第51話 九条綾音、再び
大学の授業が終わり、借りていた楽譜を返しに行く途中で、少し気になるピアノが聞こえてきた。
藝大では、どこかしらから楽器の音が聞こえてくる。ピアノだけでも、弾いている人によって音は随分違うし、同じ曲でも演奏する人が変われば別の音楽になる。
だから、上手い演奏が聞こえてきたからといって、毎回立ち止まるわけではない。
でも、今聞こえている音には覚えがあった。
「……あれ?」
廊下を歩く足を少し緩める。
近くの練習室で誰かがピアノを弾いているらしい。扉が少し開いているため、音が廊下まで届いていた。
聞こえてくる旋律そのものは、特に珍しいものではない。
ただ、音の置き方に特徴があった。
右手の旋律を進めながら、左手の音を少しだけ後ろへ置く。次の和音へ移る時には、その遅れを自然に取り戻している。
強弱の変化も細かい。
単に大きくしたり小さくしたりするのではなく、それぞれの声部がどこへ向かっているのかを考えて弾いているようだった。
「上手くなったな」
思わず呟く。
昔、よく似た音を聞いたことがある。
もっと小さな手で、今より少し硬い音を出していた頃の演奏だ。
あの時も十分に上手かったけれど、今は音と音のつながりが随分自然になっている。特に、旋律を支える音の扱いが違った。
昔は一つ一つの音を丁寧に選んでいた。
今は、もっと長いまとまりで音楽を動かしている。
弾いている曲も、使っているピアノも、昔とは違う。
それでも、どこで音を待ち、どこで次へ進むのかという判断には、覚えのある特徴が残っていた。
「九条か」
そういえば、今どこでピアノを弾いているんだろう。
昔のコンクールでは何度も会ったけれど、その後は直接会っていない。
ピアノの上手い子だったし、今でも続けているとは思っていた。
ただ、同じ大学にいるとは知らなかった。
しばらく演奏を聞いていると、曲が一区切りついた。
練習室の中から、誰かが話す声が聞こえる。
続いて、椅子を動かす音がした。
俺はそのまま通り過ぎようとしたけれど、ちょうど扉が開き、中から一人の女性が出てきた。
肩より長い黒髪を後ろでまとめ、片手に楽譜を持っている。
姿勢のいい、細身の女性だった。
顔立ちは子供の頃から変わっているけれど、身体の動きや声に重なる音は、昔の記憶と自然につながった。
やっぱり九条だったらしい。
「久しぶり、九条」
そう声をかけると、彼女の動きが止まった。
こちらを見る。
その瞬間、表情が大きく変わった。
「……鳴海くん?」
「うん」
九条はしばらく俺を見つめていた。
「……鳴海くん、よね?」
「そうだけど」
「どうしてここにいるの?」
「大学だから?」
「それは見れば分かるわ!」
思ったより強い声で返された。
どうやら、かなり驚いているらしい。
「あなた、藝大にいたの?」
「うん。作曲科」
「作曲科……?」
九条はもう一度、俺の顔を見る。
何かを確認するように視線が動いた後、長く息を吐いた。
「……そう。そういうことだったのね」
「何が?」
「いえ、何でもないわ」
そう言いながらも、全然何でもなさそうではなかった。
声にはまだ驚きが残っている。
それに、少し怒っているようにも聞こえた。
「本当に、久しぶりね」
「そうだね」
「最後に直接会ったの、何年前かしら」
「小学生の頃かな」
「そうね」
九条はそこで少し黙った。
それから、俺の顔を見たまま言った。
「……まさか、こんなところで会うなんて思わなかった」
「俺も九条がいるとは知らなかったよ」
「私は器楽科のピアノ専攻よ」
「ああ、やっぱり」
「やっぱり?」
「さっきのピアノ、九条だったでしょ」
九条の目が少し大きくなった。
「聞いていたの?」
「うん。廊下まで聞こえてたから」
「そう……」
彼女は少しだけ楽譜を持ち直した。
「どうだった?」
「上手くなったね」
そう答えると、九条の表情がまた変わった。
嬉しそうな音と、何か言いたそうな音が同時に聞こえてくる。
