第47話 独唱の魔女
《終幕まで聴いて》を組み込んだ開発版が届いた時、俺はいつもどおり、アリアの戦闘テストを担当していた。
【灰冠のアルカディア】の大型アップデートに向けた作業は、すでにかなり進んでいる。新しいボスの攻撃や行動パターンも一通り実装され、今は細かな調整と不具合の確認を繰り返している段階だった。
アリアとは、もう何十回も戦っている。
攻撃の種類も分かっているし、どの動作の後に何が来るのかも大体覚えた。難易度は高めに設定されているものの、普通に操作すれば十分に倒せる相手だ。
今回は、そこへ完成した音楽が追加された。
「新しい音源、入った?」
隣の席へ声をかける。
「入ったよ。フェーズの切り替えと、撃破時の音楽も設定してある」
「じゃあ、いつもどおりやってみる」
「頼む。音が変なところで切れないかも確認してくれ」
了解、と返してゲームを起動する。
画面には、見慣れた戦闘エリアが表示された。
広い空間の奥に、アリアが立っている。
白に近い淡い色の衣装をまとった、人間の少女に似た魔女。整った顔立ちをしているが、身体の一部には普通の人間とは異なる形が混ざっている。
見た目は綺麗だ。
ただ、近づいてみれば異形だと分かる。
その印象を強めるために、これまで何度も調整が行われてきた。
俺は操作キャラクターを前へ進め、戦闘開始地点へ入った。
アリアがゆっくりと顔を上げる。
そして、歌声が聞こえた。
「……お」
思わず声が出た。
最初は、一人の人間が静かに歌っているように聞こえた。
高すぎず、低すぎず、男性とも女性とも簡単には決められない声だった。柔らかい響きを持っているのに、どこか人間から少し外れている。
その声が、ゆっくりと旋律を進める。
やがて別の声が重なった。
最初の歌声を追いかけるように入ってきた声は、途中で旋律の向きを変え、先に歌っていた声とは違う場所へ進む。
すると、最初の声がそれに応じる。
二つの声が近づき、重なり、離れる。
その下から、弦楽器の音が広がった。
「すごいな、これ……」
音楽そのものが、驚くほど綺麗だった。
ただ声を重ねているだけではない。それぞれの旋律が独立して動いているのに、全体では一つの歌として聞こえる。
伴奏も、歌声を邪魔しない。
むしろ、次に歌がどう進むのかを、自然に期待させるような響きになっていた。
そこで、アリアが動いた。
「あっ」
画面の端に攻撃の予兆が表示される。
慌てて回避操作を行ったが、少し遅かった。
キャラクターが攻撃を受ける。
「しまった」
操作を立て直し、次の攻撃へ対応する。
今のは単純なミスだ。
新しい音楽が気になって、画面への集中が少し途切れてしまった。
最初に聞く曲なのだから、それくらいはある。
そう思い、今度はしっかり画面を見ることにした。
アリアが次の攻撃動作へ入る。
回避する。
反撃する。
ここまでは問題なかった。
しかし、その間も歌は続いていた。
最初の旋律が戻ってくる。
さっきと同じ音だった。
ただし、下で鳴っている和音が違う。
同じ旋律なのに、今度は別の方向へ進みそうに聞こえる。
次はどうなる?
