第38話 弾く、弾く、弾く
最初に借りたのは、フルートだった。
管弦楽曲《青瀬》の譜面を作っている間に、どの楽器をどこで借りられるかはだいたい調べてある。あとは順番に実物へ触って、必要な音を録っていけばいい。
貸しスタジオの小さな部屋でケースを開ける。
持ってみる。
軽い。
でも、持ち方だけで終わる楽器ではない。
息を入れる。
最初の音は薄かった。
少し角度を変える。
唇の形も変える。
空気がどこへ当たって、どこで音へ変わるのかを聞く。
もう一度。
今度は鳴った。
「これか」
指の位置を確認する。
音程を変える。
一つ。
二つ。
上。
下。
動かしてみる。
構造そのものは分かりやすかった。
息の流れを変えて、口元を少し調整して、必要な高さへ持っていく。
譜面の一部を吹く。
音は出る。
動きも分かる。
でも、しばらく続けると息がきつくなった。
口元も少し疲れる。
曲の中で必要なところまでなら吹ける。
ただ、今このまま本番録音を続ければ、後半は音が変わる。
それは嫌だった。
「今日はここまででいいか」
本番は別の日にする。
方法は分かった。
身体の方が、まだその長さに慣れていないだけだった。
別の日にはオーボエを借りた。
こっちはフルートとは違った。
吹けばすぐ同じように鳴るわけではない。
楽器へ入る前のところから違う。
息の使い方。
口の周り。
抵抗。
最初の数回で、それが分かる。
欲しい音へ近づく。
ただし、また身体が先に疲れた。
「これ、口きついな」
休む。
少しして、また吹く。
分かったことを忘れたわけではない。
二回目は最初から狙ったところへ行ける。
それでも長く吹けば疲れる。
だから、必要なところだけ確認して終わる。
次に来た時に録ればいい。
クラリネット。
ファゴット。
ホルン。
トロンボーン。
チューバ。
一つ触るたびに、身体の使う場所が少しずつ違った。
息を使うもの。
口を使うもの。
腕へ重さが来るもの。
構えたまま長くいると肩へ来るもの。
指そのものは動かせても、楽器を支えるところで疲れるもの。
どうすれば音が出るか分からなくて困ることは、ほとんどなかった。
触れば分かる。
音を聞けば分かる。
ただ、人間の身体は分かっただけでは変わらない。
だから、分けるしかなかった。
今日触る。
数日後、また触る。
必要ならもう一度。
その間は別の楽器をやる。
《青瀬》には、急いで完成させなければならない理由はなかった。
〓〓〓
学校では、普通に授業が続いていた。
昼休み、陽太が俺の机の横へ来る。
「今どこまでいった?」
「何が?」
「オーケストラ」
「まだ途中」
「それは分かる。何の楽器やってんの?」
少し考える。
「昨日ファゴット」
「ファゴットって何だっけ」
「長いやつ」
「説明雑すぎるだろ」
陽太が笑う。
「吹けた?」
「うん」
「もう?」
「吹き方は分かった」
「じゃあ録った?」
「まだ」
「何で?」
「長く吹くと疲れるから」
陽太が一瞬止まる。
それから少し嬉しそうに笑った。
「お前でもそういうのあるんだな」
「あるよ」
「いや、知ってるけど」
陽太は自分の席の背にもたれる。
「なんか安心する」
「何が?」
「楽器持った瞬間、全部完成しました、みたいにならないところ」
「身体は普通だよ」
「そこは普通なんだよな」
「ずっと言ってるじゃん」
陽太は笑ったまま頷いた。
「で、あとどのくらい?」
「分かんない」
「分かんないの?」
「まだ録ってないの多いし」
「数えてない?」
「途中から面倒になった」
「そこは数えろよ」
「終われば分かるでしょ」
「終わったらゼロになるだけだろ」
それもそうだった。
でも、数えたところで減るわけではない。
「じゃあ、まだいっぱい」
「結局それかよ」
予鈴が鳴る。
話はそこで終わった。
