第29話 高校生・鳴海楽
高校の教室は、中学より少しだけ広かった。
机や椅子の形が大きく変わるわけでもない。黒板があって、窓があって、前には教卓がある。
違うのは、周りに知らない顔が増えたことくらいだった。
入学して数日すると、名前と顔が少しずつ一致してくる。
俺の場合は、こっちが覚えるより先に向こうから知られていることがあった。
「鳴海って、動画やってる鳴海?」
休み時間、前の席の男子が振り返った。
「やってるよ」
「やっぱりそうなんだ」
横から別の声が入る。
「俺も見たことある。ピアノ弾いてるやつ」
「俺はギターの見た」
「歌ってるのもあったよな?」
話しているうちに、周りから何人か集まってきた。
珍しいらしい。
中学でも似たことはあったけれど、高校には別の中学校から来た人も多い。その分、俺を動画で先に知っていた人が混ざっていた。
「本当に本人なんだ」
「名前そのままだしね」
「いや、そうだけどさ」
前の男子が笑う。
「登録者、結構いるよな?」
「いるみたい」
「みたいって、自分のだろ?」
「うん」
「普段見ないの?」
「たまに見るよ」
毎日確認するほどではない。
投稿した動画がちゃんと出ているか確認する時や、コメントに何か必要なことが書かれていないかを見る時は開く。
数字が増えていても、減っていても、それだけなら特にやることはない。
「次、何上げるの?」
「まだ決めてない」
「動画って予定立てないの?」
「俺はあんまり」
「投稿頻度とかは?」
「決めてない」
「ジャンルも?」
「決めてないよ」
相手が少し困った顔をした。
質問には全部答えたつもりだった。
「じゃあ何のチャンネルなんだよ」
「音楽?」
俺が答えると、近くで聞いていた陽太が笑った。
「それ、中学でもずっと言われてたぞ」
「そうだっけ」
「言われてた。ピアノ弾いた次にギターやって、その次に変な多重録音してたら、そりゃ何の人か分かんなくなるだろ」
「全部音楽じゃん」
「お前の中ではな」
周りも笑った。
悪い感じではない。
面白がっているだけだった。
予鈴が鳴る。
集まっていた人たちが席へ戻る。
俺も教科書を出した。
授業が始まれば、動画をやっているかどうかは関係なかった。
高校の授業は、中学より少し進むのが速かった。
それでも、説明を聞けばだいたい分かる。
課題をやって、終われば次に進む。
宿題に回されそうなところまで終われば、後でやることが減る。
中学の時と同じだった。
英語だけは、知らない単語が前より増えた。
知らないものは知らないので、授業で出てきた時に覚える。
必要なところまで分かれば、それ以上を自分から勉強することはなかった。
「鳴海、もう終わったの?」
授業中、近くの女子が小声で聞いてきた。
「うん」
「次のページまで?」
「先生がやっていいって言ったから」
「早くない?」
「そう?」
「早いよ」
前でも似たことを言われた。
俺にとっては、問題を読んで答えを書いただけだった。
先生が黒板へ次の説明を書き始める。
まだ少し時間がある。
窓の外を見る。
春の風で木が揺れていた。
教室の中には、紙をめくる音、鉛筆が止まる音、椅子が小さく鳴る音が重なっている。
高校になったからといって、学校の音そのものがまったく別になるわけではない。
人が違えば、組み合わせは変わる。
それを聞いているうちに、一つ使えそうな形が浮かんだ。
でも今は授業中なので、何もしない。
後で使えばいい。
〓〓〓
昼休みになると、陽太が俺の机へ来た。
「今日、体育館の方見に行かない?」
「何かあるの?」
「ダンス部あるか見たい」
「入るの?」
「まだ分かんない。見てから」
中学では、陽太は特定の部に入らず、自分で練習したり動画を撮ったりしていた。
高校でも同じにするか、部活へ入るか考えているらしい。
「行く」
「暇だから?」
「うん」
「即答すんなよ」
二人で教室を出る。
廊下を歩いていると、知らない生徒から声をかけられた。
「鳴海くん?」
止まる。
別のクラスの女子だった。
「はい」
「あの、動画見てます」
「ありがとう」
一瞬、相手が止まった。
何か続きを待っているらしい。
でも何を言えばいいのか分からない。
「……ピアノの動画、すごく好きです」
「そっか」
「はい」
「ありがとう」
今度はちゃんと終わったようだった。
相手が軽く頭を下げて離れていく。
