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鳴海楽は努力しない  作者: 悪癖


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第55話 第一演奏――奏楽堂

奏楽堂の舞台裏は、客席とは少し違う音がしていた。


出演者が歩く足音や、楽譜をめくる音。スタッフが小さな声で確認をしている。舞台の向こうからは、前の出演者が弾いているピアノの音が聞こえてきた。


俺は椅子に座り、その演奏を聞いていた。


今弾いている学生は、旋律を少し長めに取るのが好きらしい。左手の伴奏がそれに合わせて動いているけれど、ところどころで音のつながりが硬くなっていた。


ただ、曲全体の流れは悪くない。


特に、強い音から静かな部分へ移るところは自然だった。


「……いいな」


小さく呟く。


藝大には、やっぱり上手い人が多い。


同じ曲を弾いても、それぞれ違う演奏になる。自分では選ばないような音の置き方をする人もいるし、その人にしか出せない響きもある。


そういうものを聞くのは面白かった。


前の出演者が演奏を終え、客席から拍手が起こる。


しばらくすると、舞台袖にいたスタッフがこちらへ近づいてきた。


「鳴海さん、次の出演になります。準備はよろしいですか?」


「はい」


「ピアノの位置や椅子については、事前の確認どおりになっています」


「ありがとうございます」


俺は立ち上がり、軽く腕を動かした。


肩も手首も、特に問題ない。


指を何度か曲げ伸ばししてから、舞台の方へ目を向ける。


今日は、前に確認した時より客席に人が入っている。


人が増えれば、会場の音は変わる。


服や身体が音を吸収するし、空調の音の広がり方も少し違ってくる。舞台から客席へ向かった音が、どんな形で戻ってくるのかも変わるだろう。


その違いは、弾いてみれば分かる。


「それでは、お願いします」


スタッフに声をかけられ、俺は舞台へ出た。


客席から拍手が起こる。


作曲科の学生がピアノ独奏で出演するのは珍しいらしいけれど、だからといって特別なことをする必要はない。


いつもどおり弾けばいい。


客席を軽く見渡す。


九条の姿があった。


近くには、昔コンクールで何度か会った黒川さんも座っている。


少し離れたところには灰崎さんもいた。


ほかにも、大学で見かけたことのある学生や教員が何人かいる。


俺は一礼し、ピアノの前へ座った。


椅子の位置は問題ない。


ペダルへ足を置き、鍵盤に指を乗せる。


前に触った時の感触と、大きくは変わっていなかった。


ただ、今日は少しだけ空気が違う。


客席に人が入ったことで、舞台の周囲にある音の重なり方が変わっている。


俺はその違いを聞きながら、最初の和音を鳴らした。


ベートーヴェン《ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調 Op.111》。


第一楽章が始まった。


力強い和音が、奏楽堂へ広がる。


前に試した時より、音の戻り方が少し短い。


客席に人がいる分、響きが吸収されているらしい。


なら、少しだけ音の作り方を変えよう。


次の和音へ移る前に、響きが残っている場所を確認する。


低音は十分に広がっている。


高音の輪郭もはっきりしている。


ただし、ここでペダルを深く踏み続けると、次の和音へ入った時に少し濁る。


俺は踏み込みを調整し、必要な音だけを残した。


最初の激しい響きが収まり、次の旋律へ進んでいく。


曲の構造は、もちろん全部覚えている。


どの音がどこへ向かい、どういう関係で重なっているのかも分かっている。


だから、あとは今のピアノでどう鳴らすかを決めればいい。


速い部分へ入る。


右手と左手が違う動きを始め、それぞれの旋律が重なっていく。


片方の音を強く出せば、もう片方が隠れてしまうところもある。


でも、全部を同じ強さで弾く必要はない。


今聞かせたい音を前へ出し、ほかの音はその周囲へ置く。


そうすると、それぞれの旋律が別々に動いていても、全体では一つの流れになる。


俺は鍵盤を動かしながら、客席へ向かって広がる響きを聞いていた。


低音が少し遅れて戻ってくる。


それに高音が重なる。


客席の奥では、二つの音域が少し違う割合で混ざっていた。


「……なるほど」


声には出さず、次の部分の弾き方を少し変えた。


低音を強くしすぎず、高音の立ち上がりを少しはっきりさせる。


すると、旋律のつながりが客席の奥まで自然に届く。


いい感じだ。


強い和音が続くところでは、腕の重さを鍵盤へ伝える。


