第52話 九条綾音というピアニスト
「……まさか、同じ大学にいたなんて」
鳴海くんと別れた後、私は廊下を歩きながら小さく呟いた。
彼が音楽活動を続けていることは、ずっと前から知っていた。
《青瀬》が公開された時も、《終幕まで聴いて》が話題になった時も、当然聞いている。あれほどの音楽を作る人間が誰なのか、気にならないはずがない。
何より、私には彼のピアノを何度も聞いた記憶がある。
子供の頃とは演奏する作品も、音楽の作り方も変わっていたけれど、あの異常なほど自然な音の扱いは、ほかの誰かと間違えようがなかった。
だから、鳴海楽という作曲家が、あの鳴海くん本人だということは分かっていた。
ただ、藝大に進学しているとは思わなかった。
しかも、私と同じ大学に。
「……本当に、何なのかしら」
思わずため息が出る。
彼にとっては、昔の知り合いと偶然再会した程度の出来事なのだろう。
それは、話していれば分かった。
私がどれだけ驚いても、彼は普段どおりだった。
昔のコンクールでの演奏も、私の音の変化も覚えていた。それなのに、何年も会わなかったことを特別には考えていないらしい。
ああいうところは、何も変わっていない。
「まあ、いいわ」
気持ちを切り替えて、スマートフォンを確認する。
この後は黒川先生のところへ行く予定だった。
今日は、近いうちに大学で演奏する作品を見ていただくことになっている。
鳴海くんと再会したからといって、私の予定が変わるわけではない。
私は楽譜を持ち直し、建物を出た。
〓〓〓
「少し早かったな」
黒川先生は、私が部屋へ入るとそう言った。
「大学での用事が早く終わりましたので」
「そうか。では、始めよう」
「はい」
先生の指導を受けるようになって、もう随分長い。
初めてお会いした頃の私は、自分の演奏について知らないことばかりだった。
もちろん、同年代の子供たちと比べれば、当時からかなり弾けていたと思う。
でも、今振り返れば、音を出せることと、音楽を作れることの違いさえ十分には分かっていなかった。
先生は、その違いを一つずつ教えてくれた。
ただし、私に正解を与えるような教え方はしなかった。
まず私がどう弾きたいのかを聞き、その理由を確かめる。
理由が演奏と一致していなければ指摘されるし、私の考えが音楽として成立していれば、先生自身の解釈とは違っていても認めてくれる。
今では、細かい技術を教わるというより、演奏について意見を交わす時間の方が長くなっていた。
「今日は《舟歌》だったな」
「はい」
私はピアノの前へ座り、楽譜を譜面台へ置いた。
ショパン《舟歌 嬰ヘ長調 Op.60》。
穏やかな船の揺れを思わせるリズムの上に、長い旋律が重なっていく作品だ。
ただ美しく弾くだけなら、それほど難しい曲ではないと思われるかもしれない。
けれど、実際には非常に繊細な制御が必要になる。
左手の伴奏が少し重くなるだけで、音楽は前へ進まなくなる。
逆に軽くしすぎれば、旋律を支えるものがなくなってしまう。
右手の歌い方も同じだ。
自由に歌おうとして拍節の感覚を失えば、曲全体の流れが崩れる。
それらを考えながら、私は最初の音を鳴らした。
ピアノの響きが部屋へ広がる。
最初の和音の残響を聞き、次の音へ移る。
左手は一定の揺れを保ちながら、右手の旋律を支えていく。
私は呼吸を整え、長いフレーズを一つのまとまりとして扱った。
途中で音の密度が高くなっても、すべての声部を同じように強調することはしない。
聞かせたい旋律を選び、そこへ向かう音を重ねていく。
一つの音が終わる前に次の音を考え、その先の和声まで見通す。
指が速く動くこと自体に意味はない。
必要な音を、必要な場所へ置く。
それを最後まで続ける。
曲を弾き終えると、黒川先生はすぐには何も言わなかった。
私は鍵盤から手を離し、残った響きが消えるのを待つ。
「……なるほど」
先生が口を開いた。
「以前より良くなっている」
「ありがとうございます」
「特に、後半の音の重なりは整理されていたな。旋律を聞かせながら、内声の動きも失っていない」
「そこは少し変えました」
「分かった。前の弾き方より自然だ」
先生は楽譜へ視線を落とした。
「ただ、一か所気になる」
「どこでしょうか」