陽太が横で見ていた。
「お前、もうちょっとなんかないの?」
「何が?」
「ファン対応」
「ありがとうって言ったよ」
「言ったけど」
「じゃあいいじゃん」
「まあ、悪くはないけどさ」
陽太が少し笑う。
「昔から変わんねえな」
「高校入っただけだし」
「そういう意味じゃねえよ」
そのまま体育館の方へ向かった。
途中でも、何人かに見られた。
知っている人もいれば、知らない人もいる。
俺の名前だけ聞いたことがある人もいるらしい。
でも、だからといって何かをする必要はなかった。
学校では授業を受ける。
休み時間には話す。
放課後になれば帰るか、必要ならどこかへ行く。
動画の中にいる時だけ別人になるわけでもない。
数週間経つと、クラスの中でも俺が動画を出していることはほとんど知られていた。
最初ほど毎日聞かれることはない。
珍しいものでも、近くにずっといれば慣れるらしい。
「鳴海、昨日の見た」
朝、席に着くと前の男子が言った。
「何を?」
「新しい動画」
「昨日上げたやつ?」
「そう。それ」
少し考える。
前の日に上げたのは、貸しスタジオで録った短い曲だった。
ギターを借りたけれど、途中からギターを使うより別の音を入れた方が面白くなって、結局ギターは少ししか残っていない。
「最後の音、何?」
「ドア」
「ドア?」
「スタジオの」
「楽器じゃないじゃん」
「音はするよ」
「そりゃするけど」
前の男子が笑った。
横の席の女子も話に入ってくる。
「私、あれ電子音だと思った」
「加工したからね」
「ドアの音を?」
「うん」
「なんで?」
「使えそうだったから」
それ以上の理由はない。
二人とも少し黙ってから、また笑った。
「鳴海って、普通の曲作らないの?」
「作るよ」
「普通って何?」
別の男子が聞く。
最初に質問した本人も少し考えた。
「なんか、ピアノだけとか」
「それなら前にあるよ」
「そうじゃなくて、新しく」
「弾きたくなったら」
結局いつもの答えになった。
周りも、だんだんそれを分かってきたらしい。
「予定はないんだな」
「ないよ」
「知ってた」
会話がそれで終わる。
以前なら、もっと不思議そうにされていた。
高校に入ってまだ長くないのに、少しずつ扱い方を覚えられている気がする。
〓〓〓
放課後、陽太と一緒に駅の方へ歩いた。
陽太は結局ダンス部には入らなかった。
見学はしたけれど、自分でやりたいことと少し違ったらしい。
学校の施設が使える時は使い、それ以外は中学の時と同じように外で練習することにした。
「楽、今日スタジオ?」
「うん」
「また?」
「予約取れたから」
「何やるの?」
「まだ決めてない」
「予約してから決めるなよ」
「音出すのは決まってるよ」
「それは知ってる」
陽太は途中で別の道へ曲がる。
今日はダンスの練習がある。
「じゃあまた明日」
「うん」
一人になって、駅へ向かう。
電車で遠くへ行くわけではない。
青瀬市内の貸しスタジオまで移動するだけだ。
高校へ入ってからも、制作環境は変わっていない。
家には防音室がない。
ピアノもギターも置いていない。
大きな音を出したければ、学校で許可を取って使える場所を借りるか、スタジオへ行く。
今日は歌も少し試したかったので、スタジオにした。
受付を済ませて部屋へ入る。
予約した時間だけ、自分の場所になる。
スマートフォンを置く。
マイクを確認する。
まだ何を作るかは決めていない。
とりあえず声を出す。
低いところから上げる。
同じ高さでも、息の量を変えると音が変わる。
喉の使い方を少し変える。
口の中の形を変える。
同じ自分の声なのに、別の人間みたいになるところがある。
前にも何度か試しているけれど、まだ使っていない音は多い。
一つ録る。
聞く。
もう一つ重ねる。
二つだけだと少し薄い。
三つ目を入れる。
今度は近すぎる。
少し離す。
声を楽器として重ねるのは面白かった。
曲にするつもりはなかったのに、繰り返しているうちに短い形ができる。
そのまま続きを作る。
予約時間の終わりが近づいたところで止めた。
全部完成させる必要はない。
保存して帰る。
家へ戻ってから少しだけ触って、その日は投稿しなかった。
まだ別の形にできそうだった。
チャンネルは、高校へ入ってからも少しずつ伸びていた。
新しい動画を出せば、前より早く見られる。
昔の動画にもコメントが付く。
