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チョコレートコスモス〜歌姫はもう二度とステージには戻らない〜  作者: 佳月


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プロローグ



 スタジアムを埋め尽くす歓声が、まるで巨大な波のようにのぞみを襲う。

 1万人の視線。無数のサイリウムの光。その中心で、希は完璧な笑顔を張り付けていた。だが、その背後で、彼女の心拍数は限界の警鐘を鳴らしている。


(……もう、立てない)


 激しいダンスの最中、視界がぐらりと揺れた。

 呼吸が苦しい。酸素が足りない。希がステージの端で膝をつきかけた瞬間、暗転したステージ裏へスタッフたちがなだれ込んできた。


「希! 顔色が悪いぞ、立てるか!?」

「次の曲まであと三十分だ。点滴を打て、メイクを直せ!」


 彼女は人間ではなく、ただの「消耗品」だ。

 意識が混濁する中、マネージャーが必死の形相で手渡してきた一枚のメモ。そこには、芸能界の汚濁から離れた場所にあるという、あるクリニックの住所が記されていた。


「ここへ行け。……でないときっとお前が潰れる」


 深夜、雨の降りしきる路地裏。

 希はタクシーを降り、ふらつく足取りでその古い雑居ビルへと向かった。

 逃げるように、泣き出すように、彼女は看板のない木の扉を叩いた。


 カラン。


 控えめなベルの音が鳴り、扉が開く。

 そこに立っていたのは、白衣を纏った男——湊 恭介だった。


「……誰か、いない、の……?」


 限界を迎えた希は、そのまま恭介の胸元へ倒れ込むようにして意識を失った。

 受け止めた恭介の腕は、ステージ上の誰よりも硬く、冷え切った希の体をしっかりと抱き留めた。

 診察室の灯りに照らされた彼女の寝顔。どこかで見覚えのある、幼い記憶の断片が頭をよぎる。恭介は、無意識に彼女の髪をそっと払いのけた。


(——どうして、彼女がここに?)


 恭介の瞳に、わずかな動揺と、それ以上に深い静寂が宿る。だが、彼はすぐに医師の顔を作り直す。彼は彼女のポケットから落ちた名刺を拾い上げ、窓辺に飾られたチョコレートコスモスへと視線を向ける。


「ここでは君を"アイドル"としては扱わない」


 恭介は彼女を診察台へ横たえ、低く呟いた。

 彼が何かを知っていることは、今の希には知る由もない。

 雨音のする診察室で、二人の運命が、十数年の時を超えて静かに交差した。


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