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鳴海楽は努力しない  作者: 悪癖


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30/57

第30話 歌までやる

スタジオで録った声を並べていたら、前に録った空調の音が合いそうだと思った。


一定に鳴っているだけの音だった。


学校でも店でも駅でも、似た音はどこにでもある。普段は誰も気にしないし、俺も必要がなければわざわざ聞こうとはしない。


でも、消えているわけではない。


パソコンで前に録音したファイルを開く。


少し低くする。


そのままだとただの空調だった音が、声の下に置くと薄い膜みたいに残った。


「こっちの方がいいな」


もう少し削る。


高い部分はいらない。


代わりに、別の日に駅で録った電車の音を入れてみる。


発車するところではなく、ホームへ入ってくる少し前の音だった。遠くにある低い振動がだんだん近づいて、途中から車輪の音が混ざる。


そのまま使うと電車だと分かりすぎる。


短く切って、伸ばす。


高さを変えて、空調の音へ重ねる。


今度は電車というより、何かがずっと奥で動いている音になった。


悪くない。


前にスタジオで録った声を再生する。


低い声。


少し息を多くした声。


明るく上へ抜いた声。


全部俺の声だけれど、並べると同じ人間が歌っている感じが薄くなる。


そこへ空調と電車を重ねる。


机を指で叩く。


四回。


少し間を空けて、もう二回。


録音して切り分ける。


電子ドラムの音と混ぜると、ただの机の音が少しだけ残った。


全部消して電子音だけにすることもできるけれど、それだと面白くない。


机を叩いた音が机だと分からないくらい残っている方がよかった。


椅子から立つ。


服が擦れる。


その音も使えそうだった。


もう一度座って、スマートフォンを近くへ置く。


腕を動かす。


布同士が擦れる。


今度は少し大きい。


何回か録って、使いやすいところだけ残した。


画面の中に音が増えていく。


空調。


電車。


机。


服。


電子ドラム。


シンセサイザー。


前に録ったギター。


まだ足りない。


低いところにベースが欲しかった。


自分で作った電子音でも代用できるけれど、弦を鳴らした時の揺れがあった方が合う。


近いうちにスタジオへ行けばいい。


そこで借りれば済む。


曲を作り始めたつもりはなかった。


声を重ねていたら空調が欲しくなって、空調を入れたら電車も合いそうで、そこまでやったら途中で止める理由がなくなった。


夕飯までには終わらなかった。


父さんに呼ばれて、いったん保存する。


「何してた?」


食卓で父さんが聞いた。


「曲」


「珍しく時間かかってるな」


「音増やしてた」


「そうか」


それ以上は聞かれない。


俺も説明しなかった。


頭の中では、さっき止めた場所の続きが鳴っていた。




 




 




〓〓〓




 




 




