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鳴海楽は努力しない  作者: 悪癖


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第31話 楽器を増やす

放課後、校舎を出る途中で金管楽器の音が聞こえた。


吹奏楽部の練習らしい。まだ全員で合わせているわけではなく、同じ音を何度も吹いている人、短いフレーズを繰り返している人、別々の場所から聞こえる音が廊下で重なっている。


その中に、少し気になる音があった。


高くて明るい。けれど、同じ高さの電子音とは立ち上がりも消え方も違う。


足を止める。


「楽?」


隣を歩いていた陽太も止まった。


「なに?」


「いや、こっちが聞いてんだけど」


「音聞いてた」


「吹奏楽?」


「うん」


また鳴る。


今度は少し外した。吹いた本人も分かったらしく、すぐに同じ音をやり直す。


二回目は近い。


「トランペットかな」


陽太が言った。


「たぶん」


楽器の名前と大体の仕組みは知っている。


でも、自分で吹いたことはない。


ピアノなら鍵盤を押せば音が出る。ギターやベースなら弦を動かせばいい。


金管楽器は少し違う。


唇そのものを振動させて、その振動を管の中へ送る。


バルブで管の長さを変えるだけでは音程は決まらない。息と唇の状態も使う。


「吹いたことある?」


陽太が聞く。


「ない」


「珍しいな。お前でもやってない楽器あるんだ」


「いっぱいあるよ」


世界中に楽器がいくつあると思っているんだろう。


俺が触ったことのあるものなんて、その一部しかない。


もう一度、トランペットらしい音が鳴る。


今度は少し長い。


音の始まりで息が混ざり、その後に芯ができる。


面白そうだった。


「借りられるところあるかな」


「何を?」


「トランペット」


陽太が俺を見る。


「やるの?」


「ちょっと吹いてみたい」


「また増えるのかよ」


「何が?」


「できる楽器」


まだできるとは言っていない。


ただ、音を出してみたいだけだった。




調べると、青瀬市内だけでは選べる楽器が少なかった。


少し離れたところまで含めれば、楽器を時間単位で借りられる練習施設がいくつかある。


次の休日、父さんに行き先だけ伝えて出かけた。


「何を借りるんだ」


「トランペット」


「吹いたことは?」


「ない」


父さんは少しだけ俺を見る。


「唇、痛めるなよ」


「分かった」


それだけだった。


施設では、初心者でも使える楽器を借りられた。


説明を聞いて、扱い方を確認する。落とさないこと、バルブへ無理な力をかけないこと、使い終わった後の扱い。


部屋に入ってから、トランペットを持つ。


思ったより軽い。


マウスピースを付ける。


まず息だけ通す。


当然、それでは普通のトランペットの音にはならない。


唇を合わせる。


振動させる。


一度目は、空気の中に少し音が混ざっただけだった。


もう一度。


今度は音になる。


「なるほど」


息の圧力と、唇の閉じ方。


強く押しつければいいわけではない。


むしろ余計な力は振動を邪魔する。


何回か試す。


音が安定してきた。


バルブを押す。


管の長さが変わる。


同じ息でも響く場所が変わる。


でも、それだけでは足りない。


唇の振動数も合わせる必要がある。


一つ上。


もう一つ上。


音を外す。


少し戻す。


次は当たった。


何度か繰り返すうちに、どこで息を使って、どこを変えれば音が動くのかは分かった。


短い旋律を吹く。


最初よりずっと楽に音が並ぶ。


もう一度。


さっきより滑らかになる。


面白い。


スマートフォンを置いて、録画を始めた。


特に話すことはない。


少し吹いて、止める。


違う音を試す。


また短い旋律を吹く。


十五分ほど経った頃、唇の感覚が変わってきた。


「ん」


最初と同じように吹いたつもりなのに、音の輪郭が少し崩れる。


息も、思ったより使っている。


深く吸えばまだ吹ける。


でも唇の細かい動きが、最初より遅い。


理由は分かる。


やり方を忘れたわけではない。


身体が疲れているだけだ。


もう少し吹いてみる。


高い音で、さっきより明らかに精度が落ちた。


「今日はここまでかな」


無理に続けても、音が悪くなるだけだった。


録画を止める。


吹き方は分かった。


でも、分かったからといって何十分でも同じ状態で吹けるわけではないらしい。


唇も、呼吸も、まだトランペットを吹く身体ではなかった。




 




