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チョコレートコスモス〜歌姫はもう二度とステージには戻らない〜  作者: 佳月


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 診察室の窓の外、路地裏に怪しい人影が横切るのを、恭介は遮光カーテンの隙間から鋭い眼光で見下ろしていた。

 彼はゆっくりとカーテンを閉めると、重厚な鍵を二重にかけ、診察室へと振り返る。そこには、ベッドの端で毛布にくるまり、膝を抱える希の姿があった。


「……先生、ごめんなさい。私、また迷惑をかけていますね。私のせいで、先生までそんなふうに警戒させて」


 希の声はかすかに震えていた。スタジアムで数万人の前で歌う、あの圧倒的なカリスマはそこにはいない。今はただ、心細さに震えるひとりの少女がいるだけだ。

 恭介は静かに歩み寄ると、彼女の正面に腰を下ろした。


「迷惑などではありません。あなたは私の患者であり、今はここで静養することが、あなたの唯一の仕事なのですから」


 恭介は医師として、常に一定の距離を保ち、丁寧な敬語を崩さない。しかし、その声のトーンには、彼自身もコントロールできないほどの深い慈しみが滲んでいた。

 恭介は胸ポケットから聴診器を取り出し、希の胸元へあてる。ひやりとした金属の感触に、希が小さく肩をすくめた。


「深く、息を吸ってください。ゆっくりと」


 恭介は耳を澄ませた。

 聞こえてくるのは、アイドルとしての力強い躍動ではない。一人の少女が抱える、不安定で、しかし懸命に生きようとするささやかな鼓動。

 その音を聴くたび、恭介の記憶の底にある、あの日――雨に濡れた公園で、自分に道端の花を差し出してくれた小さな女の子の姿が重なる。

 今、目の前にいる希は、あの時の彼女がそのまま大人になったかのように、恭介の乾いた人生に再び光を灯そうとしていた。


「希さん、聴こえますか? あなたの心臓の音です」


 恭介は聴診器を外し、希の瞳をまっすぐに見つめた。


「これは、誰かの期待に応えるためのものでも、何かの成果を出すためのものでもありません。ただ、あなた自身のために打っている音です。……あなたの体は、あなたが思う以上に消耗しきっている。歌うこと、踊ること、完璧であること。それら全てを一度、脳から引き剥がす必要があります」

「……でも、私にはそれしかありません。それを失ったら、誰にも必要とされなくなってしまう」


 希の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。彼女にとっての「歌」は、誰かを感動させる武器であると同時に、自分を繋ぎ止めるための枷でもあったのだ。


「そんなことはありません」


 恭介は初めて、医師としての枠をわずかに超え、震える希の手にそっと自分の手を重ねた。


「あなたは歌うために生まれてきたのではありません。あなたが笑い、あなたが息をし、あなたが生きている。その事実だけで、十分すぎるほど尊いのです」


 恭介の掌の熱が、希の冷えた手に伝わる。希は、その温かさに縋るように、ぎゅっと恭介の手を握り返した。


「……先生。私、もっとここで休んでいてもいいですか? アイドルでも、歌姫でもない、ただの私として」

「ええ。ここでは誰にも、あなたを急かすことはさせません。私が……この場所が、あなたを守りますよ」


 その言葉は、恭介にとって「医師としての誓い」であり、十数年越しに届けられた「恩人への感謝」そのものだった。

 路地裏の静寂の中で、外の喧騒を遮断した診察室は、まるで二人だけの箱舟のようだった。希はゆっくりと閉じた瞼から涙をこぼしながら、恭介の温もりを感じて、長い休息の海へと沈んでいく。

