第43話 東京藝術大学
受験当日の朝、俺は予定していた電車で東京へ向かった。
父さんとは出発前に持ち物を確認した。受験票、筆記用具、必要な書類。前の晩にも一度見ていたので、忘れ物はない。
「帰りは?」
「予定どおり。遅くなるなら連絡する」
「分かった。試験が終わっても、結果が出るまでは書類を捨てるなよ」
「捨てないよ」
父さんは頷き、それ以上何も言わなかった。
東京へ行くこと自体は初めてではない。小学生の頃にはコンクールで何度も来ているし、今では動画の関係で都内の施設を使うこともある。
ただ、大学の入試を受けるために来るのは初めてだった。
当然だけど。
会場に着くと、すでに受験生らしい人が何人も集まっていた。
静かな人もいれば、友達らしい相手と話している人もいる。資料を開いて確認を続けている人もいた。
緊張している人は結構多い。
呼吸が少し速くなっていたり、指先に余計な力が入っていたりする。声を出していない人からも、そういう音は普通に聞こえてくる。
俺は受験票に書かれた場所を確認し、案内に従って移動した。
指定された席に座る。
机の上に筆記用具を並べ、試験開始まで待つ。
普段なら、このくらい時間があれば適当に音を組み合わせて遊んでいるところだけど、さすがに試験会場で勝手なことをする理由はない。
廊下を歩く人の足音や、紙をめくる音を聞きながら待っていると、試験官が入ってきた。
説明が始まる。
注意事項。
時間。
解答方法。
確認することはいくつかあった。
聞いて、必要なものを覚える。
それから問題用紙が配られた。
開始の合図を待って開く。
最初に確認したのは、何を答えさせたい問題なのかということだった。
これまでに見てきた過去問と、まったく同じ問題が出るわけではない。
でも、使われている言葉や、答えを要求する形式は似ている。
譜面を読む。
示された音の関係を確認する。
頭の中では、すぐに必要な音が鳴った。
ただ、そのまま書けばいいわけではない。
問題が求めているのは、音そのものなのか、名称なのか、理由なのか。そこを確認してから、指定された形で答えていく。
途中、少し分かりにくい聞き方をしている問題があった。
もう一度読む。
何を聞きたいのかは分かった。
「こっちか」
小さく呟いて、解答欄を埋める。
音楽の内容については、特に困らなかった。
むしろ時間がかかるのは、楽譜や文章として書く作業だった。
頭の中で音が完成していても、鉛筆を動かす手が速くなるわけではない。五線の上へ一つずつ音符を置き、必要な記号を書いていくしかない。
そのため、余計な書き直しをしなくて済むように、最初から配置を考えて書いた。
試験時間が終わる頃には、必要なところは全部埋まっていた。
〓〓〓
試験は一つで終わりではなかった。
日を分けて別の課題も行われた。
音を聞いて書き取るもの。
指定された条件に従って音楽を構成するもの。
その場で与えられた素材を使い、楽譜としてまとめるもの。
普段の作曲と違うのは、使う材料や時間、答えの形式が最初から決められていることだった。
ある課題では、短い旋律が提示された。
それをもとに、指定された条件に従って続きを構成する。
最初の数音を見た段階で、いくつもの続きを思いついた。
どれも曲としては成立する。
ただ、今回は好きなものを自由に作るわけではない。
問題文に書かれている条件を満たす必要がある。
使える音。
必要な構成。
長さ。
そうしたものを確認してから、候補を絞る。
せっかくなので、条件の中で一番面白そうなものを選んだ。
最初の旋律が戻ってきた時に、同じ音なのに少し違って聞こえるようにする。
途中の声部の動きで、聞く側が次に来ると思う音を少しだけずらす。
ただし、無理に複雑にはしない。
試験の課題として要求されている長さの中で、一つの曲として成立すればいい。
そこまで考えたところで、後は書くだけだった。
音符を並べる。
記号を付ける。
途中で一度、全体を頭の中で鳴らして確認した。
問題ない。
残り時間を見て、最後まで書き進める。
こういう課題は、普段なら完成したところで実際に鳴らして遊べる。
今回は楽譜を提出して終わりだった。
少しもったいない気もしたけれど、試験なのだから仕方ない。
すべての試験が終わり、会場の外へ出る。