「中盤で左手が少し急ぐところだ。君は意図的にああしているのか」
「はい。右手の旋律を少し長く取るので、伴奏の方で流れを保とうと思いました」
「なるほど。意図は分かる」
先生は少し考えた。
「だが、そこで左手を動かしすぎると、次の和声に入った時の広がりが弱くなる。君が聞かせたいのは、その先だろう?」
「そうですね」
「なら、そこで急ぐ必要はないかもしれない」
私は楽譜を見た。
確かに、先生の言うとおりだった。
旋律を長く取った分、伴奏で流れを補おうとしていたけれど、そこで少し待った方が、次の和声へ移った時に大きな変化を作れる。
「もう一度、そこだけ弾いてもいいですか」
「もちろん」
私は該当する部分から弾き直した。
今度は左手を急がせず、旋律の動きと自然につなげる。
音を一つずつ抑えるのではなく、フレーズ全体の重心を少し変える。
すると、次の和声へ入る瞬間の響きが変わった。
「……こちらの方がいいですね」
「そうだな」
黒川先生が頷いた。
「ただ、私に言われたから変える必要はない。最終的には、君がどう弾きたいかだ」
「はい。今の方が、私の考えていた音楽に近いと思います」
「なら、そうすればいい」
先生は椅子へ座り直した。
「それにしても、随分と余裕が出てきたな」
「そうでしょうか」
「ああ。以前なら、難しい部分を正確に弾くことへ少し意識を使いすぎていた。今は技術を意識せず、音楽の方へ集中できている」
私は少し嬉しくなった。
技術を身につけることは、演奏家にとって当然必要だ。
でも、技術そのものを聞かせたいわけではない。
音楽を表現するために指を動かしているのであって、指を速く動かすために音楽があるのではない。
そこを認めてもらえたのは、素直に嬉しかった。
「この演奏なら、十分に聴かせられるだろう」
先生はそう言って、楽譜を閉じた。
「細かなところは、あとは君自身で決めなさい」
「はい」
「それと、次の海外公演に向けた準備も忘れないように」
「もちろんです」
私には、大学の授業以外にも演奏の予定がある。
国内の演奏会だけでなく、海外で演奏する機会も増えていた。
コンクールへ参加することもあるし、招かれてリサイタルを行うこともある。
以前より演奏する場所も、接する音楽家も増えた。
そのたびに、自分の知らなかった音楽に出会える。
私は、それが好きだった。
〓〓〓
休憩の時間になり、先生がお茶を用意してくれた。
「そういえば、今日は少し落ち着かない様子だったな」
私はカップを受け取りながら顔を上げた。
「そうでしたか?」
「最初の演奏は良かったが、いつもより少し考え事をしているように見えた」
「……実は、今日、大学で昔の知り合いに会いまして」
「誰だ?」
「鳴海くんです」
黒川先生の動きが止まった。
「鳴海楽くんか?」
「はい」
「そうか。彼も藝大にいるのか」
「作曲科だそうです」
「なるほど」
先生は静かに頷いた。
「今は作曲家として活動しているからな。進学先としては不思議ではない」
「先生はご存じだったんですか?」
「作曲家として活動していることは知っている。《青瀬》も聞いたし、ゲーム音楽の方も聞いた。ただ、藝大へ進学していたことまでは知らなかったな」
「私もです。今日、偶然会うまで知りませんでした」
先生は少し考えるように私を見た。
「それで、話はしたのか」
「はい」
「どうだった?」
「……相変わらずでした」
そう答えると、先生は少し笑った。
「そうか」
「私がどれだけ驚いても、本人は普通なんです。昔の演奏まで覚えているのに、何年も会わなかったことは特に気にしていないようでした」
「彼らしいと言えば、彼らしいな」
「先生もそう思いますか?」
「以前から、勝敗そのものにはあまり関心がなさそうだったからな」
私は小さく息を吐いた。
黒川先生は、私が鳴海くんと競っていた頃から、彼の演奏を聞いている。
私の師匠であると同時に、鳴海くんの異常さを早くから理解していた人でもある。
「……先生」
「何だ?」
「私、あの頃より上手くなっていますよね」
「当然だろう」
あまりにも迷いのない返事だったので、少し驚いた。
「君は何年も演奏を続けている。技術も音楽の理解も、当時とは比較にならない」
「はい」
