第28話 受験勉強
冬になると、陽太が前より早く帰るようになった。
放課後に少し話して、そのまま教室を出る日が増える。多目的室へ行くこともあるけれど、前ほど長くは残らない。
「今日も塾?」
「今日は家。問題集やる」
「毎日やってるね」
「受験生だからな」
陽太は当然みたいに言った。
中学三年の冬。
進路希望の紙を出したり、面談があったり、教室でも受験の話が増えている。
俺も受験生ではある。
「楽は?」
「なにが?」
「勉強」
「授業でやってるよ」
「そうじゃなくて受験勉強」
「してない」
陽太が止まった。
鞄を肩へ掛けたところで、そのまま俺を見る。
「マジで?」
「うん」
「問題集とか過去問とか」
「やってない」
「塾は?」
「行ってないよ」
「知ってるけど」
陽太はため息をついた。
その音には、呆れと少しの苛立ちが混ざっている。
「お前、志望校どこだっけ」
「青瀬高校」
「俺と同じじゃん」
「うん」
「じゃあ勉強しろよ」
「なんで?」
「受験あるからだよ!」
教室に残っていた何人かがこっちを見る。
陽太は少し声を落とした。
「落ちたらどうすんだよ」
「たぶん落ちないよ」
「その自信どっから来んの?」
考える。
どこからと言われても、授業でやっている内容ならだいたい分かる。
定期試験でも困っていない。
先生から、今の成績なら青瀬高校は問題ないと言われている。
「先生も大丈夫って言ってたし」
「それでも普通はやるだろ」
「必要ならやるよ」
「必要だろ、受験なんだから」
「今のところ必要じゃないと思う」
陽太がしばらく俺を見る。
『なんでこいつはこうなんだ』
そういう音が分かりやすく出ていた。
でも本気で怒っているわけではない。
「……一回、過去問やれ」
「なんで?」
「いいから」
「陽太の?」
「俺のじゃねえよ。高校の」
それは分かっている。
「一回やって、点数見て、それで余裕なら俺も何も言わん」
「別にいいけど」
「じゃあ明日持ってくる」
「陽太が使うやつじゃないの?」
「コピー取るからいい」
「分かった」
陽太はまだ少し納得していない音を残したまま教室を出た。
翌日の昼休み、本当に持ってきた。
「はい」
机に数枚の紙を置かれる。
「昨日コピーした」
「ありがとう」
「時間測ってやれよ」
「今?」
「今全部やるな。昼休み終わるわ」
確かに。
午後の授業がある。
「じゃあ家でやる」
「ちゃんとやれよ」
「やるよ」
陽太は俺が信用できないらしい。
その日の授業が終わった後、紙を鞄へ入れた。
〓〓〓
家へ帰ると、父さんは仕事中だった。
リビングの机にパソコンを開いている。
俺は部屋へ行く前に声をかけた。
「父さん」
「何だ」
「受験の過去問やる」
父さんが少しだけこっちを見る。
「珍しいな」
「陽太がやれって」
「そうか」
それで会話は終わった。
自分の部屋へ行って、机に紙を広げる。
時間も測れと言われたので、スマートフォンを置く。
試験の形式は学校の定期試験と少し違う。
問題数も多い。
でも、書いてある内容は見たことがあるものばかりだった。
数学をやる。
国語をやる。
英語をやる。
理科と社会も見る。
分からない問題がまったくないわけではない。
社会の細かい用語で一つ迷ったし、国語の記述は採点する人によって少し変わりそうだった。
英語も、単語の意味を一つ確認したくなるところがあった。
それでも、全体として困るほどではない。
最後まで終わらせて時計を見る。
制限時間よりかなり余っていた。
答え合わせをする。
間違えたところを見る。
「ああ」
社会の一問は、選択肢を読み違えていた。
もう一つは普通に覚えていなかった。
そこだけ教科書で確認する。
一度読めば十分だった。
それ以外は特にやることがない。
部屋を出る。
父さんはまだパソコンを見ていた。
「終わった」
「どうだった」
「大丈夫そう」
「ならいい」
父さんは点数を聞かなかった。
俺も言わなかった。
聞かれれば答えるけれど、別に重要ではない。
夕飯まで少し時間がある。
動画を一つ確認する。
前にスタジオで録った短い曲が、まだ投稿していなかった。
切る必要がある部分だけ切って、そのまま上げる。
タイトルを付けて、投稿する。
受験勉強をした日でも、やることはあまり変わらなかった。
次の日。
「やった?」
