第41話 灰崎巌
《青瀬》を出してから、活動用のメールには知らない相手からの連絡が増えた。
海外の学校。
音楽関係の施設。
演奏家。
取材。
よく分からないものは父さんにも見せている。
その日の夕方も、帰宅すると父さんが仕事部屋から顔を出した。
「楽」
「なに?」
「東京藝術大学の教授から来てる」
靴を脱ぎながら振り返る。
「俺に?」
「お前以外に誰がいる」
「何て?」
「《青瀬》について話がしたいそうだ」
父さんの部屋へ行く。
画面にはメールが開かれていた。
東京藝術大学音楽学部。
作曲科。
灰崎巌。
名前を見ても分からない。
「知ってる人?」
「俺が知ってる必要はないだろ。大学の教員として実在する人物なのは確認した」
「じゃあいいんじゃない?」
「返事するか?」
「話したいなら」
父さんが俺を見る。
「内容は?」
「《青瀬》の作曲について聞きたいと書いてある」
「なら話せるよ」
「分かった」
何か契約をするわけではない。
金の話でもない。
聞きたいことがあるなら答えればいい。
日程を合わせて、数日後にオンラインで話すことになった。
約束の日。
画面に映った灰崎巌は、メールにあった大学の紹介写真より少し近寄りがたい顔をしていた。
黒髪には白いものがかなり混じっている。眉が濃くて、何もしていなくても少し怒っているように見える。
でも、声には怒っている音はない。
父さんは最初だけ確認して、自分の仕事へ戻った。
画面の向こうで灰崎が言う。
「鳴海楽でいいな」
「はい」
「灰崎だ。東京藝術大学で作曲を教えている」
「はい」
「《青瀬》を見た」
「ありがとうございます」
「いくつか確認したい」
「どうぞ」
灰崎はすぐ本題へ入った。
「《青瀬》は、お前が書いたのか」
「はい」
「編曲も?」
「俺です」
「オーケストレーションも全部か」
聞いたことのある言葉だった。
前に陽太が見せてきた動画でも出ていた。
「それ、楽器の振り分けとかのことですか?」
灰崎が少し止まった。
「……そういう理解でいい。誰かに手伝ってもらったか」
「もらってないです」
「譜面を直した人間は?」
「いません」
「作曲は誰に習った」
「誰にも」
灰崎の呼吸が少し変わる。
驚いている。
でも声はほとんど変わらなかった。
「ピアノは習っていただろう」
「小学生の時に」
「そこで作曲は?」
「別に」
「楽譜の書き方は」
「習いました」
「どこまでだ」
少し考える。
「読んだり書いたりするのに困らないくらい?」
「答えになっていないな」
「困ってないので」
灰崎の眉がわずかに動いた。
怒ったわけではない。
困っている。
「では聞き方を変える。和声は?」
「知らないです」
今度は明確に止まった。
「知らない?」
「何ですか?」
「和声という言葉を知らないのか」
「たぶん」
音楽の授業で似た言葉を聞いた可能性はある。
でも、少なくとも自分で使う言葉ではなかった。
灰崎が椅子へ深く座り直す。
「和音は分かるな」
「それは分かります」
「複数の音が同時に鳴った時の関係も」
「分かります」
「ある和音から次の和音へ進んだ時、どう聞こえるかも分かる」
「はい」
「声部同士がどう動けば不自然になるかも?」
「不自然なら分かります」
「避ける理由は?」
「欲しい音じゃないから」
灰崎が黙る。
「《青瀬》のこの部分を覚えているか」
画面共有が始まった。
《青瀬》の中間部だった。
木管と弦が同時に動いて、その後ろから金管が入るところ。
当然覚えている。
「はい」
「ここ。なぜこの音を置いた」
「その前から動いてる音があるので、こっちまで同じ方向にすると詰まるからです」
「詰まる?」
「狭くなるというか。同じところに寄りすぎます」
「だから逆方向へ動かした?」
「結果としてはそうですね」
「結果として?」
「先に音があったので。逆にしようと思って置いたわけじゃないです」
灰崎の声に、さっきより強い驚きが混じる。
「この金管は?」
「前に出すためです」
「何を」
「こっちの音を」
指す。
灰崎が表示を拡大する。
「それなら弦を強くしてもいい」
