
しばらくして曲を終えると、私は鍵盤から手を離した。
今の演奏には、それなりに満足している。
子供の頃の私では、ここまで弾けなかっただろう。
技術的な問題もあるけれど、それ以上に、音楽の作り方が違う。
あの頃は、自分が正しいと思う演奏を、できる限り正確に実現しようとしていた。
今も正確さは大切だと思っている。
ただ、正確に弾くことと、良い音楽を作ることは同じではない。
自分が何を聞かせたいのか。そのために、何を選ぶのか。
そういう判断が、以前よりずっと自然にできるようになった。
国内外の演奏会やコンクールで、いろいろな経験もした。
良い結果を得られたこともあるし、納得できない演奏をしてしまったこともある。
自分より優れた演奏家に出会うことだって、珍しくない。
そのたびに、できることを増やしてきた。
私には才能がある。
それは、自分でも分かっている。
同じくらい努力している人の中でも、私の方が早く理解できることや、自然にできることは多い。
だからこそ、もっと良い演奏をしたいと思える。
好きなことに時間を使って、その結果、少しずつ上達していく。
私にとっては、それが嬉しい。
「……さて」
私は楽譜を閉じた。
今日の練習は、ここまでにしよう。
少し休んだら、次の予定を確認しなければならない。
大学の課題もあるし、演奏の仕事もある。
以前より忙しくなったけれど、ピアノを弾く時間がなくなるほどではない。
むしろ、演奏する機会が増えたことは嬉しかった。
私は鞄を取ろうとして、ふと手を止めた。
机の上に、先日の奏楽堂のプログラムが置いてあった。
鳴海楽。
その名前を見て、私は少し笑った。
「……本当に、相変わらずだったわね」
演奏そのものは、小学生の頃とは比べものにならないほど複雑になっていた。
でも、本人は驚くほど変わっていない。
あれほどの演奏を終えた後で、会場の響きが面白かったと普通に話している。
私が何年もかけて手に入れてきたものとは、まったく違うところから音楽を見ている人だ。
そして、私はあの演奏を聞いて、改めて思った。
今の鳴海くんと、同じ舞台に立ってみたい。
それは、子供の頃に考えていたことと似ているけれど、少し違う願いだった。
〓〓〓
小学生の頃、私は鳴海くんに何度も負けた。
あの頃の私には、それが本当に悔しかった。
私はそれまで、同年代の中ではかなり上手い方だった。
コンクールでも良い結果を出していたし、先生たちからも高く評価されていた。
もちろん、周囲には上手い人がたくさんいた。
それでも、自分が一番上手いと言われることには慣れていたのだと思う。
そこへ、鳴海くんが現れた。
私より年下なのに、初めて演奏を聞いた時から、何かが決定的に違っていた。
技術だけではなかった。
音の出し方も、旋律の扱い方も、私には理解できない部分が多かった。
それでも、次に会う時には少しでも追いつきたいと思った。
先生と一緒に演奏を見直し、自分に足りないものを探し、練習を重ねた。
実際、私は毎年上手くなっていた。
前年の自分とは、まったく違う演奏ができるようになっていたと思う。
けれど、鳴海くんにも勝てなかった。
最後に同じ小学生部門で競った後、私は中学生になった。
部門が分かれても、鳴海くんが中学生になれば、また同じ舞台に立てる。
私は当然、そう考えていた。
ところが、彼はその前にコンクールからいなくなった。
その時は、ずいぶん勝手なことを考えたものだ。
あれだけ何度も私に勝っておいて、何も言わずにいなくなるなんて。
勝ち逃げじゃない。
そんなふうに思った。
ただ、それも随分昔の話だった。
彼がコンクールをやめた後も、私の人生は続いた。
ピアノを弾くのが嫌になったわけではない。
それどころか、練習すればするほど、知らなかった音楽が見つかった。
海外へ行けば、私より上手い演奏家にも出会った。
演奏会の本番では、練習の時には気づかなかった問題が見つかることもあった。
良い演奏ができれば嬉しかったし、思いどおりにいかなければ悔しかった。
けれど、悔しいからといって、誰かを責めても仕方がない。