受験生の何人かが、さっそく問題について話していた。
「あそこ、どうした?」
「最後の時間が足りなかった」
「俺、途中で書き直したんだけど」
そんな声が聞こえてくる。
俺も自分の答案を思い返してみた。
要求されたことは書いた。
音としておかしいところもなかった。
ただ、採点するのは俺ではない。
提出した答案をどう評価するかは、向こうが決めることだった。
スマートフォンを取り出して、父さんへ連絡する。
『終わった。予定どおり帰る』
すぐに返事が来た。
『分かった』
それだけだった。
駅へ向かいながら、次に投稿する動画のことを考える。
さっきの課題で使った旋律は、試験の材料だからそのまま使うつもりはない。
でも、途中で思いついた別の音の動きは面白かった。
帰ったら少し遊んでみよう。
試験が終わったのだから、もう好きに音を出していい。
〓〓〓
合格発表の日、俺は家で大学の案内を確認していた。
公開された結果を開き、自分の受験番号を探す。
あった。
「受かった」
仕事部屋にいた父さんへ声をかける。
「父さん、受かったよ」
「そうか」
父さんは画面から目を離して、俺を見る。
「作曲科か」
「うん」
「なら、次は入学手続きだな」
「そうだね」
「期限を確認しろ」
「もう見てる」
父さんは頷いた。
『予定どおり進められるな』
という安心した音が聞こえる。
父さんにとっては、合格そのものよりも、進学の予定が確定したことの方が大きいらしい。
俺も似たようなものだった。
これで東京に住むことになる。
通学する場所も決まった。
後は必要な手続きを終わらせればいい。
「住むところはどうする」
父さんが聞く。
「買おうと思う」
「大学に通える範囲でか」
「うん。あと音を出せるところ」
「普通のマンションで大きな音は出せないぞ」
「防音室作る」
「なら物件を選ぶ段階で確認が必要だな。管理規約と建物の構造も見ろ」
「分かった」
「金は?」
「あるよ」
父さんはそれ以上聞かなかった。
俺が動画の収益をどの程度得ているかは、税金や経費のことで相談していたから把握している。
大学へ進学するために、父さんから生活費を出してもらう必要はなかった。
入学手続きを確認した後、陽太にも連絡した。
『受かった』
少しして電話がかかってくる。
「お前、報告短くない?」
「受かったよ」
「いや、分かってるけど! 藝大だろ?」
「うん」
「もっとこう、何かあるだろ」
「何が?」
「いや、いいわ。とにかくおめでとう!」
「ありがとう」
陽太はしばらく笑っていた。
「で、試験どうだった?」
「普通だったよ」
「お前の普通は信用できねえんだよな」
「形式は面倒だった」
「それは前から言ってたな」
「でも、分からない問題はなかった」
「やっぱり普通じゃねえじゃん」
陽太の声には、素直な喜びがあった。
ただ、少しだけ別の音も混ざっている。
学校を卒業すれば、今までのように毎日顔を合わせることはなくなる。
そのことを考えているのだと分かった。
「東京行っても動画は見るからな」
陽太が言う。
「今も見てるでしょ」
「そうだけど。今度は学校で直接聞けないじゃん」
「連絡すればいいよ」
「まあな」
「陽太も動画出すでしょ」
「もちろん」
「じゃあ俺も見る」
「それは今までと同じだな」
「そうだね」
陽太が笑う。
しばらく他愛のない話をしてから、電話を切った。
東京へ行ったら、学校で陽太と話すことはなくなる。
でも、別にそれで友達でなくなるわけではない。
今まで毎日会っていたのが、会いたい時に連絡する形になるだけだった。
〓〓〓
高校の卒業式は、普通に行われた。
体育館には椅子が並び、卒業生と先生たち、保護者が集まっている。
式の進行に合わせて立ったり座ったりし、名前を呼ばれれば返事をする。
校歌も歌った。
最後だからといって、音が変わるわけではない。
ただ、いつもより声を出している人が多かった。
泣いている人もいる。
笑っている人もいる。
これから別々の場所へ進むことを寂しく思っている人もいれば、学校生活が終わることに安心している人もいた。
そういう音が体育館の中に混ざっていた。
俺は普通に式を終えた。
教室へ戻ると、担任から最後の話があった。
