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鳴海楽は努力しない  作者: 悪癖


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第54話 準備

演奏会で弾く曲を決めることにした。


前にいくつか候補を弾いてみたけれど、どれもそれなりに面白かったので、まだ一つには絞っていない。


ただ、今回は奏楽堂で演奏することになっている。


せっかくなら、あの会場の響きを使って弾ける曲がいい。


自宅のピアノの前に座り、ベートーヴェンの《ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調 Op.111》を弾き始めた。


最初は力強い和音から始まる。


その後に続く音楽は、細かい動きを重ねながら、次第に大きな流れを作っていく。


第一楽章は、音の重なり方が面白い。


複数の声部がそれぞれ違う動きをしているのに、全体では一つの方向へ進んでいく。どの音を前へ出すかによって印象が変わるし、同じ旋律でも周囲の音を少し変えるだけで、聞こえ方が随分違ってくる。


俺は途中で何度か音の強さを変えながら、最後まで弾いた。


続いて第二楽章へ入る。


こちらは第一楽章とはかなり違う。


静かな旋律から始まり、少しずつ形を変えながら、さまざまな響きへ広がっていく。


最初の単純な旋律が、変奏を重ねるたびに違う表情になる。


音の数が増えても、最初にあったものは消えない。


同じ旋律を使っているのに、まったく違う音楽のように聞こえるところもある。


そういう変化が面白かった。


曲が進むにつれて、音の動きは細かくなっていく。


それでも、必要なところでは音を急がせず、旋律の流れを保つ。


最後の方では、音が少しずつ薄くなり、静かな響きが残る。


俺は最後の和音を鳴らし、ペダルを離した。


自宅の音楽室に残っていた響きが消えていく。


「……うん、これにしようかな」


演奏時間はそれなりに長いけれど、一つの作品の中でいろいろな音を使える。


第一楽章の力強い音も、第二楽章の静かな響きも、奏楽堂なら面白そうだった。


特に、最後の方の音がどう広がるのか気になる。


自宅の音楽室では、響きが整えられている分、音の状態を確認しやすい。


でも、大きな会場では違う。


ピアノから出た音が空間へ広がり、壁や天井から戻ってくる。


客席のどこで聞くかによっても、響き方は変わる。


そういう違いを使って演奏するのは、久しぶりだった。


俺は机の上に置いていた大学の資料を開き、曲目の欄へ正式名称を書いた。


ベートーヴェン《ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調 Op.111》。


あとは、演奏時間と必要事項を確認して提出すればいい。


「楽しみだな」


少しだけそう思いながら、俺は資料をまとめた。





〓〓〓





翌日、大学で演奏曲を提出すると、担当の人からいくつか確認された。


「ベートーヴェンの第32番ですね。全楽章を演奏するということでよろしいですか?」


「はい」


「分かりました。演奏時間についても確認させてください」


俺は予定している長さを伝えた。


担当者は演奏会の進行表と照らし合わせ、少し考えてから頷いた。


「今回の枠であれば調整できます。ほかの出演者との時間配分もありますので、当日は予定から大きく延びないようにお願いします」


「分かりました」


「それから、会場とピアノの確認を希望されていましたね」


「はい。実際に少し弾いてみたいです」


「演奏会前に、出演者が舞台を確認できる時間を設けています。その時にお願いします」


「ありがとうございます」


必要な手続きが終わり、俺は資料を受け取って部屋を出た。


廊下を歩いていると、同じ作曲科の学生に声をかけられた。


「鳴海、曲決まった?」


「うん。ベートーヴェンの第32番」


「……え?」


「ピアノ・ソナタの」


「いや、それは分かるけど」


彼は少し驚いた顔をした。


「Op.111?」


「そうだよ」


「全楽章?」


「うん」


「……結構な曲を選んだな」


「面白い曲だよね」