そう思った瞬間、アリアが攻撃した。
「うわっ!」
回避が遅れた。
続けて発生した攻撃を受け、体勢を崩す。
立て直す前に、もう一発。
画面の中で操作キャラクターが倒れた。
敗北を示す表示が出る。
「……あれ?」
隣の席から声がかかった。
「どうした?」
「死んだ」
「知ってる。見てたから。何で?」
「音楽聞いてた」
「は?」
「いや、ちゃんと操作してたんだけど……途中で曲が気になって」
隣の担当者が画面を見る。
「そんなに?」
「うん。すごくいい曲だよ」
「それは分かるけど、テスト中だぞ」
「分かってるよ」
俺はもう一度、戦闘を開始した。
今度は音楽へ気を取られないようにする。
別に、難しいことではないはずだった。
俺たちは普段から、音楽や効果音が鳴るゲームを操作している。
画面を見ながら音を聞くことくらい、いつもやっている。
だから、今度は大丈夫だと思っていた。
〓〓〓
三回目の敗北で、俺はさすがにおかしいと思い始めた。
「ちょっと待って」
操作を止め、リプレイを確認する。
最初の攻撃は避けている。
次も問題ない。
しかし、途中から回避のタイミングがわずかに遅れていた。
しかも、ミスをしている場所が毎回同じとは限らない。
一度目は戦闘開始直後。
二度目は途中の攻撃。
三度目は、後半へ移る少し前だった。
「操作に問題があるのか?」
隣の担当者が聞く。
「いや、入力はちゃんと反映されてる。俺が押すの遅れてるだけ」
「攻撃の予兆は?」
「見えてる」
「じゃあ何で遅れるんだよ」
「それが……」
説明しようとして、少し考えた。
俺は別に、曲を聞こうとして操作を放棄したわけではない。
画面は見ている。
アリアの動きも確認している。
攻撃が来ることも分かっている。
ただ、その間に音楽が入ってくる。
歌が進む。
次の音が気になる。
ほんの少しだけ、そちらへ意識が向く。
その結果、反応が遅れる。
「音楽に気を取られてるんだと思う」
「だから、聞かなきゃいいだろ」
「それができたら苦労してない」
隣の担当者が笑った。
「お前、そんなに音楽好きだったっけ?」
「普通だよ。ゲームの曲は好きだけど、専門家ってほどじゃない」
実際、普段はゲームの音楽を聞きながら普通に操作できている。
好きな曲が流れても、それが理由で何度も攻撃を受けることはない。
今回だけ、何かが違った。
「ちょっと代わってみてよ」
そう言って席を譲る。
隣の担当者もアリアの戦闘には慣れている。テストのために何度も操作しているので、俺と同じくらい攻撃パターンを覚えているはずだ。
「じゃあ、俺がやる」
彼が操作を始める。
アリアが歌い出した。
「おお、これは確かにいいな」
最初は普通に感想を言っていた。
操作にも問題はない。
攻撃を避け、反撃を入れている。
俺が失敗した場所も、あっさり通過した。
「ほら、普通にできるじゃん」
「まだ最初だから」
「言い訳か?」
「いいから続けて」
彼は笑いながら操作を続けた。
やがて、戦闘が次の段階へ移る。
アリアの動きが大きくなり、攻撃の間隔が短くなった。
それに合わせて、音楽も変わった。
最初の歌声は残ったまま、別の声が増える。
低い弦楽器が細かく動き、打楽器が次の拍を示そうとする。
しかし、鳴ると思った音が一瞬だけ消えた。
「ん?」
彼が小さく声を漏らした。
次の瞬間、打楽器が戻ってくる。
歌声がその上を進み、別の声が答えるように重なった。
「今の、すご……」
そこまで言ったところで、アリアの攻撃が当たった。
「うわ、しまった!」
彼は慌てて操作を立て直す。
しかし、回避した先に別の攻撃が重なった。
画面の中で、操作キャラクターが倒れた。
「……何だこれ」
俺は思わず笑った。
「分かった?」
「いや、今のは……」
彼は画面を見たまま黙った。
しばらくしてから、こちらを振り返る。
「もう一回やる」
「どうぞ」
二度目。
今度は、最初から慎重に操作していた。
それでも、途中でまた歌へ意識が向いたらしい。
今度は別の攻撃に反応が遅れた。
三度目は、さらに気を付けていた。
それでも、後半で一度だけ大きなミスをした。
