第53話 久しぶりに弾こうかな
藝大に通っていると、いろいろな演奏を聞く機会がある。
作曲科の授業でも実際の演奏を扱うことはあるし、建物の中を歩いていれば、どこかしらから楽器の音が聞こえてくる。
特にピアノは多い。
同じ曲を練習している人が何人もいることもあって、聞き比べてみると結構面白い。
楽譜は同じでも、演奏する人によって音の置き方が違う。旋律を少し長く取る人もいれば、伴奏の動きをはっきり聞かせる人もいる。
どちらがいいかは、曲と演奏による。
それに、楽器や部屋が変われば、同じ演奏をしようとしても響きが変わる。
そういう違いを聞いていると、気になる音が見つかることもあった。
その日も、授業が終わってから学内を歩いていると、少し離れたところからピアノが聞こえてきた。
「あれ?」
聞き覚えのある演奏だった。
少し前に再会した九条だ。
昔のコンクールで聞いた頃とは随分変わっているけれど、どこで旋律を待つのか、どういう音を前へ出すのかという判断には、今でも本人らしいところが残っている。
ただ、今回は練習室から聞こえているわけではなかった。
音の広がり方が違う。
少し歩くと、学生が出入りしている小さなホールが見えた。
入口には、器楽科の学生による公開試演の案内が出ている。
どうやら、演奏会に向けて、実際に人が聞いている環境で演奏を確認しているらしい。
客席には学生が何人か座っていた。
「入っても大丈夫ですか?」
入口にいた学生へ聞くと、静かに聞くなら構わないということだった。
俺は後ろの方の席へ座った。
ちょうど九条がピアノを弾いているところだった。
曲はショパンの《舟歌》だ。
もちろん、知っている曲だった。
子供の頃からいろいろなピアノ曲を聞いてきたし、気になった作品を自分で弾くことも普通にあった。《舟歌》も何度か弾いたことがある。
曲の構造も、どこでどんな音が必要なのかも分かっている。
ただ、九条の演奏は俺が弾くものとは違った。
左手が作る揺れの上で、右手の旋律がゆっくりと動いていく。
伴奏は一定の流れを保っているけれど、機械的に同じ長さで音を置いているわけではない。
旋律が少し長く留まるところでは、その動きに合わせて左手の重心も変わる。
それでいて、全体の流れは途切れなかった。
「へえ」
小さく呟く。
練習室で聞いた時にも思ったけれど、九条は随分上手くなっていた。
特に、複数の声部を一つの音楽としてまとめるのが上手い。
以前は、どの音も丁寧に扱おうとしているところがあった。
今は、必要な音を選ぶのが自然になっている。
聞かせたい旋律があれば、その周囲の音は少し引く。
逆に、内声の動きを聞かせたいところでは、主旋律を邪魔にならない位置へ置く。
そういう判断が、演奏全体へきちんと反映されていた。
しかも、今日は練習室とは違う響きの中で弾いている。
ピアノの音が客席へ広がり、壁や天井から戻ってくる。
九条は、その響きを聞きながら演奏を調整しているようだった。
少し長く音を残すところもあれば、次の音を早めに入れるところもある。
同じ曲でも、部屋が変われば違う演奏になる。
まあ、それは当たり前のことだけど。
俺はそのまま最後まで聞いていた。
曲が終わり、客席から拍手が起こる。
九条が一礼して舞台を降りた。
なかなかいい演奏だった。
「やっぱりピアノって面白いな」
俺はそう呟きながら、もう一度舞台のピアノを見た。
自宅で弾くのとは違う響き。
客席へ向かって音を出すための楽器の使い方。
演奏を聞いている人たちの反応。
子供の頃は、コンクールに出るたびにそういうものを聞いていた。
最近は作曲や録音をすることが多くなったけれど、こうして会場でピアノを聞いていると、自分でも弾いてみたくなる。
「……久しぶりに、ちゃんと弾こうかな」
特に理由があるわけではない。
ただ、面白そうだと思った。
〓〓〓
試演が終わった後、九条がこちらへ気づいた。
「……鳴海くん?」
「お疲れ、九条」
「来ていたの?」
「うん。ピアノが聞こえたから」
九条は少し驚いた顔をした。
「最初から聞いていた?」
「途中からだよ。ちょうど近くを通ったところだったから」
「そう」
彼女は手に持っていた楽譜を少し抱え直した。
「どうだった?」
「良かったよ。前に練習室で聞いた時より、音の広がり方が自然だった」
「……ありがとう」
「ここのピアノに合わせて結構変えてたね」
「ええ。練習していた時とは響きが違うから」
