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鳴海楽は努力しない  作者: 悪癖


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第56話 プロから見た鳴海楽

鳴海楽の演奏を聞いてから、数日が経っていた。


私は仕事の合間に、机の上へ置いた楽譜を開いた。


ベートーヴェン《ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調 Op.111》。


何度も弾いてきた作品だ。


学生時代から演奏しているし、プロになってからも何度か舞台で取り上げている。ほかのピアニストの演奏も数え切れないほど聞いてきた。


それでも、先日の奏楽堂で聞いた演奏は、今までのどれとも違っていた。


もちろん、演奏家によって解釈が異なること自体は珍しくない。


同じ楽譜を使っていても、テンポ、音色、強弱、フレーズの扱い方は変わる。むしろ、優れた演奏家であれば、自分なりの解釈を持っているのが普通だ。


だから、鳴海くんの演奏がほかのピアニストと違っていたというだけなら、それほど不思議ではない。


問題は、その違いがどのように生まれていたかだった。


私は楽譜の一部へ視線を落とした。


第一楽章。


対位法的な声部の動きが重なる部分で、彼はそれぞれの旋律を実に明瞭に聞かせていた。


すべての音を同じ強さで弾いたわけではない。


むしろ、必要な声部だけを前へ出し、ほかの音を自然に引いている。


技術的には説明できる。


鍵盤へ伝える力を調整し、指ごとの音量を変えればいい。腕の使い方やペダルの操作も関係する。


訓練を積んだピアニストなら、そうしたことは当然理解している。


ただ、鳴海くんの演奏には、もう一つ特徴があった。


音の扱い方が、曲の進行に合わせて非常に細かく変わっていたのだ。


同じような音型が続いても、まったく同じ弾き方にはならない。


その瞬間の響きに合わせて、必要な音だけが微妙に変化している。


しかも、それによって音楽全体の流れが乱れることはなかった。


第二楽章では、その特徴がさらに明確になっていた。


変奏が進むにつれ、音の密度もリズムも大きく変化する。


彼はその変化を極めて自然につないでいた。


特に終盤の静かな部分では、音が消える瞬間まで演奏の一部として扱っているように聞こえた。


私は楽譜を閉じた。


「あれを、どう判断していたのか……」


音を聞けば、どのような操作をしているのかは分かる。


しかし、なぜその瞬間に、その操作を選んだのか。


そこまでは、楽譜からも演奏結果からも分からなかった。


私は以前、彼が受けた取材の記事を読んでいる。


目に見えるものも、匂いも、温度も、本人には音として認識されるという。


人間の表情や身体の反応も、複数の音として聞き取っているらしい。


最初に読んだ時は、興味深い知覚の説明だと思った。


だが、奏楽堂での演奏を聞いてからは、少し考えが変わっていた。


彼が持っている情報は、私たちが通常の演奏で利用するものより、遥かに多いのかもしれない。


しかし、情報が多ければ、それだけで優れた演奏ができるわけではない。


むしろ、その情報をどう処理するのかが問題になる。


私は先日、演奏後の鳴海くんへ話を聞かせてほしいと頼んでいた。


彼は、特に迷うこともなく了承してくれた。


今日は、その約束の日だった。





〓〓〓





「お久しぶりです、黒川さん」


「久しぶりだな、鳴海くん」


指定した時間になると、彼はほぼ時間どおりに現れた。


場所は、私が普段から使用している練習室だ。


グランドピアノが一台置いてあり、外部の音もほとんど入らない。演奏について話すには都合がいい。


「今日は時間を取ってくれてありがとう」


「いえ。何か聞きたいことがあるんですよね」


「ああ。先日の演奏について、少し話を聞かせてもらいたい」


「分かりました」


彼は椅子へ座った。


昔からそうだったが、相変わらず落ち着いている。


私が初めて彼の演奏を聞いたのは、全国青少年ピアノコンクールだった。


あの頃、彼はまだ小学生だった。


一方、私はすでに長く演奏家として活動し、綾音の指導も行っていた。


多くの才能ある子供を見てきたつもりだったが、彼の演奏には本当に驚かされた。