「おかしいだろ、これ」
彼が真顔になる。
「俺、ちゃんと画面見てるぞ」
「俺もそうだった」
「音楽が気になるんだよ。何か、ずっと続きが気になる」
「そう。それ」
ようやく、同じことを感じている人が現れた。
俺たちはしばらく画面を見ていた。
敗北した操作キャラクターの向こうで、アリアは静かに立っている。
戦闘が終わったため、音楽も止まっていた。
でも、頭の中にはまだ歌の続きが残っている。
最後まで聞きたかった。
そう思ってしまったことに、少し驚いた。
〓〓〓
問題を報告すると、サウンド担当者と戦闘設計の担当者も集まってきた。
最初は、単純に音量の問題だと思われていた。
「歌が大きすぎるんじゃないですか?」
「いや、効果音はちゃんと聞こえてる。攻撃の予兆も隠れてない」
「だったら、音楽に慣れていないだけでは?」
「それも考えたんですけど……」
俺は何度も戦った結果を説明した。
一度聞いた曲だから、次は気にならなくなる。
普通なら、そう考える。
でも、今回は違った。
俺はすでに何度も同じ曲を聞いている。
次にどんな旋律が来るのかも、大体覚えてきた。
それでも、歌が進むたびに続きを聞きたくなる。
「繰り返してるうちに慣れる感じがしないんですよ」
「本当に?」
「ええ。むしろ、次の音を知ってるのに、その音が来るのを待っちゃうんです」
サウンド担当者が考え込んだ。
「ちょっと、音楽だけで聞いてみましょうか」
別のパソコンで《終幕まで聴いて》を再生する。
今度はゲームの画面を見ず、音楽だけを聞くことにした。
改めて聞くと、曲そのものの完成度がおかしいことが分かった。
最初の歌声は、人間の声に間違いない。
それなのに、どんな人間が歌っているのか想像しにくい。
高い音へ進んでも、普通の歌手なら現れるはずの声質の変化が少ない。低い音へ戻った時にも、同じ存在が歌っているという印象が崩れなかった。
そこへ別の声が重なる。
一つの声が続きを歌うと思ったところで、もう一つの声が旋律を引き受ける。
その声が終わろうとすると、最初の声が戻ってくる。
しかも、それぞれの声の響きが少しずつ違う。
何人かの歌手が参加しているようなのに、全体の息遣いや旋律の扱いには、奇妙なほど統一感があった。
「これ、全部鳴海さん一人なんですよね?」
俺が聞くと、サウンド担当者が頷いた。
「そう聞いています。声を変えて何度も録音したそうです」
「本当に?」
「制作時にも確認しています」
「……すごいな」
単純に、歌がうまいという話ではなかった。
一つ一つの声に、必要な役割がある。
目立つ声。
それを追いかける声。
後ろから短く答える声。
聞こえているのか分からないくらい小さく入り、気づくと旋律の一部になっている声。
それらが入れ替わりながら、一つの歌を作っていた。
しかも、その歌を支える演奏が見事だった。
弦楽器が旋律の続きを示しそうになると、歌声が別の方向へ進む。
管楽器が新しい響きを加えたと思えば、低い音がそれを受け止める。
打楽器は、ただ戦闘を盛り上げるために鳴っているわけではない。
次の音を予想させ、その予想をほんの少しだけ外すために使われているところがあった。
それなのに、音楽として不自然ではない。
むしろ、全部が必要な音に聞こえる。
「これ、普通に聞いててもすごくいい曲ですね」
隣の担当者が言った。
「うん。何度でも聞きたくなる」
俺も頷く。
聞き疲れない。
展開が複雑なのに、どこを聞けばいいか分からなくなることもない。
常に中心となる音があり、その周囲で次々と新しい動きが生まれる。
そして、その中心となる音が、絶対に最後まで落ち着かない。
「これ、わざと終わらせてないんですよね」
サウンド担当者が言う。
「そうです。鳴海さんの説明では、アリアを倒すまで完全には終止させない構造だそうです」
「それは聞きましたけど……」
俺は再生されている音楽へ耳を傾ける。
終わらない。
確かに終わらない。
でも、ただ終止を避けているだけではなかった。
普通なら、何度も同じことを繰り返されれば飽きる。
ところが、この曲にはそれがない。
