第14話 もう習わなくていい
六年生になった秋、九条はもう小学生部門にいなかった。
俺は小学生部門。
九条は中学生部門。
去年まで同じところで名前を呼ばれていたのに、今年は出る時間も順番も違う。
「楽くん、これで小学生部門は最後ね」
全国大会の日、水原が言った。
「うん」
「一年生からだから、六回目」
「そんなに出た?」
「出たわよ」
水原が笑う。
俺は毎年の演奏なら全部覚えている。
会場の音。
ピアノ。
客席。
九条の演奏。
自分が弾いた音。
でも、何年前だったかは、数えないと分からないことがある。
毎年秋になったら出る。
それを繰り返していただけだった。
「今年は九条さん、いないわね」
「いるよ」
俺は客席の方を見る。
水原もそっちを見た。
少し離れた席に九条がいる。
中学生部門の方は自分の出番をもう終えたらしい。
なのに帰らず、小学生部門を見ていた。
こっちを見つけると目が合った。
九条が少し顎を上げる。
俺も手を上げた。
「見に来たのね」
水原が言う。
「たぶん俺を?」
「そうでしょうね」
九条からは、かなり強い音がしていた。
去年までと同じ。
勝ちたい。
聞きたい。
確かめたい。
中学生になっても、あまり変わらない。
「楽」
父さんが隣から言う。
「なに?」
「呼ばれるぞ」
係の人がこっちへ来ていた。
「鳴海楽さん、お願いします」
「うん」
俺は立った。
舞台へ出る。
六回目でも、この場所の音は去年と同じではない。
人が違う。
ピアノの状態も違う。
俺の身体も違う。
手は一年生の頃よりずっと大きくなった。
あの頃は届かなかった場所にも、今は普通に届く。
椅子へ座る。
客席の中に九条がいるのも分かる。
かなり集中している。
でも、今は九条に聞かせるために弾くわけじゃない。
最初の音を出す。
今日のピアノが返す。
一つ。
もう一つ。
分かった。
そのまま続ける。
六年続けても、本番でやることは同じだった。
この会場で。
このピアノで。
今の俺の手で。
一番いいと思うように鳴らす。
それだけ。
前に弾いた時の正解をそのまま持ってくる必要はない。
前回とは違うから。
少し弱く。
ここは待つ。
次は前へ出す。
客席の空気が変われば、それも使う。
集中が深くなれば、小さい音をもっと小さくできる。
それでも届く。
曲が進む。
途中で、客席の一か所だけ妙に強い集中がある。
九条だった。
聞きながら、何かを比べている。
たぶん去年までの俺と。
それとも自分と。
どっちでもいい。
俺は次の音を出す。
終わる。
最後の響きが消える。
立つ。
お辞儀。
拍手。
戻る。
舞台袖に入ると、水原が待っていた。
「お疲れさま」
「うん」
「六年目でも変わらないわね」
「何が?」
「本番で平気なところ」
「弾くだけだし」
「普通は、その『弾くだけ』が難しいのよ」
何年も聞いた話だった。
俺にはまだよく分からない。
でも、水原が言うなら、そういう人が多いのだろう。
「今年も良かったわ」
「うん」
「自分でも?」
「悪くなかったよ」
「そう」
水原は少し笑った。
それで終わった。
〓〓〓
九条綾音は、小学生部門の客席に残っていた。
自分の演奏はもう終わっている。
本当なら、先生と今日の演奏について話してもよかった。
ほかの中学生の演奏を聞いてもよかった。
それでも私はここにいた。
鳴海くんが今年、どんな演奏をするのか聞きたかったから。
一年生だった鳴海くんは、もう六年生になっていた。
最初に会った時より背も伸びた。
手も大きくなった。
舞台の上での動きにも、もう幼い子供らしい危なっかしさはない。
でも、変わっていないところもある。
緊張しているように見えない。
誰かと競っているようにも見えない。
ただピアノへ座る。
そして弾く。
それが腹立たしいくらい自然だった。
最初の音が出た。
私は息を止める。
今年も違う。
去年の鳴海くんとも違う。
一昨年とも違う。
上手くなったというだけではない。
その日の会場に合わせて、最初から形が変わる。
私なら、本番までに作った演奏がある。
もちろんピアノやホールに合わせて調整はする。
でも中心には、積み上げてきたものがある。
鳴海くんにも、教わったことや経験はあるはずだ。
なのに、聞いていると時々思う。
この子は本番のその場で、完成形そのものを決め直しているんじゃないか。
一つの音。
次。
ほんの少しの間。
強弱。
どれも特別変なことはしていない。
私にもできる。