次の休日、貸しスタジオでベースを借りた。


持ってみる。


ギターより少し重い。


弦も太い。


鳴らす。


一本だけでも低い音が部屋に残った。


構造そのものは分かりやすい。


どこを押さえれば、どの高さになるか。


どれくらいの強さで弾けば、どういう立ち上がりになるか。


何度か鳴らせば、曲に必要なところは分かった。


ただ、分かることと身体が楽に動くことは別だった。


「硬いな」


弦を押さえる左手に抵抗がある。


ギターでも最初に指先が痛くなった。


今度は弦が太い分、別の力が必要だった。


難しいフレーズを入れるつもりはない。


欲しいのは、低いところで一定に支える短いパートだった。


それなら今の身体でも問題ない。


何回か弾いて、録る。


一度目。


少し強い。


二度目。


今度は軽すぎる。


三度目でちょうどよくなった。


「これでいい」


ベースを置く。


せっかくスタジオに来たので、そのまま歌も録る。


マイクの前に立った。


曲はもうほとんどできている。


歌詞もある。


長くはない。


何か特別なことを書こうとは思わなかった。


空調も、電車も、机の音も、服の音も、普段からそこにある。


気にしなくても鳴っている。


誰かが聞いていなくても消えない。


それだけだった。


一度、普通に歌う。


低めの声。


力を入れすぎず、そのまま出す。


録音したものを聞く。


次は同じところを少し柔らかくする。


息を増やす。


言葉の輪郭が少し薄くなる。


その次は上へ。


明るく抜ける声。


さらに細い裏声を重ねる。


同じ旋律を全部同じ声で歌う必要はない。


主旋律の横に別の声を置く。


下にも置く。


一つは人間の声だとすぐ分かるように残す。


もう一つは少し加工して、シンセサイザーと混ざるところまで近づける。


録って、聞く。


「多いな」


一つ消す。


今度は空いた。


別の声を入れる。


少し低くして、言葉をはっきり出さない。


それで合った。


画面の中には、同じ俺の声が何本も並んでいた。


一人で歌っているのに、一人で歌う必要はなかった。


声も音なら、使い方は同じだった。


必要な場所へ必要な声を置けばいい。


予約時間の終わりが近づく。


最後にもう一度だけ主旋律を録った。


喉に痛みはない。


呼吸にも余裕がある。


無理に高いところへ持っていっているわけではないので、続けても問題はなさそうだった。


でも今日はもう必要なものが揃った。


片付ける。


帰り道、電車に乗る。


座席に座ると、足元から振動が伝わってくる。


さっき曲に入れた音とは違う。


同じ電車でも、乗っている場所で変わる。


また何かに使えるかもしれない。


スマートフォンを出しかけて、やめた。


今作っている曲にはいらない。


全部を入れればいいわけではなかった。




家へ帰ってから続きを作る。


音を重ねる作業なら、家でもできる。


スピーカーを大きく鳴らさず、ヘッドホンを使えば周りにも迷惑はかからない。


ベースを入れる。


少し位置をずらす。


ギターは前に録ったものを使った。


長く弾いているパートではない。


短く鳴らした音を切って、必要な場所へ置いている。


電子ドラムは机の音と混ぜた。


シンセサイザーの高い音は、明るい声と重なる位置を少し避ける。


声が五つあるところでは楽器を減らす。


全部鳴らすと邪魔だった。


削る。


また聞く。


もう一つ削る。


今度は空調の音が分かる。


少しだけ戻す。


ちょうどよくなった。


作業そのものは面倒ではなかった。


動画をきれいに見せるために何時間も編集するのはやりたくない。


でも、これは音を変えている。


音を切る。


置く。


重ねる。


消す。


全部、弾いているのと同じようなものだった。


気づいたら、曲は四分弱になっていた。


最初から長さを決めたわけではない。


必要なものを入れて、いらないものを外したら、そのくらいになった。


最初から最後まで聞く。


もう変えなくていい。


タイトル欄を開く。


少し考える。


雑音は、普通なら消すものだ。


録音する時も、できるだけ入らないようにする。


でも今回は、その消される側の音をずっと使っている。


しかも、消したつもりでも完全にはなくならない音が多い。


空調も。


電車も。


服も。


机も。


声の息も。


「透明なノイズ」


入力する。


《透明なノイズ》。


それでよかった。




 




 




〓〓〓




 




 