何が足りなかったのかを考え、次の演奏に生かせばいい。
そういう経験を重ねるうちに、子供の頃の勝敗は、私の中でも少しずつ違う意味を持つようになった。
鳴海くんに負けたことは、今でも覚えている。
でも、それが私のピアニストとしての価値を決めるわけではない。
そもそも、あの頃の私は未熟だった。
今の自分から見れば、改善したいところがいくらでもある。
だから、昔の結果にこだわり続けても仕方がない。
今の私が、あの頃の私よりずっと上手いことは分かっている。
それだけで十分だと考えることもできた。
実際、鳴海くんと大学で再会するまでは、彼ともう一度コンクールで競うことを、具体的に考えていたわけではない。
作曲家として活動していることは知っていたけれど、私には私の演奏活動があった。
でも、奏楽堂で彼のピアノを聞いて、少し気持ちが変わった。
今の鳴海くんは、どんな演奏をするのか。
それを聞いた私は、今の自分ならどう弾くのかと考えた。
昔のように、ただ勝ちたいからではない。
私自身が、今の二人を比べてみたくなったのだ。
同じ作品を、同じ会場で、同じ観客に聞いてもらう。
できれば、ピアノも同じものがいい。
そうすれば、演奏者による違いがはっきりする。
もちろん、どちらが優れているのかを、簡単に数字で表せるわけではない。
音楽には解釈の違いがあるし、聞く人によって好みも変わる。
でも、私はピアニストだ。
相手の演奏を聞けば、自分とどこが違うのかを考えられる。
その違いを認めたうえで、自分の演奏をどう評価するかも決められる。
だから、誰かに勝者を決めてもらう必要はなかった。
私自身が弾き、鳴海くんの演奏を聞く。
それで、きっと納得できる。
勝てたら嬉しい。
負けたら、当然悔しいだろう。
でも、それが今の私たちの演奏なら、受け止められると思った。
そう考えると、やってみたいという気持ちが強くなった。
問題は、鳴海くんが付き合ってくれるかどうかだった。
〓〓〓
「鳴海くん、少しいいかしら」
大学の廊下で彼を見つけ、声をかけた。
鳴海くんは足を止め、こちらを振り返る。
「ああ、九条。どうしたの?」
「ちょっとお願いしたいことがあるの」
「お願い?」
「ええ。少し時間をもらえる?」
「いいよ。今は特に急いでないし」
相変わらず、返事が早い。
私は彼を人の少ない場所へ誘った。
建物の中には学生が行き来していたので、落ち着いて話せる場所がよかった。
中庭に面したベンチへ座ると、鳴海くんも隣ではなく、少し離れたところに腰を下ろした。
「それで、何?」
「この前の奏楽堂の演奏のことなんだけれど」
「うん」
「改めて、素晴らしかったと思うわ」
「ありがとう」
「あなたのピアノを聞くのは久しぶりだったけれど、やっぱり普通の演奏ではなかった」
「そう?」
「ええ。特に、あの会場の響きを使った弾き方は、私にはできない判断もあったと思う」
「九条なら、結構できるんじゃない?」
「できることもあるでしょうね。でも、全部同じようにできるとは思わないわ」
私はそう答えた。
彼の演奏を聞いて、自分にもできる部分はあった。
けれど、どうしてその瞬間にその判断を選べるのか、理解しきれない部分も残っていた。
それを認めることに、もう抵抗はない。
「それでね。あなたの演奏を聞いていたら、今の自分と比べてみたくなったの」
「比べる?」
「ええ。ピアノの演奏を」
鳴海くんは少し考えた。
「同じ曲を弾くってこと?」
「そう。それも、できれば同じ会場で、同じ観客の前で弾きたいの」
「へえ」
彼は面白そうな顔をした。
「それ、いいね」
「……まだ全部説明していないんだけれど」
「あ、そうなんだ」
「ええ」
私は思わず笑ってしまった。
こういうところは、本当に昔から変わらない。
「実は、前から少し考えていたことがあるの」
「うん」
「私たちが最後に同じ部門で競った時のこと、覚えているでしょう?」
「覚えてるよ」
「あなたが小学五年生で、私が六年生だった頃」
「そうだね」
「私は、その翌年から中学生になった。だから、あなたが中学生になれば、また同じ部門で競えると思っていたの」
「うん」