「違います」
即答すると、灰崎の目が細くなった。
「何が違う」
「そこは弦の音じゃないです」
「理由は?」
「前から残ってる弦と混ざるので。欲しいのはもう少し硬くて、後ろから前に抜ける音です」
「だから金管を置いた」
「はい」
「その判断を何と呼ぶかは?」
「何か名前あるんですか?」
灰崎が黙った。
かなり長い。
画面越しでも、呼吸と顔の細かな変化は分かる。
『本当に知らないのか』
そんな音だった。
「鳴海」
「はい」
「管弦楽法は?」
「知らないです」
「……そうか」
「それも今やってたやつですか?」
「そうだ」
「じゃあ、やってますね」
灰崎が額へ手を当てた。
「言葉は知らないが」
「はい」
「やっていることは分かっている」
「音なら」
「音なら、か」
灰崎が小さく息を吐いた。
そこから質問が増えた。
《青瀬》の最初。
なぜ低弦をその配置にしたのか。
木管の音型を後で別の声部へ移した理由。
中間部で音数を増やしても濁らせないために何を考えたか。
最後に音を減らす時、どの順序で楽器を抜いたか。
聞かれれば答えられる。
難しいことではない。
曲を作った時に、自分で決めたことだから。
「ここでクラリネットから低弦へ移しているな」
「はい」
「なぜ」
「そっちへ行った方が自然だったから」
「自然とは?」
「前にあった音をそのまま上で続けると邪魔なので、一回奥に下げた方が次の音が出しやすいです」
「その時、機能は変わっている」
「機能?」
「役割だ」
「ああ。変わってます」
「意図的に?」
「必要だったので」
灰崎が何度か頷く。
質問されて初めて、俺が普段使わない言葉がいくつも出てきた。
でも、その言葉が指しているものを説明されると、ほとんど知っている。
知っているというより、普通に使っていた。
名前だけ知らない。
「対位法は?」
「分かりません」
灰崎が具体例を説明する。
「ああ、それなら分かります」
「転調は?」
「それは学校でも聞いたことあります」
「調性は」
「言葉は知ってます」
「では――」
また質問。
今度は知っている。
次は知らない。
知らない言葉でも、説明されれば大体「あれのことか」となる。
途中から灰崎の驚き方が変わっていた。
最初は、本当に何も知らないのではないかと確認していた。
今は逆だった。
どこまで名前を知らずに使っているのかを探している。
「鳴海」
「はい」
「お前、自分が何をやっているか、説明できないのか」
「音なら説明できますよ」
「専門用語でだ」
「それは知らないので」
「困らなかったのか」
「何に?」
「作曲に」
「別に」
音が分かるなら、曲は作れる。
楽器の性質も、実物を触れば分かる。
名前を知らないことで《青瀬》を書く時に困った記憶はなかった。
灰崎はしばらく何も言わなかった。
「なるほど」
ようやくそう言った。
「妙なことになっているな」
「何がですか?」
「普通は逆だ」
「逆?」
「名前を学び、例を学び、使い方を学んで、それから自分の音楽で使えるようになる」
「そうなんですか」
「少なくとも教育はそういう順番になることが多い」
「俺は?」
「お前は先に使っている」
灰崎が《青瀬》の譜面を指す。
「しかも、かなり高度なところまでだ。その後で、今初めて名前を聞いている」
「名前なくても音は同じですよね」
「そうだ。音は同じだ」
灰崎の口元が少し動いた。
笑ったらしい。
「だから面倒なんだ」
「面倒?」
「教える側がだ」
「俺、教わってないですけど」
「今のところはな」
〓〓〓
話が一段落したと思ったところで、灰崎が聞いた。
「鳴海。進路は決めているか」
「進路?」
「高校を卒業した後だ」
「まだです」
「大学へ行く気は?」
「別に行ってもいいです」
「ずいぶん曖昧だな」
「行かない理由もないので」
高校へ進んだ時も似たようなものだった。
特に行きたい学校があったわけではない。
近くて困らないところに行った。
大学も、必要なら行けばいいと思っている。
海外から来た話は設備が面白そうなところもあったけれど、何年も外国語中心で暮らすのは面倒だった。