 恭介は、眠りについた彼女の寝顔を見つめながら、窓辺に飾られたチョコレートコスモスに目を向けた。

 彼女がくれた花言葉は「恋の終わり」だったか、「移り変わらぬ想い」だったか。

 彼は深く息を吐き、静かに診察室の明かりを落とした。彼女が本当の声を取り戻すまで、自分が彼女の盾になると誓いながら。



 診察室での休息から数日後。テレビからは、希の「突然の活動休止」に対する世間の憶測と、彼女の復帰を望む悲痛なまでの声が絶え間なく流れていた。

 事務所は「希の卒業ライブ」と銘打って、希を強引にステージへ引き戻そうと画策している。


「辞退してください、希さん。今のあなたの精神状態では、しばらくステージは自殺行為に等しい」


 恭介は厳しい表情で聴診器を置いた。

 かつて彼が、医師としてこれほどまでに感情を露わにしたことはなかっただろう。だが、目の前の希が、自らの命を削ってまで「最後に歌いたい」と願っていることを、誰よりも理解してしまっていたからだ。


「先生、わかっています。でも、私にはケジメが必要なんです。あそこで歌い切って、マイクを置くことでしか、私は自分を肯定できないの」


 希の瞳には、かつて路地裏で雨に濡れていた少女の面影など微塵もなかった。あるのは、トップ歌姫としての矜持と、一人の人間としての凛とした覚悟だけだ。


「……それが、あなたを救う唯一の方法だというのですか」

「ええ。最後くらい、自分の足で立ちたい。……先生が私を救ってくれたように、今度は私が、私自身を救う番なんです」


 恭介は沈黙した。


 医師の論理と、一人の男としての「希を奪われたくない」という独占欲。その間で、恭介の理性は軋みを上げる。しかし、彼女の眼差しを見たとき、彼は悟った。彼女を引き止めることは、彼女から「魂」を奪うことと同じなのだと。


「……わかりました。医師としての診断は『辞退』です。ですが、もしあなたがステージに立つと決めたなら。私は医師であることを捨てて、あなたの『パートナー』になります。ステージの裏で、あなたが倒れるその瞬間まで、私が全ての責任を負おう」


 その言葉は、彼にとっての「契約」であり、人生をかけた誓いだった。


「……ありがとうございます、恭介さん」


 希は初めて、彼の名前を呼んだ。

 恭介は一瞬、心臓が跳ね上がるのを感じた。診察室の静寂の中で、二人の間にあった「医者と患者」という境界線が、音を立てて崩れ落ちる。


「ライブまで、あと数日。……これから地獄のようなトレーニングが始まりますよ。私の指示に、死ぬ気でついてきてください」


 恭介の瞳には、冷徹な医師の仮面ではなく、彼女を戦場へと送り出す闘士の意志が宿っていた。

 二人は今、歌姫という虚像を終わらせ、ひとりの人間として「伝説」という名の出口に向かって走り出した。



 ライブまでの数日間は、まさに濃密な時間だった。

 恭介は診察室の奥にある防音室を希に開放し、そこを特訓の場とした。


「心拍数が150を超えたら強制終了です。……いいですね、希さん」

「……はい、恭介さん」


 かつての「先生」という呼称は消え、二人は対等なパートナーとして向き合っていた。

 深夜、希が疲労で膝をつくと、恭介は無言で彼女の足をさすり、血流を整えた。医師の手のひらの温かさを感じながら、希はふと呟く。


「私、引退したら……本当に、何者でもなくなってしまうのかな」

「そうですね。きっと、名前のない誰かになる」


 恭介は希の髪を優しく払うと、まっすぐに彼女を見つめた。


「でも、それは怖いことではありません。何者でもないからこそ、君は君として、ここで新しく始められる。……私は、その『何者でもない君』と、また最初から出会いたい」


 希の胸が熱くなる。彼女は、アイドルとしてではなく、一人の女性として彼に微笑んだ。

 この夜、彼女はステージの最後に「これ」を置こうと決めた。かつてデビューの時に贈られた、重苦しいほど豪華なダイヤモンドのブローチ。それを外すことが、自分のアイデンティティを解放する儀式なのだと。



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