第39話 合わせる
録音を全部終えた翌日、俺は家で《青瀬》のファイルを開いた。
画面の中には、数か月かけて増えた音が並んでいる。木管、金管、打楽器、ハープ、弦。それぞれの中にさらに声部があり、弦には同じパートを何度も録ったファイルまである。
演奏している時は一つずつだったから、ここまで並ぶとさすがに多い。
「これ全部か」
自分で録ったのだから全部なのは分かっている。それでも、縦に長く並んだ画面を見ると少し面倒だった。
まず位置を合わせる。
曲の最初から鳴る楽器ばかりではない。途中から入るものもあれば、しばらく休んでまた戻るものもある。録音した時点で基準になる位置は揃えてあるので、大きく迷うことはなかった。
一つ動かす。
聞く。
少し直す。
次。
弦を足す。
木管を足す。
まだ金管は入れない。
最初の部分を再生する。
低い弦の上で、別の弦が少し違う動きをする。そこへ木管が短く入って消える。
譜面を書いた時に頭の中で聞いていたものが、実際の楽器の音になっていた。
同じではない。
仮の音で確認していた時より、ずっと細かい。
弓が弦へ触れる瞬間。
息が音へ変わるところ。
音を切った後に残る響き。
同じ声部を何度も録ったヴァイオリンは、一つずつならほとんど同じ場所を弾いているのに、重ねると一人分を大きくした音にはならなかった。
わずかに違う。
立ち上がり。
弓の速度。
音の膨らみ方。
消える位置。
録音した時に少しずつ変えたものが、そのまま厚さになる。
「こっちの方がいいな」
一つだけ位置を少し戻す。
完全に揃えすぎると違う。
全員が同じ瞬間を理解していることと、全員が機械みたいに同じ動きをすることは別だった。
また再生する。
今度はいい。
次へ進む。
曲の中で人と交通が増えていく部分へ入ると、画面の中も一気に増えた。
フルート。
オーボエ。
クラリネット。
ファゴット。
弦。
少し後ろからホルン。
別のところでトランペット。
短い音型がいくつも同時に動いている。
一つを前へ出せば、別のものが奥へ下がる。
奥にいたものが、少し後で別の楽器へ渡って前に出る。
どれか一つをずっと主役にする必要はない。
町もそうだった。
通学路を歩いていて、一台の車だけがずっと世界の中心にいるわけではない。人の声が聞こえて、車が通って、風が鳴って、その向こうで別の足音がする。
それぞれ勝手に存在している。
でも、ばらばらではない。
同じ場所の同じ時間にある。
その感じを崩さないように、音量を調整する。
木管を少し下げる。
弦を上げる。
今度は金管が強すぎる。
下げる。
もう一度。
違う。
音量ではなく入り方だった。
一つ前のフレーズからつながる位置を少し直す。
聞く。
今度は合う。
作業は細かかった。
でも、動画の見た目を整える時とは違って面倒ではない。
音を動かすたびに、曲が変わる。
その変化が分かる。
なら、まだ遊べる。
昼前から始めて、気づけばかなり時間が経っていた。
父さんが部屋の前から声をかける。
「昼は?」
画面を見る。
時計を見る。
「食べる」
「なら来い」
「うん」
保存して席を立った。
昼を食べて戻る。
続きを開く。
中間部。
一番音が多いところだった。
ここは録音している時から、全部重ねた時にどうなるのか気になっていた。
金管を入れる。
打楽器を入れる。
ハープ。
弦。
木管。
一度全部鳴らす。
「多いな」
音の数は多い。
でも、濁ってはいない。
どこに何があるか、全部聞こえる。
第一ヴァイオリンが上へ動いている間、ヴィオラは別の短い形を続けている。その下でチェロが動き、木管はさらに別の方向へ進む。
普通なら、これだけ独立したものを同時に動かせば、演奏する側同士でかなり合わせる必要があると思う。
いつ入るか。
どこへ向かうか。
誰を聞くか。
どこで譲るか。
でも、今回そこは最初からずれていなかった。