技術的に優れているだけなら、説明はできる。


しかし、彼には、演奏するための判断そのものが異常なほど自然に見えた。


それが、今も変わっていない。


いや、現在の演奏では、さらに複雑なことを行っているように思える。


「まず、一つ確認したい」


「はい」


「君は、奏楽堂で弾く前に、会場とピアノを確認していたそうだね」


「はい。一度触ってきました」


「それで、演奏全体の方針は決めていたのか?」


「大体は」


「というと?」


「曲は決まってますし、どういう音にしたいかも分かってましたから。ただ、実際にどんな音になるかは、弾いてみないと分からないので」


「なるほど。では、本番では予定していた演奏を変えたのか?」


「少し変えましたよ」


「どのくらい?」


「結構、細かいところは変えたと思います」


私は彼を見た。


「例えば、第一楽章の冒頭は?」


「ああ、最初の和音ですか。あそこは、確認した時より少し響きが短かったので、出し方を変えました」


「客席に人が入っていたからか」


「そうですね。前に聞いた時とは音の戻り方が違いました」


「それで、鍵盤への力の伝え方を変えた?」


「はい。あと、ペダルも少し」


私は頷いた。


そこまでは理解できる。


本番の会場では、事前に確認した時とは音響条件が変わる。


客席に人が入れば、音の吸収も変化する。


演奏家がその違いに対応すること自体は、珍しくない。


「では、第一楽章の途中で、内声の扱いを何度か変えていたのも同じ理由か?」


「そうですね。場所によって聞こえ方が違ったので」


「君は、演奏しながら客席での聞こえ方まで判断していたのか?」


「客席で実際に聞いていたわけじゃないですよ。舞台から聞こえる音と、会場の響きで大体分かります」


「……そうか」


彼の返事は、思った以上に普通だった。


私にも、演奏中に会場の響きを聞くことはできる。


当然、熟練した演奏家なら誰でも行っていることだ。


ただ、その情報から客席での聞こえ方を推定し、次の音へ反映するには、経験と判断が必要になる。


しかも、彼の場合はその調整が非常に細かい。


「それは、事前に何通りか考えていたのかな?」


「別に。音が違ったので、その場で変えただけです」


「……その場で?」


「はい」


私は少し考えた。


「では、例えば最初の和音を鳴らした時、その響きから次の音の出し方を決めた?」


「そうですね」


「次の音を弾いたら、またその結果を聞いて?」


「はい」


「それを、ずっと続けていたわけか」


「まあ、そうなりますね」


なるほど。


理屈は分かる。


だが、それを実際に行うとなると、話は別だ。


演奏家は、音を出す前に多くの判断をしている。


どの指を使うか。


どの程度の力を伝えるか。


次の和音へどう移動するか。


その音がフレーズ全体の中でどのような役割を持つか。


それらを判断しながら、さらに会場から戻ってくる響きを細かく分析する。


しかも、その結果に合わせて次の動作を修正する。


一つ一つは理解できる。


しかし、これほど多くの判断を同時に行うのは、容易ではなかった。





〓〓〓





「少し、実際の音で確認してもいいかな」


「いいですよ」


私はピアノの前へ座った。


楽譜はすでに用意してある。


開いたのは、ベートーヴェン《ピアノ・ソナタ第32番》の第二楽章だった。


「この部分だ」


私は変奏の途中を指した。


「先日の演奏では、ここから次のフレーズへ移る時、普通より少し長く響きを残していた」


「はい」


「しかし、テンポそのものが遅くなったようには聞こえなかった」


「そうですね。旋律の進み方はあまり変えてないです」


「では、何を変えた?」


「音の切り方です。あと、次の音を出すところを少し」


私は短い部分を弾いてみた。


音のつながりを確認しながら、一つ目のフレーズを終える。


続いて、少し違う弾き方を試した。


ペダルの離し方と、次の音を出すタイミングを変える。


同じ楽譜でも、響き方が変化した。


「こういうことかな」


「近いです。でも、奏楽堂ではもう少し音が残ってましたね」


「なるほど」


「ここだと、今の弾き方でいいと思います」


私は鍵盤から手を離した。


「つまり、奏楽堂で行った操作を、この部屋でそのまま再現する必要はない?」