「面白いけどさ。普通、久しぶりに演奏会へ出るからって、いきなりあれを選ぶか?」


「弾きたいと思ったから」


「まあ、お前ならそう言うと思ったけど」


彼は小さく笑った後、少し真剣な顔になった。


「練習は大丈夫なのか?」


「大丈夫だと思うよ」


「どのくらいやってる?」


「昨日、家で弾いた」


「……昨日?」


「うん」


「それだけ?」


「前から弾いてる曲だし」


彼はしばらく黙っていた。


「いや、曲を知ってるのは分かるんだけどさ。本番で二十数分弾くんだろ?」


「そうだね」


「それなら、結構準備が必要じゃないか?」


「会場のピアノは確認するよ。まだ弾いてないから」


「そういうことじゃなくて……」


彼は何か言いかけたけれど、途中でやめた。


「……まあ、鳴海だもんな」


「何が?」


「お前が弾けるって言うなら、多分弾けるんだろうなって」


そう言って、少し呆れたように笑う。


「でも、演奏会って普段と違うじゃん。人もいるし、会場の響きも違うし」


「だから、会場を確認するんだよ」


「……そうか」


彼は少し考えてから頷いた。


「確かに、お前ならそれで十分なのかもしれないな」


「曲を弾くこと自体は、別に初めてじゃないからね」


「まあ、そうだよな」


「でも、ピアノが違うと感触も変わるから、そこは触ってみないと分からない」


「なるほど」


彼は納得したようだった。


「とにかく、当日は聞きに行くよ」


「うん」


「楽しみにしてる」


「ありがとう」


そう言って別れた。


普通の演奏家にとって、演奏会前の練習はかなり大事なのだろう。


それは分かる。


指が思ったように動くようになるまで練習する必要もあるし、長い曲を最後まで安定して弾くためには、身体を慣らす時間も必要になる。


曲の構造を理解したり、音楽の流れを身体へ覚え込ませたりするために、何度も弾くこともある。


俺の場合、そのあたりは少し違う。


曲そのものは覚えているし、どう弾けばいいかも分かっている。


今の身体で出せる音なら、必要な動きを選んで弾けばいい。


だから、同じところを何十回も繰り返す必要はない。


ただし、今の自分の身体で問題なく弾けるかどうかは別の話だ。


弾きたい音が分かっていても、指が届かないところへ突然届くようになるわけではない。


筋肉や関節の動きにも限界はあるし、長時間演奏すれば普通に疲れる。


そのあたりを無視して弾くつもりはなかった。


必要なことを確認して、無理のない動きで音を出せばいい。


今回は、それで十分だと思っていた。





〓〓〓





「ベートーヴェンの第32番?」


九条は、俺が曲名を伝えると少し驚いた顔をした。


授業の後、大学内で偶然会ったので、演奏会への参加が決まったことを話していた。


「うん」


「……ずいぶん本格的な作品を選んだのね」


「面白そうだったから」


「それは面白い作品だけれど」


九条は少し考えるように視線を動かした。


「久しぶりの公開演奏で、いきなりあの曲を弾くの?」


「そうだよ」


「……そう」


彼女は小さく息を吐いた。


「演奏会へ出ようと思った時から、何か準備していたの?」


「特には。普段から弾いてる曲だし」


「普段から?」


「うん。家で弾くこともあるよ」


「そうなのね」


九条の表情が少し和らいだ。


「それなら、曲自体は弾き慣れているのね」


「まあね」


「でも、演奏会で弾くとなると、また違うでしょう?」


「そうだね。だから、奏楽堂のピアノを確認する予定」


「それは当然だけれど……」


九条は少し言葉を選んでいた。


「鳴海くん、通して弾いてみた?」


「昨日弾いたよ」


「身体は大丈夫だった?」


「うん。特に問題なかった」


「そう」


彼女はそこで、少し納得したようだった。


「なら、いいと思うわ」


「そう?」


「ええ。あなたが曲を覚えていないとか、指が動かないとか、そういう心配をするつもりはないもの」


「うん」


「ただ、演奏会で一曲を弾き切るとなると、体力も必要でしょう。そこは確認した方がいいと思ったの」


「それはそうだね」


九条は頷いた。


「それに、奏楽堂のピアノは、あなたの家のピアノとは違うでしょうし」


「そうだね。早く触ってみたい」


