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チョコレートコスモス〜歌姫はもう二度とステージには戻らない〜  作者: 佳月


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 鼻をくすぐる、微かな紅茶と薬品の混じった香り。

 のぞみがゆっくりと瞼を開けると、そこはスタジアムの眩い照明の下ではなく、静寂に満ちた診察室だった。

 混乱する思考の中、雨の夜、路地裏、そして――自分を受け止めた男の腕の熱を思い出す。


「ようやく、意識が戻りましたか」


 窓辺から穏やかな声がかけられた。湊 恭介が、手元のカルテから視線を外さずに告げる。彼は白衣を整え、まるでそれが日常の風景であるかのように、淹れたての紅茶をテーブルに置いた。


「ここは私のクリニックです。希さん、心拍数はまだ安定していませんね。余計なことは考えず、深く呼吸をしてください」


 恭介は診察台の傍まで歩み寄ると、慣れた手つきで希の脈を測った。彼の指先は、医師特有の冷たさと、驚くほど正確なリズムを持っている。


「……あの、私。すぐにステージに戻らなくては。マネージャーに……」


 希が身を起こそうとすると、恭介は無言のまま、しかし確固たる意志を込めて希の肩を軽く押し戻した。


「今は無理です。あなたは先ほど、扉の前で倒れました。……言ったはずですが、ここではあなたを『アイドル』としては扱いません。あなたは今、ただの、休息が必要な小さな女の子なのですから」


 その言葉は、どこか諭すような、それでいて深い慈しみを含んだ響きだった。希は胸の奥が不意に締め付けられるような感覚を覚える。どこか懐かしく、そして何より、今の自分を丸ごと受け止めてくれるような温かさがあった。


「……どうして、そんなふうに仰るのですか。ただのわがままなアイドルだと、そう思っているのでしょう?」


 恭介は測っていた手を離し、希の瞳を真っ直ぐに見つめた。その眼差しは鋭く、けれど隠しきれない優しさが滲んでいる。


「世間がどう思おうと、私には関係ありません。私が診ているのは、今、ここにいるあなたです。……希さん、あなたに今必要なのはスケジュール管理ではなく、栄養と、何よりも休息ですよ」


 恭介はそう言って、診察台の傍らにあった毛布を肩まで掛け直した。

 アイドルの仮面を剥がされた希は、その隙のない丁寧な言葉遣いに、初めて誰かに身を委ねることの安らぎを感じていた。



 翌朝、カーテンの隙間から差し込む朝陽で希は目を覚ました。

 スタジアムの眩い照明とは違う、柔らかく、温かい光。重苦しかった胸の奥が、不思議と少しだけ軽くなっている。

 診察室の扉をノックする音がして、恭介が静かに入ってきた。

 白衣を脱ぎ、ラフなシャツを纏った彼は、先ほどまでとは少し違った「1人の男性」の顔をしていた。手には、温かなスープとトーストが乗ったトレイがある。


「おはようございます。少しは眠れましたか?」


 彼はトレイを机に置くと、窓辺のチョコレートコスモスに霧吹きで水をかけ始めた。陽光を浴びた花弁が、まるで宝石のように艶めいている。


「……おはようございます。湊先生、その花、とても綺麗ですね」


 希の言葉に、恭介の手が一瞬だけ止まった。彼は振り返らず、静かな声で答える。


「……ええ。とても大事な花なんです。ずっと昔から、ここで咲き続けている」


 彼は少しだけ、寂しそうに――あるいは、懐かしそうに目を細めた。その横顔を見て、希は胸の奥がチクリと痛むような感覚を覚える。

 なぜだろう。彼がその花を見るたびに、自分もどこかでこの香りを嗅いだことがあるような、不思議な既視感がある。


「あの……先生は、ずっとここで一人で?」


 希の問いかけに、恭介はトレイのスープを希の枕元へ差し出し、小さく微笑んだ。


「今は、患者さんが来てくれるので、一人ではありませんよ。さあ、食べてください。仕事の話は、もう少し元気になってからにしましょう」


 彼は医師としての丁寧な態度を崩さない。けれど、スープをすする希を見守る彼の瞳は、かつて雨の中で少女を救ったあの時と同じ、静かな慈しみに満ちていた。



 スープの湯気がふわりと消えかけた頃、診察室のドアが控えめにノックされた。


「湊先生、少しだけお時間を……」


 現れたのは、希のマネージャー、三上みかみだった。

 いつもなら完璧なスーツに身を包み、分刻みのスケジュールを操る彼が、今日はひどく疲れた様子で、手には希の好物だという小さな果物の詰め合わせを下げている。


「……三上さん」

「希、少しは顔色が戻ったようだな。……申し訳ない、湊先生。こちらの無理なスケジュールが、彼女を追い詰めてしまった」


 三上は希と目を合わせることもせず、恭介に向かって深く頭を下げた。

 恭介は紅茶のカップを置き、椅子から立ち上がる。その所作には、先ほどまでの穏やかさはなく、医師としての静かな威厳が漂っていた。


「体調を預かっている以上、今は仕事の話は一切お断りします。彼女は現在、重度の過労とストレスによる心身の摩耗状態です。あと数日でも無理をさせていれば、取り返しのつかないことになっていた」


 淡々とした、しかし拒絶を許さない恭介の言葉に、三上は唇を噛み締めて黙り込んだ。希は二人の間に流れる張り詰めた空気に、息を呑む。


「……先生、ごめんなさい。私、そんなに酷かったんですね」


 希が弱々しく呟くと、恭介はすっと三上の隣へ移動し、三上の肩に軽く手を置いた。それは、同じく彼女を守ろうとする者同士の、無言の合図のようにも見えた。


「……三上さん。あなたの焦りも理解しています。ですが、彼女は物ではない。歌うための道具でもない。一人の人間として、休息が必要なんです」


 恭介の言葉に、三上はハッとしたように顔を上げ、恭介を真っ直ぐに見つめ返した。これまで「歌姫」という名声ばかりを見ていた三上が、初めて医師の言葉を通して「希」という人間を見た瞬間だった。


「……わかりました。先生、あとは……彼女をお願いします。事務所の連中には、僕から上手く言っておきますから」


 三上は果物の袋をそっとテーブルに置き、後ろ髪を引かれる思いで部屋を出ていった。

 静かになった部屋で、希は呆然とドアを見つめる。


「……私、もう終わりでしょうか。アイドルとしても、もう」


 そんな希の不安を打ち消すように、恭介は静かに窓際へ歩み寄り、チョコレートコスモスにそっと触れた。


「終わりではありません。今はただ、新しい自分になるための準備期間なのですから」


 恭介は希を振り返り、医師らしい丁寧な口調で、しかし確信に満ちた声で続けた。


「希さん、あなたはまだ、自分の本当の声を知らないだけですよ」


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