「でも、あなたはコンクールをやめてしまった」
鳴海くんは頷いた。
「そうだね」
「理由は、この前聞いたから分かっているわ。お父さんが、もう習う必要はないと判断したのよね」
「うん」
「今なら、それも理解できるの。あなたにとって、コンクールは必要な経験をするためのものだったのでしょう?」
「そうだね。人前で弾くこととか、舞台の作法とか、そういうのを習ってたから」
「……ええ」
私は小さく息を吐いた。
「でもね、子供の頃の私は、それを知らなかったのよ」
鳴海くんはこちらを見ている。
「私は、あなたに勝つために一生懸命練習していた。次こそはと思っていたし、負けるたびに、何が足りないのかを考えていた」
「うん」
「なのに、あなたは何も気にしていないように見えた」
「そうだったかも」
「そうだったのよ」
少しだけ声が強くなった。
私は苦笑する。
「本当に、勝ち逃げされたと思ったわ」
鳴海くんは、少し不思議そうな顔をした。
「勝ち逃げ?」
「ええ。私が一度も勝てないまま、あなたがいなくなってしまったから」
「ああ、そういうこと」
「もちろん、今は分かっているわ。あなたは別に、私から逃げようとしたわけではないものね」
「うん。そういうつもりはなかったよ」
「知っているわ」
私は頷いた。
「だから、今さらコンクールをやめたことを責めたいわけじゃないの」
それは、本心だった。
鳴海くんがコンクールを続けるかどうかは、本人が決めることだ。
私が望んでいたからといって、彼が付き合わなければならない理由はない。
それに、私はもう子供ではない。
「ただ、あの頃の私たちは、まだ子供だったでしょう?」
「そうだね」
「少なくとも、私は今ほど上手くなかった。音楽のことも、分かっていないことがたくさんあった」
「今はかなり上手いよ」
「……ありがとう」
思いがけず素直に褒められ、少し言葉に詰まった。
けれど、嬉しいと思ったのも確かだった。
「そうね。私も、今の自分の演奏には自信があるわ」
「うん」
「もちろん、まだ足りないところはある。でも、自分が積み重ねてきたものには、それなりの誇りを持っているの」
私は彼の顔を見た。
「だから、今のあなたと、もう一度同じ曲を弾いてみたいのよ」
鳴海くんは少し考えた。
「今の九条と、今の俺で?」
「ええ」
「なるほど」
「子供の頃の結果は、もう変えられないでしょう。でも、今なら今の演奏ができる」
「そうだね」
「それを、自分の耳で比べてみたいの」
ここまで話すと、自分が何を望んでいるのか、改めてはっきりした。
私は別に、子供の頃の敗北を取り消したいわけではない。
あの頃の結果は、あの頃の結果だ。
今まで積み重ねてきた演奏も、勝ったことも負けたことも、全部私自身のものだった。
そこに、今の鳴海くんとの演奏を一つ加えたい。
ただ、それだけなのだと思う。
「誰かに順位を決めてもらいたいわけじゃないの。私自身が弾いて、あなたの演奏を聞いて、それで納得したいのよ」
「へえ」
鳴海くんは少し笑った。
「それ、面白そうだね」
「……本当に?」
「うん。九条の演奏も聞けるし、同じ曲を弾くのも楽しそう」
私は思わず彼を見つめた。
「それじゃあ……」
「いいよ。一緒に弾こうか」
あっさりとした返事だった。
あまりに自然だったので、少し拍子抜けしてしまう。
「……そんなに簡単に決めていいの?」
「何か問題ある?」
「いえ、問題はないけれど」
「だったら、いいんじゃない?」
私は思わず笑ってしまった。
「あなたって、本当に変わらないわね」
「そう?」
「ええ。私がどれだけ考えていたか、少しは想像してほしいものだわ」
「でも、弾きたいんでしょ?」
「……そうよ」
「俺も面白そうだと思うし、それならいいじゃない」
まったく、そのとおりだった。
自分の気持ちを長々と説明したことが、少しだけおかしくなる。
けれど、鳴海くんが何も考えていないわけではないことも分かっている。
彼は私の話を聞いたうえで、面白そうだと思ったのだろう。
それなら、それで十分だった。
〓〓〓
「それで、具体的にはどうするの?」
鳴海くんが尋ねた。