それが終わると、写真を撮ったり、連絡先を確認したりする時間になる。
陽太が近づいてきた。
「楽、写真撮ろうぜ」
「いいよ」
近くにいた同級生にスマートフォンを渡し、二人で並ぶ。
撮ってもらった写真を見ると、陽太が妙に大きく笑っていた。
「何でそんな顔してるの?」
「卒業式だからだよ」
「卒業式だとそうなるの?」
「お前、最後までそういうこと言うよな」
陽太は呆れたように笑った。
他の同級生とも何枚か写真を撮った。
俺の進学先は学校でも知られていたので、何人かに大学のことを聞かれた。
「東京行くんだよね?」
「うん」
「動画って続けるの?」
「続けるよ」
「大学忙しくない?」
「まだ行ってないから分かんない」
「まあ、そりゃそうか」
そうして話しているうちに、教室に残っている人数が少しずつ減っていった。
最後に自分の机の中を確認する。
何も残っていない。
鞄を持って、陽太と教室を出た。
廊下を歩く。
窓の外には、いつもと同じ校庭が見えた。
この学校にもいろいろな音があった。
授業中の足音。
休み時間の声。
体育館の反響。
音楽室のピアノ。
初めて来た頃と比べれば、知っている音はずいぶん増えた。
別に、それが特別なことだとは思わない。
三年間通っていたのだから、当然だ。
ただ、もう毎日聞くことはないのかと思うと、少しだけ惜しい気もした。
「楽」
陽太が声をかける。
「ん?」
「お前、東京行っても変わんなそうだよな」
「何が?」
「生活とか」
「住むところは変わるよ」
「そういう意味じゃなくて」
陽太は少し考えた。
「まあ、いいや。お前はお前のままでいそうってこと」
「変わる必要ある?」
「ないけどさ」
陽太は笑った。
「大学でも変なことして、周りを驚かせるんだろうな」
「別に驚かせるつもりはないよ」
「知ってる。それが一番厄介なんだよ」
昇降口で靴を履き替え、校門を出る。
いつもの帰り道だった。
途中で陽太と別れる場所まで来る。
「じゃあな、楽」
「うん。またね」
「東京行く前にもう一回くらい遊ぼうぜ」
「いいよ」
「今度は俺から連絡する」
「分かった」
陽太が手を振って歩いていく。
俺も家へ向かった。
高校生活は、それで終わった。
特に何かを失ったわけではない。
行く場所が一つ減って、代わりに新しい場所が増えるだけだった。
〓〓〓
卒業後、俺は東京へ移った。
引っ越す前に、父さんと荷物を整理した。
長年暮らした家だったけれど、持っていくものは思ったほど多くない。
服。
パソコン。
録音機材。
普段使っている楽器。
その他、必要なもの。
大きな機材は運送を頼み、すぐに使うものだけ自分で持つことにした。
動画や音楽のデータはきちんと保存し、別の場所にも控えを残した。
前に父さんから教わった通り、無くなると困るものは一つにまとめない。
「これで全部か」
父さんが部屋を見回す。
「たぶん」
「たぶんじゃ困るだろ」
「必要なのは確認したよ」
「ならいい」
父さんは荷物の一覧を見て、それ以上何も言わなかった。
出発の日、玄関で靴を履く。
「じゃあ行く」
「おう」
父さんが頷く。
「食事は適当に済ませすぎるなよ」
「分かった」
「何かあれば連絡しろ」
「うん」
それで会話は終わった。
父さんの音には、少し寂しさがあった。
ずっと二人で暮らしていたのだから、当然だと思う。
でも、それ以上に、俺が自分で生活できることへの安心が強かった。
父さんは昔から、俺が自分で食べていけることを重視していた。
今はもう、その心配はほとんどない。
「父さんも何かあったら連絡してね」
「ああ」
父さんが少しだけ笑った。
俺も手を上げて、家を出た。
東京に着いてからは、しばらく短期で借りた部屋を生活の拠点にした。
マンションを買うつもりだったけれど、適当に決めるわけにはいかない。
特に防音室が必要なので、普通に住むための条件だけでは足りなかった。
不動産会社には最初から、大学へ通えることと、室内に本格的な防音設備を設けたいことを伝えてある。
紹介された物件をいくつか見に行った。
最初のところは、部屋自体は悪くなかった。
広さも足りる。
駅からも遠くない。
でも、楽器を置きたい部屋の形が少し使いにくかった。
壁の位置と窓の大きさ、それから音響施工をした時に残る空間を考えると、思ったより狭くなる。