灰崎が言う。
「東京藝術大学音楽学部作曲科を受けろ」
「灰崎さんのところ?」
「そうだ」
ずいぶん直接的だった。
「何するところですか?」
灰崎の眉が動く。
「作曲科だと言っただろう」
「作曲するのは分かります」
「理論も学ぶ。作曲家もいる。演奏家もいる。お前が名前を知らずに使っているものにも、一通り名前が付く」
「楽器は?」
「大学だから楽器店ではないぞ」
「それは分かってます」
灰崎が少しだけ顔をしかめる。
「奏者はいる。器楽科もある。オーケストラもある」
「へえ」
それは少し面白そうだった。
今まで一人で音を作ることが多かった。
他人へ頼むより、自分でやった方が早いからだ。
でも、最初からその楽器を長くやっている人間が大量にいる場所なら、聞ける音も増える。
「有名なんですか?」
灰崎が黙った。
「東京藝術大学を知らないのか」
「名前は聞いたことあると思います」
「……そうか」
「有名?」
「少なくとも、日本で音楽を専門に学ぶ大学として名前が出ない学校ではない」
「じゃあ便利そうですね」
「便利」
「人もいるんでしょ?」
「いる」
「楽器やってる人も」
「いる」
「作曲する人も」
「当然いる」
「なら、そこでもいいか」
灰崎の目が止まる。
「何がだ」
「大学」
「受けるのか」
「はい」
「今決めたのか?」
「候補なかったので」
「海外は?」
「面倒なのでいいです」
「何が面倒なんだ」
「ずっと日本語じゃないのが」
灰崎は一度目を閉じた。
「お前はもう少し進路というものを真剣に考えた方がいいんじゃないか」
「条件見て決めてますよ」
「今、私から五分程度説明を聞いただけだろう」
「でも、有名で、音楽やってる人がいっぱいいるんですよね」
「間違ってはいない」
「じゃあ良さそうです」
灰崎はまた黙った。
その沈黙にも、最初ほどの驚きはない。
少し諦めに近い音が混じっていた。
「ただし」
灰崎が言う。
「受けると言えば入れるわけではない」
「試験あるんですか?」
「あるに決まっている」
「作曲する?」
「それだけではない」
「他に何するんですか?」
灰崎の表情が変わった。
今度は、何か新しい問題を見つけた時の音だった。
「鳴海」
「はい」
「入試について何も調べていないな」
「今決めたので」
「そうだったな」
灰崎は深く息を吐いた。
「まず要項を見ろ」
「はい」
「過去問もだ」
「はい」
「お前の場合、曲が書けるかどうかとは別のところで落ちかねない」
「何で?」
「形式を知らないからだ」
形式。
それなら確認すればいい。
「分かりました」
「分かっている顔には見えんな」
「見れば分かると思います」
灰崎が俺を見る。
その声にも顔にも、さっきまでとは違う種類の疲れが少し混じっていた。
でも、嫌がっているわけではない。
むしろ、
『どこまで知らないんだ』
という興味の方が強い。
「資料は後で送る」
「ありがとうございます」
「見たら、もう一度話すぞ」
「はい」
「今度は入試の話だ」
「分かりました」
通話が終わる。
画面が暗くなった。
父さんの仕事部屋へ行く。
「父さん」
「終わったか」
「うん」
「どうだった」
「東京藝術大学受けることにした」
父さんの手が止まった。
「何の話をしてたんだ」
「《青瀬》」
「そこからどうして大学になった」
「灰崎さんが受けろって」
「それで受けるのか」
「有名だし、音楽やってる人いっぱいいるらしいから」
父さんがしばらく俺を見る。
「お前がいいならいい」
「うん」
「ただ、受験なら日程と条件は確認しろ」
「灰崎さんにも言われた」
「なら確認しろ」
「資料送ってくれるって」
「そうか」
父さんはそれ以上何も言わず、仕事へ戻った。
俺も部屋へ戻る。
少しすると、灰崎からメールが届いた。
添付とリンクがいくつかある。
入試要項。
過去問。
作曲科。
画面を見ながら思う。
大学へ行くことより、知らない形式を確認する方が少し面倒そうだった。
でも、必要なら見ればいい。
音楽そのものを新しく覚えるわけではなさそうだった。




