プロローグ
◇
スタジアムを埋め尽くす歓声が、まるで巨大な波のように希を襲う。
1万人の視線。無数のサイリウムの光。その中心で、希は完璧な笑顔を張り付けていた。だが、その背後で、彼女の心拍数は限界の警鐘を鳴らしている。
(……もう、立てない)
激しいダンスの最中、視界がぐらりと揺れた。
呼吸が苦しい。酸素が足りない。希がステージの端で膝をつきかけた瞬間、暗転したステージ裏へスタッフたちがなだれ込んできた。
「希! 顔色が悪いぞ、立てるか!?」
「次の曲まであと三十分だ。点滴を打て、メイクを直せ!」
彼女は人間ではなく、ただの「消耗品」だ。
意識が混濁する中、マネージャーが必死の形相で手渡してきた一枚のメモ。そこには、芸能界の汚濁から離れた場所にあるという、あるクリニックの住所が記されていた。
「ここへ行け。……でないときっとお前が潰れる」
深夜、雨の降りしきる路地裏。
希はタクシーを降り、ふらつく足取りでその古い雑居ビルへと向かった。
逃げるように、泣き出すように、彼女は看板のない木の扉を叩いた。
カラン。
控えめなベルの音が鳴り、扉が開く。
そこに立っていたのは、白衣を纏った男——湊 恭介だった。
「……誰か、いない、の……?」
限界を迎えた希は、そのまま恭介の胸元へ倒れ込むようにして意識を失った。
受け止めた恭介の腕は、ステージ上の誰よりも硬く、冷え切った希の体をしっかりと抱き留めた。
診察室の灯りに照らされた彼女の寝顔。どこかで見覚えのある、幼い記憶の断片が頭をよぎる。恭介は、無意識に彼女の髪をそっと払いのけた。
(——どうして、彼女がここに?)
恭介の瞳に、わずかな動揺と、それ以上に深い静寂が宿る。だが、彼はすぐに医師の顔を作り直す。彼は彼女のポケットから落ちた名刺を拾い上げ、窓辺に飾られたチョコレートコスモスへと視線を向ける。
「ここでは君を"アイドル"としては扱わない」
恭介は彼女を診察台へ横たえ、低く呟いた。
彼が何かを知っていることは、今の希には知る由もない。
雨音のする診察室で、二人の運命が、十数年の時を超えて静かに交差した。
◇