「そうだよね。中盤の和声が変わるところ、少し長く取ってたでしょ」
「よく分かったわね」
「聞こえたから」
九条は少し笑った。
「相変わらずね」
「そう?」
「ええ。でも、今日は自分でも納得できる演奏だったわ」
「うん。良かったと思う」
九条は嬉しそうに頷いた。
それから、俺の隣へ視線を向ける。
「ところで、鳴海くんはこういう試演にも興味があるの?」
「演奏を聞くのは好きだよ」
「そうなのね」
「それに、久しぶりに人前でピアノを弾くのも面白そうだなと思って」
九条の表情が変わった。
「……え?」
「だから、どこかで弾いてみようかなって」
「あなたが?」
「うん」
「ピアノを?」
「そうだけど」
九条はしばらく俺を見つめた。
その後、少し息を吐く。
「……本当に?」
「何でそんなに驚くの?」
「だって、あなた、コンクールをやめてから本格的な演奏会には出ていなかったでしょう?」
「そうだね」
「それが、急に?」
「今の演奏を聞いてたら、ちょっと弾きたくなったから」
九条は額に手を当てた。
「……本当に、あなたは」
何か言いかけたけれど、途中でやめたらしい。
「まあ、いいわ。それで、どこで弾くつもりなの?」
「まだ決めてないよ。今思いついただけだから」
「そうなのね」
「こういう演奏会って、作曲科でも出られるのかな」
「企画によると思うわ。器楽科の学生が中心のものもあるけれど、学科を限定していない演奏機会もあるはずよ」
「へえ」
「ただ、出演するなら事前に申し込む必要があるでしょうね」
「まあ、そうだよね」
九条は少し考えた。
「作曲科なら、先生に相談してみたらどうかしら」
「ああ、それが早そうだね」
「……鳴海くん」
「何?」
「本当に、演奏するつもりなのよね?」
「出られるならね」
九条の表情に、期待しているような変化が生まれた。
『今度こそ聞けるのかもしれない』
そんな意味の音が聞こえる。
そういえば、再会した時にも俺の演奏を聞きたいと言っていた。
「九条も聞きに来る?」
「もちろんよ」
すぐに返事が返ってきた。
「まだ決まってないけど」
「分かっているわ。でも、出ることになったら教えて」
「うん、いいよ」
九条は少し嬉しそうだった。
ただ、その奥には、昔のコンクールで何度か聞いたものと似た音も混ざっている。
期待と、緊張と、それから強い競争心。
相変わらず、俺とピアノを弾くことを競いたいらしい。
別にそれは構わない。
九条は今でもかなり上手いし、同じ曲を弾いたら、それぞれ違う音楽になるだろう。
それはそれで面白そうだった。
「じゃあ、先生に聞いてみるよ」
「ええ。楽しみにしているわ」
九条と別れ、俺は作曲科の建物へ戻った。
〓〓〓
「先生、ちょっといいですか」
研究室にいた灰崎さんへ声をかけると、書類から顔を上げた。
「どうした、鳴海」
「大学の演奏会って、作曲科でもピアノ弾けます?」
「……ピアノ?」
「はい」
灰崎さんは俺を見た。
「課題の作品を演奏するという話か?」
「いえ、普通にピアノ独奏をしたいんですけど」
「お前が?」
「はい」
「……なるほど」
灰崎さんは少し考えた。
「なぜ急にそう思った」
「さっき、器楽科の学生が弾いてるのを聞いたんですよ」
「それで?」
「久しぶりに、ちゃんと演奏会で一曲弾くのも面白そうだなって」
灰崎さんは何とも言えない顔になった。
「……お前は本当に、そういう理由で動くな」
「駄目ですか?」
「いや、別に駄目ではない」
そう言って、椅子へ座り直す。
「学内の演奏会にもいろいろある。器楽科の授業や試験に関係するものなら、作曲科の学生が自由に出られるわけではない」
「そうですよね」
「ただ、学内の学生が参加する企画もある。そちらなら確認の余地はあるだろう」
「へえ」
「もっとも、出演できるかどうかは企画の条件次第だ」
「じゃあ、聞いてみてもいいですか?」
「構わん。確認しておこう」
灰崎さんは机の上の資料を見た。
「ところで、お前が人前でピアノを弾くのは、いつ以来だ?」
「ちゃんとした演奏会なら、小学生のコンクール以来ですかね」
「そうか」
「学校で弾いたり、動画に使ったりはしてますけど」
「それは知っている」
灰崎さんは頷いた。
「だが、作曲科に入ってからは、演奏会に出演することを考えていなかっただろう」
「特には」
「今回は気が向いたというわけか」
「そうですね」
「……分かった」
灰崎さんは少し笑った。
「演奏すること自体に問題はないだろう。お前がピアノを弾けることは、私も知っている」