「一応、考えていることはあるわ」
私は鞄から手帳を取り出した。
まだ正式な予定ではないけれど、必要な条件を整理してある。
「まず、会場は東京文化会館がいいと思っているの」
「東京文化会館?」
「ええ。昔、全国大会で演奏した場所でしょう?」
「ああ、そうだね」
鳴海くんはすぐに頷いた。
「あそこなら、面白そうだね」
「そう思う?」
「うん。前に弾いた時の音も覚えてるし」
「……でしょうね」
彼の場合、それは本当にそのままの意味なのだろう。
昔の会場の音を、正確に覚えている。
私も会場の印象は覚えているけれど、細かな音響まで当時のまま再現できるわけではない。
「ただ、会場を使えるかどうかは、これから確認しなければならないわ」
「そうだよね」
「空いている日程もあるでしょうし、演奏会として成立させるための調整も必要になると思う」
私は手帳に書いた条件を指でなぞった。
「私が希望しているのは、同じ日に、同じ客席へ向けて、同じ曲を弾くこと。できれば同じピアノを使いたいわ」
「うん」
「もちろん、演奏順は決めなければならないし、弾く人が変われば、まったく同じ条件にはならないでしょうけれど」
「それはそうだね」
「でも、別々の演奏会で弾いたものを比べるより、ずっと分かりやすいと思うの」
「そうだね。会場も客席も一緒なら、違うところが聞きやすいし」
鳴海くんは自然に頷いた。
その反応が少し嬉しかった。
私が望んでいることを、きちんと理解してくれているらしい。
「曲は、ショパンの《バラード第4番》を考えているの」
「ヘ短調の?」
「ええ。Op.52」
「ああ、いいね。面白い曲だし」
「あなたも弾いたことがあるでしょう?」
「あるよ」
「そうよね」
それは、当然だと思っていた。
彼がその作品を知らないとは考えにくい。
「私は今も弾いている作品だし、演奏家としての解釈が出やすい曲だと思うの」
「うん。旋律の扱い方で結構変わるよね」
「そうなの。複数の声部が重なる部分も多いし、どこを聞かせるかで印象が違ってくる」
「いいと思うよ」
「……決まりね」
私は手帳へ目を落とした。
会場は東京文化会館。
曲はショパン《バラード第4番 ヘ短調 Op.52》。
二人が同じ演奏会で、同じ曲を弾く。
まだ実現したわけではないけれど、必要な条件はかなり明確になった。
「それで、手続きなんだけれど」
「うん」
「そちらは私がやるわ」
鳴海くんがこちらを見た。
「いいの?」
「ええ。私からお願いしていることだもの」
「でも、結構大変じゃない?」
「多少はね」
私は頷いた。
東京文化会館で演奏するとなれば、会場の予定を確認するだけでは済まない。
演奏会の企画としてどう成立させるか、必要な費用をどうするか、当日の運営をどうするかも考えなければならない。
ただ、私はこれまでにも演奏会へ出演してきた。
演奏家として活動する以上、舞台に立つまでに多くの人が関わっていることは知っている。
その手続きが簡単なものではないことも理解していた。
「まずは、会場の利用条件と日程を確認するつもりよ。企画として必要な調整もあるでしょうから、関係するところへ相談してみるわ」
「なるほど」
「先生にも、必要なら相談するつもり。でも、今回のお願いをしたのは私だから、基本的なことは自分で進めるわ」
「分かった」
「もちろん、あなたにも確認してもらうことは出てくると思う。日程や出演条件、必要な書類もあるでしょうし」
「うん。それは言ってくれればいいよ」
「ありがとう」
私は少し安心した。
彼は面倒なことを嫌うけれど、必要な手続きをしない人物ではない。
大学の演奏会へ参加する時も、きちんと確認していたようだし、仕事でも必要なことは行っていると聞いている。
だから、今回は私が準備を進め、鳴海くんには必要なところで協力してもらえばいい。
「ただ、会場が希望どおりに取れるかは、まだ分からないわ」
「そうだね」
「だから、正式に決まるまでは、少し時間をもらうことになると思う」
「いいよ。急いでないし」
「……そうでしょうね」
本当に、急いでいないのだろう。
私は少し笑った。