旋律が同じ場所へ戻っても、周囲の音が変わる。
周囲の音に慣れてきた頃には、今度は別の声が前へ出る。
次の音を知っていても、その音が来るまでの流れが気持ちいい。
期待していた音が実際に鳴ると、今度はその次が欲しくなる。
最初から最後まで、ずっとそれが続いている。
「……これ、慣れるとか、そういう問題じゃないんじゃないですか?」
俺が言うと、サウンド担当者がこちらを見た。
「どういう意味ですか?」
「普通、同じ曲を聞いてたら、だんだん気にならなくなるじゃないですか。でも、この曲って、次に何が来るか分かってても聞きたくなるんですよ」
「確かに」
「しかも、飽きない。聞き流そうとしても、次の音が気になる」
サウンド担当者は黙って再生を続けた。
何度か同じ区間を聞いた後、ようやく口を開く。
「……人が音楽を聞く時の期待を、ものすごく細かく利用しているんでしょうね」
「期待?」
「次はこうなるはずだ、という予想です。音楽を聞いていれば、誰でもある程度は無意識にやっています」
「それなら分かります」
「普通の作曲家も、もちろん考えます。ただ、この曲は、その扱いがあまりにも細かい」
彼は再生を一度止めた。
「ここで終わると思わせて、終わらない。次の声が答えると思わせて、別のことをする。しかも、それが全部自然につながっている」
「はい」
「聞く側が何を期待するかを、最初から知っているみたいですね」
その言葉が、妙にしっくりきた。
ただ理論を使っているだけではない。
人間がどこで次の音を欲しがるのか。
どこで安心し、どこで落ち着かなくなるのか。
どのくらい待たせれば、続きを聞きたくなるのか。
それを一つずつ確かめながら作ったような音楽だった。
でも、実際にどうやって作ったのかは分からない。
俺たちが分かるのは、完成した曲を聞いた時、自分の注意がどう動くかということだけだ。
サウンド担当者は、しばらく考えてから言った。
「これは、鳴海さんの作曲能力が高いというだけでは説明しきれない気もしますね」
「どういうことですか?」
「人間が音にどう反応するかについて、普通とは違う精度で分かっているんじゃないかと」
俺はもう一度、音楽を再生した。
知っている旋律が始まる。
次の音も知っている。
それでも、続きを聞きたかった。
「……そうかもしれませんね」
少なくとも、俺にはこんな曲を作る方法が想像できなかった。
〓〓〓
その後、テストの条件を変えて確認することになった。
まず、戦闘の難易度そのものに問題がないかを調べる。
攻撃の予兆が見えにくくなっていないか。
入力が遅れていないか。
音楽の切り替えによって、ゲームの処理に負荷がかかっていないか。
一つずつ確認したが、特に問題は見つからなかった。
そこで、比較用に音楽の状態を変えたテスト環境を用意した。
同じ攻撃。
同じ操作キャラクター。
同じ戦闘条件。
違うのは、流れている音楽だけだ。
最初に、問題となっている歌の部分を外した状態で戦ってみる。
結果は、いつもどおりだった。
アリアの攻撃を確認し、必要なタイミングで回避する。
途中で何度か攻撃を受けたが、十分に立て直せる範囲だった。
そのまま最後まで戦い、アリアを倒す。
「普通に勝てるな」
隣の担当者が言う。
「うん。攻撃自体は変わってないし」
次に、完成した《終幕まで聴いて》を戻す。
戦闘開始。
アリアが歌い始める。
俺は最初から、音楽へ注意を向けないようにした。
画面を見る。
攻撃の予兆を確認する。
回避する。
反撃する。
今度はかなり順調だった。
歌声が聞こえていても、なるべく考えない。
音楽の続きを予想しない。
とにかく、目の前の攻撃へ対応する。
しかし、途中で旋律が変わった。
知っている変化だった。
何度も聞いた部分だ。
それなのに、その瞬間だけ、次の声が入ってくるのを待ってしまった。
ほんの一瞬だった。
だが、その一瞬で回避が遅れた。
「くそっ!」
体勢を立て直す。
まだ戦える。
そう思ったところで、別の声が前へ出てきた。
さっきの旋律への答えになるはずの音だ。
でも、完全には答えない。
