第30話 歌までやる
スタジオで録った声を並べていたら、前に録った空調の音が合いそうだと思った。
一定に鳴っているだけの音だった。
学校でも店でも駅でも、似た音はどこにでもある。普段は誰も気にしないし、俺も必要がなければわざわざ聞こうとはしない。
でも、消えているわけではない。
パソコンで前に録音したファイルを開く。
少し低くする。
そのままだとただの空調だった音が、声の下に置くと薄い膜みたいに残った。
「こっちの方がいいな」
もう少し削る。
高い部分はいらない。
代わりに、別の日に駅で録った電車の音を入れてみる。
発車するところではなく、ホームへ入ってくる少し前の音だった。遠くにある低い振動がだんだん近づいて、途中から車輪の音が混ざる。
そのまま使うと電車だと分かりすぎる。
短く切って、伸ばす。
高さを変えて、空調の音へ重ねる。
今度は電車というより、何かがずっと奥で動いている音になった。
悪くない。
前にスタジオで録った声を再生する。
低い声。
少し息を多くした声。
明るく上へ抜いた声。
全部俺の声だけれど、並べると同じ人間が歌っている感じが薄くなる。
そこへ空調と電車を重ねる。
机を指で叩く。
四回。
少し間を空けて、もう二回。
録音して切り分ける。
電子ドラムの音と混ぜると、ただの机の音が少しだけ残った。
全部消して電子音だけにすることもできるけれど、それだと面白くない。
机を叩いた音が机だと分からないくらい残っている方がよかった。
椅子から立つ。
服が擦れる。
その音も使えそうだった。
もう一度座って、スマートフォンを近くへ置く。
腕を動かす。
布同士が擦れる。
今度は少し大きい。
何回か録って、使いやすいところだけ残した。
画面の中に音が増えていく。
空調。
電車。
机。
服。
電子ドラム。
シンセサイザー。
前に録ったギター。
まだ足りない。
低いところにベースが欲しかった。
自分で作った電子音でも代用できるけれど、弦を鳴らした時の揺れがあった方が合う。
近いうちにスタジオへ行けばいい。
そこで借りれば済む。
曲を作り始めたつもりはなかった。
声を重ねていたら空調が欲しくなって、空調を入れたら電車も合いそうで、そこまでやったら途中で止める理由がなくなった。
夕飯までには終わらなかった。
父さんに呼ばれて、いったん保存する。
「何してた?」
食卓で父さんが聞いた。
「曲」
「珍しく時間かかってるな」
「音増やしてた」
「そうか」
それ以上は聞かれない。
俺も説明しなかった。
頭の中では、さっき止めた場所の続きが鳴っていた。
〓〓〓
次の休日、貸しスタジオでベースを借りた。
持ってみる。
ギターより少し重い。
弦も太い。
鳴らす。
一本だけでも低い音が部屋に残った。
構造そのものは分かりやすい。
どこを押さえれば、どの高さになるか。
どれくらいの強さで弾けば、どういう立ち上がりになるか。
何度か鳴らせば、曲に必要なところは分かった。
ただ、分かることと身体が楽に動くことは別だった。
「硬いな」
弦を押さえる左手に抵抗がある。
ギターでも最初に指先が痛くなった。
今度は弦が太い分、別の力が必要だった。
難しいフレーズを入れるつもりはない。
欲しいのは、低いところで一定に支える短いパートだった。
それなら今の身体でも問題ない。
何回か弾いて、録る。
一度目。
少し強い。
二度目。
今度は軽すぎる。
三度目でちょうどよくなった。
「これでいい」
ベースを置く。
せっかくスタジオに来たので、そのまま歌も録る。
マイクの前に立った。
曲はもうほとんどできている。
歌詞もある。
長くはない。
何か特別なことを書こうとは思わなかった。
空調も、電車も、机の音も、服の音も、普段からそこにある。
気にしなくても鳴っている。
誰かが聞いていなくても消えない。
それだけだった。
一度、普通に歌う。
低めの声。
力を入れすぎず、そのまま出す。
録音したものを聞く。
次は同じところを少し柔らかくする。
息を増やす。
言葉の輪郭が少し薄くなる。
その次は上へ。
明るく抜ける声。
さらに細い裏声を重ねる。
同じ旋律を全部同じ声で歌う必要はない。
主旋律の横に別の声を置く。
下にも置く。
一つは人間の声だとすぐ分かるように残す。
