第37話 《青瀬》
一人でオーケストラをやるなら、何を弾くか決めないといけない。
既にある曲でもよかった。
楽譜を用意して、必要な楽器を借りて、一つずつ録ればいい。やりたいことが「一人で全部鳴らしたらどうなるか」だけなら、それでも確かめられる。
でも、そこまで手間をかけて誰かの曲をそのまま重ねるより、自分で作った方が面白そうだった。
夕飯の後、自分の部屋でパソコンを開く。
まだ何もない譜面を出して、しばらく見る。
フルオーケストラ。
この前調べた楽器を思い出す。
フルートだけでも三つ。
オーボエ。
クラリネット。
ファゴット。
ホルン。
トランペット。
トロンボーン。
チューバ。
打楽器。
ハープ。
弦。
全部に音を置く必要があるわけではない。同時に全部鳴らせばいいわけでもない。
むしろ、鳴っていない時間があっていい。
町と同じだった。
ずっと同じ音が鳴っている場所なんて、ほとんどない。
朝。
まだ人が少ない住宅地。
遠くを走る車。
玄関の開く音。
少し遅れて歩き始める人。
風。
冬なら雪を踏む音。
雨の日なら路面へ落ち続ける水。
通学路へ出れば、人が増える。
自転車。
車。
話し声。
足音。
駅の方へ近づけば、さらに別の音が重なる。
全部知っていた。
今日聞いた音だけではない。
ずっと前に聞いたものも残っている。
青瀬で暮らしてきた間に聞いた音なら、かなりの量を覚えている。
「これでいいか」
題材を新しく探す必要はなかった。
もう持っている。
俺は最初の音を置いた。
静かな音から始めた。
何もない静けさではない。
人が少ないだけで、町は止まっていない。
低い弦を薄く置く。
長く伸ばしすぎない。
その上へ別の弦が入る。
同じ動きにはしない。
少し離れたところで鳴っている別のものとして動かす。
木管を一つ入れる。
すぐ消える。
また別の場所で出る。
一本の旋律を中心に全部を並べる必要はない。
朝、家を出た人間が全員同じ方向へ歩くわけではない。
車も、人も、風も、それぞれ勝手に動いている。
でも、同じ場所に存在している。
それなら、音もそれでよかった。
いくつか短い形を作る。
一つは弦に置く。
もう一つは木管。
少し後で、最初に奥にいた形を前へ出す。
違う楽器へ渡す。
なくなったと思った音を、別の高さで戻す。
書いているうちに、必要な音が増えた。
フルートが一つでは足りない。
三本。
そのうち一つは、もっと高い音へ行きたい。
ピッコロへ持ち替えればいい。
クラリネットの下にも別の色が欲しい。
バスクラリネット。
ファゴットだけでは低いところが足りない場所がある。
さらに下。
コントラファゴット。
名前は調べながら確認する。
音自体は分かる。
ただ、正式な楽器名や一般的な持ち替え方まで最初から全部知っているわけではない。
知らないところだけ調べる。
それで足りた。
気づけば、昨日調べた楽器一覧が、そのまま曲の編成へ近づいていた。
奇抜なものを入れたいわけではない。
普通のオーケストラでいい。
その普通の人数を、一人でやることの方が面白い。
だから編成も、大きめではあるけれど変なものにはしなかった。
木管は三管。
ホルンは四本。
トランペットは三本。
トロンボーンも三本。
低いところにチューバ。
ティンパニ。
必要な打楽器。
ハープ。
あとは弦五部。
画面の縦が長くなる。
「多いな」
前にも同じことを言った気がする。
でも、今度は楽器の数ではなく、書く声部の数だった。
〓〓〓
次の日も学校へ行った。
授業を受ける。
休み時間になれば陽太と話す。
昨日オーケストラの曲を書き始めたことは、昼休みに言った。
「もう曲作ってんの?」
「うん」
「早くない?」
「楽器借りる前に曲ないと、何録るか分かんないでしょ」
「それはそうだけどさ」
陽太が弁当を食べながら俺を見る。
「どんな曲?」
「青瀬」
「青瀬?」
「まだ名前じゃないよ。使ってる音」
「どういう意味?」
説明を考える。
「朝とか、学校とか、駅とか」
「地元の曲ってこと?」
「たぶん」