黒川先生ならもっと細かく説明できる。
それなのに、全部を合わせると届かない。
「……また」
小さく声が出た。
隣の母が私を見る。
「何?」
「何でもない」
舞台を見る。
今年、私は中学生部門へ移った。
もう鳴海くんとは直接順位を争わない。
だから去年までとは違う気持ちで聞けるかと思っていた。
全然そんなことはなかった。
むしろ、直接比べられない方が落ち着かない。
鳴海くんの演奏が終わる。
拍手する。
私も強く手を叩いた。
良かった。
それは認める。
認めた上で、やっぱり悔しい。
結果発表でも、鳴海くんは第1位だった。
これで一年生から六年生まで。
小学生部門で六年続けて全国第1位。
周りでも、その話をしている人がいた。
「また鳴海くんだ」
「六年全部?」
「全部らしいよ」
「一度も落としてないの?」
そんな声が聞こえる。
私は知っている。
毎年、そのすぐ近くにいたから。
鳴海くんが戻ってきた。
「九条」
向こうから呼ばれる。
珍しい。
「何?」
「見てたんだね」
「見てたわよ」
「中学生部門終わったの?」
「終わった」
「そっか」
それだけで終わろうとする。
「ちょっと待って」
「なに?」
「今年も第1位ね」
「うん」
「六年連続」
「水原もそう言ってた」
「自分では数えてなかったの?」
「うん」
私は額を押さえたくなる。
「あなたね」
「なに?」
「普通、六年連続で全国第1位なら覚えてるでしょう」
「曲は覚えてるよ」
「賞の話をしてるの」
「賞も取ったのは覚えてる」
「数を覚えてないのね」
「必要なかったし」
やっぱり鳴海くんだった。
腹が立つ。
でも、今さらそこに驚きはしない。
「来年」
私が言う。
「来年?」
「あなたも中学生になるでしょう」
「ああ」
「今度はまた同じ部門よ」
鳴海くんは少し考える。
たぶん本当に今気づいた。
「そうなるんだ」
「そうなるの」
私ははっきり言う。
「今度こそ勝つから」
「うん」
「その返事も久しぶりね」
「そう?」
「そうよ」
でも、今年は怒らなかった。
来年また同じ舞台に立てる。
それならいい。
今年は直接比べられなかった。
でも次は違う。
私は中学二年。
鳴海くんは中学一年。
また同じ部門。
一年あれば、もっと上手くなれる。
今年の私では足りなくても、来年の私は違う。
「来年、ちゃんと来てよ」
「水原が必要って言えば出るんじゃない?」
「何よ、それ」
「ずっとそうだよ」
知っている。
知っているけれど、やっぱり腹が立つ。
「じゃあ水原先生に言っておいて。必要だって」
「なんで俺が?」
「もういい」
私は息を吐いた。
来年。
その言葉だけは、頭に残った。
〓〓〓
大会が終わった日の夜。
家へ帰って、飯を食べた。
賞状は父さんが机の端に置いた。
俺はテレビを見ながら、今日聞いた音を頭の中で遊ばせていた。
しばらくして、父さんが言った。
「楽」
「なに?」
「もう習わなくていい」
テレビから目を離す。
「ピアノ?」
「ああ」
「水原のところも?」
「行かなくていい」
「コンクールは?」
「出なくていい」
急だった。
でも父さんの中では、急ではなかったらしい。
前から決めるために見ていた音がする。
「なんで?」
俺が聞く。
父さんは短く答えた。
「六年やって、全国で毎年結果が出た」
「うん」
「最悪でもピアノで食っていける」
最初に水原のところへ行った時の話を思い出す。
将来、この子がピアノで食べていけるくらいにしてほしい。
父さんはそう頼んだ。
世界一にするとか。
有名にするとか。
そういう話ではなかった。
自分で食べられるようにする。
最初からそれだけだった。
「じゃあ終わり?」
「俺が必要だと思ってた分はな」
「そう」
少し考える。
水原のところへ行けばピアノは弾ける。
知らない曲もあった。
でも、もう教わらないとできないことはほとんどない。
楽譜も読める。
舞台の決まりも分かる。
指使いも、身体を無理に使わない方法も習った。
コンクールも何度も出た。
行かなくていいなら。
「分かった。じゃあやめる」
父さんが俺を見る。
「いいのか」
「行かなくていいんでしょ?」
「ああ」
「じゃあいい」
「そうか」
それで決まった。
「ピアノは弾いていい?」
「好きにしろ」
「学校でも?」
「学校の決まりの範囲ならな」
それなら音がなくなるわけではない。
ピアノ教室に行かなくなるだけだった。
父さんはその場で水原へ連絡した。
少し話してから、俺へ電話を渡す。