 




〓〓〓




 




 




その日の動画は、帰ってから余計な最初と最後だけ切って投稿した。


タイトルは「トランペット」。


数日後、コメントを見る。


普通に驚いている人も多かった。


でも、少し違うことを書いている人もいる。


『本当に初めてなら意味が分からない』


『最初の数分で音の当て方変わりすぎ』


『後半だけ急に普通の初心者っぽく疲れてるの何』


『奏法の理解だけ先に行って身体がついてきてないように見える』


経験者らしい人のコメントだった。


それは合っている。


「よく分かるな」


昼休み、横から画面を見ていた陽太が言った。


「やってる人なら分かるんじゃない?」


「俺、最初から普通にうまいとしか思わなかった」


「後半は音悪くなってるよ」


「俺にはそんな分かんない」


陽太が動画を少し戻す。


「でもさ、初めてでこれなんだろ?」


「うん」


「じゃあもう吹けるってことでいいじゃん」


「短いなら」


「長いのは?」


「疲れる」


「練習すれば?」


「吹きたくなったらまた借りるよ」


毎日やる理由はない。


今のところ、トランペットで長い曲を吹きたいわけでもなかった。


「そこなんだよなあ」


陽太が机に肘をつく。


「何?」


「普通、できないから練習するんじゃないの?」


「長く吹く必要があればやるよ」


「今は?」


「ない」


「じゃあやらない?」


「うん」


陽太が笑った。


「お前らしいわ」


そこで話は終わった。




でも、知らない楽器を触るのは面白かった。


トランペットを吹いた次の週には、同じ施設でヴァイオリンを借りた。


これはトランペットより分かりやすい部分と、分かりにくい部分があった。


弦の長さを変えれば音程が変わる。


弓で弦を擦れば振動する。


原理は単純だった。


でも、指板にはギターのようなフレットがない。


少し指がずれるだけで、音程もずれる。


弓も、ただ動かせばいいわけではなかった。


弦へかける重さ。


速さ。


接触する位置。


角度。


全部で音が変わる。


最初に弓を動かす。


音が荒れる。


「強いか」


少し力を抜く。


今度は薄すぎる。


位置を変える。


音がまとまる。


何度か弾いているうちに、弓が弦へどう乗っているのか分かってきた。


左手も試す。


音を聞けば、指がどれくらいずれたか分かる。


少し高い。


戻す。


今度は合う。


旋律を弾く。


一度目より二度目。


二度目より三度目。


音の位置が揃っていく。


ただ、こちらも身体側は別だった。


姿勢そのものに慣れていない。


首と肩に余計な力が入る。


弓を持つ右手も、長く続けると少しずつ疲れる。


指先も、押さえる場所によって負担が違う。


「これも同じか」


何をすればいいかは分かる。


でも、何十分も同じ精度で続ける身体はまだない。


録画した短い演奏を投稿すると、今度は弦楽器をやっているらしい人たちが反応した。


『ボウイングの修正速度がおかしい』


『音程を耳で直してるにしても早すぎる』


『なのに肩が疲れてくるところだけ初心者で混乱する』


『上手いというより学習速度が怖い』


一般のコメントはもう少し単純だった。


『また楽器増えた』


『次は何やるんだ』


『鳴海楽、何の人なんだよ』


その最後の一つには少し納得した。


俺も特に決めていない。




 




 




〓〓〓




 




 