「ありがとうございます」
「ただし、演奏会は一人で勝手に決められるものではない。日程や演奏時間、ほかの出演者との調整もある」
「はい」
「出るなら、必要な手続きはきちんとしろ」
「分かりました」
「それと、作曲科の授業を休んで準備するのは認めんぞ」
「別に休まないですよ」
「ならいい」
そう言って、灰崎さんは資料へ視線を戻した。
俺も礼を言って研究室を出る。
考えてみれば、人前でピアノを弾くのは本当に久しぶりだった。
小学生の頃は、毎年コンクールに出ていた。
地方予選から始まって、県大会、全国大会と進む。
そのたびに違う会場へ行き、違うピアノを弾いた。
あれは結構面白かった。
ただ、父さんがもう習わなくていいと言ったので、定期レッスンとコンクールはやめた。
その後もピアノをやめたわけではない。
普段から普通に弾いていたし、既存の楽曲を演奏することもあった。
思いついた音を適当に鳴らすことが多いけれど、気が向けばバッハでもベートーヴェンでもショパンでも弾く。
昔から知っている曲を別の弾き方で試してみることもあるし、聞いたばかりの曲を弾いてみることもある。
だから、ピアノを弾くという行為そのものは、別に久しぶりではなかった。
でも、演奏会で一つの作品を最初から最後まで、人に聞いてもらうことは最近していない。
自宅の音楽室とは違う響き。
客席にいる人たちの反応。
舞台のピアノが、その日の状態でどんな音を出すのか。
そういうものを使って演奏するのも、久しぶりにやってみたいと思った。
「何弾こうかな」
候補はいくつもある。
ただ、せっかく演奏会で弾くなら、一つの作品をしっかり聞かせる方が面白そうだった。
曲を決めるのは、参加できるか確認してからでもいいだろう。
〓〓〓
数日後、灰崎さんから連絡があった。
学内の演奏企画について確認が取れたらしい。
指定された時間に研究室へ行くと、灰崎さんが資料を一枚渡してくれた。
「学生が出演する学内演奏会の枠がある。作曲科の学生でも、演奏内容と条件が合えば参加できるそうだ」
「へえ」
「ただし、今回は独奏での参加を希望するんだな?」
「はい」
「分かった。なら、まず出演希望を出しておけ。演奏時間や曲目については、指定された期限までに提出する必要がある」
「なるほど」
資料を読む。
出演する学生の所属や演奏内容、必要な設備などを確認するための項目が並んでいた。
難しい手続きではなさそうだった。
「ちなみに、会場はどこですか?」
「東京藝術大学奏楽堂だ」
「奏楽堂ですか」
「ああ」
奏楽堂なら、大学に入ってから何度か行ったことがある。
ただし、そこで自分が演奏したことはまだない。
会場の音は知っているけれど、客席で聞くのと舞台の上で弾くのとでは、当然違う。
「いいですね」
そう答えると、灰崎さんは少し意外そうな顔をした。
「会場については、それだけか?」
「何かあります?」
「いや、別に」
灰崎さんは少し考えてから言った。
「奏楽堂でピアノ独奏をするとなると、普通の学生なら、それなりに緊張するものだと思うが」
「そうなんですか?」
「少なくとも、軽い気持ちで申し込む学生ばかりではないだろう」
「でも、演奏する場所があるなら、使ってみたいじゃないですか」
「……まあ、お前ならそう考えるか」
灰崎さんは小さく息を吐いた。
「出演が決まったら、会場と楽器についても確認しておけ」
「はい」
「特にピアノは、普段弾いているものと違うからな」
「それはもちろん」
「それから、演奏する作品は早めに決めろ」
「分かりました」
俺は資料を持って研究室を出た。
奏楽堂でピアノを弾く。
それは、なかなか面白そうだった。
〓〓〓
出演希望の手続きを進めると、大学側からいくつか確認の連絡が来た。
まず、作曲科の学生がピアノ独奏で参加することについて。
次に、予定している演奏時間や、使用する楽器について。
曲目の正式な提出は少し先で構わないらしいけれど、演奏会全体の時間を調整するため、だいたいの長さは知りたいそうだ。
俺は必要な内容を確認して返事を送った。
その後、正式に出演できることになった。
「よし、決まった」
大学からの連絡を確認し、スマートフォンを置く。
別に、難しい試験を突破したというわけではない。
演奏会へ参加するための条件を確認し、必要な手続きをしただけだ。
それでも、出演が決まったのは良かった。
これで、奏楽堂のピアノを弾く機会ができた。