「ここは違うかな」
担当者へ伝える。
「広さでしょうか」
「音楽室にすると、ちょっと狭いです」
「なるほど。では、もう少し間取りに余裕のある物件もご案内します」
次の物件は、部屋の広さに余裕があった。
ただ、管理規約を確認すると、希望する規模の防音工事には制限があった。
これもやめた。
部屋を買った後に、やりたいことができないと分かるのは面倒だ。
他にもいくつか見た。
駅からの距離。
大学までの移動。
周囲の建物。
部屋の配置。
機材を運び込めるか。
防音工事を行えるか。
確認することは多かったけれど、音楽をやるために必要なものばかりなので、そこまで嫌ではなかった。
やがて、条件に合うマンションが見つかった。
東京近郊にある、一般的な分譲マンションだった。
特別に豪華な物件ではない。
ただ、十分な広さがあり、通学にも困らない。
管理規約と建物の構造を確認した上で、希望する防音・音響施工が可能だという見通しも立った。
部屋の一つを丸ごと音楽室にできる。
「ここでいいかな」
担当者が確認する。
「ご購入ということでよろしいでしょうか」
「はい」
そこから先は書類が多かった。
重要事項の説明。
契約。
支払い。
所有権に関する手続き。
分からないものは説明してもらい、必要なら父さんにも確認した。
金額そのものは問題なかった。
動画の収益はすでに十分あるし、《青瀬》が公開されてからは、それまで以上に収入が増えている。
もちろん税金や必要経費を差し引き、使える金額を確認した上での話だった。
父さんも金額より、契約内容の方を気にしていた。
電話で確認した時も、
「管理規約は」
「見た」
「工事の許可は」
「確認した」
「支払い後の手続きは」
「説明してもらった」
と、そんなことばかり聞かれた。
「ならいい。自分で払えるなら好きにしろ」
「うん」
それで購入が決まった。
〓〓〓
新しいマンションで最初に行った大きな作業は、音楽室の工事だった。
専門の業者と相談し、部屋の一つへ本格的な防音・音響施工を行う。
壁や床、天井を必要な構造に変え、外へ伝わる音を抑える。
ただ音を漏らさないだけではなく、室内で鳴らした音がどう聞こえるかも重要だった。
普通の部屋は、音楽を作るためだけに形が決められているわけではない。
壁で跳ね返る音。
低い音の残り方。
特定の場所で強く聞こえる音。
楽器の置き方によっても変わる。
それらを確認しながら、部屋の使い方を決めていった。
もちろん、俺が壁を作るわけではない。
必要な音響条件を伝え、実際の施工は専門の人に任せる。
最初の打ち合わせでは、担当者からいろいろ聞かれた。
「主に使用される楽器は何でしょうか」
「ピアノとギターとベースと、あといろいろです」
「いろいろ、というのは」
「管楽器も使います。歌も録るし、打楽器も」
担当者が少し考える。
「かなり幅広いですね」
「そうですね」
「すべてを同じ環境で最適に録音するのは難しいので、用途に応じて調整できる構成にしましょう」
「それがいいです」
固定された一種類の音しか扱えない部屋では、すぐに飽きそうだった。
吸音材や反射面の配置を変えられるようにし、録音するものに合わせて響きを調整できる形にする。
広さにも限界があるので、何でも持ち込めるわけではない。
大きな打楽器やオーケストラ規模の録音は、今後も外部の施設を借りる必要があるだろう。
それでも、普段の音遊びに使う部屋としては十分だった。
工事にはそれなりに時間がかかった。
その間に、東京での生活に必要なことも少しずつ終わらせた。
住所の変更。
生活用品の購入。
大学の入学手続き。
授業に関する案内の確認。
机や椅子、パソコンを置く場所を決める。
一人暮らしになったので、食事や洗濯も自分で行う。
父さんがいた時より、自分で処理することは増えた。
ただ、普通に生活していれば必要になることばかりだった。
面倒なものはある。
でも、やらなければもっと面倒になる。
だから必要な分だけ済ませる。
空いた時間には動画も作った。
音楽室が使えない間は、小さな音でできるものを作ったり、必要に応じて外部のスタジオを借りたりした。
東京には録音施設も楽器店も多い。
青瀬では少し遠くまで行かなければならなかったものが、比較的近いところにある。