「そうですね。部屋もピアノも違いますから」


「そのとおりだ」


私は頷いた。


この点については、私も完全に同意できる。


演奏家が会場に合わせて表現を変えることは、特別な考え方ではない。


長年舞台に立ってきた私も、当然そうしている。


しかし、鳴海くんは、その調整を非常に短い時間で行っていた。


「では、君ならここをどう弾く?」


そう聞いて、ピアノの前を譲った。


彼は椅子の高さを軽く調整し、鍵盤へ手を置いた。


それから、私が先ほど弾いた部分を演奏する。


音が広がった。


なるほど。


先ほどの私の演奏とは、確かに違う。


ただし、その違いは単純な正確さや速さではなかった。


彼は旋律の動きを少しだけ変え、左手の伴奏をそれに合わせていた。


さらに、ペダルを離す位置も違う。


その結果、次の和声へ移る時の響きが自然につながっていた。


「……そういう方法もあるか」


「はい。こっちの方が、このピアノだと面白いかなって」


私はもう一度、先ほどの部分を弾いてもらった。


今度は、彼の指や腕の動きも確認する。


特別な動作はしていない。


鍵盤の押し方も、ペダルの使い方も、正規の技術で十分に説明できるものだった。


身体の構造を無視した動きもない。


ただ、必要な動作を選ぶのが非常に正確だった。


「鳴海くん」


「はい」


「今の演奏を、私が同じように弾くことは可能だと思うか?」


「できると思いますよ」


「そうか」


「今の音は聞いてますし、どう動かしたかも見てたでしょう?」


確かに、そのとおりだった。


私にも、彼の弾き方を分析する能力はある。


必要なら、同じ部分を練習し、かなり近い音を再現することもできるだろう。


「では、先日の奏楽堂で、君が行ったような判断をその場ですべて行うことは?」


彼は少し考えた。


「黒川さんがどこまで聞こえてるか分からないので、何とも言えないです」


「そうだな」


「でも、今の演奏を同じように弾くのと、その時にどう弾くか決めるのは、別ですよね」


私は思わず彼を見た。


「……まさに、それを聞きたかった」


彼は少し不思議そうな顔をした。


「そうなんですか?」


「ああ」


私は椅子へ戻り、楽譜を閉じた。


彼が演奏した結果を分析することはできる。


場合によっては、その技術を再現することも可能だ。


だが、演奏する前に同じ判断ができるとは限らない。


そこが、私の知りたかった部分だった。





〓〓〓





「もう一つ、聞いてもいいかな」


「はい」


「君が以前、取材で話していた感覚についてだ」


「ああ、音の話ですか」


「そうだ。見えるものや匂い、温度なども、君には音として認識されるという話だったね」


「はい」


「先日の演奏でも、その感覚を使っていたのか?」


「普通に聞こえてましたよ」


「客席の様子も?」


「はい」


「例えば、どんなことが分かる?」


彼は少し考えた。


「人が動く音とか、息をする音とか。あとは、表情とか身体の動きも音になりますし」


「なるほど」


「演奏が進むと、客席の音も結構変わるんですよ」


「集中している人が増えるということか?」


「そういう時もありますね。でも、何を考えているかが分かるわけじゃないですよ」


「そうだったね。取材でも話していた」


「はい。静かにしてる人が、必ずしも演奏に集中してるとは限らないですし」


私は頷いた。


この区別は重要だった。


彼は人間の思考を直接読んでいるわけではない。


呼吸や身体の動き、表情などの変化を、通常より遥かに多くの情報として認識しているらしい。


その結果から、相手の状態を推測することができる。


しかし、推測できることと、相手の内面をすべて知っていることは違う。


「それでは、演奏中に客席の反応を聞き、次の音を変えることもあるわけだね」


「ありますよ」


「どのくらい?」


「必要だと思った時ですかね」


「……必要だと思った時」


「はい」


彼は、ごく普通のことのように答えた。


「例えば、次の音を少し待った方がよさそうなら待ちますし、早く進んだ方が自然ならそうします」


「それは、客席の状態だけで決めているのか?」


「いえ。曲の流れとか、今鳴ってる音とか、いろいろです」


「そうか」