もう一つ音が欲しくなる。
その間に、アリアが次の攻撃動作へ入った。
見えていた。
操作しなければならないことも分かっていた。
それでも、反応が遅れた。
画面の中で、またキャラクターが倒れた。
「……駄目だ」
俺は椅子の背もたれに身体を預けた。
隣の担当者も黙っている。
「今、ちゃんと意識してただろ?」
「してた」
「それでも?」
「うん。曲を聞かないようにしてたのに、次の音が気になった」
「どういうことだよ……」
「俺が聞きたいと思っちゃうんだよ」
そう言うしかなかった。
音楽が勝手に手を止めているわけではない。
ゲームが操作を受け付けなくなっているわけでもない。
俺自身が、続きを聞きたいと思っている。
そのせいで、ゲームの操作だけに集中できなくなる。
「これ、同時に二つのことを要求されてるんじゃないか?」
隣の担当者が言った。
「二つ?」
「ゲームを操作しながら、音楽の続きを聞くことだよ」
「でも、普通はゲームしながら音楽聞けるだろ」
「聞ける。でも、この曲は聞き流せない」
確かに、そのとおりだった。
普通のゲーム音楽なら、操作に集中している間は自然に背景へ回る。
いい曲だと思っていても、必要な時には意識の外へ置ける。
でも、《終幕まで聴いて》は違う。
音楽が、常に意識の中心へ戻ってこようとする。
しかも、無理やり大きな音を鳴らしているわけではない。
聞いている人間が、自分から続きを欲しがるように作られている。
結果として、ゲームを操作する仕事と、音楽を聞き続ける仕事が同時に発生する。
それも、どちらかを適当に済ませればいいというものではない。
アリアの攻撃は、わずかな反応の遅れでも命取りになる。
音楽の方は、聞くことをやめようとしても、次の音への期待が消えない。
「……これ、普通の人間にはかなり厳しくないか?」
俺が呟くと、隣の担当者も頷いた。
「完全に別々のことを同時に考えられる奴なら、問題ないのかもしれないけどな」
「そんな人、そうそういないだろ」
「だろうな」
音楽に対する反応そのものが、普通とは大きく違う人間なら、そもそも続きを聞きたいと思わない可能性もある。
他人の感情や音楽への期待にほとんど引かれない、極端に特殊な精神性の持ち主。
あるいは、二つの複雑なことを、それぞれ完全に処理できるほどの思考能力を持つ人間。
そういう人なら、普通に戦えるのかもしれない。
でも、少なくとも俺たちは違った。
そして、ほとんどのプレイヤーも、おそらく俺たちと同じだろう。
「何というか……」
俺は画面の中のアリアを見る。
「本当に歌で意識を奪われてるみたいだな」
隣の担当者が、ゆっくり頷いた。
「設定通りになってる」
二人で顔を見合わせた。
それから、思わず笑ってしまった。
〓〓〓
制作チームでの確認会議では、当然ながら問題になった。
「曲の完成度が高いのは分かります。しかし、プレイヤーの操作に影響するほど注意を引くとなると、少し調整が必要ではないでしょうか」
その意見はもっともだった。
ゲーム音楽は、ゲームを遊ぶために存在している。
音楽が良すぎるせいで操作できなくなるというのは、普通なら困った問題だ。
俺も、テスターとしてはそう思う。
何度も同じボスに負けること自体は珍しくない。
しかし、今回は攻撃パターンを覚えているのに、音楽のせいで反応が遅れていた。
しかも、繰り返して聞けば慣れるというわけでもない。
「歌の音量を少し下げるのはどうでしょう」
「声の重なりを減らすとか」
「一部の旋律を簡単にする方法もありますね」
いくつか案が出た。
サウンド担当者も、調整すること自体は可能だと説明した。
そこで、比較用の音源が用意された。
最初は歌声を少し目立たなくしたもの。
次に、旋律の一部を簡単にしたもの。
さらに、声の重なりを減らして、普通のボス戦曲に近づけたもの。
それぞれを実際の戦闘で試してみる。
操作は確かに楽になった。
音楽へ意識を引かれることが減り、攻撃への対応も安定する。
ただ、何かが違った。
「……アリアじゃなくなってない?」
俺が言うと、近くにいた担当者が顔を上げた。