その点は便利だった。
ようやく音楽室の工事が終わった日、俺は完成した部屋へ入った。
まだ家具や楽器をすべて置いたわけではない。
それでも、普通の部屋とは音が違った。
足を踏み入れる。
床の硬さと、空間の響きが変わる。
手を叩く。
乾いた音が鳴り、短く消える。
もう一度、少し位置を変えて叩いてみる。
今度は違う。
壁から戻ってくる音が変わった。
「いいね」
思わず笑った。
担当者が少し安心したような顔になる。
「実際に楽器を入れてから、必要なら細かな調整もできます」
「分かりました」
それから楽器と機材を運び込んだ。
ピアノ。
ギター。
ベース。
録音用のマイク。
パソコンと音響設備。
小さな楽器もいくつか置く。
全部を並べ終えると、部屋らしくなった。
試しにピアノを弾く。
一音。
その音が部屋の中で広がる。
少し強く弾く。
弱く弾く。
高い音と低い音を重ねる。
響きが返ってくる場所を確かめ、椅子の位置を少し変える。
もう一度弾く。
「こっちの方がいいな」
何度か試すうちに、部屋の使い方が分かってきた。
青瀬の家では、こういうことはできなかった。
大きな音を出すなら、学校の音楽室や貸しスタジオへ行く必要があった。
それが今は、家の中にある。
もちろん防音室だからといって、どんな音量でも周囲へ絶対に伝わらないわけではない。
建物の中で生活している以上、使い方には気を付ける必要がある。
それでも、以前よりずっと自由だった。
少し弾いてみる。
思いついた音を重ねる。
途中で止めて、別の形にする。
面白かった。
気づけば、かなり時間が経っていた。
スマートフォンが鳴る。
陽太からだった。
『新居どう?』
俺は音楽室の写真を撮って送った。
すぐに返事が来る。
『何これ、スタジオじゃん』
『音楽室』
『家の中にこれあんの?』
『うん』
少しして、またメッセージが届いた。
『お前、絶対そこから出なくなるだろ』
そんなことはない。
大学には行く。
買い物もする。
食事だって、部屋にいるだけでは済まない。
『ちゃんと外出るよ』
そう返すと、
『そういう意味じゃねえよ』
と返ってきた。
何となく陽太の笑っている顔が浮かんだ。
電話でも映像でもないから、今どんな顔をしているのかまでは分からない。
でも、文章だけでも、長く付き合っていればある程度は想像できる。
俺はスマートフォンを置いて、またピアノへ向かった。
〓〓〓
東京での生活が少し落ち着いた頃、大学の新しい日常も始まろうとしていた。
入学に関する手続きは終わっている。
必要な案内も確認した。
東京藝術大学音楽学部作曲科。
これから通う場所だ。
大学へ向かう朝、俺は玄関で持ち物を確認した。
学生証。
筆記用具。
必要な資料。
スマートフォン。
特に忘れ物はない。
外へ出る。
青瀬とは違う街の音が聞こえてきた。
車の数が多い。
人の流れも違う。
電車の音が重なり、建物の間を抜ける風も青瀬とは違った響き方をする。
山が近くに見えるわけでもない。
でも、別に困ることはなかった。
ここにも音はたくさんある。
今まで聞いたことがあるものもあれば、少し違うものもある。
大学へ着くと、楽器を持った学生たちが行き交っていた。
ケースの形も大きさも違う。
ヴァイオリンらしいもの。
管楽器のケース。
楽譜を抱えて歩く人。
建物のどこかから、誰かが練習している音も聞こえてくる。
青瀬高校にも音楽室はあったけれど、ここは建物全体で音楽に関係する人が多い。
灰崎さんが言っていた通りだった。
今まで俺が一人で作っていたものにも、ここではいろいろな名前が付いているらしい。
それに、俺とは違う方法で音楽を作っている人も大勢いる。
どんなものを作っているのか、少し気になった。
案内に従って、指定された教室へ向かう。
扉の前で立ち止まり、場所をもう一度確認した。
間違っていない。
中からは、すでに何人かの話し声が聞こえていた。
俺は扉を開ける。
これから大学で何をするのかは、まだ全部は知らない。
でも、知らないものがあれば聞けばいいし、必要なら覚えればいい。
音楽についても、今までと同じだった。
それより、ここにはどんな音があるんだろう。
そう考えながら、俺は教室へ入った。