ちょうどそこへ、同じ作曲科の学生が声をかけてきた。
「鳴海、聞いたんだけど」
「何?」
「今度、奏楽堂でピアノ弾くの?」
「うん」
「本当に?」
「そうだけど」
彼は少し驚いた顔をした。
「お前、ピアノも弾けるのは知ってるけど、ああいう演奏会に出るんだ」
「面白そうだったから」
「……そういう理由なのか」
「うん」
「いや、別にいいんだけどさ。作曲科の学生がピアノ独奏で出るって、結構珍しくない?」
「そうなの?」
「少なくとも、普通は器楽科の学生が中心だろ」
「まあ、そうだろうね」
「それに、お前、最近は作曲の仕事も多いじゃん」
「そうだね」
「練習する時間とか大丈夫なの?」
「何を弾くかにもよるけど、別に大丈夫だと思うよ」
彼は何か言いたそうな顔をしたけれど、結局それ以上は聞いてこなかった。
代わりに、少し笑う。
「まあ、鳴海が弾くなら見に行きたいな」
「いいよ」
「曲はもう決めた?」
「まだ」
「じゃあ、決まったら教えて」
「うん」
そう答えてから、俺は次の授業へ向かった。
考えてみれば、大学に入ってからは作曲の方で知られることが多くなった。
《青瀬》や《終幕まで聴いて》のこともあるし、商業音楽の仕事をしていることも知られている。
だから、作曲科の学生が急にピアノ独奏をすると聞けば、少し不思議に思う人もいるのかもしれない。
でも、俺としては、作曲もピアノも別に特別なものではなかった。
作りたい曲があれば作る。
弾きたい曲があれば弾く。
それだけだ。
〓〓〓
その日の夜、家に帰ってから音楽室へ入った。
演奏会への参加が決まったので、そろそろ曲を選ぼうと思った。
ピアノの前に座り、思いついた曲をいくつか弾いてみる。
最初は、昔からよく知っているバッハの作品だった。
声部がそれぞれ違う動きをしながら、一つの音楽としてつながっていく。
こういう曲は、弾いていて面白い。
次に、少し違う時代の作品を弾く。
音の重ね方も、旋律の進め方も変わる。
同じピアノを使っているのに、作曲家が違うだけで、楽器の使い方そのものが違ってくる。
それが楽しかった。
俺は昔から、こうして知っている曲を適当に弾くことがあった。
自分で曲を作っている時でも、途中で別の作品を弾きたくなることがある。
別に、演奏会のために練習していたわけではない。
単純に、その曲を弾きたくなったから弾いていただけだ。
だから、今回も新しくピアノを覚え直す必要はない。
ただ、奏楽堂で弾くなら、その会場に合う作品を選びたい。
せっかくなら、客席まで音が広がる様子を楽しめる曲がいい。
一つの旋律だけを聞かせる作品もいいけれど、複数の声部が重なって変化していく曲も面白そうだった。
「うーん」
俺は少し考えてから、ベートーヴェンの作品を弾き始めた。
低い音から始まり、少しずつ音楽が広がっていく。
力強い和音。
その後に続く静かな旋律。
同じ主題でも、扱い方によって印象が大きく変わる。
ベートーヴェンの曲は、そういう変化が分かりやすいところも面白い。
もちろん、分かりやすいから簡単という意味ではない。
一つの音をどう置くかで、曲全体の流れが変わることもある。
俺は途中まで弾いてから、鍵盤から手を離した。
「……これもいいな」
ただ、自宅で弾くのと奏楽堂で弾くのとでは、響きが違う。
実際のピアノを触ってみないと、細かいところまでは決められないだろう。
でも、それも演奏会の面白いところだ。
会場に行って、ピアノを弾いて、その日の音を聞く。
それから、どう弾くかを決めればいい。
そう考えると、少し楽しみになってきた。
小学生の頃も、初めて行く会場ではよく同じようなことを考えていた。
ピアノの状態も、部屋の響きも、聞いている人も、そのたびに違う。
だから、同じ作品を弾いても、まったく同じ演奏にはならない。
今回は久しぶりに、それをやってみたい。
俺は椅子から立ち上がり、机の上に置いていた大学からの資料を確認した。
演奏会までには、まだ時間がある。
その間に曲を決めて、必要な確認をしておけばいい。
特に急ぐ必要はなかった。
「さて、何弾こうかな」
もう一度ピアノの前へ戻り、別の曲を弾き始める。
候補はいくつもある。
どれを選んでも、それなりに面白い演奏にはできると思う。
でも、せっかく奏楽堂で弾くのだから、今一番弾いてみたいものを選びたかった。
俺はしばらく、知っている曲をあれこれ弾いて遊んだ。
久しぶりの演奏会。
どうやら、結構楽しめそうだった。