指先だけで無理に押し込む必要はない。


身体の動きを音楽の流れに合わせれば、余計な力を使わずに必要な音が出せる。


それでも、身体を使っている以上、負担がまったくないわけではない。


速い部分では指も腕も動くし、強い音を続ければ筋肉も使う。


だから、必要以上の動きはしない。


出したい音に対して、今の身体で一番自然な動きを選ぶ。


そうすれば、余計に疲れることもない。


第一楽章は、激しい部分と静かな部分を行き来しながら進んでいく。


音楽が大きく動くところでは、会場の響きも利用して和音を広げる。


静かなところでは、一つ一つの音がどこへ向かうのか分かるように置く。


そのたびに、客席の状態も少しずつ変わっていた。


最初は、身体を動かす人が何人かいた。


椅子に座り直したり、服の位置を直したりしている。


でも、演奏が進むにつれて、そうした動きが減ってきた。


客席の音が、少しずつ静かになっていく。


特に、旋律が細かく動く部分では、呼吸を抑えている人もいるらしい。


そういう反応は、音楽を聞いていれば普通に起こる。


俺はそれを聞きながら、演奏の流れを少し調整した。


ここでは急がない方がいい。


次の和音へ進む前に、ほんの少しだけ時間を取る。


すると、その間に客席の集中がそろっていく。


次の音が、よりはっきり聞こえるようになった。


「……うん」


なかなか面白い。


同じ曲でも、家で弾く時とは全然違う。


音を出せば会場が応えてくれるし、客席にも変化が生まれる。


その変化を聞いて、次の音を決める。


演奏している間ずっと、そういうことが続いていた。


第一楽章の終盤へ入る。


それまで重なっていた旋律が、大きな流れになって進んでいく。


俺は必要な音を選びながら、最後の部分へ向かった。


強い和音が響く。


その音が客席へ届き、少し遅れて戻ってくる。


最後まで響きの形を確認しながら、第一楽章を弾き終えた。


少しだけ手を休める。


客席は静かだった。


一楽章が終わったところで拍手をする人はいない。


その静けさも、今の会場の音の一部だった。


俺は呼吸を整え、第二楽章へ入った。





〓〓〓





第二楽章は、第一楽章とはまったく違う音楽だった。


アリエッタ。


静かで、単純な旋律から始まる。


俺は最初の音を、あまり強く鳴らさなかった。


このピアノなら、必要以上に力を入れなくても客席へ届く。


ただし、小さすぎる音では旋律の輪郭がぼやけてしまう。


前に確認した時より客席に人がいるので、その分だけ音の立ち上がりを少しはっきりさせた。


最初の旋律が広がる。


単純な音のつながりだけれど、だからこそ、一つ一つの音をどう扱うかで印象が変わる。


長く残したい音。


すぐに次へ進めたい音。


少しだけ強くしたい音。


それぞれを選びながら弾いていく。


左手の伴奏は、右手の旋律を支えている。


ここで伴奏を大きくしすぎると、主題の素朴な感じがなくなってしまう。


だからといって、弱くしすぎれば音楽の流れが止まる。


俺は右手と左手の音を別々に聞きながら、全体が自然につながる位置へ置いた。


主題が終わり、最初の変奏へ進む。


同じ旋律なのに、音の動きが少し増える。


リズムも変わる。


さっきまで静かに進んでいた音楽が、少しずつ違う姿になっていく。


こういうところが好きだった。


同じ音楽の中に、いくつもの形がある。


何かが変わっても、最初からあったものが消えるわけではない。


むしろ、変わることで、最初の旋律が持っていた別の面白さが分かることもある。


俺は変奏を進めながら、それぞれの音の関係を聞いていた。


音の数が増えても、全部を同じように扱う必要はない。


大事なのは、今どの旋律が動いているのかを分かるようにすることだ。


細かい音が増えてきたところで、ペダルの踏み方を少し変えた。


この会場では、音が重なると響きが広がりやすい。


それをそのまま使うと、細かい動きが少し曖昧になる。


だから、音をつなげたいところだけペダルを使い、ほかは指の動きで自然につなぐ。


すると、速い音の並びがはっきり聞こえるようになった。


客席の反応も変わっていく。


さっきまでは静かな旋律を聞いていた人たちが、今度は細かい音の動きを追っている。


身体の動きがさらに減り、息をするタイミングも少し変わった。


俺はその変化を聞きながら、次の部分へ進んだ。


リズムが大きく変わる変奏では、音楽が急に軽くなる。


同じ主題からできているのに、最初とは随分違う。


ここは、少し楽しい。


俺は音の動きをはっきりさせながら、旋律の流れを保った。