「青瀬への愛を込めた壮大な曲?」
「違う」
すぐに答えると、陽太が笑った。
「即答じゃん」
「別にそういうのじゃないし」
青瀬が嫌いなわけではない。
住んでいて困っていない。
父さんもいる。
陽太もいる。
学校もある。
でも、故郷だから感動して曲にしようと思ったわけではなかった。
単に、知っている音が多かった。
「一番いっぱい覚えてる場所だから」
「青瀬を?」
「うん」
「じゃあ結局、青瀬の曲じゃん」
「そうなるね」
陽太は少し考えてから聞いた。
「電車とかも入る?」
「音としては」
「踏切は?」
「入るかも」
「学校のチャイムとか」
「そのまま使うわけじゃないよ」
「じゃあ分かんないだろ」
「分からなくてもいいんじゃない?」
別に聞いた人へ答え合わせをさせたいわけではない。
これはこの音が元です、と全部説明する必要もない。
自分の中ではつながっている。
それで十分だった。
「完成したら俺でも青瀬って分かる?」
「知らない」
「そこは分かれよ」
「陽太がどう聞くかは陽太でしょ」
「まあ、そうだけど」
陽太は納得したような、していないような顔で続きを食べた。
午後の授業。
課題を早く終えて、残った時間に窓の外を見る。
校庭。
遠くの道路。
風で少し揺れる木。
廊下を通る足音。
別の教室から聞こえる椅子を引く音。
一つずつなら、いつもの音だった。
でも今は、全部が昨日の譜面の続きに聞こえた。
学校の時間は、朝より情報が多い。
一つの出来事が終わる前に、別のことが起きる。
廊下を歩く人間と、外を走る車は関係ない。
教室の中の声と、風も関係ない。
それでも同時にある。
だったら曲の真ん中は、もっと重ねていい。
一本の旋律を順番に聞かせるより、複数の短い音を同時に進める。
前にいた音を奥へ下げる。
奥にいた音を前へ出す。
木管に置いた形を、あとで低弦に渡す。
別の場所では金管が動く。
打楽器も鳴る。
でも全部を同じ強さにしない。
町の中で、全部の音が同じ距離から聞こえるわけではないから。
先生が次の説明を始めたので、そちらへ意識を戻した。
続きは家でやればいい。
急ぐ必要はなかった。
家へ帰る途中も、曲は増えた。
駅へ近づく。
人が増える。
車が止まる。
発車する。
遠くで電車が動く。
信号の電子音が鳴る。
自転車が横を通る。
陽太が何か話している。
その全部をそのまま写すわけではない。
でも、音同士の距離や、入ってくる順番や、重なり方は使える。
「楽、聞いてる?」
「聞いてるよ」
「今絶対別のこと考えてただろ」
「曲も考えてた」
「同時に?」
「うん」
「何の話してたか言える?」
「次のダンス動画、最初の入りを変えるって」
陽太が黙る。
「……聞いてんじゃん」
「聞いてるって言ったでしょ」
「なんか腹立つな」
「なんで?」
「別に」
でも、本気で怒ってはいなかった。
駅が近づく。
人が増える。
音も増える。
曲の中間は、たぶんこのくらい密度があった方がいい。
そこから先は、減らす。
ずっと増え続ける町はない。
夕方。
帰る人。
閉まる店。
減っていく車。
夜。
住宅地へ戻れば、また音は少なくなる。
朝と同じ静けさではない。
一日が始まる前と、終わった後では、同じ少なさでも違う。
なら、最初と最後も同じにはしない。
その形なら、一つの楽章でいける。
途中で区切る必要はなかった。
〓〓〓
数日後。
譜面はかなり長くなっていた。
作業時間を決めていたわけではない。
学校から帰って続きが浮かべば書く。
別のことをしたくなれば、普通の動画を撮る。
ピアノを弾きたい日はそっちを弾く。
歌を重ねたくなればそうする。
それでも《まだ名前のないオーケストラ曲》は少しずつ進んだ。
ある日はほとんど触らない。
別の日は夕飯までずっと書く。
俺自身には、その違いはあまりなかった。
やりたい時にやる。
それだけだ。
曲の長さは、最初から二十分にしようと決めたわけではない。
必要なものを入れていった結果、そのくらいになった。
朝の静かな部分。
少しずつ動きが増える。