「それに、今の君はすでに、国内でも有数の若手ピアニストだ。海外での演奏も評価されている」
先生は、そこで少し言葉を区切った。
「私が今の君を評価しているのは、鳴海くんと比較した結果ではないよ」
私は黙って先生を見る。
「君自身の演奏が、それだけの水準にあるからだ」
「……ありがとうございます」
「ただし、まだ良くなる」
「もちろん、そのつもりです」
「なら、問題ない」
先生はお茶を飲んだ。
「彼と再会したことが、君にとって大きな出来事なのは分かる。だが、君がこれまで積み重ねてきたものまで、彼との比較だけで考える必要はない」
「はい」
「君には君の音楽がある」
その言葉を聞いて、私は少しだけ肩の力を抜いた。
先生は昔からそうだった。
鳴海くんに負けた時も、私の演奏が悪かったとは言わなかった。
もちろん、改善するべき点があれば容赦なく指摘された。
でも、結果だけを見て、私の能力を低く評価することはなかった。
先生は、私がどれだけ上達しているかを正確に見てくれていた。
「……私、もう一度あの人のピアノを聞きたいんです」
「そうだろうな」
「今なら、昔とは違うところまで分かると思うので」
「そうかもしれないな」
先生は頷いた。
「だが、彼が今も昔と同じように弾くとは限らない」
「ええ。それも分かっています」
「君も昔とは違うからな」
「はい」
そのことだけは、自信を持って答えられた。
〓〓〓
鳴海くんがコンクールへ来なくなった時、私は安心してしまった。
その感覚は、今でも覚えている。
翌年には、また同じ部門で演奏できると思っていた。
そのために練習していたし、今度こそ自分の演奏を認めさせたいと思っていた。
でも、彼は現れなかった。
最初は何か事情があるのだと思った。
次の大会には来るかもしれない。
別のコンクールへ出ているのかもしれない。
そう考えていたけれど、結局、彼が再びコンクールへ出場することはなかった。
そして、私は同年代の参加者たちの中で、再び勝てるようになった。
以前から、自分に才能があることは分かっていた。
幼い頃から音の違いを聞き分けるのは得意だったし、楽譜を読むことにも苦労しなかった。
新しい曲を覚えるのも早かった。
同じ年頃の子供たちより難しい作品を弾けたし、自分なりの解釈を演奏へ反映することもできた。
その才能を伸ばすために、両親は良い先生を探してくれた。
父は作曲家で、母はオペラ歌手だった。
家では音楽の話をすることが普通だったし、演奏会へ行く機会も多かった。
私は、そういう環境で育った。
だからといって、何もせずにピアノが上手くなったわけではない。
指を動かす。
身体の使い方を覚える。
長い曲を一つの音楽として組み立てる。
自分の音を聞いて、足りないところを探す。
それを繰り返す。
私は、その時間が嫌いではなかった。
むしろ、弾けなかった部分が弾けるようになったり、今まで気づかなかった音のつながりが見えたりすることが楽しかった。
だから練習した。
もっと上手くなりたかったから。
鳴海くんに勝ちたいという気持ちも、確かにあった。
でも、それだけで何年もピアノを弾き続けられるはずがない。
彼がいなくなった後も、私の周囲には音楽があった。
新しい作品に出会い、演奏する。
今まで知らなかった技術を身につける。
作曲家が楽譜に書いたものを読み取り、自分の演奏として形にする。
そこには、いくらでも面白いことがあった。
国内のコンクールで結果を残すようになってからは、海外で演奏する機会も増えた。
初めての会場。
初めて触るピアノ。
初めて演奏を聞いてくれる人たち。
同じ作品でも、環境が違えば響きは変わる。
自分の演奏に対する反応も違う。
ある演奏会では、最初の数分間、客席が少し落ち着いていなかった。
私は音を急がず、旋律を丁寧につなぎ、聞き手が自然に音楽へ集中できるようにした。
最後の和音が消えた後、客席はしばらく静かなままだった。
それから拍手が起きた。
あの時のことも、よく覚えている。
自分が作った音楽が、知らない人たちへ届いた。
その実感は、順位や賞状とは違う喜びだった。
もちろん、コンクールで勝つことも嬉しい。
審査員から高い評価を受ければ、自分の演奏が認められたと感じる。
でも、それだけではない。