強く弾くところでは、必要な音だけを前へ出す。


細かい動きが続くところでも、速さを見せるためだけに急ぐことはしない。


この曲の中で、次の音が一番自然につながる速さを選ぶ。


少し進むと、客席の奥で誰かの呼吸が変わった。


驚いたような反応だったけれど、何に驚いたのかまでは分からない。


ただ、今の音楽が客席へ届いていることは分かった。


俺はそのまま演奏を続けた。


変奏が進むにつれて、音楽は少しずつ落ち着いていく。


細かく動いていた音が、再び大きな流れの中へ戻ってくる。


ここから先は、響きの扱いが特に面白かった。


音の数が少なくなっても、音楽が薄くなるわけではない。


一つの音が長く残り、その響きの上に次の音が重なる。


今まで聞こえていた旋律が、少し違う位置から聞こえてくる。


俺はその変化を利用して、音の強さを細かく調整した。


低音が静かに広がる。


高音が、その上へ重なる。


客席の方から戻ってきた響きが、次の音とつながった。


「……これ、いいな」


声には出さず、そのまま音楽を進める。


前に会場を確認した時から、ここは面白そうだと思っていた。


実際に人が入った状態で弾いてみると、また違う響きになっている。


弱い音の残り方が、予想より少し短い。


その分、音を出す瞬間の輪郭をはっきりさせた方がいい。


俺は鍵盤への力の伝え方を少し変えた。


音が、今度は自然に客席へ広がった。


ちょうどいい。


細かい装飾音が続くところでは、指の動きを必要以上に大きくしない。


音がつながる場所を正確に選びながら、少しずつ旋律を変化させる。


それぞれの音は独立しているけれど、全体では一つの流れになっている。


その流れを、最後まで保つ。


客席はほとんど動かなくなっていた。


空調の音が、前よりはっきり聞こえる。


もちろん、空調が急に大きくなったわけではない。


人の動きが減ったことで、周囲の音の重なり方が変わっただけだ。


静かな会場の中で、ピアノの音が広がっていく。


俺は、その状態を利用して演奏を続けた。


ここなら、次の音を少し待てる。


旋律が終わりかけるところで、ほんの少しだけ間を取る。


ただし、長く待ちすぎると流れが途切れる。


会場に残っている響きが消えきる直前に、次の音を置いた。


すると、二つの音が自然につながった。


客席の奥まで、柔らかい響きが広がっていく。


最後の変奏へ進む。


音楽は、最初の単純な旋律から随分遠くまで来ていた。


それでも、最初の主題は残っている。


細かく動く音の奥に、静かな旋律が聞こえる。


俺はその旋律を中心にして、周囲の音を重ねていった。


高い音が続く。


その下で、低い音が静かに動く。


一つ一つの音を、必要な場所へ置いていく。


ここでは、強い音はほとんど必要なかった。


でも、弱い音だけで演奏するからこそ、鍵盤の反応を正確に扱う必要がある。


少し力が足りなければ、音の立ち上がりが遅れる。


逆に強すぎれば、静かな流れの中でその音だけが目立ってしまう。


俺は指先へ伝わる感触と、実際に鳴った音を聞きながら調整した。


音が少しずつ減っていく。


最後の方では、ほとんど響きそのものを聞いているような状態になった。


俺は次の音を急がず、会場に残っている響きを確かめた。


客席からは、ほとんど動く音が聞こえない。


ただ、呼吸は続いている。


人がいる以上、完全な無音にはならない。


その小さな音も含めて、今の奏楽堂だった。


俺は最後の音へ向かった。


静かな和音が響く。


その音が、舞台から客席へ広がっていく。


低音が少し遅れて戻ってきた。


高音の残響が、天井の方から薄く重なる。


俺は鍵盤から手を離し、ペダルを残した。


まだ音は消えていない。


会場の中で、少しずつ響きが薄くなっていく。


それを聞きながら、最後にペダルを離した。


音が消える。


でも、すぐには動かなかった。


最後の残響が、まだわずかに残っていたからだ。


その音が消えたところで、俺は手を膝へ戻した。


演奏が終わった。


「……うん」


なかなか面白かった。


同じ曲を自宅で弾くのとは、全然違う音になった。


特に第二楽章の最後は、思っていたより良い響きだった。


俺は満足しながら、椅子から立ち上がった。





〓〓〓





客席は、まだ静かだった。


演奏が終わったことは分かるはずだけれど、拍手が始まらない。


俺は客席を見た。


前の方に座っていた学生が、少し遅れて身体を動かした。


別の席でも、誰かが姿勢を変える。


呼吸を止めていた人たちが、少しずつ息を吐いていた。


それから、客席の一角で拍手が始まった。