「……ありがとう」
「昔より、低い音の扱いが良くなってる。旋律とのつなぎ方も自然だったし、音を待つところも少し変わったね」
「……そこまで分かるの?」
「聞こえてたから」
九条はしばらく黙っていた。
それから、少し困ったように笑った。
「相変わらずね、鳴海くん」
「そう?」
「ええ。本当に、相変わらず」
どうやら、昔と同じようなことを言っているらしい。
俺としては、普通に聞こえたことを話しただけだった。
〓〓〓
そのまま廊下で話すのも邪魔になりそうだったので、俺たちは人の少ない場所へ移動した。
九条は練習を終えたところらしく、少しなら時間があると言っていた。
「それにしても、本当に驚いたわ」
歩きながら、九条が言う。
「そんなに?」
「そんなに、よ。あなたがここにいるなんて知らなかったもの」
「別に隠してたわけじゃないけど」
「でも、公表していなかったでしょう?」
「そうだね。大学のことは特に言ってないかな」
高校時代も、学校名や通学先をわざわざ公開していたわけではない。
藝大へ入ったことについても、聞かれれば普通に答えるけれど、自分から動画で発表した覚えはなかった。
「そうでしょうね。私も、あなたが藝大にいるなんて一度も聞いていなかったわ」
「九条はいつからいるの?」
「あなたより一学年上よ」
「じゃあ、先輩だ」
「……そういうことになるわね」
九条は少し複雑そうな顔をした。
「それにしても、作曲科なのね」
「うん」
「ピアノ専攻じゃなくて?」
「そうだよ」
「……そう」
九条は何か考えているようだったけれど、すぐに別の話を始めた。
「でも、音楽を続けていることは知っていたわ」
「そうなんだ」
「当然でしょう。《青瀬》も聴いたし、《終幕まで聴いて》も聴いているもの」
「ああ、そうなんだ」
「ほかの動画も見ているわよ。個人チャンネルのものも」
「結構見てくれてるんだね」
「……見ているわ」
九条は少しだけ視線を外した。
それから、改めてこちらを見る。
「最初に《青瀬》を聴いた時は、本当に驚いたのよ」
「そう?」
「ええ。高校生が一人であれだけの編成を録音したという話もそうだけれど、何より曲そのものが……」
そこで九条は一度言葉を止めた。
「……あなたらしかった」
「そうなんだ」
「音をどう重ねて、どこで動かすか。普通なら迷うようなところで、まったく迷っていないように聞こえたわ」
「作る時には、大体どんな音にするか決まってたからね」
「でしょうね」
九条は小さく息を吐いた。
「それに、ピアノの音も覚えがあった。昔の演奏とはずいぶん違っていたけれど、あれを聴けば分かるわ」
「へえ」
「動画では顔も出していたでしょう。名前まで同じなんだから、別人だなんて思わなかったわよ」
「まあ、そうだよね」
「当然よ」
九条は少し強い調子で頷いた。
「だから、音楽をやめていないことは知っていたの。ただ、どこで何をしているのかまでは分からなかった」
「東京に来たのは大学からだよ」
「そうなのね」
「九条も東京なんだね」
「私はピアノを続けるつもりだったから。ここへ進むことは、以前から考えていたわ」
「そっか」
昔からピアノが好きそうだったし、今も弾いているのは自然だと思う。
さっき聞こえてきた演奏も、かなり良かった。
昔とは違うところも多かったけれど、九条がどんな音を目指しているのかは、相変わらず分かりやすかった。
「ところで、鳴海くん」
「何?」
「あなた、どうしてコンクールをやめたの?」
ああ、その話か。
「小学生の最後の大会で終わりにしたんだよ」
「それは知っているわ。聞きたいのは理由よ」
「父さんが、もう習わなくていいって言ったから」
「……それだけ?」
「うん。必要なことは覚えたから、終わりでいいって」
九条の表情が固まった。
しばらくして、ゆっくり口を開く。
「……待って。あなた、ピアノが嫌になったわけではないの?」
「別に。今でも弾いてるよ」