「どういう意味ですか?」
「曲としては悪くないんですけど、普通のボス戦みたいになってます」
歌声は聞こえる。
演奏も綺麗だ。
でも、最初に感じた、歌から意識を離せなくなるような感覚が薄くなっていた。
それは、ゲームとしては扱いやすい音楽だった。
ただ、アリアという魔女のために作られた音楽としては、何かが足りない。
「確かに、これだと独唱の魔女らしさが弱くなりますね」
サウンド担当者が言った。
「もともとの曲は、ただ歌が綺麗なだけじゃありませんから」
彼は完成版を再生した。
再び、あの歌声が聞こえてくる。
一人の声から始まり、少しずつ声が重なる。
何人も歌っているようなのに、中心にある歌は一つ。
伴奏は、その歌を最も綺麗に聞かせるように組み立てられていた。
しかも、歌はどこまでも続きを求めさせる。
一度聞けば、次が気になる。
何度聞いても、次が気になる。
聞き手が次に何を期待するかを、先回りして知っているような曲だった。
「……これを弱くするのは、もったいないですね」
誰かが言った。
俺もそう思った。
この音楽は、最初からアリアのために作られている。
曲だけを聞いても素晴らしい。
でも、アリアが歌っている場面と重なると、さらに意味が変わる。
歌で人間の意識を奪う魔女。
その設定を、ゲームの中で実際に体験しているような感覚になる。
もちろん、プレイヤーが自由に操作できなくなるわけではない。
ちゃんと操作すれば攻撃は避けられる。
実際、音楽による影響を受けにくい条件では、普通に勝てている。
ただ、音楽を聞いていると、どうしても次の音が気になってしまう。
プレイヤー自身が、音楽へ意識を向けたいと思ってしまう。
「ゲームとして、これをどう扱うかですね」
制作担当者が言った。
「操作が不可能になっているわけではありません。ただ、明らかに難易度へ影響しています」
「音量設定など、プレイヤー側で調整できる仕組みはあります」
「それなら、完全に対処できないわけではないですね」
「ただ、普通に遊んでいる人が、ここまで音楽に注意を引かれるとは思わないでしょう」
その言葉には、俺も頷いた。
実際、最初に戦った時は何が起きたのか分からなかった。
曲が綺麗だから少し気になった。
最初は、それだけだと思っていた。
ところが、何度も戦っているうちに、ただ綺麗な曲というだけではないことが分かってきた。
この曲は、人間が音楽を聞く時に自然と持つ期待を、異常なほど正確に利用している。
それが意図的なのか、どこまで計算されているのかは分からない。
でも、完成したものはそうなっていた。
そして、その曲を作ったのは、まだ大学へ通っている一人の音楽家だ。
「鳴海楽って、何なんでしょうね……」
思わず呟く。
サウンド担当者が少し笑った。
「少なくとも、普通の作曲家じゃないですね」
「でしょうね」
俺は画面を見る。
アリアが静かに立っていた。
ゲームの中では、彼女は歌によって人間の意識を奪う魔女だ。
その能力を、音楽としてどう表現するか。
普通なら、設定に合った雰囲気の曲を作るところだろう。
でも、鳴海楽は違った。
歌を聞く人間が、次の音を欲しがるように作ってしまった。
しかも、それを繰り返し聞いても飽きないほど、優れた一つの音楽として完成させている。
人間が音楽に何を求めるのか。
何を聞けば、続きを期待するのか。
どの音が鳴れば安心し、どの音が鳴らなければ落ち着かなくなるのか。
そのすべてを、普通の人間とは違う精度で捉えているようだった。
「……このままの方がいいと思います」
俺は言った。
制作担当者がこちらを見る。
「理由は?」
「アリアに合ってるからです。普通のボス戦曲にしたら、もったいないと思います」
「操作への影響は?」
「あります。でも、ゲーム側の不具合じゃありません。音楽に意識を取られるだけです」
「それが問題だという話なんですが」
「分かってます。でも、アリアってそういう敵ですよね?」
少し沈黙があった。
俺は続ける。
「実際に歌を聞いて、次が気になって、操作が遅れる。これ以上アリアらしいことって、ないと思うんです」