私がピアノを弾き続けている理由は、もっとたくさんある。
だから、鳴海くんがいなくなった後も、私は止まらなかった。
ただ、一つだけ心残りがあった。
あの人と、もう一度同じ舞台に立つこと。
それだけが、ずっと残っていた。
〓〓〓
数日後、私は大学内で行われる演奏会に参加した。
出演するのは、器楽科の学生たちだった。
それぞれが準備してきた作品を演奏する、学内では珍しくない機会だ。
私も何度か参加したことがある。
今日演奏するのは、黒川先生に見ていただいたショパンの《舟歌》だった。
本番前にピアノの状態を確認する。
鍵盤の重さ。
ペダルの反応。
音の立ち上がり方。
特定の音域で響きが少し強くなることも確認できた。
練習の時とは違う楽器なので、同じ動かし方をすれば同じ音になるとは限らない。
ただ、それは特別な問題ではなかった。
楽器に合わせて弾けばいい。
私は短い部分をいくつか確認し、舞台を離れた。
控えの場所では、ほかの出演者たちも準備をしている。
緊張している学生もいれば、楽譜を見ながら最後の確認をしている人もいた。
私は自分の出番まで、静かに過ごすことにした。
「九条さん」
声をかけられて顔を上げると、同じ器楽科の学生が立っていた。
「今日、《舟歌》なんだね」
「ええ」
「楽しみにしてる」
「ありがとう」
「前に聞いた時もすごく良かったけど、また変わった?」
「少しね。音のつなぎ方を見直したところがあるわ」
「やっぱり。九条さんって、同じ曲でも聞くたびに変わるよね」
「そうかしら」
「うん。もちろん、前の演奏が悪いって意味じゃないよ」
「分かっているわ」
私は少し笑った。
自分の演奏が変化していることを、他の人が聞き取ってくれるのは嬉しい。
その学生も、優れた演奏家だった。
普段から自分の演奏だけでなく、ほかの人の音楽もよく聞いている。
こういう人が周囲にいることも、藝大へ来て良かったと思う理由の一つだった。
しばらくして、私の出番になった。
舞台へ出る。
客席には学生や教員、関係者たちが座っていた。
静かな拍手が起こる。
私は一礼し、ピアノの前へ座った。
椅子の位置を確認する。
足をペダルへ置く。
一度だけ息を整え、最初の音を鳴らした。
柔らかい響きが広がる。
その音を聞いて、今日のピアノがどのくらいの強さで応えてくれるのかを確かめた。
次の音を重ねる。
左手の揺れに、右手の旋律が乗る。
曲が進むにつれて、音の重なりは少しずつ増えていった。
私は、それぞれの音を別々に扱いながら、全体を一つの流れとして聞いた。
歌わせたい旋律は、はっきりと前へ出す。
ただし、周囲の声部が消えないようにする。
音楽が静かになるところでは、必要以上に音量を落とすのではなく、響きの密度を変える。
強い音が必要なところでも、ただ力を込めるわけではない。
鍵盤へ伝える力の方向を調整し、欲しい響きを作る。
中盤へ入る。
先日、黒川先生に指摘された部分が近づいた。
私は左手を急がせず、右手の旋律を自然に進めた。
その先で和声が変わる。
響きが広がり、次のフレーズへつながる。
思っていたとおりだった。
私はそこで初めて、このピアノではもう少しだけ音を残せることに気づいた。
予定していたより、ほんの少しだけ次の音を待つ。
すると、客席へ向かって響きが伸びた。
良い。
そのまま演奏を続ける。
曲の終盤では、それまで重ねてきた音が大きなまとまりになった。
私は最後まで流れを失わないように、必要な音だけを選んで弾いた。
そして、静かな終結へ向かう。
最後の音を鳴らし、手を離す。
響きが消えるまで待つ。
客席は静かだった。
その静けさを確認してから、私は立ち上がった。
拍手が起きる。
一礼し、舞台を後にする。
戻ってきたところで、さっき話していた学生が笑顔で迎えてくれた。
「すごく良かった!」
「ありがとう」
「中盤から後半へ移るところ、前に聞いた時と違ったよね」
「ええ。少し変えたの」
「あそこ、すごく自然だった。音が広がる感じがして」
「私も、今日のピアノならああした方がいいと思ったわ」
「本番で変えたの?」
「ほんの少しだけね」
彼女は驚いたように笑った。
「やっぱりすごいなあ」
「ありがとう。でも、あなたの演奏も楽しみにしているわ」