翌朝、陽太からメッセージが来ていた。


起きてすぐではなく、朝飯を食べてから気づいた。


昨日の夜に《透明なノイズ》を投稿して、そのまま寝た。


陽太から来ているのは一件だけではない。


最初は、


「新しいの上げた?」


その少し後に、


「歌お前?」


さらに、


「何人いる?」


最後に、


「全部お前って書いてあるんだけど」


そこまで読んで、返す。


「全部俺だよ」


すぐ既読になった。


「マジで?」


「うん」


「声何個あるんだよ」


数える。


途中で消したものもある。


最終的に残した声だけなら分かる。


返す。


「何本か」


「雑すぎるだろ」


「数いる?」


「いるだろ普通」


「なんで?」


返事が少し遅れた。


「もういい」


たぶん諦めた。


学校へ行く。


教室に入ると、陽太がすぐ来た。


「楽」


「おはよう」


「昨日のやつ」


「うん」


「本当に全部お前?」


「そうだよ」


「高い声も?」


「俺」


「途中の女みたいに聞こえるやつも?」


「俺」


「後ろで低く入ってるのも?」


「俺」


陽太が黙った。


顔と呼吸が一緒に止まる。


『分かってたけど、ここまでできるのかよ』


そんな音だった。


「何?」


「いや……お前、歌も普通におかしいな」


「前も歌ったでしょ」


「前と違うだろ。今回」


それは分かる。


前は声を使って遊んだものをそのまま上げたことが多かった。


今回は曲の最初から最後まで、声を楽器の一つとして配置している。


「曲にしたからじゃない?」


「それもあるけど」


陽太がスマートフォンを出す。


動画の画面を見せてくる。


コメントが増えていた。


投稿してからまだそれほど経っていない。


一番多いのは、歌っている人数についてだった。


複数人のボーカルだと思った人。


女性ボーカルがいると思った人。


コーラスだけ別人だと思った人。


説明欄のクレジットを見て、全部俺だと気づいた人。


中には、本当に一人なのか疑っている人もいる。


「これ、どうすんの?」


陽太が聞く。


「何が?」


「疑われてるけど」


「別に」


「説明しないの?」


「クレジットに書いてあるよ」


「そうだけど」


必要なら、そのうち分かると思う。


わざわざ全員に返事をする気はない。


「というか、この音何?」


陽太が動画の途中を再生する。


小さく鳴っている低い音。


「電車」


「これが?」


「加工した」


「じゃあこっちは?」


「空調」


「これは?」


「机」


「……机?」


「指で叩いた」


陽太は画面を見る。


もう一度曲を再生する。


「分かんねえ」


「そのまま使ってないからね」


「なんでそんなの入れたんだよ」


「合ったから」


「毎回理由それだな」


「他にないし」


陽太が笑った。


その会話を聞いていた近くのクラスメイトが入ってくる。


「昨日の新曲の話?」


「見た?」


陽太が聞く。


「見た。あれ鳴海一人なの?」


また同じ質問だった。


「一人だよ」


俺が答える。


「マジか。女の人いると思ってた」


「俺」


「いや、だからそれが意味分かんないんだけど」


別の席からも声が飛んでくる。


「俺、三人くらいで歌ってると思った」


「五人じゃない?」


「そんなにいる?」


話が広がる。


俺は自分の席へ鞄を置いた。


「鳴海、もう一回ここ歌える?」


「今?」


「うん」


「教室だから嫌」


「なんで?」


「授業始まるし、大きい声出したら迷惑でしょ」


「そこは普通なんだな」


何がおかしいのか分からない。


学校で急に歌えば目立つし、先生が来れば面倒になる。


わざわざやる理由はなかった。


「スタジオで録ったんだよね?」


陽太が確認する。


「うん」


「じゃあ今度録ってるとこ撮れば?」


「何のために?」


「本当に一人だって分かるだろ」


考える。


別に証明したいわけではない。


でも声を変えていくところを撮るのは、音として少し面白いかもしれない。


「気が向いたら」


「出た」


陽太が笑った。


そのうち予鈴が鳴り、みんな席へ戻った。




《透明なノイズ》は、いつもより長く見られ続けた。


投稿直後だけではなかった。


数日経っても新しい人が来る。


歌から入って、前のピアノ動画を見る人。


ピアノから見ていた人が、今度は歌に驚く。


ギターを見た人が、作曲も全部俺だと知る。


過去の動画まで一緒に動いているらしかった。


コメントを少し見る。


歌が上手い。


声が何人いるのか分からない。


雑音をどう作ったのか知りたい。


もっと歌ってほしい。


歌だけの動画も見たい。


いろいろ書いてある。


嫌ではない。


でも、次も歌うかどうかはまだ分からなかった。


歌いたくなれば歌う。


ピアノを弾きたければピアノにする。


別の楽器が面白そうなら、それを触ればいい。


《透明なノイズ》を出したからといって、歌のチャンネルになるわけではない。


「楽、歌の動画もっと出さないの?」


放課後、陽太にも聞かれた。


「まだ分かんない」


「今出したら絶対見る人多いぞ」


「そうなんだ」


「そうなんだ、じゃねえよ」


駅へ向かいながら、陽太が呆れる。


「せっかく伸びてんのに」


「歌いたくなったら出すよ」


「人気あるうちに出すとか思わない?」


「人気なくなったら歌えなくなるの?」


「ならないけど」


「じゃあ別にいつでもいいじゃん」


陽太は何か言おうとして、やめた。


「……お前に動画の話すると、たまに俺の方がおかしい気してくる」


「陽太は見てもらいたいんでしょ」


「そうだよ」


「なら考えればいいじゃん」


「お前は?」


「音出したい」


「知ってる」


それで終わった。


少し歩く。


道路の向こうをバスが通る。


エンジンの低い音に、ブレーキの空気が混ざる。


その後ろから自転車が来て、細いベルが一度鳴った。


《透明なノイズ》にはもう使わない。


あの曲は終わった。


でも別の音なら作れそうだった。


それを考えていると、陽太が横から俺を見る。


「今度は何?」


「まだ分かんない」


「歌?」


「違うかも」


「ピアノ?」


「それも分かんない」


陽太が笑う。


「じゃあ何なんだよ」


「まだ音だけ」


今はそれでよかった。


歌も声も、俺にとっては使える音が増えただけだった。

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