中学の頃に上げたピアノ動画から来る人もいれば、ギターや歌から来る人もいる。
何か一つを見て登録した人が、別の動画を見て驚いていることも多かった。
「この人ピアノの人じゃなかったのか」
「歌も本人?」
「ギターまでやるの?」
似たような内容を何度も見る。
俺としては、どれも自分でやっているだけなので特に違いはない。
学校では、その反応を直接言われることもあった。
「鳴海って結局、一番得意なの何?」
昼休み、クラスメイトに聞かれた。
「音楽」
「広すぎるだろ」
「でもそうだよ」
「ピアノじゃなくて?」
「ピアノも得意」
「作曲は?」
「できるよ」
「歌は?」
「できる」
「ギターは?」
「まだ指痛くなる時ある」
「そこだけ急に普通だな」
相手が笑った。
指先の皮膚は才能で硬くならない。
弾く回数が増えれば慣れるけれど、それには時間がかかる。
「でも、前より長く弾けるよ」
「練習してるってこと?」
「借りた時に弾いてる」
「それを練習って言うんじゃない?」
「そうなの?」
「知らんけど」
よく分からなかった。
必要な分だけ弾いているだけだ。
弾けるようになるまで毎日何時間もやるわけではない。
その音が必要になれば、使えるところまで身体を慣らす。
必要がなくなれば別のことをする。
俺にはそのくらいで十分だった。
〓〓〓
高校生活そのものは、思っていたより中学と変わらなかった。
授業を受ける。
課題を終わらせる。
昼休みに陽太と話す。
放課後は、使える場所があれば音を出す。
何もなければ帰る。
時々、動画を見ている人から話しかけられる。
最初は遠慮していた人も、慣れると普通に話すようになった。
「鳴海、数学見せて」
「いいよ」
「動画の人に宿題借りてるの変な感じするな」
「同じクラスなんだから普通じゃない?」
「それもそうか」
別の日には、音楽の話をされる。
「今度これ弾いてよ」
「なんで?」
「聞きたいから」
「気が向いたら」
「本当にやる気ないな」
「弾きたくなったら弾くよ」
それでも嫌われている感じはなかった。
少し変なやつだとは思われている。
たぶん中学の時もそうだった。
俺自身は特に困っていない。
陽太もいる。
他にも普通に話す人は増えた。
動画をやっているから友達になるわけでもなければ、動画を見ていないから話さないわけでもない。
学校では、それで十分だった。
ある日の放課後。
教室に残っていたのは、俺と陽太を含めて数人だけだった。
陽太は机に座ってスマートフォンを見ている。
「楽」
「なに?」
「また増えてる」
「何が?」
「登録者」
「そうなんだ」
「見ろよ」
画面を向けてくる。
確かに前より増えている。
「増えたね」
「感想それだけ?」
「うん」
「もっと喜べよ」
「嫌じゃないよ」
増えるのは悪いことではない。
見たい人が増えたなら、それでいい。
ただ、それを目的に何かを変える気はなかった。
「次の動画、伸びそうなの作ろうとか思わない?」
「何が伸びるか分かるの?」
「ある程度は分かるだろ。人気の動画とか見れば」
「面倒」
「即答かよ」
「伸びるために作るより、作ったの上げる方が楽だし」
陽太が少し考える。
「まあ、お前はそうだよな」
「陽太は違うの?」
「俺は見てもらいたいから考えるよ。どう撮るかとか、何やるかとか」
「そっか」
それは陽太には必要なのだろう。
俺には必要ない。
違うだけだった。
陽太がスマートフォンをしまう。
「でもお前、そのやり方で増えてんのズルいよな」
「ズルい?」
「いや、別に悪いって意味じゃなくて」
陽太は笑った。
「なんか、動画投稿者っぽくないのに動画伸びてる」
「投稿してるから動画投稿者でしょ」
「そうなんだけどさ」
その時、廊下から誰かが走る足音が聞こえた。
教室の外で止まって、別の声が重なる。
窓の隙間から風が入る。
机の上のプリントが少し動いた。
その音に、さっきスタジオで重ねた声の一つが頭の中で重なった。
悪くない。
もう少し電子音を足せば使えそうだった。
「楽?」
「なに?」
「またなんか考えてる?」
「うん」
「曲?」
「たぶん」
陽太が笑う。
俺も机の上の鞄を取った。
高校生になっても、結局やっていることはそんなに変わらない。
暇になれば音が聞こえる。
面白ければ遊ぶ。
撮っていれば、後で上げる。
それだけで、チャンネルの向こう側には少しずつ人が増えていた。