「楽くん?」
水原の声だった。
「うん」
「お父さんから聞いたわ」
「俺、もう行かない」
「……そうなのね」
残念。
寂しい。
まだ教えたい。
もっと外で弾いてほしい。
いろいろ混ざっている。
でも、それとは別に、
『最初に頼まれたところまでは、ちゃんとできた』
という音もあった。
「楽くん」
「なに?」
「先生としては、まだ見ていたい気持ちはあるの」
「うん」
「でも、お父さんの最初のお願いは、将来ピアノで生活できるところまでだったから」
「父さんもそう言ってた」
「そう」
水原が少し笑う。
「それなら、私の仕事は終わったのかもしれないわね」
「今までありがとう」
言うと、水原が一度黙った。
「……どういたしまして」
声が少し柔らかくなった。
「楽くん。ピアノまでやめなくてもいいのよ」
「弾きたい時は弾くよ」
「そう」
「音は好きだし」
「ええ。それならいいと思う」
最後まで、水原は水原だった。
次の週から、ピアノ教室へ行く予定はなくなった。
秋のコンクールも、もう終わり。
俺はまだ小学校を卒業していない。
冬もある。
そのあと春が来る。
中学校へ行く。
でも、その前に特別何かを始めるつもりはなかった。
暇になったら、また音で遊べばいい。
〓〓〓
それから一年後の秋。
私――九条綾音は、中学二年生になっていた。
鳴海くんも、その春に中学生になっているはずだった。
去年、全国大会の会場で言った。
次はまた同じ中学生部門。
今度こそ勝つ。
そのために一年やった。
前の年より上手くなった。
それは自分でも分かる。
黒川先生にも言われた。
今年こそ。
そう思って会場へ来た。
なのに、名前がない。
最初は見落としたと思った。
参加者の一覧をもう一度見る。
鳴海楽。
ない。
地方予選が別だったのかとも思った。
でも全国大会まで来れば同じになる。
それでも名前がない。
「今年、鳴海くんいないの?」
少し離れたところから声が聞こえた。
私は顔を上げる。
参加者の保護者らしい人たちが話している。
「ほら、小学生部門でずっと一位だった子」
「鳴海楽?」
「そう。その子。今年から中学生でしょう?」
「出てないみたいよ」
「なんで?」
「分からない。去年まで一年生から六年生まで六年連続で全国一位だったのに」
「六年間全部?」
「有名だったじゃない」
別の場所でも似た話が聞こえた。
「あの鳴海、今年いないって」
「中学生部門に上がると思ってた」
「辞めたって話もあるけど」
辞めた。
その言葉だけが耳に残った。
私はプログラムを見る。
何度見ても名前はない。
「先生」
近くにいた黒川先生を呼ぶ。
「何だ」
「鳴海くん、本当に出てないんですか」
先生は少しだけ間を置いた。
「少なくとも、今年の参加者にはいない」
「どうして?」
「私は知らない」
「去年、来年も出るって」
言っていない。
思い返して気づく。
鳴海くんは一度も、自分から来年も出るとは言わなかった。
水原先生が必要だと言えば。
ずっとそう言っていた。
「……勝ち逃げ」
声に出た。
腹が立った。
六年間ずっと勝って。
私が毎年追いかけて。
ようやく同じ部門に戻ると思ったら、いない。
「何なの、あの人」
拳に力が入る。
その瞬間。
胸のどこかで、ほんの少しだけ。
ほっとした。
今年は鳴海くんがいない。
なら、あの演奏と比べられない。
また負けるかもしれないと思わなくていい。
一瞬だけ、そう感じた。
私はすぐに、その自分が嫌になった。
「……最悪」
黒川先生がこっちを見る。
「どうした」
「何でもありません」
何でもなくない。
鳴海くんがいないから安心した。
そんな自分が一番腹立たしい。
私は勝ちたかった。
いなくなってほしかったわけじゃない。
追いつきたかった。
超えたかった。
同じ舞台で、私の方が上だと結果を出したかった。
相手が消えて順位が上がっても、それは私が鳴海くんに勝ったことにはならない。
「先生」
「何だ」
「今日、終わったら次の曲も見てください」
黒川先生が私を見る。
「ずいぶん早いな」
「いいんです」
鳴海くんがいなくても、練習はできる。
上手くなることもできる。
むしろ、もっと上手くなる。
次にどこかで会った時。
もしまたピアノを弾くなら。
その時、今の私では足りないなんて絶対に嫌だ。
六年間全国で勝ち続けた鳴海楽は、その年の会場にはいなかった。
私はその日になって初めて、本当に鳴海くんがコンクールから消えたことを知った。