「それは動画を見れば分かるわ。でも、コンクールには一度も戻ってこなかったでしょう」
「もう習ってなかったからね」
「レッスンとコンクールは別でしょう?」
「そうだけど、出る理由もなかったし」
九条は黙ってしまった。
呼吸が少し変わる。
驚きもあるけれど、それだけではないらしい。
『そんな理由で?』
彼女の表情と身体の反応から、そんな意味の音が聞こえた。
実際、何か納得できないことがあるらしい。
「……私は、待っていたのよ」
九条が言った。
「何を?」
「あなたが中学生部門に上がってくるのを」
「ああ」
そういえば、九条は俺より一学年上だった。
最後に同じ部門で弾いた後、九条は先に中学生になっている。
「私は、次に同じ部門になった時には、もっと上手くなっているつもりだった。実際、そのために練習もしていたの」
「うん」
「でも、あなたは来なかった」
「コンクールやめてたからね」
「それは分かってる!」
また少し声が大きくなった。
ただ、怒鳴るというほどではない。
九条は一度息を整え、それから落ち着いた声で続けた。
「……あなたにとっては、それで終わりだったのね」
「うん?」
「コンクールのことよ」
「まあ、そうだね」
俺は少し考えた。
「でも、ピアノは普通に弾いてたよ」
「そこじゃないのよ……」
九条は額に手を当てた。
どうやら、少し話が噛み合っていないらしい。
俺がコンクールをやめたことが、九条にはそんなに大きな出来事だったのだろうか。
昔、何度も同じ大会に出ていたことは覚えている。
九条は毎年上手くなっていて、聞くたびに音が変わっていた。
俺にとっても、面白い演奏をする子だった。
ただ、ずっと競争を続けようと考えたことはなかった。
「九条は、コンクールをずっと続けてたんだね」
「ええ」
「今も出てるの?」
「出ているわ。国内だけじゃなくて、海外の大会にも」
「へえ、すごいね」
「……本当にそう思ってる?」
「うん。さっきのピアノも上手かったし」
九条は俺の顔をじっと見た。
それから、少しだけ息を吐く。
「……そうね。あなたは昔からそうだった」
「何が?」
「褒める時も、負けた相手を慰める時みたいな言い方をしないところ」
「だって、上手かったから」
「ええ。分かっているわ」
九条はそこで、ようやく少し笑った。
昔も、こんなやり取りをした気がする。
俺が九条の演奏を褒めると、本人は少し嬉しそうにする。
でも、その後でなぜか悔しそうにもなる。
今も、似たような音が聞こえていた。
〓〓〓
「それで、どうして作曲科へ進んだの?」
少し話が落ち着いたところで、九条が聞いてきた。
「作曲のことをちゃんと知りたかったからかな」
「あなた、すでにあれだけ作曲しているでしょう?」
「そうだけど、名前を知らないものも結構あったから」
「名前?」
「音の使い方とか、書き方とか。自分では分かってても、正式な名称を知らないことがあったんだよ」
「……なるほど」
九条は少し考えてから頷いた。
「それなら、作曲科を選んだ理由は分かるわ」
「あと、いろんなことができそうだったし」
「いろんなこと?」
「ピアノだけじゃなくて、ほかの楽器とか、音の組み合わせとか。作曲科ならそっちを中心にできるから」
「そうね」
「九条はピアノ専攻なんだよね」
「ええ」
「じゃあ、ずっとピアノ弾いてるの?」
「もちろんピアノが中心だけれど、それだけじゃないわよ。講義もあるし、室内楽や伴奏の機会もあるもの」
「ああ、そうだよね」
「それに、演奏会やコンクールの準備もしているから、大学の課題だけで一日が終わるわけでもないわ」
「結構忙しそうだね」
「忙しいわね。でも、好きでやっていることだから」
そう答える九条の声は、さっきまでより落ち着いていた。
ピアノについて話している時の音は、昔とあまり変わらない。
自分が何をしたいのか、はっきりしている。
そういうところは、ずっと同じなのかもしれない。
