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ライブ当日。会場を埋め尽くす歓声は、地鳴りのように響いていた。
ステージ裏、緊張で震える希の背中を、恭介が力強く押す。彼は白衣を脱ぎ、黒いスーツに身を包んでいた。かつての「医師」ではない、彼女を支える唯一の守護者として。
「いってらっしゃい、希さん」
「……いってきます」
スポットライトが点灯し、希が舞台へと躍り出る。圧倒的なパフォーマンス。歌声はかつてないほど伸びやかで、観客は皆、彼女の放つ熱狂に酔いしれた。
◇
最後の曲。会場が静寂に包まれる中、希はゆっくりと胸元のダイヤモンドブローチに手をかけた。
(……さようなら、昨日の私)
彼女はブローチをステージの中央にそっと置く。それは、彼女の輝かしい過去を象徴する呪縛だった。曲が終わり、マイクをスタンドに立てる。
彼女は客席ではなく、袖で見守る恭介だけを真っ直ぐに見つめ、満足げに微笑んだ。
暗転。
静寂。
希が舞台袖に戻ると、そこには恭介が待っていた。彼女は汗を拭い、荒い息を吐きながら、恭介の胸に飛び込む。
「終わりました……。私、もう歌姫じゃない」
「ええ。よくやりきりましたね。……戻ってきてくれてありがとう」
恭介は彼女を抱きしめ、二人の間を隔てていたすべての境界線が溶けていくのを感じた。
「……ねえ、恭介さん。もう私ただの女の子になっちゃった。行くところがないの。だから、連れて行ってくれる?」
希の問いに、恭介は彼女の肩を抱き寄せたまま、出口へと歩き出す。
「ああ、もちろん。……帰ろうか、僕たちの診察室へ」
雪の降る冬の夜。二人は人混みを抜け、ただ静かに、寄り添って歩いていく。背後では、まだ会場が希を求めて騒めいていたが、二人にはもう、その音は届かなかった。
◇
雪の降る冬の夜。二人は人混みを抜け、ただ静かに、寄り添って歩いていく。背後では、まだ会場が希を求めて騒めいていたが、二人にはもう、その音は届かなかった。
たどり着いた先は、恭介が営む小さなクリニック。扉を開けると、そこにはかつて希が救いを求めて逃げ込んだ、あの静寂が待っていた。
部屋の隅、窓辺の鉢植えからは、変わらぬ甘い香りが漂っている。
希はその花に顔を近づけ、遠い日の記憶をたぐり寄せた。
「……ねえ、恭介さん。私、あの時『お花みたいに人を幸せにする人になりたい』って言ったの、覚えてる? ……あんな夢を語ってた私が、今じゃ『歌姫』なんて呼ばれて、誰かを照らすつもりで、逆に光に焼かれてたんだから、おかしな話だよね」
かつて大学病院の研修医だった恭介は、目の前の命を救えない無力感に苛まれていた。
あの日、雨の降る植物園のベンチで一人、俯いていた自分。そこに駆け込んできたのは、無邪気に笑う小さな女の子だった。
『見て! これ、私のいちばん好きな花なんだよ』
彼女は温室の隅に咲いていたチョコレートコスモスを摘み取り、濡れた恭介の手に乗せた。
『これあげる! お兄ちゃんも、この花の匂いを嗅いでみて。そしたら、きっと世界が甘くなって幸せになれるよ』
彼女が去った後、温室に残されたのは、少女の笑い声と甘いチョコレートの香りだけ。
その眩しさに、恭介は初めて心から笑った。自分がどれだけ深刻に人生の無力さと戦っていようと、世界にはこんなにも明るく人を幸せにしたいと笑える人間がいるのだと。その笑顔は、恭介が医師として生きていくための最初で最後の「救い」となった。
……現在。
恭介は、あの日の眩い光を思い出して、愛おしそうに彼女を見つめた。
「君のその無邪気な明るさが、どれだけ僕を救ったか。君が言った通りだよ、のぞみ。君は、その言葉通り、たくさんの人を幸せにしてきた。……僕の、この沈んでいた世界を、あの時ひっくり返してくれたように」
のぞみは、少しだけ照れたように微笑んだ。
「……先生。私、またこの花の匂いを嗅ぐと、なぜかすごく落ち着くの。アイドルじゃなくて、ただののぞみになれる気がして」
「これからは、いつでもここにおいで。君がくれたこの花が、ずっとここで咲いているから」
恭介は、あの頃の自分が求めていた「光」ではなく、今の自分が守りたい愛しい人を抱きしめるように、のぞみを強く抱きしめた。
かつて恭介を救った光は、今、彼の手の中で、誰よりも穏やかに温もりを放っている。
のぞみは、子供の頃に摘んだあの日の香りが、時を超えて今もこの診察室にあることを感じていた。
もう、どこへも行く必要はない。
ここは、二人が再会するための場所であり、これからの人生を歩むための、ただひとつの帰る場所なのだから。
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