朝、教室へ入るとすぐ陽太に聞かれた。
「やったよ」
「何点?」
答える。
陽太が黙った。
「……全部?」
「全部」
「時間は?」
「余った」
「マジかよ」
「うん」
陽太が自分の机へ突っ伏した。
「俺、昨日数学だけでめっちゃ時間使ったんだけど」
「前よりできるようになってるでしょ」
「そういう話じゃない」
「じゃあ何?」
「お前がムカつくって話」
「なんで?」
「そういうとこだよ!」
でも、本気で怒っている音ではなかった。
俺の机を軽く叩いてから、陽太は顔を上げる。
「で、どうすんの」
「何が?」
「受験勉強」
「たぶんしない」
「だろうな!」
予想通りだったらしい。
「でも間違えたところは見たよ」
「そこだけ?」
「うん」
「……まあ、それで受かるならいいけどさ」
陽太は納得していない。
ただ、昨日よりは諦めた音になっていた。
「陽太はやるの?」
「やるよ。当たり前だろ」
「そっか」
「俺はお前みたいに一回見て終わりじゃねえの」
「知ってるよ」
陽太は少しずつ点数を上げている。
前の模試より、今の方ができている。
授業中に分からなかった問題も、家でやって次には解けるようになっている。
それを続けている。
「最近、数学よくなったよね」
俺が言うと、陽太が少し止まる。
「……まあな」
今度は少し嬉しい音だった。
「塾で同じとこ何回もやったから」
「じゃあ意味あったね」
「あるに決まってんだろ」
「ならいいじゃん」
「お前に言われるとなんか腹立つな」
「褒めたのに」
「分かってるよ」
陽太が笑った。
その後は普通に授業が始まった。
〓〓〓
進路面談では、担任にもう一度確認された。
「鳴海は青瀬高校でいいんだな?」
「はい」
「他に考えている学校は?」
「ないです」
「理由は?」
少し考える。
「近いから」
先生が一瞬黙った。
隣に座っている父さんは何も言わない。
「……近いから?」
「歩いても行けるし、今と生活あんまり変わらないので」
青瀬高校は地元の公立高校だ。
電車を使って遠くまで行く必要もない。
特別にやりたいことがある学校もない。
だったら近い方が楽だった。
先生は資料を見る。
「成績上は問題ない。内申も十分。ただ、もう少し上を狙う選択肢もあるぞ」
「遠いですか?」
「学校によるな」
「じゃあいいです」
先生が父さんを見る。
「お父さんは、それで?」
「本人が決めたなら構いません」
「進学先について、特に希望は?」
「卒業できる場所なら」
先生がまた少し止まった。
父さんは本気だった。
俺もそれでいいと思う。
大学へ行くかどうかも、今はまだ決めていない。
音楽は学校がなくてもできる。
でも高校へ行かない理由も特にない。
近くにあるなら、行けばいい。
「……分かりました」
先生は最後にそう言った。
面談はそれで終わった。
冬休みに入ってから、陽太と会う回数は少し減った。
塾の日が増えたからだ。
それでも、何日かに一度はメッセージが来る。
『数学のこれ分かる?』
写真が送られてくる。
問題を見る。
答えだけ返すと怒られるので、途中も書く。
『なんでそこそうなる?』
もう少し説明する。
『あー分かった』
しばらくすると、
『これも』
また来る。
俺は分かるところだけ答えた。
教えるのは別に嫌ではない。
ただ、陽太が自分で考えている途中に全部言うと、たぶん邪魔になる。
だから聞かれたところだけ答える。
ある日、通話がかかってきた。
「楽」
「なに?」
「今何してた?」
「曲作ってた」
「受験生が?」
「陽太も受験生でしょ」
「俺は勉強してたんだよ!」
「知ってる」
「お前ほんと腹立つな」
声は笑っていた。
「で、何?」
「英語」
「どこ?」
問題を見ながら話す。
陽太が間違えたところを聞く。
文法の説明をすると、途中で「あ、それか」と声が変わった。
分かったらしい。
「じゃ、ありがと」
「うん」
「お前も少しは勉強しろよ」
「必要になったらする」
「一生言ってろ」
通話が切れた。
俺は途中だった曲へ戻った。
年が明ける。
学校でも受験の空気がもっと濃くなった。
休み時間に単語帳を見ている人が増える。
放課後に残って問題を解く人もいる。
先生も何度も体調管理の話をする。
俺は授業を受けて、出された課題を終わらせる。
時間が余れば、その日の宿題もやる。
それでも余れば、窓の外を見る。