「それと、演奏会は普通のコンクールではないから、審査員も順位も必要ないと思っているの」
「うん」
「二人の演奏を続けて聞いてもらう企画として成立させたいのよ」
「それでいいと思うよ」
「観客がどちらを好きになるかは、それぞれ違うでしょう。でも、それも含めて聞いてみたいの」
「面白そうだね」
「ええ。私もそう思う」
話しているうちに、少しずつ楽しみになってきた。
企画が成立すれば、私は今の自分の演奏を鳴海くんと同じ舞台で披露できる。
そして、鳴海くんの演奏をすぐ近くで聞ける。
そのために必要な準備なら、面倒だとは思わなかった。
「じゃあ、条件がまとまったら連絡するわ」
「うん。よろしく」
「こちらこそ。付き合ってくれてありがとう」
鳴海くんは軽く頷いた。
「九条の演奏、楽しみにしてるよ」
その言葉を聞いて、私は少し笑った。
「……私も、あなたの演奏を楽しみにしているわ」
今度は、以前とは違う。
子供の頃の自分に戻って勝負するわけではない。
今の私が、今の鳴海くんと、同じ曲を弾くのだ。
それだけで、十分に意味があると思えた。
〓〓〓
鳴海くんと別れた後、私は大学の練習室へ戻った。
まだ少し時間があったので、もう一度ピアノを弾こうと思った。
鞄から《バラード第4番》の楽譜を取り出し、譜面台へ置く。
さっきまで考えていたことが、少しずつ現実の予定になろうとしている。
もちろん、演奏会を成立させるには、まだいくつもの手続きが必要だ。
会場も確認しなければならないし、日程の調整もある。
それでも、鳴海くんが了承してくれたことで、一番大事な部分は決まった。
私はピアノの前へ座った。
鍵盤に指を置き、最初の旋律を弾き始める。
落ち着いた音が広がっていく。
何度も弾いてきた作品だけれど、今日もまた、少し違うところに気づいた。
私はその違いを確かめながら、続きを弾いた。
今の自分がどれだけ弾けるのかは、分かっているつもりだ。
国内外で演奏し、多くの人に聞いてもらってきた。
優れた演奏家と同じ舞台に立ったこともあるし、自分の演奏が高く評価されたこともある。
それでも、もっと良くしたいと思う。
私にとって、ピアノを弾くというのは、そういうことだった。
誰かに勝ったから終わりではない。
負けたから終わりでもない。
次に弾く時には、また違う音楽を作れるかもしれない。
その可能性がある限り、私はピアノを弾き続けると思う。
だから、今回の演奏会にも、特別な覚悟を決める必要はなかった。
ただ、自分が望んでいることを、きちんと実現したい。
今の自分と、今の鳴海くん。
同じ会場で、同じ曲を弾く。
それだけだ。
私は曲の途中で手を止め、少しだけ笑った。
「……勝ち逃げ、か」
子供の頃の私が、あの時の鳴海くんをどう思っていたのか。
今なら、少し分かる気がする。
きっと、悔しかったのだ。
自分がまだ追いつけないうちに、相手がいなくなってしまったから。
でも、今の私は違う。
鳴海くんがどれほど上手くても、それで私が積み重ねてきたものがなくなるわけではない。
私は私の演奏をする。
そのうえで、彼の演奏を聞く。
そして、自分の耳で確かめればいい。
勝てるかどうかは、分からない。
正直に言えば、奏楽堂での演奏を聞いた今でも、簡単に勝てるとは思っていない。
けれど、それは別に問題ではなかった。
私はもう、自分より優れた演奏家がいるという現実を、受け止められない子供ではない。
それでも悔しいと思うなら、その気持ちを次の演奏へ向ければいい。
これまでも、ずっとそうしてきた。
「……楽しみね」
私はもう一度、鍵盤へ指を置いた。
今度は、さっきとは少し違う弾き方を試してみる。
旋律が自然につながった。
悪くない。
でも、もっと良くできる。
そう思うと、また続きを弾きたくなった。
私は楽譜へ目を向け、そのまま演奏を続けた。
東京文化会館でどんな結果になったとしても、きっと私は明日もピアノを弾いている。
今と同じように、好きな曲を弾き、気になるところを直し、もっと良い音を探しているだろう。
そのことには、何の疑問もなかった。
だからこそ、今回の演奏会を心から楽しみにできた。