放課後は普通に帰る。
毎日スタジオへ行くわけでもない。
学校で使えるピアノを弾く日もある。
家で歌を重ねる日もある。
短い曲を作って、そのまま動画へ上げることもある。
《青瀬》のことを一日何もしない日もあった。
それでも、数日するとまた一つ録る。
その繰り返しだった。
以前触ったトランペットは、初めての時より楽だった。
持ち方も、息も、唇も覚えている。
身体も前より慣れていた。
《青瀬》のパートを吹く。
一度止める。
少し違う。
もう一度。
今度は合う。
録音する。
終わり。
「早いな」
自分でもそう思った。
でも、前に一度やっているのだから当然だった。
同じようにヴァイオリンも、最初から何も分からない状態ではない。
弓を置く。
音を出す。
譜面を追う。
必要なところまで弾く。
そこまでは問題ない。
問題は、その後だった。
第一ヴァイオリンだけで終わらない。
第二もある。
しかも一人分では足りない。
オーケストラの弦は、複数人が同じ声部を弾く。
全部自分でやるなら、その分も自分で録らないといけない。
一回目を録る。
聞く。
もう一回。
少し弓の入り方を変える。
もう一回。
音の立ち上がりを少し変える。
また。
また。
「面倒」
四回目くらいで口に出た。
同じ譜面。
同じ音。
でも、同じ録音をコピーすればいいわけではない。
それでは一人の音を増やしただけになる。
複数人分の厚さが欲しいなら、別々に弾く必要がある。
だからまた弾く。
同じところを。
少しだけ違う身体の使い方で。
さらにもう一回。
終わっても、まだ第一ヴァイオリンの一部だった。
「多いな」
譜面を見る。
先は長かった。
〓〓〓
季節が少し進んだ。
その間に、録音ファイルが増えていった。
木管。
金管。
打楽器。
弦。
一つ終わるたびに、ファイル名を付けて残す。
前に父さんから、記録はしておけと言われている。
金だけではなく、これだけ数が増えると何が終わったか分からなくなる。
だから一覧も作った。
楽器。
パート。
録音済み。
まだ。
必要なら再録。
そこまでやれば、さすがに何が残っているかは分かる。
「面倒」
一覧を更新しながら言う。
でも、やらない方がもっと面倒だった。
コントラバスは、持った時点でヴァイオリンとはかなり違った。
大きい。
重い。
姿勢も違う。
左手だけでなく、全身の使い方が必要になる。
最初の音を出す。
そのまま何度か試す。
欲しい音の出し方はすぐ分かる。
でも、長くやると腕と背中へ来た。
「これは時間いるな」
無理に続けない。
必要な演奏時間は分かっている。
その長さを安定して弾ける身体になればいい。
別の日にまた来る。
もう一度。
前より楽。
さらに日を置く。
また。
少しずつ、身体の方が追いつく。
努力して上手くなったという感じはなかった。
やり方は最初から分かっている。
ただ、何度か使ったから、身体がその動きを続けられるようになってきただけだった。
ハープは別の意味で面倒だった。
そもそも借りられる場所が少ない。
置いてあるところを探す。
予約する。
移動する。
実物を見る。
「でかい」
前にも写真で見たけれど、実物はもっと大きかった。
弦の並びを見る。
ペダルを見る。
構造を確認する。
鳴らす。
なるほど、と思う。
必要な音を一つずつ確認する。
ここも、方法そのものはすぐ分かった。
でも、両手と足を同時に使う。
姿勢もある。
すぐに《青瀬》の必要パートを全部本番録音、というわけにはいかなかった。
その日は確認だけ。
次。
もう一度。
その次に録音。
一つ終わる。
また一覧の一行が埋まる。
ティンパニや他の打楽器は、身体適応という意味では管ほど時間がかからないものもあった。
でも、別の問題がある。
場所だ。
家では無理。
音量もある。