「えっ、私?」
「ええ。この前の練習、いい音だったもの」
「……ありがとう。頑張る」
彼女は少し照れたように笑った。
私はその姿を見送り、控えの場所へ戻った。
今日の演奏は、十分に納得できるものだった。
もちろん、改善したいところがないわけではない。
本番で初めて気づくこともあるし、演奏が終わってから考えると、別の選択もできたと思うことはある。
でも、それで演奏全体を否定する必要はない。
今日の私は、今日の条件の中で、自分の音楽を作ることができた。
それで良かった。
〓〓〓
演奏会が終わった後、黒川先生から連絡が届いた。
今日の演奏について、短い感想が書かれていた。
全体の流れが自然だったこと。
中盤の処理が、先日の練習より良くなっていたこと。
そして、最後に一つ。
『君の音楽になっていた』
私はその言葉を、少し長く見つめた。
先生は、簡単にはそういう評価をしない。
技術的に正確だったとか、音色が綺麗だったとか、そういうことなら以前から言われていた。
でも、自分の音楽になっていると認められるのは、また別の話だった。
「……嬉しいわね」
思わず笑みがこぼれる。
私は先生へお礼の返事を送り、スマートフォンを置いた。
子供の頃、私には目標にしていたピアニストがたくさんいた。
黒川先生も、その一人だった。
世界で演奏する人たちの録音を聞き、実際の演奏会へ足を運び、どうすればあんな音を出せるのか考えた。
真似をしてみたこともある。
同じ作品を弾き、同じように音を置こうとして、どうしても再現できない部分に気づいたこともあった。
それでも、少しずつ自分の演奏を作ってきた。
今では、私自身の演奏を聞きに来てくれる人がいる。
次の公演を楽しみにしてくれる人もいる。
私の解釈を評価してくれる音楽家もいる。
それは、鳴海くんがいてもいなくても変わらない。
私が積み重ねてきた時間の中で、手に入れてきたものだった。
ふと、大学で再会した時のことを思い出した。
鳴海くんは、私の演奏を聞いて「上手くなったね」と言った。
あの言葉は嬉しかった。
子供の頃から、彼は私がどれだけ変わったかを正確に聞き取っていた。
何年も会っていなかったのに、今の演奏を聞いただけで昔との違いを話し始めたことには、さすがに驚いた。
でも、考えてみれば、あれも昔から同じだった。
私が何かを新しくできるようになると、彼は普通に気づく。
そして、普通に褒める。
勝敗のことはほとんど気にせず、私の音楽そのものを聞いている。
あの人にとっては、きっとそれが当たり前なのだろう。
「……本当に、変わらないわね」
私は少し笑った。
昔は、その態度が悔しかった。
勝ちたいと思っているのは私だけで、彼はまるで競争していない。
それが、どうしようもなく悔しかった。
今でも、その気持ちは残っている。
でも、それだけではなくなっていた。
私は、今の自分の演奏を好きだと思える。
もっと良くしたいところも、まだたくさんある。
新しく弾いてみたい作品もあるし、これから演奏する予定の曲にも、今まで気づかなかったことがきっと残っている。
そういうものを一つずつ見つけていく時間が、私は好きだった。
だから、たとえ鳴海くんが再び目の前に現れたとしても、私の音楽が彼との競争だけになることはない。
もちろん、もう一度同じ舞台に立てるなら、全力で弾くつもりだ。
今度こそ勝ちたいという気持ちもある。
でも、勝つためだけに弾くのではない。
自分の音楽を、今の私が出せる最高の形で聞かせたい。
その上で、彼がどんな演奏をするのか知りたい。
「……いつか、ちゃんと聞かせてもらわないと」
私はそう呟き、次の演奏会で使う楽譜を開いた。
目の前には、まだ弾きたい曲がたくさんある。
これからも、きっと増えていく。
私はピアノが好きだ。
子供の頃からずっと好きで、今でも弾けば弾くほど面白い。
そして、自分がもっと上手くなれることも知っている。
鳴海くんがどこで何をしていても、それは変わらない。
私はこれからも、自分の音楽を弾き続ける。
その先で、また彼と同じ舞台に立つことがあるのなら。
その時は、今の私のピアノを聞かせてあげよう。
昔の私には出せなかった音を、今ならいくらでも出せるのだから。