当然だった。
全部俺が弾いている。
フルートを吹いた時も、ヴァイオリンを弾いた時も、ホルンを吹いた時も、俺の中には《青瀬》全体があった。
自分が今どの声部を演奏しているかだけではなく、その瞬間に他の全部が何をしているかも分かっていた。
だから、録音した日は違っても、向いている方向は同じだった。
テンポを数字だけで合わせた感じでもない。
音の終わりが次の音へ渡る位置。
少し前へ進みたいところ。
逆に、ほんの少し待った方がいいところ。
大きくなる途中で、どの声部が先に膨らむか。
そういうものが、全部同じ感覚で動いている。
「変なの」
自分で作っておいてそう思った。
人が大勢いる音なのに、判断している人間は一人しかいない。
聞こえ方としては厚い。
でも、迷いがない。
もう一度中間部を再生する。
今度は触らずに聞く。
悪くなかった。
〓〓〓
数日かけて、全部を合わせた。
学校へ行く。
授業を受ける。
帰って続きをやる。
途中で別の音を出したくなれば、短い動画も撮った。
《青瀬》が完成しそうだからといって、それ以外をやめる理由はなかった。
昼休み、陽太に聞かれる。
「合わせるの終わった?」
「もうちょい」
「まだやってんの?」
「音多いから」
「半年近くやって、それ言う?」
「録るの終わったから前より楽」
陽太が少し笑う。
「今は何してんの?」
「位置とか、音の大きさとか」
「全部お前なのに、ずれるの?」
「録った日違うし」
「でも楽譜同じだろ?」
「楽譜同じでも音は同じじゃないよ」
陽太は少し考える。
「前もそれ言ってたな」
「うん」
「じゃあ、全員お前なのにバラバラ?」
「バラバラじゃない」
「どっちだよ」
説明するのが少し難しい。
「音は違うけど、考えてることは同じ」
「全部お前だから?」
「そう」
陽太がしばらく俺を見る。
「それ、普通のオーケストラと何が違うんだ?」
「普通は人違うでしょ」
「そりゃそうだけど」
「人違えば、同じ楽譜見ても少しずつ違うじゃん」
「まあ」
「今回は全部俺」
「うん」
「だから違わない」
「音は違うんだろ?」
「そこは違う」
陽太が額を押さえる。
「分かるような、分かんないような」
「聞けば分かるよ」
「じゃあ完成したら聞かせろ」
「いいよ」
そこで予鈴が鳴った。
話は終わる。
午後の授業が始まる。
《青瀬》のことを考え続ける必要はなかった。
その日の夜、最後まで通した。
静かな始まり。
薄い弦。
木管の短い音。
少しずつ増える。
人が動き始める。
車。
駅。
学校。
声。
風。
実際の音をそのまま入れているわけではない。それでも、俺の中ではどこから来たものか全部分かる。
中間へ入る。
音が増える。
別々のものが同時に動く。
その中を短い音型が行き来する。
木管から弦。
弦から金管。
前にいたものが奥へ下がり、別のものが出てくる。
打楽器が入る。
一番密度が高くなる。
それでも全体は一つだった。
そこから少しずつ減る。
金管が消える。
打楽器も減る。
木管が残る。
弦が薄くなる。
最後は静かになる。
朝と同じではない。
始まる前ではなく、終わった後の静けさ。
最後の音が消える。
再生が止まった。
しばらく何も鳴らない。
「できた」
最初に思ったのは、それだった。
半年近く前。
たまたまオーケストラを見た。
人数が多かった。
それを見て、一人で全部やったらどうなるんだろうと思った。
答えは、今聞いた。
人がたくさんいる音にはなる。
でも、普通のオーケストラとは少し違う。
全部別々に演奏しているのに、全員が最初から同じものを見ている。
一人でやると、こうなるらしい。
「面白いな」
もう一度、最初から再生した。
〓〓〓
音が完成したので、次は映像だった。
こっちは音ほど考えることがない。
録音する時にスマートフォンやカメラを置いていたから、各楽器を俺が演奏している映像は残っている。