雪が少し積もっていた。
風で表面が動く。
校庭を走る人の足音が、夏より少し鈍い。
暖房の音も混ざっている。
それを聞いていると、曲の形が少し浮かぶ。
でも授業中なので何もしない。
後で覚えていれば使えばいい。
忘れることはない。
「楽」
授業が終わってから、陽太が来た。
「模試返ってきた」
「どうだった?」
「上がった」
見せてくる。
前よりかなり良くなっていた。
「青瀬、いけそうだね」
「先生にも言われた」
陽太の声は嬉しい。
でもまだ完全には安心していない。
「じゃあこのままやればいいんじゃない?」
「やるよ」
「うん」
「お前は?」
「何が?」
「だから勉強!」
「してないよ」
「もう聞くのやめるわ」
「そうした方がいいと思う」
「腹立つ!」
でも陽太は笑っていた。
〓〓〓
試験当日。
父さんに起こされる前に目が覚めた。
朝ご飯を食べて、必要なものを確認する。
受験票。
筆記用具。
時計。
父さんが玄関で言う。
「忘れ物は」
「ない」
「なら行ってこい」
「行ってきます」
特別なことはなかった。
会場へ着くと、知っている顔が何人もいる。
陽太もいた。
「楽」
「おはよう」
「緊張してないの?」
「してない」
「だよな」
陽太はしている。
呼吸が普段より少し浅い。
肩にも力が入っていた。
「大丈夫でしょ」
「お前に言われても説得力ねえんだよ」
「なんで?」
「余裕すぎるから」
でも、少しだけ呼吸が戻った。
「昨日ちゃんと寝た?」
「寝た」
「なら大丈夫だよ」
「……うん」
試験が始まる。
問題用紙を開く。
見たことのある形が並んでいる。
一問目から順番に解く。
分からなければ飛ばすつもりだったけれど、ほとんどその必要はなかった。
最後まで行って、見直す。
時間が余る。
だからもう一度見る。
それでも余る。
時計の針が動く音を聞きながら待つ。
次の科目も同じだった。
難しい問題はある。
でも、解けないほどではない。
受験だからといって、急に知らない世界になるわけではなかった。
全部終わって外へ出る。
陽太が少し遅れて来た。
「どうだった?」
「普通」
「それ一番ムカつく答えだな」
「陽太は?」
「数学一個ミスったかも」
「他は?」
「たぶん大丈夫」
「じゃあ大丈夫じゃない?」
「結果出るまで分かんねえよ」
それはそうだ。
二人で駅の方へ歩く。
しばらく受験の話をしていたけれど、途中から陽太が別の話を始めた。
最近上げたダンス動画。
俺が少し前に投稿した曲。
高校へ行ったら使えそうなスタジオ。
話しているうちに、試験のことはだんだん後ろへ行った。
合格発表の日。
陽太は自分の番号を見つけるまで、かなり真剣な顔をしていた。
見つけた瞬間、音が一気に変わる。
「……あった」
「よかったね」
「楽は?」
「あるよ」
「もう見つけたの?」
「うん」
「早えよ」
俺の番号もあった。
合格した。
予想していた通りだった。
陽太はまだ掲示を見ている。
嬉しいのと安心したのとで、しばらく動きたくないらしい。
「楽」
「なに?」
「高校も同じだな」
「そうだね」
「またよろしく」
「うん」
それから少しして、陽太が笑った。
「今度こそクラス別かもな」
「そうかも」
「三年間ずっと一緒だったら逆にすごいけど」
「別でも会うでしょ」
「まあな」
クラスが違っても、友達なのは変わらない。
だからどちらでもよかった。
春。
長野県青瀬高等学校へ入学した。
新しい制服を着て、教室へ入る。
黒板の横に貼られた名簿を見る。
自分の名前を探す。
鳴海楽。
その少し下。
相沢陽太。
「また同じだ」
後ろから声がした。
振り返ると陽太がいる。
陽太も名簿を見て、すぐ笑った。
「マジかよ」
「三年間ずっと一緒かもね」
「中学から数えたら六年だぞ」
「まだ高校始まったばっかりだけど」
「そうだけどさ」
陽太は教室の中を見る。
知らない顔が多い。
俺の方を見る人も何人かいる。
どこかで見たことがある、という音も混ざっていた。
たぶん動画だ。
でも今は入学したばかりだ。
席へ行く。
鞄を置く。
陽太も近くの席だった。
「高校でもよろしく、楽」
「うん。よろしく、陽太」
窓の外から、春の風が入ってきた。
中学とは少し違う校舎の音がする。
それを聞きながら、俺は新しい席に座った。