もう一つは少し加工して、シンセサイザーと混ざるところまで近づける。
録って、聞く。
「多いな」
一つ消す。
今度は空いた。
別の声を入れる。
少し低くして、言葉をはっきり出さない。
それで合った。
画面の中には、同じ俺の声が何本も並んでいた。
一人で歌っているのに、一人で歌う必要はなかった。
声も音なら、使い方は同じだった。
必要な場所へ必要な声を置けばいい。
予約時間の終わりが近づく。
最後にもう一度だけ主旋律を録った。
喉に痛みはない。
呼吸にも余裕がある。
無理に高いところへ持っていっているわけではないので、続けても問題はなさそうだった。
でも今日はもう必要なものが揃った。
片付ける。
帰り道、電車に乗る。
座席に座ると、足元から振動が伝わってくる。
さっき曲に入れた音とは違う。
同じ電車でも、乗っている場所で変わる。
また何かに使えるかもしれない。
スマートフォンを出しかけて、やめた。
今作っている曲にはいらない。
全部を入れればいいわけではなかった。
家へ帰ってから続きを作る。
音を重ねる作業なら、家でもできる。
スピーカーを大きく鳴らさず、ヘッドホンを使えば周りにも迷惑はかからない。
ベースを入れる。
少し位置をずらす。
ギターは前に録ったものを使った。
長く弾いているパートではない。
短く鳴らした音を切って、必要な場所へ置いている。
電子ドラムは机の音と混ぜた。
シンセサイザーの高い音は、明るい声と重なる位置を少し避ける。
声が五つあるところでは楽器を減らす。
全部鳴らすと邪魔だった。
削る。
また聞く。
もう一つ削る。
今度は空調の音が分かる。
少しだけ戻す。
ちょうどよくなった。
作業そのものは面倒ではなかった。
動画をきれいに見せるために何時間も編集するのはやりたくない。
でも、これは音を変えている。
音を切る。
置く。
重ねる。
消す。
全部、弾いているのと同じようなものだった。
気づいたら、曲は四分弱になっていた。
最初から長さを決めたわけではない。
必要なものを入れて、いらないものを外したら、そのくらいになった。
最初から最後まで聞く。
もう変えなくていい。
タイトル欄を開く。
少し考える。
雑音は、普通なら消すものだ。
録音する時も、できるだけ入らないようにする。
でも今回は、その消される側の音をずっと使っている。
しかも、消したつもりでも完全にはなくならない音が多い。
空調も。
電車も。
服も。
机も。
声の息も。
「透明なノイズ」
入力する。
《透明なノイズ》。
それでよかった。
〓〓〓
翌朝、陽太からメッセージが来ていた。
起きてすぐではなく、朝飯を食べてから気づいた。
昨日の夜に《透明なノイズ》を投稿して、そのまま寝た。
陽太から来ているのは一件だけではない。
最初は、
「新しいの上げた?」
その少し後に、
「歌お前?」
さらに、
「何人いる?」
最後に、
「全部お前って書いてあるんだけど」
そこまで読んで、返す。
「全部俺だよ」
すぐ既読になった。
「マジで?」
「うん」
「声何個あるんだよ」
数える。
途中で消したものもある。
最終的に残した声だけなら分かる。
返す。
「何本か」
「雑すぎるだろ」
「数いる?」
「いるだろ普通」
「なんで?」
返事が少し遅れた。
「もういい」
たぶん諦めた。
学校へ行く。
教室に入ると、陽太がすぐ来た。
「楽」
「おはよう」
「昨日のやつ」
「うん」
「本当に全部お前?」
「そうだよ」
「高い声も?」
「俺」
「途中の女みたいに聞こえるやつも?」
「俺」
「後ろで低く入ってるのも?」
「俺」
陽太が黙った。
顔と呼吸が一緒に止まる。
『分かってたけど、ここまでできるのかよ』
そんな音だった。
「何?」
「いや……お前、歌も普通におかしいな」
「前も歌ったでしょ」
「前と違うだろ。今回」
それは分かる。
前は声を使って遊んだものをそのまま上げたことが多かった。
今回は曲の最初から最後まで、声を楽器の一つとして配置している。
「曲にしたからじゃない?」
「それもあるけど」
陽太がスマートフォンを出す。
動画の画面を見せてくる。
コメントが増えていた。
投稿してからまだそれほど経っていない。
一番多いのは、歌っている人数についてだった。
複数人のボーカルだと思った人。