人と交通が重なる。
真ん中は一番多い。
そこから減る。
最後はまた静かになる。
全部通すと、二十分前後。
長い。
でも、削る理由もなかった。
逆に増やす理由もない。
「これでいいか」
最初から再生する。
まだ実際のオーケストラではない。
確認できる形で音を鳴らしているだけだ。
本物の楽器で弾けば、当然もっと違う。
弓。
息。
金属。
木。
皮。
人間の身体。
今聞こえているものは、完成した音ではない。
でも曲そのものは分かる。
静かな始まり。
小さな音型が出る。
消える。
別の場所へ移る。
少しずつ増える。
中間へ近づくにつれて、同時に動くものが増える。
一つを追うと別のものが奥へ行く。
その奥のものを聞けば、さっき前にいた音とつながっている。
全部が同じ旋律へ集まることはない。
それでも、ばらばらではない。
町と同じだった。
人はそれぞれ別のことをしている。
でも、同じ時間に同じ場所で生活している。
中間を越える。
少しずつ音が減る。
金管が消える。
打楽器も減る。
木管が残る。
弦も薄くなる。
最後まで残っていた短い形が、別の楽器へ渡る。
それも消える。
終わる。
悪くない。
むしろ、かなり面白かった。
「できたな」
曲はできた。
あとは名前だった。
ファイル名のままでも作業はできるけれど、楽器を借りたり録音したりしていくなら名前があった方が分かりやすい。
何の曲か。
青瀬の音を使っている。
青瀬でずっと聞いてきたものを入れた。
なら、そのままでよかった。
タイトル欄へ入力する。
《青瀬》
少し見る。
他に考える必要はなかった。
夕飯の時、父さんに言った。
「曲できた」
「オーケストラのか」
「うん」
「名前は?」
「《青瀬》」
父さんが一度だけこっちを見る。
「そのままだな」
「分かりやすいでしょ」
「お前らしい」
それで終わった。
父さんも、なぜ青瀬なのか詳しく聞かなかった。
俺も説明する必要を感じなかった。
次の日、陽太にも言う。
「曲できたよ」
「もう?」
「うん」
「タイトルは?」
「《青瀬》」
陽太が笑った。
「結局そのままじゃん」
「他にいる?」
「いや、まあ……合ってるけど」
「でしょ」
「どのくらいあるの?」
「二十分くらい」
陽太の顔が止まる。
「長っ」
「オーケストラだし」
「それを全部一人で弾くんだよな?」
「そう」
「何パートあるの?」
「いっぱい」
「昨日まで散々調べてたのに、その答え?」
「数えるの面倒」
陽太は呆れたように笑った。
でも、言われて俺も少し考える。
曲を書いている間は、音しか見ていなかった。
必要な場所に必要な楽器を置いた。
木管。
金管。
打楽器。
ハープ。
弦。
同じ声部でも、弦は一人分だけ録れば終わりではない。
人数分の厚さを作るなら、何度も弾くことになる。
譜面を作るのは面倒ではなかった。
音を考えるのも面白かった。
でも、これを全部自分で実際に鳴らす。
そこから先は別の話だった。
「……多いな」
俺が言うと、陽太が笑った。
「今さら?」
「曲にしたら増えた」
「減らせば?」
譜面を思い出す。
どれかを消す。
その場所の音が変わる。
別の楽器へ移すことはできる。
でも、今の形の方がいい。
「やだ」
「即答じゃん」
「今の方がいいから」
「じゃあ全部弾くしかないな」
「うん」
そうなる。
フルート。
オーボエ。
クラリネット。
ファゴット。
ホルン。
トランペット。
トロンボーン。
チューバ。
打楽器。
ハープ。
弦。
触ったことがあるものより、ないものの方が多い。
しかも、一回音を出せれば終わりではない。
曲の中で必要な長さを弾かないといけない。
できる方法は分かると思う。
でも、身体がすぐについてくるとは限らない。
そして何より、同じような録音を何度もやることになる。
面倒そうだった。
それでも、譜面の中にある音を実際に全部重ねた時、どう聞こえるのかは知りたい。
曲はもうできた。
管弦楽曲《青瀬》。
あとは、これを一つずつ自分で鳴らしていけばいい。