俺がそう言うと、九条は少し笑った。


「本当に、楽器が気になるのね」


「うん。会場もね」


「……私は、あなたがその曲をどう弾くのかが気になるわ」


九条の声には、強い期待が混ざっていた。


昔のコンクールで何度も聞いたことのある音だった。


「第32番は好き?」


俺が聞くと、九条はすぐに頷いた。


「ええ。特に第二楽章は好きよ。変奏が進むにつれて音楽の姿が変わっていくのに、最初の主題がずっと残っているところが」


「ああ、そこ面白いよね」


「そうね。あれをどういう流れで弾くかによって、曲全体の印象がかなり変わると思う」


「うん。奏楽堂なら、最後の響きも面白そうだし」


「……そういうところを考えて選んだの?」


「それもあるかな」


九条は少し黙った。


その後、なぜか楽しそうに笑った。


「分かったわ。演奏会、必ず聞きに行く」


「うん」


「それと、会場での確認はちゃんとしてね」


「もちろん」


「……あなたに言うことでもなかったかしら」


「いや、大事だと思うよ」


そう答えると、九条は少し安心したようだった。


まあ、演奏する時に楽器の状態を確認するのは、普通のことだと思う。


どれだけ弾き慣れた曲でも、鍵盤の重さやペダルの反応が変われば、同じようには弾けない。


特に今回は、会場の響きも使って演奏したい。


実際に触ってみるのが一番早かった。





〓〓〓





奏楽堂での確認日は、ほかの出演者と時間を分けて設定されていた。


俺に割り当てられた時間は、それほど長くない。


でも、必要なところを確認するだけなら十分だった。


指定された時間に会場へ入り、担当者へ挨拶する。


舞台にはグランドピアノが用意されていた。


客席にはほとんど人がいない。


照明も本番とは少し違うけれど、会場の構造そのものは変わらない。


俺はまず、舞台の上から客席を見渡した。


広い空間だ。


天井が高く、音が遠くまで広がる。


自宅の音楽室とは全然違う。


「いいですね」


思わずそう呟く。


舞台へ近づくと、担当者が声をかけてくれた。


「ピアノの確認ですね。調律は済んでいますので、そのままお使いください」


「ありがとうございます」


「椅子の高さなどは調整していただいて構いません」


「はい」


俺はピアノの前へ座った。


まず、椅子の高さを合わせる。


足の位置を確認し、ペダルへ自然に届く場所を探す。


その後、鍵盤へ指を置いた。


まだ弾かない。


軽く押して、鍵盤が動き始めるところを確かめる。


戻る時の感触も確認する。


「……なるほど」


自宅のピアノとは少し違う。


鍵盤の重さだけではなく、押し始めてから音が出るまでの反応にも違いがあった。


ただ、特に弾きにくいわけではない。


それぞれの鍵盤がどう動くのかを確認してから、短い音階を弾いた。


低い音から高い音へ。


今度は逆へ。


それから、いくつか和音を鳴らす。


低音が広がる。


音が舞台から客席へ向かい、少し遅れて戻ってくる。


その響きを聞きながら、次の音を重ねた。


「いいな」


低音の響きが十分に広がる。


強く弾けばしっかり鳴るけれど、音が必要以上に硬くなるわけではない。


高音も明るい。


ただし、高い音域では少し響きが残りやすいところがあった。


そこは、音の切り方を調整した方がいいかもしれない。


俺は曲の冒頭を少し弾いてみた。


ベートーヴェン《ピアノ・ソナタ第32番》。


第一楽章の最初の和音を鳴らす。


音が広がり、会場全体へ届く。


自宅で弾いた時より、残響が長かった。


「……こっちの方がいいかな」


少し音の出し方を変える。


今度は、鍵盤へ伝える力を調整して鳴らした。


先ほどとは違う響きになった。


低音の芯は残りながら、高音が少し柔らかくなっている。


俺はその違いを確認し、次の部分へ進んだ。


第一楽章では、強い音と細かな動きが続くところがある。


そこで響きが濁らないようにするには、ペダルの扱いが重要だった。


深く踏み込む。


音を聞く。


少し戻す。


もう一度弾く。


今度はペダルを使わずに音をつなぐ。


「うん」


このピアノなら、そこまで深く踏まなくても十分に響く。


逆に、自宅と同じように踏むと、音が重なりすぎる部分がありそうだった。