女性ボーカルがいると思った人。
コーラスだけ別人だと思った人。
説明欄のクレジットを見て、全部俺だと気づいた人。
中には、本当に一人なのか疑っている人もいる。
「これ、どうすんの?」
陽太が聞く。
「何が?」
「疑われてるけど」
「別に」
「説明しないの?」
「クレジットに書いてあるよ」
「そうだけど」
必要なら、そのうち分かると思う。
わざわざ全員に返事をする気はない。
「というか、この音何?」
陽太が動画の途中を再生する。
小さく鳴っている低い音。
「電車」
「これが?」
「加工した」
「じゃあこっちは?」
「空調」
「これは?」
「机」
「……机?」
「指で叩いた」
陽太は画面を見る。
もう一度曲を再生する。
「分かんねえ」
「そのまま使ってないからね」
「なんでそんなの入れたんだよ」
「合ったから」
「毎回理由それだな」
「他にないし」
陽太が笑った。
その会話を聞いていた近くのクラスメイトが入ってくる。
「昨日の新曲の話?」
「見た?」
陽太が聞く。
「見た。あれ鳴海一人なの?」
また同じ質問だった。
「一人だよ」
俺が答える。
「マジか。女の人いると思ってた」
「俺」
「いや、だからそれが意味分かんないんだけど」
別の席からも声が飛んでくる。
「俺、三人くらいで歌ってると思った」
「五人じゃない?」
「そんなにいる?」
話が広がる。
俺は自分の席へ鞄を置いた。
「鳴海、もう一回ここ歌える?」
「今?」
「うん」
「教室だから嫌」
「なんで?」
「授業始まるし、大きい声出したら迷惑でしょ」
「そこは普通なんだな」
何がおかしいのか分からない。
学校で急に歌えば目立つし、先生が来れば面倒になる。
わざわざやる理由はなかった。
「スタジオで録ったんだよね?」
陽太が確認する。
「うん」
「じゃあ今度録ってるとこ撮れば?」
「何のために?」
「本当に一人だって分かるだろ」
考える。
別に証明したいわけではない。
でも声を変えていくところを撮るのは、音として少し面白いかもしれない。
「気が向いたら」
「出た」
陽太が笑った。
そのうち予鈴が鳴り、みんな席へ戻った。
《透明なノイズ》は、いつもより長く見られ続けた。
投稿直後だけではなかった。
数日経っても新しい人が来る。
歌から入って、前のピアノ動画を見る人。
ピアノから見ていた人が、今度は歌に驚く。
ギターを見た人が、作曲も全部俺だと知る。
過去の動画まで一緒に動いているらしかった。
コメントを少し見る。
歌が上手い。
声が何人いるのか分からない。
雑音をどう作ったのか知りたい。
もっと歌ってほしい。
歌だけの動画も見たい。
いろいろ書いてある。
嫌ではない。
でも、次も歌うかどうかはまだ分からなかった。
歌いたくなれば歌う。
ピアノを弾きたければピアノにする。
別の楽器が面白そうなら、それを触ればいい。
《透明なノイズ》を出したからといって、歌のチャンネルになるわけではない。
「楽、歌の動画もっと出さないの?」
放課後、陽太にも聞かれた。
「まだ分かんない」
「今出したら絶対見る人多いぞ」
「そうなんだ」
「そうなんだ、じゃねえよ」
駅へ向かいながら、陽太が呆れる。
「せっかく伸びてんのに」
「歌いたくなったら出すよ」
「人気あるうちに出すとか思わない?」
「人気なくなったら歌えなくなるの?」
「ならないけど」
「じゃあ別にいつでもいいじゃん」
陽太は何か言おうとして、やめた。
「……お前に動画の話すると、たまに俺の方がおかしい気してくる」
「陽太は見てもらいたいんでしょ」
「そうだよ」
「なら考えればいいじゃん」
「お前は?」
「音出したい」
「知ってる」
それで終わった。
少し歩く。
道路の向こうをバスが通る。
エンジンの低い音に、ブレーキの空気が混ざる。
その後ろから自転車が来て、細いベルが一度鳴った。
《透明なノイズ》にはもう使わない。
あの曲は終わった。
でも別の音なら作れそうだった。
それを考えていると、陽太が横から俺を見る。
「今度は何?」
「まだ分かんない」
「歌?」
「違うかも」
「ピアノ?」
「それも分かんない」
陽太が笑う。
「じゃあ何なんだよ」
「まだ音だけ」
今はそれでよかった。
歌も声も、俺にとっては使える音が増えただけだった。