「ところで、《終幕まで聴いて》はどうだった?」
俺が聞くと、九条が少し驚いた顔をした。
「……突然ね」
「さっき聞いたって言ってたから」
「ああ、そういうこと」
九条は少し考えた。
「素晴らしい曲だと思ったわ」
「ありがとう」
「特に、声の扱いが異常ね。最初は何人かの歌手が参加していると思ったもの」
「全部俺だよ」
「知っているわ。取材でも話していたでしょう?」
「そうだったね」
「でも、知っていても不思議なのよ。一人の人間の声なのに、それぞれが別の役割を持っていて、しかも全体では一つの歌になっている」
九条の言葉には、普通に音楽を聞いて楽しんだ人とは少し違うところがあった。
声部の関係や和声の動きについて、かなり細かく聞いているらしい。
「歌の旋律が解決しそうになるたびに、別の声が入るでしょう。あれ、普通なら何度も繰り返せば単調になると思うのだけれど」
「うん」
「全然ならないのよね。何度聞いても、次の音を待ってしまう」
「そうなるようにしたからね」
「……本当に、簡単に言うわね」
九条は少し呆れたように笑った。
「でも、演奏の組み立ても見事だった。歌を引き立てるための伴奏なのに、歌がなくても十分に音楽として成立するくらい丁寧に作られている」
「そこも結構考えたよ」
「でしょうね」
「アリアの歌を中心にしたかったから」
「ええ。実際、あれ以上ふさわしい音楽はなかったと思う」
そう言ってから、九条は少し首を傾げた。
「でも、あなたがああいう曲を書くようになっているとは思わなかったわ」
「どういう意味?」
「昔はピアノの演奏しか知らなかったから。あなたが作る曲をきちんと聞いたのは、もっと後のことだったもの」
「ああ、そうか」
「《青瀬》を聞いた時も驚いたけれど、《終幕まで聴いて》はまた全然違う方向だったでしょう?」
「依頼の内容が違ったからね」
「そうね。あなたなら、そう言うと思った」
九条は苦笑した。
その表情を見て、少し不思議に思った。
「九条は、今は作曲しないの?」
「簡単なものならするけれど、私は演奏が中心よ」
「そっか」
「あなたとは、進んでいる方向が少し違うのね」
「そうかもね」
九条はその言葉を聞いて、少し黙った。
ただ、すぐに表情を戻した。
「……でも、鳴海くん」
「うん?」
「あなたがピアノを弾けなくなったわけではないでしょう?」
「もちろん」
「今でも弾いているのよね」
「うん。家にもあるし」
「そう」
彼女は楽譜を抱え直した。
「なら、いつかまた、ちゃんとあなたの演奏を聴いてみたいわ」
「別にいいよ」
「……本当?」
「うん。機会があれば」
九条の目元が少し動いた。
「そう。覚えておくわ」
「うん」
何か約束したつもりはなかったけれど、九条はかなり真剣な顔をしていた。
まあ、演奏を聞きたいということなら、別に断る理由もない。
ピアノは今でも普通に弾いているし、九条が聞きたいなら、その時に弾けばいいだけだ。
ただ、わざわざ演奏会へ出る予定は今のところなかった。
〓〓〓
話しているうちに、九条のスマートフォンが鳴った。
画面を確認した彼女が、小さく息を吐く。
「ごめんなさい。この後、少し予定があるの」
「そうなんだ」
「ええ。そろそろ行かないと」
「じゃあ、またね」
そう言って別れようとすると、九条に呼び止められた。
「待って、鳴海くん」
「何?」
「あなた、これからも藝大にいるのよね?」
「大学だから、普通にいると思うけど」
「……そうよね」
九条は少し考えるような顔をした。
「作曲科なら、器楽科とは普段の授業も違うでしょうけれど」
「そうだね」
「でも、同じ大学なんだから、これからは会う機会もあるわよね」
「あるんじゃないかな」
「……そう」
今度は、少し嬉しそうだった。
ただ、それだけではない。
表情には、昔のコンクールで何度か見たものと似た変化もあった。
何かを期待している音。
そして、それに向かって自分を動かそうとしている音。