「客席に合わせすぎても、変な演奏になりますからね」


私はその言葉に頷いた。


まったく、そのとおりだ。


聴衆の反応を意識することは大切だが、それだけで演奏を決めてしまえば、作品そのものの流れが失われる。


優れた演奏家は、客席に迎合するだけではない。


自分の音楽を作りながら、聞き手へ届く形を考える。


鳴海くんも、当然それを理解している。


ただ、彼の場合は、その判断材料が異常なほど多い。


そして、それを整理する速度も違う。


「君は、演奏中に聞こえてくる情報が多すぎて困ることはないのか?」


「別に。必要ない音は聞かなければいいので」


「……聞かなければいい?」


「はい。全部聞こえてても、全部使う必要はないですから」


私は少し考えた。


普通なら、意識して情報を選び取るだけでも負担になる。


しかし、彼にはそれが自然なことなのだろう。


「では、必要な情報だけを選んでいるわけだ」


「そうですね。聞きたい音を聞いてるだけです」


「それで、次の音をどうするか決める」


「はい」


私は少し笑った。


「君にとっては、本当に普通のことなんだな」


「そうですね」


彼も笑った。


「でも、黒川さんだって演奏中に音は聞いてるでしょう?」


「もちろん」


「だったら、やってることはそんなに変わらないと思いますよ」


「……そうかもしれないな」


方法の基本は、確かに同じだ。


しかし、利用できる情報と、それを処理する能力があまりにも違う。


私はその差を、改めて理解した気がした。





〓〓〓





「最後に、一つだけ聞かせてほしい」


「はい」


「君は、なぜあの演奏をしたんだ?」


鳴海くんが首を傾げた。


「どういう意味ですか?」


「技術的な理由ではなく、音楽的な理由だ。君は、あの作品をどのように表現したかった?」


「普通に、いい音にしたかっただけですよ」


「いい音?」


「はい。曲は面白いですし、奏楽堂で弾いたらどんな音になるかなって」


「……それが理由か」


「そうですね」


彼は少し考えてから続けた。


「第一楽章は、いろんな音が動いてるのが面白いですし、第二楽章は、同じ旋律がどんどん変わっていくのが好きなんですよ」


「なるほど」


「だから、その面白いところがちゃんと聞こえるように弾きたかったんです」


私は静かに頷いた。


言葉だけを聞けば、決して特別な考えではない。


作品の面白さを聞き手へ伝えたい。


それは、多くの演奏家が考えていることだ。


だが、彼はそのために必要な選択を、極めて自然に行っている。


「では、君にとって、あの演奏が唯一の正解というわけではない?」


「もちろん違いますよ」


返事は早かった。


「同じ曲でも、ほかの弾き方はありますし」


「そうだな」


「黒川さんの弾き方も、さっき良かったと思いますよ」


私は少し驚いた。


「そうか」


「はい。俺とは違いますけど、ああいうのも面白いですよね」


彼の声には、皮肉も遠慮もなかった。


ただ、実際に聞いた演奏について話しているだけだった。


私は小さく笑った。


「ありがとう」


「いえ」


「君は、演奏で何かを証明したいわけではないんだな」


「特には」


「自分の能力を認めさせたいとか、ほかのピアニストより優れていることを示したいとか」


「そういうのは、別にいいです」


彼は少し考えた。


「今回は、久しぶりにちゃんとした会場で弾いてみたかっただけなので」


「そうか」


なるほど。


小学生の頃と変わっていない。


あの頃も、彼は勝敗そのものにはほとんど関心を示さなかった。


同じコンクールに参加していた綾音は、彼に勝つために努力していた。


しかし、彼は別のものを見ていた。


その日のピアノ。


会場の響き。


演奏によって変化する音。


彼にとって重要なのは、そうしたものだったのだろう。


「……分かった。聞きたいことは、大体聞けたよ」


「そうですか」


「ああ。ありがとう」


「いえ。面白かったです」


彼はそう言って立ち上がった。


「また何かあれば聞いてください」


「そうさせてもらうよ」


私は彼を見送った。


帰り際まで、彼は普段どおりだった。


自分の演奏がどれほど異常だったのか、特別に気にしている様子はない。


彼にとっては、あの日の奏楽堂も、面白い音が鳴る場所の一つだったのだろう。