楽器そのものも大きい。
置いてある施設へ行く。
必要なものを順番に録る。
叩く場所。
強さ。
響き。
音が消えるまでの長さ。
一回。
二回。
三回。
録って確認。
次。
打楽器は楽だと思っていたけれど、種類が増えると結局面倒だった。
「いっぱいあるな」
スタッフに聞こえない程度に呟く。
それでも、音は面白い。
一つの楽器だけなら短いのに、組み合わせると曲の中でちゃんと別の役割になる。
その違いを見るのは飽きなかった。
〓〓〓
数か月経った頃、陽太にまた聞かれた。
「まだ終わってないの?」
「まだ」
「長くない?」
「楽器多いから」
「最初から分かってただろ」
「分かってたけど、弦が面倒」
「何で?」
「何回も同じの弾くから」
「一回じゃだめなの?」
「人数分欲しい」
「コピーじゃだめ?」
「違う」
即答すると、陽太が笑った。
「そこはこだわるんだな」
「同じになるから」
「同じパートなんだろ?」
「同じパートでも人が違えば同じ音にはならないでしょ」
「まあ、そうだけど」
「一人でやってるけど、複数人分にしたいから」
陽太は少し考える。
「じゃあ、わざと変えて弾いてんの?」
「わざとっていうか、毎回少し変える」
「それ全部考えて?」
「聞けば分かるから」
「その答えずるいよな」
「何が?」
「普通はそこ考えるのが大変なんだよ」
そうかもしれない。
でも、どこをどう変えれば必要な厚さになるかは、聞けば分かる。
俺にとって面倒なのは、それを何回も実際に弾くことだった。
「あとどのくらい?」
「弦がまだ」
「他は?」
「だいたい終わった」
「じゃあもうちょいじゃん」
「そのもうちょいが多い」
陽太は笑った。
「頑張れ」
「面倒」
「知ってる」
それで終わった。
その日の放課後は、スタジオへ行かずに学校のピアノを弾いた。
《青瀬》ではない。
別の短い曲。
思いついたから弾く。
スマートフォンで録る。
帰ってそのまま投稿する。
《青瀬》の録音が続いていても、他の音で遊ばなくなるわけではない。
むしろ、同じパートを何度も録った後は、何も考えず別の音を出したくなることがあった。
次の日にはまた《青瀬》へ戻る。
そのくらいでちょうどよかった。
さらに日が進む。
第一ヴァイオリン。
第二ヴァイオリン。
ヴィオラ。
チェロ。
コントラバス。
同じ声部を複数回。
必要な分だけ。
弾く。
録る。
止める。
確認する。
また弾く。
同じ場所。
少し違う音。
また。
また。
録音ファイルの数だけ増えていく。
途中から、自分が何回同じところを弾いたか数えるのもやめた。
一覧で必要数だけ確認する。
終わったら次。
それでいい。
ある日、最後の弦パートを録り終えた。
弓を下ろす。
録音を止める。
少し腕が疲れている。
でも、痛めるほどではない。
ファイルを保存する。
一覧を見る。
上から下まで確認する。
木管。
全部ある。
金管。
ある。
打楽器。
ある。
ハープ。
ある。
弦。
最後の欄へ印を入れる。
終わった。
思ったより時間がかかった。
でも、最初から急いではいなかった。
学校へ行って、普通の動画も出して、別の曲も作って、その合間に一つずつ録った。
気づけば、かなりの月日が経っていた。
「やっと終わった」
声に出す。
少し嬉しい。
でも、達成感で胸がいっぱいになるような感じではない。
単純に、もう同じパートを何回も録らなくていい。
それが一番大きかった。
家へ帰って、保存してあるフォルダを開く。
大量の録音。
同じ曲。
全部俺。
でも、まだ曲として一つにはなっていない。
今あるのは、ばらばらの楽器と声部だけだった。
これを全部合わせれば、最初に知りたかった音が聞ける。
一人でオーケストラ全部をやったら、どうなるのか。
ようやく、その答えを聞けるところまで来た。