最初は数人だった。


でも、すぐに周囲へ広がっていく。


やがて、奏楽堂全体が拍手の音で満たされた。


「ありがとうございます」


小さく呟いて、一礼する。


客席には立ち上がっている人もいた。


九条も拍手をしている。


表情は、少し複雑そうだった。


嬉しそうな反応もあるけれど、何か強く考えているようにも見える。


『……やっぱり、そうなのね』


そんな意味の音が聞こえた。


ただ、本人が何を考えているのか、その細かい内容までは分からない。


隣にいる黒川さんも拍手をしていた。


落ち着いた表情だったけれど、視線はずっとこちらへ向いている。


灰崎さんは、少し呆れたような顔をしていた。


その後、ゆっくり頷いた。


どうやら、演奏は悪くなかったらしい。


俺はもう一度礼をして、舞台袖へ戻った。


スタッフが近づいてくる。


「お疲れさまでした」


「お疲れさまです」


「……すごい演奏でしたね」


「ありがとうございます」


「客席の反応も、かなり大きかったです」


「そうですね」


拍手は、まだ舞台の向こうから聞こえていた。


「一度、もう一度ご挨拶をお願いできますか?」


「はい」


俺は再び舞台へ出て、一礼した。


拍手が続いている。


少し待ってから、もう一度頭を下げる。


それから舞台袖へ戻った。


演奏が終わった後に何度か挨拶することは、小学生の頃にも経験している。


だから、特に困ることはなかった。


ただ、思ったより拍手が長かった。


「……随分気に入ってもらえたみたいですね」


俺が言うと、スタッフは少し驚いたような顔をした。


「ええ。そうだと思います」


「良かったです」


「……鳴海さんは、あまり緊張されないんですね」


「そうですね。弾くのは好きなので」


「なるほど……」


スタッフは少し笑った。


「本当に、お疲れさまでした」


「ありがとうございます」


俺は荷物をまとめ、控室へ戻った。


手と腕には、少しだけ演奏後の疲れが残っていた。


二十数分間ピアノを弾いたのだから、それは普通のことだ。


ただ、無理な動きはしていないので、特に痛むところもない。


俺は手を軽く開いたり閉じたりして、状態を確かめた。


問題ない。


それより、さっきの第二楽章の響きが面白かった。


客席に人が入った状態では、前に確認した時と音の広がり方が違っていた。


同じピアノでも、環境が変われば別の音になる。


やっぱり、演奏会はこういうところが楽しい。





〓〓〓





演奏会が終わってしばらくすると、灰崎さんが声をかけてきた。


「鳴海」


「はい」


「お疲れ」


「ありがとうございます」


灰崎さんは少し考えてから言った。


「……予想以上だった」


「そうですか?」


「ああ。お前がピアノを弾けることは知っていたが、あそこまで会場を使うとは思わなかった」


「奏楽堂、いい響きでしたね」


「そうだな」


「特に第二楽章の最後の方が面白かったです」


灰崎さんは少し笑った。


「お前は本当に、そこが気になるんだな」


「はい」


「……まあ、分かる。客席で聞いていても、あの部分は印象的だった」


そう言ってから、灰崎さんは少し真剣な表情になった。


「ただ、今日はピアノ専攻の学生や教員も多かった。しばらく話題になるかもしれんぞ」


「そうなんですか?」


「なるだろうな」


「へえ」


「作曲科の学生が、あの曲をあの水準で弾いたんだからな」


「でも、作曲科でもピアノが上手い人はいますよね」


「もちろんいる。だが、そういう話ではない」


灰崎さんは小さく息を吐いた。


「……詳しい話は、また別の機会にしよう」


「はい」


ちょうどそこへ、九条が近づいてきた。


「鳴海くん」


「お疲れ、九条」


「……お疲れさま」


彼女は少し黙っていた。


それから、俺をまっすぐ見る。


「素晴らしい演奏だったわ」


「ありがとう」


「特に第二楽章。あんなふうに弾くとは思わなかった」


「そう?」


「ええ。あの曲を何度も聞いているけれど、今日の演奏は……」


九条はそこで言葉を止めた。


少し考えてから、もう一度口を開く。


「……何と言えばいいのかしら。楽譜に書いてあることは、何も特別なことではないのよね」


「そうだね」


「でも、音のつながり方が、今まで聞いたものと違った」


「会場の響きが良かったからね」


「……それだけではないと思うわ」


九条は少し呆れたように笑った。


「もちろん、奏楽堂の響きが良かったのは分かる。でも、あの響きをあそこまで自然に使えるものなのかしら」


「弾いてたら、結構分かったよ」