〓〓〓





一人になった練習室で、私は再びピアノの前へ座った。


先ほど鳴海くんが弾いた部分を、もう一度試してみる。


同じように鍵盤へ力を伝え、ペダルを調整する。


音が広がった。


なるほど。


彼の弾き方は、確かに再現できる。


少なくとも、ここで確認した短い部分については、私にも同じような響きを作ることができた。


だが、それだけではない。


私はもう一度、少し違う弾き方を試した。


今度は、自分が普段選ぶ音の置き方で弾く。


先ほどとは違う響きになった。


こちらも悪くない。


むしろ、この部屋では、こちらの方が自然に感じられるところもある。


「……そういうことか」


私は鍵盤から手を離した。


音楽に、唯一の正解があるわけではない。


同じ楽譜から、いくつもの優れた演奏が生まれる。


それは、演奏家なら誰でも理解していることだ。


ただし、優れた演奏を成立させるには、技術と判断が必要になる。


作品を理解し、身体を制御し、楽器の状態を把握する。


そのうえで、どの音を選ぶか決める。


多くの演奏家は、その判断を長い時間をかけて磨いていく。


私もそうだった。


綾音も、同じように努力を重ねてきた。


彼女は非常に優れた才能を持っている。


技術だけでなく、音楽をどう表現するかについても、自分の考えを持つようになった。


今では、私が一つの解釈を示しても、別の方法で同じくらい説得力のある演奏を作ることがある。


それは、彼女が一流のピアニストへ成長している証拠だった。


そして、その価値は、鳴海くんの存在によって変わるものではない。


私は、先日の奏楽堂を思い出した。


鳴海くんは、演奏する前から作品を完全に理解していた。


身体の使い方も、必要な範囲で身についていた。


そのうえで、会場やピアノの状態を聞き取り、演奏中に判断を変えていた。


普通の演奏家でも、似たことはできる。


私も、会場の響きによってペダルを変えることはある。


客席の集中を感じ取り、フレーズの間を調整することもある。


しかし、それらは経験と訓練によって身につけた技能だ。


しかも、どれだけ経験を積んでも、すべての情報を正確に処理できるわけではない。


鳴海くんの場合、その限界が私たちとは大きく違う。


特殊な知覚によって得られる情報が多いことは、確かに一つの理由だろう。


しかし、それだけでは説明できない。


音を聞き分ける能力。


作品の構造を理解する能力。


身体の動きを制御する能力。


複数の情報から必要なものを選び、瞬時に演奏へ反映する能力。


それらが、同時に成立している。


一つ一つの技術は説明できる。


だが、すべてをあれほど自然に組み合わせることが、なぜ可能なのか。


そこまでは、まだ分からなかった。


私は少し笑った。


「……やはり、面白いな」


分からないものを、無理に分かったことにする必要はない。


理解できるところまで理解し、説明できない部分はそのまま残せばいい。


それは、演奏家としても指導者としても、大切な姿勢だと思っている。


ただ、一つだけ確かなことがあった。


鳴海楽は、優れた作曲家であると同時に、極めて優れたピアニストでもある。


しかも、その演奏は、まだ多くの人に知られていない。


小学生時代のコンクールを知る人間は限られているし、その後の彼は主に作曲家として評価されてきた。


しかし、先日の奏楽堂で、彼は再び人前でピアノを弾いた。


あの演奏を聞いた学生や教員たちは、簡単には忘れられないだろう。


そして、彼がまた舞台に立つことがあれば、今度はさらに多くの人が聞きに来るはずだ。


私は楽譜を閉じた。


「さて、どうなることか」


彼自身は、そんなことをほとんど考えていないのだろう。


面白いと思えば弾く。


気が向かなければ、別の音楽を作る。


そういう人物なのだ。


だが、彼の演奏を聞いた側まで、何事もなかったようにはいられない。


少なくとも、私はそうだった。


久しぶりに、もう一度じっくり聞いてみたいと思う演奏家が現れた。


それも、昔から知っていた相手だ。


私は静かに笑い、次の練習のために楽譜を開いた。


今度は、自分が演奏する番だった。

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