俺は必要なところを確認し、次に第二楽章へ移った。


最初の静かな旋律を弾く。


音が広がる。


強く鳴らしているわけではないのに、客席の奥まで響きが伸びていくのが分かった。


ただ、弱く弾きすぎると、音の立ち上がりが少し遅くなる。


その差を確かめながら、鍵盤へ伝える力を調整する。


「これくらいかな」


何度か音を変え、欲しい響きになるところを探した。


静かな音でも、輪郭が必要なところはある。


特に第二楽章の最後の方では、音をただ小さくすればいいわけではない。


一つ一つの音が、どこへ向かっているのか分かるように弾きたい。


俺は終盤の一部分を弾いてみた。


細かい音の動きが重なり、静かな和音へつながっていく。


ペダルを少し変える。


その瞬間、音の残り方が変わった。


「ああ、なるほど」


この会場なら、最後の響きは少し長く使えそうだった。


もちろん、長く残せばいいというものでもない。


必要以上に引き延ばせば、次の音がぼやけてしまう。


でも、ここではその長さを利用できる。


俺はもう一度、同じ部分を弾いた。


今度は最初から響きの残り方を考えて、音を置いていく。


最後の音が消えるまで待った。


「……うん、いいね」


かなり面白い。


これは、本番が楽しみだった。





〓〓〓





楽器と会場の響きを一通り確認した後、今度は身体の状態を確かめた。


長い曲を弾く場合、指だけではなく、腕や肩の使い方も重要になる。


特に、力強い和音が続くところでは、必要以上に力を入れると疲れやすくなる。


指先だけで音を出そうとすれば、身体への負担も増える。


俺は一度、腕を軽く動かした。


肩の状態を確認し、手首を回す。


指を曲げ伸ばしして、引っかかるところがないか確かめた。


特に問題はない。


それから、第一楽章の動きが細かくなる部分を弾いてみた。


指が鍵盤の上を移動する。


速く動かす必要はあるけれど、無理な力は使わない。


腕の重さを必要なところへ移し、指先で音を調整する。


数か所を弾いたところで、少し手を止めた。


「ここは、これでいいかな」


指の動き自体は問題ない。


ただ、このピアノは自宅のものより少し反応が違う。


速い部分では、鍵盤が戻る感触に合わせて動きを調整した方が良さそうだった。


次に、和音が大きく変わる部分を確認する。


手の大きさは普通なので、届かない音を無理に押さえることはできない。


でも、楽譜の中で必要な音をどうつなぐかは分かっている。


手の移動を少し変えるだけで、自然につながるところもある。


俺は実際に動かしてみて、問題がないことを確かめた。


それから、第二楽章の細かい変奏部分も少し弾いてみる。


こちらは、音の数が増えても、全部を強く弾く必要はない。


旋律と伴奏の関係を保ちながら、身体に余計な負担をかけないように動かせばいい。


数か所を確認すると、だいたい分かった。


「よし」


鍵盤から手を離す。


身体の状態も問題ない。


あとは本番まで普通に過ごしていればいいだろう。


もちろん、寝不足だったり、手を痛めたりすれば話は別だ。


身体は普通の人間なので、調子が悪ければ演奏にも影響する。


だから、わざわざ無理をする必要はない。


確認するべきところは確認した。


それで十分だった。


「もうよろしいですか?」


担当者が声をかけてきた。


「はい。ありがとうございました」


「予定より少し早いですが、確認は大丈夫ですか?」


「大丈夫です。必要なところは分かりました」


担当者は少し意外そうな顔をしたけれど、すぐに頷いた。


「分かりました。では、当日もよろしくお願いします」


「よろしくお願いします」


俺は椅子の位置を元へ戻し、舞台を降りた。


客席の方へ向かいながら、もう一度会場を見渡す。


さっきまで弾いていたピアノが、舞台の上に置かれていた。


客席から見ると、やっぱり少し印象が違う。


音の広がり方も、舞台から聞くのとは違うだろう。


本番では客席に人が入る。


人がいれば、空気の状態も、音の吸収も変わる。


実際に弾く時には、その違いも聞きながら調整することになる。


「楽しみだな」


俺はそう呟き、奏楽堂を出た。





〓〓〓