「……そうでしょうね」


九条は小さく息を吐いた。


でも、表情は暗くなかった。


むしろ、少し楽しそうだった。


「やっぱり、あなたのピアノは面白いわ」


「九条の《舟歌》も良かったよ」


「……ありがとう。でも、今はあなたの話をしているの」


「そうなんだ」


九条は苦笑した。


その後、少しだけ表情を引き締めた。


「鳴海くん」


「何?」


「今日の演奏を聞いて、改めて思ったわ」


「うん」


「私は、もっと上手くなりたい」


「いいんじゃない?」


「……本当に、相変わらずね」


そう言いながら、九条は笑った。


その笑い方は、昔のコンクールで何度か見たものに少し似ていた。


ただ、あの頃より落ち着いている。


悔しそうな音も聞こえるけれど、それだけではないらしい。


『もっと弾きたい』


そんな意味の音が、表情や呼吸から伝わってきた。


それは、別に悪いことではないと思う。


九条は今でもかなり上手い。


これからもっと上手くなるなら、その演奏を聞くのも楽しそうだった。


「また聞かせてね」


俺が言うと、九条は少し驚いた顔をした。


「……私の演奏を?」


「うん。今日も良かったし」


九条はしばらくこちらを見ていた。


それから、はっきり頷いた。


「ええ。もちろんよ」


ちょうどその時、少し離れたところから黒川さんが近づいてきた。


九条が振り返る。


「先生」


「綾音。少しいいか」


「はい」


黒川さんは俺の方へ視線を向けた。


「鳴海くん、久しぶりだな」


「お久しぶりです」


「今日の演奏、聞かせてもらった」


「ありがとうございます」


「非常に興味深かったよ」


黒川さんは、いつもどおり落ち着いた声で言った。


「少し、聞いてみたいことがあるんだが」


「何ですか?」


「いや、ここで立ち話をする内容でもない。後日、時間をもらえないだろうか」


「別にいいですよ」


「そうか。では、また連絡しよう」


「はい」


黒川さんは小さく頷いた。


九条も、何か考えているようだった。


ただ、二人とも演奏について詳しく話したそうだったので、後で時間がある時に聞けばいいだろう。


俺としては、今日の演奏には満足していた。


会場も良かったし、ピアノも弾きやすかった。


客席の状態に合わせて音を変えるのも面白かった。


久しぶりに人前で既存の作品を最初から最後まで弾いたけれど、やっぱり演奏会には演奏会の楽しさがある。


「じゃあ、俺はそろそろ帰りますね」


灰崎さんへそう言うと、少し驚いた顔をされた。


「もう帰るのか?」


「はい。演奏も終わりましたし」


「……そうか」


「何かありました?」


「いや、別に。今日はゆっくり休め」


「ありがとうございます」


九条にも挨拶する。


「じゃあ、またね」


「ええ。またね、鳴海くん」


俺は荷物を持ち、奏楽堂を出た。





〓〓〓





外へ出ると、夕方の空気が少し冷たかった。


奏楽堂の中とは違う音がする。


車の走る音。


歩いている人たちの足音。


遠くから聞こえてくる話し声。


建物の色や空の明るさも、それぞれ違う音になっている。


俺はそれらを聞きながら、駅の方へ歩いた。


今日の演奏は、思っていたより面白かった。


特に第二楽章は、奏楽堂の響きをかなり使えたと思う。


あの最後の音は、家で弾いた時には出なかった響きだった。


もう一度同じ会場で弾いたとしても、今日とまったく同じ演奏にはならないだろう。


客席に入る人が変われば、音の吸収も変わる。


空気の状態も違う。


ピアノの調子だって、毎日同じではない。


だから、次に弾く時には、また違う音楽になる。


それも面白そうだった。


「また何か弾こうかな」


自然にそう思った。


ただ、今すぐ次の演奏会を探す必要もない。


大学の授業もあるし、作曲の仕事も続いている。


暇になったら、また弾きたい曲を探せばいいだろう。


それより、今日の会場で聞こえた音を使って、何か新しい曲を作ってみるのも面白そうだった。


第二楽章の最後に聞こえた、あの薄い響き。


あれを別の楽器で使ったら、どうなるだろう。


弦楽器でも面白そうだし、声を重ねても違う音になる。


そんなことを考えているうちに、少し曲の形が浮かんできた。


「……帰ったら試してみよう」


俺は歩く速度を少し上げた。


今日の演奏会は、これで終わりだ。


でも、面白そうな音は、まだいくらでもある。


家に帰ったら、また少し遊ぼうと思った。

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