全部を常に画面へ出す必要はない。
その時に鳴っている楽器をいくつか見せればいい。
フルート。
ヴァイオリン。
ホルン。
ハープ。
ティンパニ。
映像を順番に置く。
同じ弦パートを何度も録ったところは、別のテイクへ切り替える。
途中で画面を分ける。
複数の俺が同時に弾いている。
「変だな」
画面だけ見ると、音より分かりやすく変だった。
右にも俺。
左にも俺。
奥にも俺。
全部別の日に録ったものだ。
服も少し違う。
髪も長さが少し変わっている時がある。
数か月かけたのだから当然だった。
そこを揃えるために撮り直す気はない。
音には関係ない。
むしろ、別の日に本当に一つずつ録ったことが分かる。
必要なところだけ切る。
演奏していない前後は外す。
曲に合わせて置く。
派手な文字は入れない。
楽器名くらいは分かってもいい気がしたけれど、なくても見ればだいたい分かる。
迷って、結局最低限だけ入れた。
見た人が「本当に全部一人なのか」と迷う可能性はある。
でも、映像を見れば分かる。
それで十分だった。
完成した動画を陽太に送る。
少しして返事が来た。
『長い』
先にそこなのか。
『20分くらい』
送る。
すぐ既読になる。
しばらく返事がない。
たぶん見ている。
俺はその間に夕飯へ行った。
食べ終わる頃、スマートフォンが震える。
『何これ』
見る。
続けて来る。
『いや曲は分かる』
『お前何人いるんだよ』
『全部お前なんだよな?』
『見てると頭おかしくなる』
少し笑う。
『全部俺』
返す。
またすぐ来る。
『弦何回撮った?』
『覚えてない』
『覚えとけよ』
『必要な分』
『答えになってねえ』
それで一度止まる。
少しして、また一つ届いた。
『普通に曲が一番やばくない?』
画面を見る。
陽太がそこを言うのは少し意外だった。
一人でいろいろな楽器を弾いている映像の方が、見た目では分かりやすい。
『そう?』
返す。
『そうだよ』
『途中ずっと別々に動いてんのに、なんか全部まとまってる』
『あと最後好き』
最後。
音が減って静かになるところだと思う。
『ありがとう』
送る。
陽太からは、
『明日学校でも言う』
と返ってきた。
父さんにも、投稿前に一度見せた。
全部ではない。
俺がリビングで確認している時に来たので、そのまま途中から聞いただけだった。
しばらく黙っている。
終わる。
「これがあれか」
「うん。《青瀬》」
「全部録ったんだな」
「録ったよ」
「何か月かかった?」
「半年くらい?」
正確には数えていない。
父さんは少しだけ頷いた。
「経費は?」
「記録してある」
「ならいい」
それだけだった。
「感想ないの?」
聞くと、父さんが俺を見る。
「必要か?」
「別に」
「ならいいだろ」
「うん」
それで終わった。
父さんは仕事部屋へ戻っていく。
俺も動画の確認へ戻った。
最後まで一度見る。
音。
映像。
問題ない。
タイトル欄へ、
管弦楽曲《青瀬》
と入れる。
説明欄には必要なことだけ書いた。
作曲。
演奏。
録音。
全部、鳴海楽。
楽器名を並べる。
使用した施設やレンタル先について、公開して問題のない範囲だけ確認する。学校や生活圏につながる情報は入れない。
動画を出すための準備としては、それで十分だった。
サムネイルを凝って作る気もない。
動画の一場面を使う。
複数の俺が別々の楽器を演奏しているところ。
分かりやすい。
公開ボタンを見る。
半年近くかかった。
でも、押す時に何か特別なことをするわけではない。
いつもの動画と同じだった。
作った。
録った。
できた。
だから上げる。
公開する。
画面が切り替わる。
管弦楽曲《青瀬》。
自分のチャンネルに、新しい動画が一つ増えた。
「終わった」
これで本当に終わりだった。
少なくとも、俺がやろうと思っていたことは。