それから、気になった時だけ別の楽器も触った。


ドラムセットを借りた日もある。


手足を別々に動かすこと自体は、陽太にダンスを教わった時の感覚に少し近かった。


右手。


左手。


右足。


左足。


全部を別々に動かすけれど、全体では一つの流れになる。


最初に簡単なパターンを試す。


一度ずれる。


原因は分かる。


足を入れる位置が早い。


直す。


今度は合う。


次は手を増やす。


身体全体で時間を分ける感じは面白かった。


陽太から重心や全身の使い方を教わった経験も、こういう時には役に立つ。


ただ、強い音を長く続けると腕が疲れた。


特に普段あまり使わない動きは、分かっていてもだんだん遅くなる。


連続して速く叩けば前腕が重くなる。


足も同じだった。


「これも持久力いるな」


録画の途中で一度止める。


休めば戻る。


でも今は、そこまでして長時間叩く必要はない。


休んでから短いパターンをもう一度だけ録った。


その動画にも、経験者のコメントが増えた。


『リズム感がいいとかいう話じゃない』


『初回で動きの無駄を消す速度がおかしい』


『でも後半ちゃんと腕疲れてて安心した』


最後の感想は少し変だった。


俺が疲れると安心するらしい。


人間だから普通に疲れる。


音楽が分かることと、筋肉が疲れないことは関係ない。




放課後、陽太と歩きながらその話をすると、陽太は笑った。


「そりゃ安心するだろ」


「なんで?」


「何でも一瞬でできて、しかも全然疲れませんとかだったら、もう人間じゃないじゃん」


「普通に疲れるよ」


「知ってる。ダンスの時もそうだったし」


中学に入ったばかりの頃、陽太の動きを真似して失敗したことを思い出す。


見れば動きは分かる。


でも、その身体の使い方を知らなかった。


陽太に教わってから、重心や膝の使い方を覚えた。


それでも、長く踊れば疲れる。


楽器も同じだった。


「でも楽、お前さ」


「なに?」


「前よりそういうの早くなってない?」


「何が?」


「初めての動き覚えるの」


考える。


前より身体の使い方を知っているのは確かだった。


ダンス。


ギター。


ベース。


歌。


トランペット。


ヴァイオリン。


ドラム。


一つずつ違うけれど、身体をどう動かせば結果が変わるかという部分は重なる。


「使える動きが増えたからじゃない?」


「やっぱ俺がダンス教えたの役に立ってる?」


「立ってるよ」


陽太が少し嬉しそうに笑った。


「じゃあもっと感謝しろ」


「ありがとう」


「素直すぎて逆に困る」


「なんで?」


「なんでもない」


駅が近づく。


途中の信号で止まる。


向こう側を車が通っていく。


「次、何やるの?」


陽太が聞いた。


「まだ決めてない」


「また知らない楽器?」


「気になったら」


「じゃあそのうち全部やるんじゃね?」


「全部は無理でしょ」


「なんで?」


「楽器、いっぱいあるし」


世界中の全部を触る必要もない。


今は、たまたま気になった音を試しているだけだった。




何週間か経つと、前に借りたトランペットをもう一度吹きたくなった。


同じ施設へ行く。


前と同じ種類の楽器を借りる。


吹く。


最初から、前回の最後より音が安定した。


やり方は覚えている。


それだけではない。


前より少し長く吹いても、唇が崩れにくい。


一度経験した分だけ、身体も少し慣れているらしい。


だからといって、急に何時間でも吹けるわけではない。


高い音を続ければ疲れる。


長いフレーズでは息も必要になる。


でも、前よりできる。


「こうなるんだ」


面白い。


できなかったことを努力して克服した、という感じではなかった。


一度使った身体が、その分だけ変わっていた。


必要なら、また使えばいい。


必要がなければ使わない。


それでも身体は、使った分だけ前より対応できる。


短い曲を一本吹いた。


前回より長い。


途中で音も崩れない。


録画を止める。


その日はそれで十分だった。




投稿すると、前回の動画を見ていた人たちがすぐ気づいた。


『持久力上がってる』


『前の動画から時間空いてるのに奏法忘れてないのか』


『身体だけ普通の速度で追いついてきてる』


『これ、この人に時間与えたらどうなるんだ』


最後のコメントを見て、少し考える。


どうなるんだろう。


別に何かを目指しているわけではない。


でも、触ったことのない楽器はまだいくらでもある。


音も違う。


身体の使い方も違う。


構造も違う。


借りれば触れるものも多い。


だったら、弾きたくなった時に弾けばいい。


吹きたくなった時に吹けばいい。


そのうち、使える音はまた増える。


俺は画面を閉じた。


次に何を借りるかは、まだ決めていなかった。

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