サウンド担当者が頷いた。
「私も、楽曲自体は変更しない方がいいと思います」
ほかの担当者からも意見が出る。
もちろん、全員が最初から賛成したわけではない。
ゲームとしての難易度や、プレイヤーが感じる理不尽さについて、何度か確認が行われた。
それでも、最終的には同じ結論になった。
《終幕まで聴いて》は、完成した状態のまま採用する。
戦闘の音楽も変更しない。
アリアの歌は、そのままゲームの中で流すことになった。
〓〓〓
最後の確認では、音楽の切り替えも含めて、もう一度戦闘を通してみた。
今度はテスト用の設定を使い、途中で倒されない状態にしてある。
通常の戦闘を進め、アリアの攻撃を確認する。
歌が続く。
旋律が終わりそうになり、別の声が続きを引き受ける。
その声が答えを出す前に、また最初の歌が戻ってくる。
ずっと、何かが足りない。
でも、その足りない音が欲しくなる。
戦闘が後半へ進むと、歌声が増えた。
楽器も増え、音楽全体が大きくなる。
それでも、中心にある歌は崩れなかった。
何度も聞いた旋律なのに、やっぱり次が気になる。
「本当にすごい曲だな……」
隣の担当者が呟いた。
俺も頷く。
今は操作に失敗しても倒されない設定なので、音楽を聞く余裕がある。
その状態で聞くと、改めて曲そのものの完成度が分かった。
一つの声が別の声へつながる。
和音が変わる。
拍がわずかに欠け、次の音が欲しくなる。
そして、その音が鳴った瞬間には、もう次の音を待っている。
こんなことを延々と続けているのに、まったく飽きない。
むしろ、終わってほしくないとさえ思う。
それでも、曲には終わりが用意されていた。
アリアの体力を最後まで減らす。
撃破時の演出が始まる。
その瞬間、音楽が変わった。
それまで何度も解決を避けていた旋律が、今度は逃げなかった。
別の声も途中で割り込まない。
重なっていた声が少しずつ一つへ戻り、最後に残った歌声が、ずっと待たせていた音へ進む。
和音が収まった。
曲が終わる。
「……ああ」
思わず声が漏れた。
ようやく終わった。
ずっと気になっていた続きを、最後まで聞けた。
それまで身体のどこかに残っていた落ち着かなさが、すっと消えたような気がした。
「これ、倒した時の達成感もすごいですね」
隣の担当者が言う。
「うん」
普通にボスを倒した時の達成感とは少し違う。
もちろん、敵を倒したこと自体も嬉しい。
でも、それだけではない。
ずっと続いていた歌が、ようやく終わった。
音楽の最後の一音までたどり着けたことが、戦闘の終わりと重なっている。
「こういう仕組みだったのか……」
俺は改めて、曲名を見た。
《終幕まで聴いて》。
最初に見た時は、少し変わった名前だと思った。
でも、今なら分かる。
本当に、最後まで聞かなければ終わらない曲だった。
そして、最後まで聞きたいと思わせるために、これ以上ないくらい丁寧に作られている。
音楽を聞く側の期待を、ここまで正確に扱える人間がいる。
そのこと自体が、少し信じられなかった。
「これが、公開されたらどうなるんでしょうね」
隣の担当者が言った。
「さあ……」
俺は画面の中で倒れているアリアを見る。
少なくとも、最初に戦う人は驚くだろう。
曲を聞いて、綺麗だと思う。
次の音が気になる。
その間に攻撃を受ける。
何度か繰り返しても、簡単には慣れない。
俺たちと同じように。
「……楽しみですね」
そう答えると、隣の担当者が笑った。
「ああ。プレイヤーがどんな反応するか、早く見たいな」
俺も笑った。
それから、テスト結果を記録する。
音楽の切り替えに問題はない。
戦闘中のループも自然。
撃破時の終止も正常に機能している。
そして、楽曲は完成版のまま採用。
必要な項目を入力し、報告を送信した。
これで、俺たちの確認作業は一段落だった。
ただ、作業を終えて席を立った時、ふと気づいた。
頭の中で、まだアリアの歌が鳴っている。
最後まで聞いたはずなのに、もう一度聞きたいと思っていた。
「……やっぱり、すごいな」
誰に言うでもなく呟き、俺はパソコンの画面を閉じた。