翌日、灰崎さんに会場の確認が終わったことを伝えた。


「どうだった?」


「良かったですよ。ピアノも弾きやすかったですし、響きも面白かったです」


「そうか」


「特に第二楽章の最後の方は、奏楽堂の響きが合いそうですね」


「なるほど」


灰崎さんは少し考えてから頷いた。


「それで、準備はどのくらい進んだ?」


「必要なことは確認できました」


「……もう終わったのか?」


「はい」


灰崎さんは俺を見た。


「通して弾く練習は?」


「家で弾きましたよ」


「それ以降は?」


「会場で必要なところを確認しました」


「……なるほど」


少し間が空いた。


「お前の場合、それで十分ということか」


「そうですね。今のところ、ほかに確認することもないので」


灰崎さんは小さく息を吐いた。


「普通なら、もっと練習を重ねるところだが」


「必要ならやりますよ」


「必要ではないと?」


「はい。曲は覚えてますし、身体も問題なかったので」


「そうか」


灰崎さんはそれ以上、練習量については聞かなかった。


代わりに、少し真剣な表情になる。


「ただし、本番のピアノや会場の状態は、確認した時と完全に同じとは限らないぞ」


「それはもちろん」


「当日も、実際の音を聞いて判断しろ」


「はい」


俺は頷いた。


そこは、最初からそのつもりだった。


曲をどう弾くか決めていても、当日の楽器が違えば、音の出し方を変える必要がある。


客席に人が入れば、会場の響きも変わる。


そういうものを無視して、決めたとおりに弾くつもりはない。


その日の音を聞いて、必要なところを調整すればいい。


「それと、演奏会の前後には作曲科の予定もある。そちらは忘れるなよ」


「分かってます」


「ならいい」


灰崎さんは少し笑った。


「久しぶりの公開演奏か。楽しみにしている」


「ありがとうございます」


「お前がピアノを弾けることは知っているが、奏楽堂で何を聞かせるのかは、また別の話だからな」


「そうですね」


「当日は私も聞きに行こう」


「はい」


研究室を出てから、俺は次の授業へ向かった。


演奏会の準備は、これでだいたい終わった。


曲は決めた。


手続きも済ませた。


会場とピアノも確認した。


身体の状態にも問題はない。


あとは当日、普通に弾けばいい。


もちろん、その時になって気になることがあれば、また確認するだろう。


でも、今のところは特に必要なことがなかった。





〓〓〓





演奏会の前日も、普段とあまり変わらなかった。


大学の課題を終わらせ、届いていた仕事のメールを確認する。


急ぎの用件はなかったので、必要なものだけ返事をした。


夕食を済ませてから、いつものように音楽室へ入る。


ピアノの前へ座り、何となく鍵盤を押した。


最初は、思いついた旋律を適当に弾いていた。


少し音を重ねる。


低い音を変える。


すると、最初とは違う響きになった。


「こっちの方がいいな」


もう一度弾く。


そのまま続きを作っていると、いつの間にか少し長い曲になっていた。


特に何かのために作っているわけではない。


仕事でもないし、大学の課題でもない。


ただ、面白そうな音があったから弾いているだけだ。


しばらく遊んだ後、ふと思い出して、ベートーヴェンの第32番を少しだけ弾いた。


第二楽章の静かな旋律。


自宅のピアノでは、奏楽堂とはまた違う響きになる。


それを聞きながら、先日確認した会場の音を思い出す。


明日は、あのピアノでこの曲を弾く。


客席には人がいるだろうし、今とは違う音が聞こえるはずだ。


その違いに合わせて、どう弾くかを決めればいい。


「……うん」


少し楽しみだった。


俺は鍵盤から手を離し、椅子から立ち上がった。


明日は演奏会がある。


だからといって、今から夜遅くまで弾き続ける必要はない。


指や腕を疲れさせても意味がないし、寝不足で本番を迎えるのも面倒だ。


必要な準備は終わっている。


あとは、明日の音を聞けばいい。


音楽室の照明を落とし、部屋を出た。


久しぶりのピアノ独奏。


奏楽堂でどんな音が鳴るのか、今から楽しみだった。

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