「鳴海くん」
九条は改めて俺を見た。
「私は、あの頃とは違うわ」
「うん。さっきの演奏で分かったよ」
「……そういう意味だけじゃないのだけれど」
「そうなの?」
「いいわ。今は」
九条は小さく笑った。
「あなたが音楽を続けていることは知っていた。でも、もう一度直接会えるとは思っていなかったの」
「俺も九条がここにいるとは知らなかったしね」
「ええ。だから……今日は、会えて良かったわ」
「そうだね」
そう答えると、九条は少しだけ目を細めた。
「またね、鳴海くん」
「うん。またね、九条」
彼女は一度頷き、廊下を歩いていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺は少し考える。
九条は昔から、ピアノに対して真剣だった。
小学生の頃も、毎年演奏が上手くなっていた。
今日聞いた音は、あの頃とは比べものにならないくらい良くなっている。
特に、音楽全体を動かす力が強くなっていた。
ただ正確に弾くのではなく、どの音を聞かせたいのか、そのために周囲の音をどう扱うのかがはっきりしている。
それは、長い間ずっとピアノを弾き続けてきたからこその変化なのだろう。
「やっぱり上手いな」
そう呟いてから、俺も歩き始めた。
借りていた楽譜を返しに行く途中だったことを思い出したからだ。
九条と話しているうちに、思ったより時間が経っていたらしい。
まあ、急ぎの用事ではないので問題ない。
廊下を進んでいると、別の練習室からピアノの音が聞こえてきた。
今度は、さっきの九条とは違う演奏だった。
少し速く進みすぎているところがあるけれど、旋律の扱いは悪くない。
大学には本当にいろいろな演奏をする人がいる。
その中に、昔から知っている九条もいた。
同じ大学で、これからもピアノを弾いているらしい。
なら、またどこかで聞く機会があるかもしれない。
そう思いながら、俺は楽譜を返しに向かった。
〓〓〓
その日の夜、自宅の音楽室で大学の課題を終えた後、少しだけピアノを弾いた。
九条の演奏を聞いたから、というわけではない。
課題が終わって時間が空いたので、何となく弾きたくなっただけだ。
鍵盤を押すと、慣れた音が返ってくる。
学校の練習室にあったピアノとは、響きが少し違う。
もちろん、同じ音を出すことはできるけれど、楽器ごとに反応は違うし、部屋の響きも違う。
そういう差を聞くのも面白い。
俺は適当に旋律を弾きながら、今日聞いた九条の演奏を思い出した。
昔の音も、今の音も、どちらも覚えている。
小学生だった頃の九条は、すでにかなり上手かった。
でも、今日の九条の方がずっと上手い。
当たり前かもしれない。
あれから何年も経っているし、本人もずっとピアノを続けていたのだから。
ただ、どれだけ時間が経っても、音の選び方には本人らしいところが残っていた。
「面白いな」
同じ人間の演奏でも、時間が経てば変わっていく。
しかも、全部が別のものになるわけではない。
昔から持っていた特徴が、少しずつ違う形になって残っている。
九条のピアノには、それがよく表れていた。
俺は鍵盤から手を離し、少し考えてから別の旋律を弾き始めた。
今度は、さっきとは違う音を重ねる。
自然につながったので、そのまま続きを作ってみる。
九条は、また俺の演奏を聞きたいと言っていた。
別に構わない。
昔のコンクールで何度も同じ舞台に立った相手だし、今でもピアノが上手いことは分かった。
また会うことがあれば、音楽の話をするのも面白そうだった。
ただ、次にいつ会うのかまでは分からない。
同じ大学なのだから、どこかで会うこともあるだろう。
俺はそんなことを考えながら、ピアノの続きを弾いた。
音を一つ変えると、和音の響きが変わった。
その変化が気に入ったので、もう少し試してみる。
気づけば、九条のことはすっかり頭から離れていた。
目の前の音の方が面白くなっていたからだ。




